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作者: 霜月かつろう
キミのことが分からない その10
 スッとスタート地点に入ったアリスの表情は遠いのと、下向き加減な視線のポーズなのでよく見えない。不安なまま送り出してしまった。そのことに芳樹は激しい後悔を覚えていた。

 そんな芳樹の気持ちなんてお構いなしに音楽が流れ始める。有名な映画のテーマ曲だ。ミュージカルとかにも展開されているほどに有名で名前だけならだれでも聞いたことがあるはずだ。

 それは悲劇の物語だ。救われることなく終わる物語は曲すらも鬼気迫るものがある。ただ、スタートは静かなものだ。ゆっくりと目覚めるかのように滑り始める。一歩一歩を力強く。それでいて静かに。まるで力をためるかのように滑る。そして徐々にその力があふれ出るかのようにスピードも上がっていく。

 最初のジャンプはコンビネーションジャンプだ。コンビネーションジャンプはジャンプで着地した足でもう一度踏み切るジャンプの事を指す。

 ファーストジャンプは川島くんもチャレンジしたルッツジャンプ。セカンドジャンプはトゥーループジャンプ。サードジャンプはループジャンプだ。回転数はトリプル、トリプル、ダブルだ。

 コンビネーションジャンプは演技中、一度だけなら三度跳ぶことが出来る。最初に持ってきたのは体力が残っている内に跳んでしまいたいからだ。年上の選手たちと争うにあたってどうしても体力面で劣るものがある。それを身軽さでカバーできるものの、最初はどうしたって力を入れたい。

 本当は最後のジャンプもトリプルが理想なのだが、それは今年中の課題だったりする。

 ともあれ、最初のジャンプだ。失敗は後々に響く。川島くんはルッツジャンプの助走を十分に取ったが、アリスほどの実力となればバックに切り替えてクロスを一回入れ、そのまま跳ぶ。クロスを入れるのは左足が外側にしっかり倒れていることを意識するためだ。これが内側に倒れると減点対象となる。

 左足にしっかり体重が乗ったら、膝をぐっと曲げる。右足は後ろへ伸ばしてこれまで加速してきたスピードを一気に上方向へ逃がしてやる。

 空中へ跳び上がったら跳ね上がった。右足を軸に身体を巻き付ける。身体が先に回ってしまわないように身体は反対方向にひねるようにして止める。その姿勢のまましっかりと回転したのを確認するとその回転を止めるように身体を開いて次のジャンプ姿勢に移る。衝撃を受け流しながら勢いは抑えず。ルッツジャンプと反対の足で同じような姿勢をとる。

 トゥーループジャンプだ。着地の勢いのまま左足のつま先を氷に突き刺す。右足で踏み切ると右足は身体の前を通るように後ろに。そしてその右足を軸に回転。三回転を確認し、今度は左足を前に置いたまま着地する。右足の膝をグッと曲げる。スケートの刃がそれにより滑った勢いのままその足で踏み切る。そのまま巻き付けるようにして回転。最後は二回転だ。

 スピードはほとんどなくなってしまったが着地に成功する。

 気を抜いている暇はなく、拍手を受けながら全体の流れが止まらないように次の一歩を踏み出す。

 最初のジャンプはなんとか成功だ。やっぱりループジャンプを三回転にするのは課題が残っていると実感する。

 構成内容をひとつこなす度にヒヤヒヤしてしまう。特に今回は構成内容をひとつひとつ審査することはしないと言うのにも関わらずだ。つい普段の大会同様の気持ちの入り方をしてしまう。

 アリスは最初のジャンプを決めたからか気持ちよさそうに滑っている。指先まで意識がしっかり伸びているようでひとつひとつの動きが繊細だ。

 休んでいる暇もなくジャンプの連続だ。次はトリプルサルコウからのトリプルループのコンビネーションジャンプ。

 サルコウはバックの左足で踏み切る。右足を後ろにするのはルッツと一緒だが、つま先を突いたりはしない。スケートの刃も内側に倒している。右足は大きく回すようにしながら前に持っていく。前に来たところで踏み切り、右足と一緒に身体も回っているので流れに逆らうことなく右足を軸に回転できる。着地は先ほどと一緒。トゥーループジャンプにつながるように回転を一回しっかりと止めてから左足のつま先を氷に突き刺す。

 先ほどのコンビネーションより一個少ないのと得意なジャンプの組み合わせなのもあってアリスは難なく着地を決めた。

 ここで曲が大きな音と共に激しさを増す。間髪入れずにスピンへと入る。左足を外側に倒し円を描くように滑る。それを小さくしていくと身体は回り始める。その瞬間に左足を踏み切る。宙に舞ったところでシット姿勢を維持。そのまま着地して回り続ける。

 フライングスピンと呼ばれるものだ。それのシット姿勢。回転しながらカウントする。いち。に。さん。

 ポジションは二回転しないと判定されない。感覚がズレることもあるので念のため三カウントするとポジションを変える。

 基本姿勢であるシットは崩さず身体をひねったり。前に出している足を畳み込んだり。ポジションが増えるほどスピンのレベルも上がりやすくなる。

 レベルとはスピンに付けられる得点のランクだ。これが大きければ得点も伸びる。ポジションだけでレベルが決まるわけではないのだが一番分かりやすい要素なので基本的にポジションはいくつか変える。

 鼓動が早いのが伝わってくる。いつもより緊張しているのか疲れるのも早い。まだ半分も演技が終わっていないのにこれじゃあへばってしまう。

 ただスピンの間は息を整えるタイミングでもある。常に滑り続け、全身に気を使い続ける競技だ。演技時間中を全力疾走しているみたいなもの。その中でスピンの時間だけは余裕ができる。でもそれも少しだけだ。

 スピンの終わり視線の端でこちらを気にしているのが分かった。妻の様子が気になるのだろうか。ここまでせっかく調子がいいのに嫌な感じがする。

「大丈夫。あれは見ててってことだよ」

 芳樹の心配をよそに妻は平気そうな顔をしている。少しだけ嫉妬してしまう。なんで、一緒に居なかった妻の方がアリスのことを理解しているのだ。

 こちらの気も知らないでアリスはスピードを出し続ける。次はトリプルフィリップ。合間の迫力ある音に合わせて身体を動かす。しっかりと身体が止まると心地良さもある。

 でも、観客が息をのむのはその表情だ。遠くてよく見えないはずのその表情は哀れみを表していた。どうしてこんなことになってしまったのだと言う感情があふれ出している。

 その加速を生かしてフィリップジャンプの姿勢に入る。フィリップとルッツの違いは素人にはわかりにくいとされる。踏み切る足もつま先を突くのも同じ。違うのは滑っている左足が外側に倒れているか内側に倒れているかだけの違いだ。

 ただ、アリスはつま先を突くトゥージャンプを得意としている。心配は残るが問題ないはずだ。

「ヨシキ。ありがとう」

 不意に聞こえる言葉に動揺してしまってアリスから視線が逸れる。その瞬間氷が削れる音がした。慌てて視線を戻すと着地に失敗したアリスの姿があった。失敗と言っても着地で踏ん張ってしまっただけだ。転んだりはしていない。それでも限定対象なのことには違いない。

「アリスは強くなった。全部ヨシキのおかげ」

 曲は盛り上がり続けている。妻のその声は芳樹にしか聞こえないのだろう。

「ヨシキにお願いしてよかった」

 どういうつもりで話をしているのか分からなくて反応はしないようした。でも、だんだんと溜まっていた感情が膨れ上がっていくのが分かる。止めてくれ。それ以上、続けないでくれ。そう願う。

 拍手が会場を包む。意識を妻に取られている間にアリスがダブルアクセルを決めたらしい。見ればもうビールマンスピンの形に入っている。妻が見ていると言うのに順調だ。ホントに克服したと言うのか。でもなんでだ。まったく見当がつかない。

「アリスもありがとうって思ってるよ」
「なんで、一緒にいないのにアリスのことをわかっている様な口がきけるんだ」

 思わず声に出してしまい。しまったと思い、小さくごめんと謝った。もう遅いのは分かった上でだ。

 絶対言っちゃいけなかったはずなのだ。誰よりもアリスのそばにいたかったのだ。それに気づいていたのに。

 再び拍手だ。アリスがスピンを終えたのだ。このあとは課題のトリプルループだ。でも妻の事が気になって仕方がない。なんで今このタイミングで話しかけてくるのだ。せめて終わってからでいいじゃないか。

「ワタシ、そろそろ引退しようと思ってるの。だから帰ってきてもいいか聞いておかなきゃいけいと思って」

 急な話だ。今までそんな話したこともない。奥底のもやもやも覆い隠す様に驚きが大きくなる。

「身勝手に感じるかもしれない。アリスにとってもヨシキにとっても。でも悩んでたワタシに勇気をくれたのはアリスだった。頑張るから。一緒に暮らしていても最大の成果を出せるようになったからって見に来てくれって」

 先ほどの話につながる。ふたりだけで連絡を取り合っていたのは知らなかった。まるでのけ者にされているみたいだ。

「ごめんなさい。黙っているつもりはなかったの。でもヨシキに余計な心配はさせたくない。そうふたりで決めてしまった。でもね。アリスはヨシキのことを一番に考えてるのよ。だからワタシに戻ってきて欲しいって」

 まるでピエロだ。ふたりの間を取り持っているつもりでふたりに心配されていた。
 全部、自分が悪いような気がしてくる。アリスとしっかりと向き合えなくてそれをアリスのせいにして、自分から近寄ろうとしなかった。それは妻に対しても同じだ。

 ふたりのことを分かろうとしなかった。

「ねえ。だからアリスを見てあげて。精一杯あなたにアピールしているアリスを」

 情けなくて、涙が出そうで、それでもアリスが一生懸命、演技しているのが分かる。寄り添わなかったことが原因で悲劇へと進んでしまった物語を身体をすべて使って表現している。

 トリプルループ。

 右足を軸にして左足は滑っている跡を追うようにする。右足で円を描きがながら踏み切る。その軸にまとわりつくように身体を細くする。単純だが力を加えることが難しく余計なものがそぎ落とされたジャンプ。

 アリスが苦手としていたそのジャンプをキレイに踏み切った。軸もブレていない。そのまま着地。
 勢いを抑えるようにゆっくりとフィニッシュ姿勢をとると最後のスピンに移ろうとしている。
 曲も最高潮。ラストに向けて観客の盛り上がりも大きくなっている。

 その光景に思わず祈っている自分がいた。手と手を胸の前で握りしめている。

 いつだってこうやってアリスの、いや、教え子たちの成功を祈っていた。それしかできないからだ。

 アリスの時はそれを一番強く握りしめている。

 今はすべてを吹き飛ばすようなスピンを見せて欲しかった。これからのことはゆっくりと話せばいい。今ここには家族三人そろっているのだ。あとは、踏み込むだけの勇気があればそれでいい。

 それをアリスから貰おうなんて都合がよすぎる。でもいつだって、アリスがいたからこうやってここでスケートと関わっていられる。

 教え子も増えたし、ともに頑張る仲間も増えた。商店街のみんなも応援してくれている。

 アリスはそれらの想いを背負ってくれている。であれば一緒になって背負いたい。今ならそう思える。

 アリスが勢いよく回り始める。会場が沸いた。

 真っ白なスケートリンクの上で開いた赤いスカートは花を咲かせているようだ。悲しい花だ。でもアリスはそれを力強く咲かせる。

 まるで、私たちの決断は間違っていなかったと。たとえその先が悲劇でも、これでいいのだと。胸を張っているように見えた。

「キレイね」
「ああ。キレイだ」

 その花をずっと見ていたいと。きっと会場全体がそう思っていると。それだけの魅力が確かにそこにあった。
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