キミのことが分からない その8
「ねえ。あれって望月さんの息子さん?」
いるはずのない人の声がして、思わず飛び跳ねてしまいそうになるくらいに驚いた。望月くんがスタッフのもとへスタンバイして、前の演技が終わるのを待っていたところだ。
望月翔。
海藤さんのケガにより急遽対抗戦に出てもらうことになった。海藤さんの娘である美波ちゃんの彼氏でもある。ほんの一カ月ちょっとの練習でまさか、しっかりと演技ができるようになるだなんて誰も思ってなかった。
彼の父親がスケートで有名な人と言うのは、すぐに気が付いた。それくらい有名なのだ。それはいつの間にか隣に現れた妻も同じみたいだ。
「そうだけど。なんでここにいるんだよ」
関係者しか入れないはずのリンクサイドだ。いるだけで目立つのだから、ちょっとは遠慮してほしいものだし。大体アリスを遠巻きで見たいと言っていたには自分なのに。それだけ望月くんの事が気になったのだろうか。
海藤さんに視線を送ったが、ま、いいんじゃないみたいな顔をしている。干渉する気はないみたいだ。
「オゥ。なら教えてくれれば望月さんも誘ったのに」
そして肝心な妻もこちらの質問には答える気はないみたいだ。きっと勝手に入ってきてしまったのだろう。
彼の父親である望月さんと今は一緒の仕事をしているらしい。そんなことを知る由もないのだから気を利かせることもできなかった。それに。
「多分、そんなに簡単な話じゃないみたいだよ」
お母さんは出場を認めてくれてはいるもののこれから先、フィギュアスケートをすることは反対したままだ。今日も観に来てはいないらしい。同じような家庭としてはどうしたって気になってしまう。
「そう? ならいいのだけれど。それにしてもそっくりね」
望月さんの滑りは何度か目の前で見たことがある。だから最初、望月くんが滑った時、彼の息子さんだとすぐに分かった。
圧倒的な氷へのセンス。望月くんにはそれが引き継がれていた。氷の上と言うのは日常生活から遠くかけ離れている場所だ。だから誰しも最初は混乱するし、最後までその場所に受け入れられないことだってある。でも、彼はすぐに氷の上を自分の居場所にしてしまった。
もしかしたら、物心つく前にでも滑ったことがあるのかもしれない。でないと説明できないくらいにすさまじい速度でいろいろなこと自分の物にしていってしまった。
一番かわいそうだったのは川島くんだ。初心者の後輩が出来たと意気込んでいたのに、あっという間に同じレベルまでたどり着いてしまったのだ。
聞けば、ずっと父親の滑りを映像で見ていたという。色々なことが腑に落ちた瞬間だった。きっと身体に染みつくくらいずっと見ていたのだろう。もともと運動はなんでもこなせると聞いているし、身体の使い方が上手なのだ。
そのことをかいつまんで妻に伝えると、うーんと唸り始めた。
「そんなこともあるのね。どっちが幸せなのかしら」
どっちと言うのは、アリスと比べているのだろう。アリスにスケートを続けさせるために一緒にいない妻と、一緒にいないがためにスケートをすることがなかった望月くん。
アリスからスケートを続けていることに対して何かを言われたことはない。練習漬けの毎日。友達と遊ぶ事よりスケートを優先してきた。決して強制ではない、と思いたいが断りづらい空気になっているのも確かだと思う。
「そんなの、親である僕らには決められないさ」
それは逃げの思考なのか。
話をしていたら、拍手と共に曲が終わった。準備のために望月くんが氷の上に移動して、こちらへと向かってくる。
「あ、あのそちらの方は?」
見知らぬ外国人がいるのだ。そりゃ気になりもする。
「ワタシはアリスのママよ。よろしくね。望月ジュニア」
ポカンとした望月くんは初めて見た気がする。それくらいの衝撃だったのだろう。
「ほら。ゆっくりおしゃべりしてる時間はないんだろう。アドバイス貰えよ」
口を出したのは海藤さんだ。なんだかんだ言っても、望月くんの事を一番気にかけていたのは海藤さんだ。娘である美波ちゃんの恋人と言うのもあるだろうけれど、なんだかんだで巻き込んでしまったことを心配しているらしい。
ほんとお人好しなんだから。
でも、その人柄に救われた人は少なくない。芳樹も立花さんも川島くんも笹木さんも望月くんも海藤さんがいるからここにいる。
「短い時間で頑張ったね。きっと大丈夫。心を込めてきな」
「はいっ! あっ。ごめんなさい。後ろ向くんでしたよね」
他のみんなの事も見ていたのだろう。言葉をかけてからくるりとその場で半回転する望月くんの動きはやっぱりスムーズで初心者の感じがしない。
そんな彼の左肩に手を置く。しかし一度言葉をかけてしまったので何も出てこない。
『五番滑走。望月翔さん。栄口南商店街』
アナウンスが流れた。身体に緊張が走るのが伝わってくる。彼にとってはこれが最初で最後かもしれない演技なのだ。ほかの人にはない想いもあるだろう。
「望月ジュニアの滑りは望月さんそっくりね。きっとそれはお父さんにもお母さんにも届くよ」
初対面の外国人の言葉にさらに身体は硬くなる。
「まっ。そんなことより情けない滑りしたら承知しないからな。気張ってこいよ」
間髪入れずに飛んできた海藤さんの言葉に、笑っているみたいだった。
急に上を向いて照明を確認し始める。いや、そうではない。きっとこみ上げる物を堪えているのだ。
「認めてもらうためにも、頑張りますよ」
こちらを向かずにそう一言だけ呟くように吐き出して、滑り始めた。それは誰に向けたものなのだろう。
スタート地点にピタッと止まるその姿からは彼が初心者だ、なんて誰も思いもしないだろう。それくらい堂々としている。
そんな彼の衣装はまさかだったが父親の物だ。家にあるのを探してきたのはお母さんだと言う。どうせ滑るのならちゃんとしろと言う事だったのだけれど。もしかしたらと思わないでもない。ちらりと観客席を探すけれどその姿は見つけられなかった。
白と青を基調としたその衣装は着物をイメージしている。ズボンは黒なのが上半身の衣装を際立たせている。その上半身は桜を各所にあしらっていて。それは望月くんの印象を大人っぽくしている。
曲が流れ始める。ドンッという太鼓の音に合わせて手を伸ばしたり体のそばに戻したりと繰り返しながら一歩ずつゆっくりと滑り始める。
古代の日本をイメージしたその曲は壮大な始まりだ。その曲に初心者は表現が追い付かないはずなのに望月くん力強く応えている。
ジャンプ流石に一回転だ。最初のサルコウジャンプを跳び終えると曲のテンポが早くなる。ちゃんとそれにもついていく足さばきは思わず拍手したくなる。
ただ、観客は言い知れぬオーラに圧倒されて見入っている。大したもんだ。これだけ観客を魅了できる人間はそうはいない。
結局最後まで危なげなく、演技を終えてしまった。そして曲が止まった瞬間、盛り上がることすら忘れていた観客から拍手が鳴り響く。そのことに望月くんも驚いたみたいだ。本人はきっと盛り上がっていないことを不安に思っていたのだろう。
「あーあ。こりゃ。色々大変だぞ」
海藤さんの呟きに同意せざるを得ない。これだけで終わらせるなんてもったいない。お母さんの説得もしたいのだろう。それになにより、いよいよをもって望月くんのことを認めなきゃいけないんじゃないかな。
観客席でだれよりもはしゃいでいる美波ちゃんが目に入ってしょうがないのだ。
「うん。彼は彼で幸せそうね」
そう妻が誰にでもなくそう言ったことだけが、気になったがそうも言ってられない。
「えっ。ママ?」
準備を終えたアリスがそこに立っていた。
いるはずのない人の声がして、思わず飛び跳ねてしまいそうになるくらいに驚いた。望月くんがスタッフのもとへスタンバイして、前の演技が終わるのを待っていたところだ。
望月翔。
海藤さんのケガにより急遽対抗戦に出てもらうことになった。海藤さんの娘である美波ちゃんの彼氏でもある。ほんの一カ月ちょっとの練習でまさか、しっかりと演技ができるようになるだなんて誰も思ってなかった。
彼の父親がスケートで有名な人と言うのは、すぐに気が付いた。それくらい有名なのだ。それはいつの間にか隣に現れた妻も同じみたいだ。
「そうだけど。なんでここにいるんだよ」
関係者しか入れないはずのリンクサイドだ。いるだけで目立つのだから、ちょっとは遠慮してほしいものだし。大体アリスを遠巻きで見たいと言っていたには自分なのに。それだけ望月くんの事が気になったのだろうか。
海藤さんに視線を送ったが、ま、いいんじゃないみたいな顔をしている。干渉する気はないみたいだ。
「オゥ。なら教えてくれれば望月さんも誘ったのに」
そして肝心な妻もこちらの質問には答える気はないみたいだ。きっと勝手に入ってきてしまったのだろう。
彼の父親である望月さんと今は一緒の仕事をしているらしい。そんなことを知る由もないのだから気を利かせることもできなかった。それに。
「多分、そんなに簡単な話じゃないみたいだよ」
お母さんは出場を認めてくれてはいるもののこれから先、フィギュアスケートをすることは反対したままだ。今日も観に来てはいないらしい。同じような家庭としてはどうしたって気になってしまう。
「そう? ならいいのだけれど。それにしてもそっくりね」
望月さんの滑りは何度か目の前で見たことがある。だから最初、望月くんが滑った時、彼の息子さんだとすぐに分かった。
圧倒的な氷へのセンス。望月くんにはそれが引き継がれていた。氷の上と言うのは日常生活から遠くかけ離れている場所だ。だから誰しも最初は混乱するし、最後までその場所に受け入れられないことだってある。でも、彼はすぐに氷の上を自分の居場所にしてしまった。
もしかしたら、物心つく前にでも滑ったことがあるのかもしれない。でないと説明できないくらいにすさまじい速度でいろいろなこと自分の物にしていってしまった。
一番かわいそうだったのは川島くんだ。初心者の後輩が出来たと意気込んでいたのに、あっという間に同じレベルまでたどり着いてしまったのだ。
聞けば、ずっと父親の滑りを映像で見ていたという。色々なことが腑に落ちた瞬間だった。きっと身体に染みつくくらいずっと見ていたのだろう。もともと運動はなんでもこなせると聞いているし、身体の使い方が上手なのだ。
そのことをかいつまんで妻に伝えると、うーんと唸り始めた。
「そんなこともあるのね。どっちが幸せなのかしら」
どっちと言うのは、アリスと比べているのだろう。アリスにスケートを続けさせるために一緒にいない妻と、一緒にいないがためにスケートをすることがなかった望月くん。
アリスからスケートを続けていることに対して何かを言われたことはない。練習漬けの毎日。友達と遊ぶ事よりスケートを優先してきた。決して強制ではない、と思いたいが断りづらい空気になっているのも確かだと思う。
「そんなの、親である僕らには決められないさ」
それは逃げの思考なのか。
話をしていたら、拍手と共に曲が終わった。準備のために望月くんが氷の上に移動して、こちらへと向かってくる。
「あ、あのそちらの方は?」
見知らぬ外国人がいるのだ。そりゃ気になりもする。
「ワタシはアリスのママよ。よろしくね。望月ジュニア」
ポカンとした望月くんは初めて見た気がする。それくらいの衝撃だったのだろう。
「ほら。ゆっくりおしゃべりしてる時間はないんだろう。アドバイス貰えよ」
口を出したのは海藤さんだ。なんだかんだ言っても、望月くんの事を一番気にかけていたのは海藤さんだ。娘である美波ちゃんの恋人と言うのもあるだろうけれど、なんだかんだで巻き込んでしまったことを心配しているらしい。
ほんとお人好しなんだから。
でも、その人柄に救われた人は少なくない。芳樹も立花さんも川島くんも笹木さんも望月くんも海藤さんがいるからここにいる。
「短い時間で頑張ったね。きっと大丈夫。心を込めてきな」
「はいっ! あっ。ごめんなさい。後ろ向くんでしたよね」
他のみんなの事も見ていたのだろう。言葉をかけてからくるりとその場で半回転する望月くんの動きはやっぱりスムーズで初心者の感じがしない。
そんな彼の左肩に手を置く。しかし一度言葉をかけてしまったので何も出てこない。
『五番滑走。望月翔さん。栄口南商店街』
アナウンスが流れた。身体に緊張が走るのが伝わってくる。彼にとってはこれが最初で最後かもしれない演技なのだ。ほかの人にはない想いもあるだろう。
「望月ジュニアの滑りは望月さんそっくりね。きっとそれはお父さんにもお母さんにも届くよ」
初対面の外国人の言葉にさらに身体は硬くなる。
「まっ。そんなことより情けない滑りしたら承知しないからな。気張ってこいよ」
間髪入れずに飛んできた海藤さんの言葉に、笑っているみたいだった。
急に上を向いて照明を確認し始める。いや、そうではない。きっとこみ上げる物を堪えているのだ。
「認めてもらうためにも、頑張りますよ」
こちらを向かずにそう一言だけ呟くように吐き出して、滑り始めた。それは誰に向けたものなのだろう。
スタート地点にピタッと止まるその姿からは彼が初心者だ、なんて誰も思いもしないだろう。それくらい堂々としている。
そんな彼の衣装はまさかだったが父親の物だ。家にあるのを探してきたのはお母さんだと言う。どうせ滑るのならちゃんとしろと言う事だったのだけれど。もしかしたらと思わないでもない。ちらりと観客席を探すけれどその姿は見つけられなかった。
白と青を基調としたその衣装は着物をイメージしている。ズボンは黒なのが上半身の衣装を際立たせている。その上半身は桜を各所にあしらっていて。それは望月くんの印象を大人っぽくしている。
曲が流れ始める。ドンッという太鼓の音に合わせて手を伸ばしたり体のそばに戻したりと繰り返しながら一歩ずつゆっくりと滑り始める。
古代の日本をイメージしたその曲は壮大な始まりだ。その曲に初心者は表現が追い付かないはずなのに望月くん力強く応えている。
ジャンプ流石に一回転だ。最初のサルコウジャンプを跳び終えると曲のテンポが早くなる。ちゃんとそれにもついていく足さばきは思わず拍手したくなる。
ただ、観客は言い知れぬオーラに圧倒されて見入っている。大したもんだ。これだけ観客を魅了できる人間はそうはいない。
結局最後まで危なげなく、演技を終えてしまった。そして曲が止まった瞬間、盛り上がることすら忘れていた観客から拍手が鳴り響く。そのことに望月くんも驚いたみたいだ。本人はきっと盛り上がっていないことを不安に思っていたのだろう。
「あーあ。こりゃ。色々大変だぞ」
海藤さんの呟きに同意せざるを得ない。これだけで終わらせるなんてもったいない。お母さんの説得もしたいのだろう。それになにより、いよいよをもって望月くんのことを認めなきゃいけないんじゃないかな。
観客席でだれよりもはしゃいでいる美波ちゃんが目に入ってしょうがないのだ。
「うん。彼は彼で幸せそうね」
そう妻が誰にでもなくそう言ったことだけが、気になったがそうも言ってられない。
「えっ。ママ?」
準備を終えたアリスがそこに立っていた。