キミのことが分からない その9
『ワタシ世界を周ろうと思うの』
あれはアリスが初めて大会に出場した時だったと記憶している。結果は散々なものだった。普段の実力の半分を発揮できなかった。
それまで天才少女だともてはやされていたのが嘘みたいに手の平が返った。上手くいかなかった理由に妻は心当たりがあったらしい。時折、複雑な表情をしてアリスを見ていることがあった。
だから、その世界を周ると言う事がアリスに起因しているだろうことはなんとなく予想が付いていた。
アリスは妻の事を随分と遠い存在に感じているような素振りが多かった。どう付き合っていいのか分からないと言いたげな顔をするのだ。まるで住む世界が違うと言わんばかりに。
産んですぐ、絶頂期だった妻はアリスのそばにいてやれなかった。休んでいる時間はない。そう言い切っていたのは確かだ。だから、幼いアリスにとって母は画面の向こうでしか見ることが出来ない存在だった。
ただでさえ人懐っこいとは言い難い性格だ。友達も少なく、自ら話しかけることはほぼない。何を考えているか分からないことは父親である芳樹でも多々あった。
それは成長するにつれてだんだんと大きくなっていくのだけれど。妻に対する態度はやっぱりそれすらも凌駕するものに見えた。
だからなのだろう。妻も気付いていたのだ。そばにいることがきっとアリスのためにならないと。遠い存在のまま居続けたほうが上手くいくのだと。
実際、成果はすぐに現れる。
アリスは淡々と演技をこなしていった。その精度は完璧に近く、とてもじゃないが最初の大会とは別人だった。妻に見られていない、それだけでこうも変わるのかとショックを受けたほどだ。
なにがアリスをそうさせてしまっているのかは分からなかった。多分本人もまったく自覚がないらしく、いくら話を聞こうとしても成果はなにもなかった。
精神科に相談したこともある。でも、はっきりとした答えが返ってきたことはない。
しかし、それは妻にとっては喜ばしいことであったらしい。ワタシがいないだけでそれだけの成果が出せるならオッケーよ。そう明るく振舞っている声はさみしそうに聞こえた。
スケートを止めさせると言う選択肢もあったし、結果を求めなければ大した問題でもないことは分かっている。でも、アリスは滑りたがっているように思えたし、なんなら妻に追いつこうとしているようにも思えた。
でも、その意志をはっきりと聞いたことはない。
きっとアリスの本心を知ってしまうのが怖かったからだ。母をどう思っているのか、いないことをよしとしてスケートだけを教え続けている父をどう思っているのか。だから成長していく中でどう気持ちが変わっていっているのか分からないままだ。
「こんなにそばにいるだなんて想定外」
ぽつりとそれだけ呟くとアリスは練習のために入口のスタッフのもとへ向かう。話をする暇すらない。
『上里アリスさん。間中穂香さん。練習を開始してください。練習時間は六分です』
アナウンスが流れふたりが滑り始める。ふたりとも現役選手だけあって体を温め終えると自分の不安な部分の確認に入っている。
「大きくなったね」
「あ、ああ。何年振りに会ったんだっけか」
それすらも覚えていないくらい久しぶりだ。
「まだ、アリスがこれくらいだったよ」
そう言って腰よりちょっと高いところに手のひらを置いて示してくる。その身長だったのがいつだったか、覚えている訳もない。
「でも中身もちゃんと成長してる」
そうだろうか。口数も少ないアリスの内面を測ることは難しい。
「今日ここにいるのもアリスから連絡が来たからだよ」
「えっ」
それは初耳だった。どうりで日程を詳しく知っていたわけだ。てっきり噂でも聞いて調べたのだと思っていた。
「私の演技をちゃんと見てくださいって。多分あの子なりに成長してるのよ。それで覚悟が決まったんだ。だからワタシを呼んだ」
実力をつけていったアリスだけれど規模が大きな大会になればなるほどその実力を発揮できないでいた。きっと画面の向こうで妻に見られていると意識してしまうのだろう。
視線がアリスに向かう。
赤を基調とした衣装はアリスによく似合っている。ぴったりと腕に張り付いた袖が長い腕を強調し、スカートもタイト気味で、そこからすらりと伸びる脚をさらに長く見せている。ちりばめられたスパンコールもいい感じに照明を反射している。
今シーズンからの衣装だ。シーズンも半ばでようやく馴染んできた。
演技内容は今日のためにわざわざ作り直したものだ。アリスの要望だった。今後の勉強のためにもそういった機会があってもいいと思っていたので快諾したのだけれど、アリスとしては別の意味があったのだろう。
「だからほんとはこっそり見てるつもりだったんだけど、たまらず降りて来ちゃった」
『練習時間残り一分です』
アリスは息を整えるために戻ってくる。用意していたティッシュを箱ごと渡すと一、二枚とると鼻をかむ。温度差が激しいのでどうしたって出やすいのだ。
「緊張してるのか」
普段の大会はもっと淡々としているのに今日は表情が硬い。あんまり表情に出さないのに珍しいと言える。ついつい隣の妻に視線が行く。それはアリスもおんなじだ。
「ヘイ。アリス」
アリスを呼び寄せた。スーッと近づいたアリスを妻は獲物を捕まえるみたいに抱きしめていた。気づけばそんなに身長差もなくなってきているのだ。
アリスは驚いているのかピクリとも動かない。行き場を失った手は宙に浮いている。妻も何も話すことしない。じっと抱き合っているだけだ。
『練習時間終了です。選手のおふたりはリンクサイドにお上がりください』
もう出番だ。果たしてこんな状況からのスタートで大丈夫なのだろうか。
『先攻。上里アリスさん。栄口南商店街』
すぐさま呼ばれる。そこでようやっとアリスが解放された。ふたりとも黙ったままだ。アリスはスッと芳樹の前に移動すると背中を見せてくる。何も言われなくても左肩に手を置く。イメージをアリスへと流し込む。妻も隣にいる、いつもより力が入ってしまう。
その行為はいつものルーティン。そこに言葉はいらない。わざわざ口にしなくても伝わることはたくさんある。
ホントに?
初めて疑問が頭に浮かんだ。ホントに言わなくても伝わっていたのか。勝手にそう思い込んでいただけなんじゃないか。だから、アリスの考えていることが分からないと。そう悩んでいたんじゃなかったのか。
手から肩が離れていく。いつも通りだ。
まってくれ。ちゃんと伝えたいことがあるんだ。そんなことはいまさら言えるわけもなかった。
あれはアリスが初めて大会に出場した時だったと記憶している。結果は散々なものだった。普段の実力の半分を発揮できなかった。
それまで天才少女だともてはやされていたのが嘘みたいに手の平が返った。上手くいかなかった理由に妻は心当たりがあったらしい。時折、複雑な表情をしてアリスを見ていることがあった。
だから、その世界を周ると言う事がアリスに起因しているだろうことはなんとなく予想が付いていた。
アリスは妻の事を随分と遠い存在に感じているような素振りが多かった。どう付き合っていいのか分からないと言いたげな顔をするのだ。まるで住む世界が違うと言わんばかりに。
産んですぐ、絶頂期だった妻はアリスのそばにいてやれなかった。休んでいる時間はない。そう言い切っていたのは確かだ。だから、幼いアリスにとって母は画面の向こうでしか見ることが出来ない存在だった。
ただでさえ人懐っこいとは言い難い性格だ。友達も少なく、自ら話しかけることはほぼない。何を考えているか分からないことは父親である芳樹でも多々あった。
それは成長するにつれてだんだんと大きくなっていくのだけれど。妻に対する態度はやっぱりそれすらも凌駕するものに見えた。
だからなのだろう。妻も気付いていたのだ。そばにいることがきっとアリスのためにならないと。遠い存在のまま居続けたほうが上手くいくのだと。
実際、成果はすぐに現れる。
アリスは淡々と演技をこなしていった。その精度は完璧に近く、とてもじゃないが最初の大会とは別人だった。妻に見られていない、それだけでこうも変わるのかとショックを受けたほどだ。
なにがアリスをそうさせてしまっているのかは分からなかった。多分本人もまったく自覚がないらしく、いくら話を聞こうとしても成果はなにもなかった。
精神科に相談したこともある。でも、はっきりとした答えが返ってきたことはない。
しかし、それは妻にとっては喜ばしいことであったらしい。ワタシがいないだけでそれだけの成果が出せるならオッケーよ。そう明るく振舞っている声はさみしそうに聞こえた。
スケートを止めさせると言う選択肢もあったし、結果を求めなければ大した問題でもないことは分かっている。でも、アリスは滑りたがっているように思えたし、なんなら妻に追いつこうとしているようにも思えた。
でも、その意志をはっきりと聞いたことはない。
きっとアリスの本心を知ってしまうのが怖かったからだ。母をどう思っているのか、いないことをよしとしてスケートだけを教え続けている父をどう思っているのか。だから成長していく中でどう気持ちが変わっていっているのか分からないままだ。
「こんなにそばにいるだなんて想定外」
ぽつりとそれだけ呟くとアリスは練習のために入口のスタッフのもとへ向かう。話をする暇すらない。
『上里アリスさん。間中穂香さん。練習を開始してください。練習時間は六分です』
アナウンスが流れふたりが滑り始める。ふたりとも現役選手だけあって体を温め終えると自分の不安な部分の確認に入っている。
「大きくなったね」
「あ、ああ。何年振りに会ったんだっけか」
それすらも覚えていないくらい久しぶりだ。
「まだ、アリスがこれくらいだったよ」
そう言って腰よりちょっと高いところに手のひらを置いて示してくる。その身長だったのがいつだったか、覚えている訳もない。
「でも中身もちゃんと成長してる」
そうだろうか。口数も少ないアリスの内面を測ることは難しい。
「今日ここにいるのもアリスから連絡が来たからだよ」
「えっ」
それは初耳だった。どうりで日程を詳しく知っていたわけだ。てっきり噂でも聞いて調べたのだと思っていた。
「私の演技をちゃんと見てくださいって。多分あの子なりに成長してるのよ。それで覚悟が決まったんだ。だからワタシを呼んだ」
実力をつけていったアリスだけれど規模が大きな大会になればなるほどその実力を発揮できないでいた。きっと画面の向こうで妻に見られていると意識してしまうのだろう。
視線がアリスに向かう。
赤を基調とした衣装はアリスによく似合っている。ぴったりと腕に張り付いた袖が長い腕を強調し、スカートもタイト気味で、そこからすらりと伸びる脚をさらに長く見せている。ちりばめられたスパンコールもいい感じに照明を反射している。
今シーズンからの衣装だ。シーズンも半ばでようやく馴染んできた。
演技内容は今日のためにわざわざ作り直したものだ。アリスの要望だった。今後の勉強のためにもそういった機会があってもいいと思っていたので快諾したのだけれど、アリスとしては別の意味があったのだろう。
「だからほんとはこっそり見てるつもりだったんだけど、たまらず降りて来ちゃった」
『練習時間残り一分です』
アリスは息を整えるために戻ってくる。用意していたティッシュを箱ごと渡すと一、二枚とると鼻をかむ。温度差が激しいのでどうしたって出やすいのだ。
「緊張してるのか」
普段の大会はもっと淡々としているのに今日は表情が硬い。あんまり表情に出さないのに珍しいと言える。ついつい隣の妻に視線が行く。それはアリスもおんなじだ。
「ヘイ。アリス」
アリスを呼び寄せた。スーッと近づいたアリスを妻は獲物を捕まえるみたいに抱きしめていた。気づけばそんなに身長差もなくなってきているのだ。
アリスは驚いているのかピクリとも動かない。行き場を失った手は宙に浮いている。妻も何も話すことしない。じっと抱き合っているだけだ。
『練習時間終了です。選手のおふたりはリンクサイドにお上がりください』
もう出番だ。果たしてこんな状況からのスタートで大丈夫なのだろうか。
『先攻。上里アリスさん。栄口南商店街』
すぐさま呼ばれる。そこでようやっとアリスが解放された。ふたりとも黙ったままだ。アリスはスッと芳樹の前に移動すると背中を見せてくる。何も言われなくても左肩に手を置く。イメージをアリスへと流し込む。妻も隣にいる、いつもより力が入ってしまう。
その行為はいつものルーティン。そこに言葉はいらない。わざわざ口にしなくても伝わることはたくさんある。
ホントに?
初めて疑問が頭に浮かんだ。ホントに言わなくても伝わっていたのか。勝手にそう思い込んでいただけなんじゃないか。だから、アリスの考えていることが分からないと。そう悩んでいたんじゃなかったのか。
手から肩が離れていく。いつも通りだ。
まってくれ。ちゃんと伝えたいことがあるんだ。そんなことはいまさら言えるわけもなかった。