R-15
伝わる想い
十一月十一日 午後九時二十八分
会議終了後から夕方までの間、俺と相澤裕典はそれまで受け持っていた仕事の引き継ぎをしていた。
帰宅した俺たちは今、自宅で一緒に過ごしている。
官舎は築年数の古い家族寮で、同じ部屋で同居暮らしをしているが、部屋で顔を合わせることは滅多にない。
相澤はキッチンにいる。何か探し物をしているようだ。俺はリビングで横になり、テレビを見ていた。
キッチンにいる相澤に、横になったまま相澤の名前を呼んだ。
相澤は面倒くさそうに目を細めながら、『なんですか』と返す。
――ムカつくな。先輩の俺に向かってソレかよ。
「裕くーん! ごはんはー?」
「ごはんなんてないですよ」
俺も相澤も、身支度を整えるだけにこの部屋へ戻ってくる生活を何年もしている。
俺が最後にここで寝たのはいつだったか。確か、七月だ。エアコンを入れないまま泥のように眠ってしまい、熱中症になって意識が混濁していた所をこのゴリラに助けられた。
相澤は、水回りの掃除だけはきちんと行っている。その代わりに俺は、煎餅と酒を必ず買って帰るようにしていた。
「煎餅は?」
「食っちゃいましたよ」
「なんだよ、少しは残しとけよ」
頬を膨らませている相澤は、空腹で機嫌が悪くなっていた。
「しょうがねえな、金やるからメシ買ってきて」
「はい」
足取り軽く買い物へ出掛ける相澤の足音を聞きながら、優衣香のことを考える。
今日は、明朝八時まで自由だ。それなら優衣香の家に行きたいが、昨日の会議が終わった後にメールをすればよかったのかも知れないが、なんとなく嫌で送れなかった。
電話は、怖い。優衣香へ電話をするのが怖くて、出来ない。優衣香の部屋で過ごす時の優衣香しか知らない俺は、電話をしても、電話の向こうの優衣香が何をしているのかわからないから怖い。男がいるんじゃないかとか、そんな不安があって怖い。
――メール、してみようかな。
ベッドで抱きしめて、初めて知った優衣香の肌身の柔らかさと温もり。別れ際のあのキス。
もう、これまでの関係ではなくなったのだから、メールをしてもいいのではないか。
でも怖い。
なかなか勇気が出ず、何度もスマートフォンの画面を見るが、勇気が出ない。
――電話してみよう。メールじゃなくて。
俺は覚悟を決めてスマートフォンの電話帳をタップした。
笹倉優衣香の文字を見つけ、受話器のマークをタップする。
呼出音が一回、二回、三回と鳴る間、俺の心は騒ぐ。
「もしもし! 敬ちゃん!?」
四回目の呼出音が鳴った時、優衣香は電話に出た。
優衣香の焦った声が頭に響く。
「もしもし。優衣ちゃ――」
「もしもし! どうしたの? 何があったの?」
優衣香がここまで焦るのは何故なのか考えたら、俺がこの十三年間で電話をしたのは一度きりだった。しかもそれは親父が殉職したことを告げる電話だった。
それじゃ優衣香は焦るに決まってる。
俺はそれがおかしくて笑ってしまった。
「ふふっ、優衣ちゃんごめんね、ふふっ」
「えっ! なに? なに!?」
「違うよ、何も起きてないよ。ただ、優衣ちゃんの声が聴きたくなっただけだよ。ごめんね」
電話の向こうの優衣香は、安堵する息遣いをしている。それは別れ際に耳元で聴いたあの吐息と同じに聴こえた。
聴き慣れない電話口の優衣香の声をもっと聴きたい。
「今日はね、久しぶりに家にいて、今、相澤が外出してるから、優衣ちゃんに電話しようと思ったんだよ」
そうなのねと言う優衣香の優しい声で、俺の心は温もりに包まれた。会いたい。声を聴いているけど、目の前にいないのは寂しい。
「優衣ちゃんに会いたいな」
電話口の優衣香も、私も会いたいと言ってくれた。
次からは葉書ではなく、電話してもいいかと優衣香に言うと、それが普通じゃないかなと至極真っ当なことを言ってきた。
「ふふっ、そうだよね」
それから優衣香は、俺をいたわる言葉を続け、俺は相づちを打ちながら、優衣香の優しい声を聴いていた。
「ああそうだ、優衣ちゃん、今日俺ね、髭剃ったよ」
別れ際のあの激しいキスのせいで、優衣香の顔は髭が当たった部分が赤くなっていた。多分、胸元の肌も赤くなっているのだろう。
「だからもう痛くないよ」
まだヒリヒリするよと優衣香は笑いながら話した。
そろそろ相澤が帰ってくるだろう。優衣香の声を聴いていたいが仕方ない。でも、ほんの少しだけでも、優衣香と同じ時間を過ごせたことが嬉しい。
「あの……優衣ちゃん」
「優衣ちゃん、好きだよ……大好き」
電話を切る際に、優衣香から大好きの言葉をもらって、電話を終えた。
優衣香が初めて俺に好きと言ってくれた。それが嬉しくて嬉しくて、頬が緩んでいるのがわかる。そんな自分が恥ずかしい。でもよかった。勇気を出して電話して本当によかっ――
「電話、笹倉さんですか」
男の声に驚いて振り向くと、ゴリラの相澤がそこにいた。
「……どこから聞いてた?」
手ぶらで佇むゴリラは、呆れた表情で目を細めて俺を見ている。
「電話切るちょっと前くらいじゃないですかね」
「……そう」
「松永さんの甘えた声を初めて聞きました」
――このまま地球が滅亡すればいいのに。
「……メシは?」
「これから買いに行きます」
「なんでだよ」
「外に出たら寒くて帰ってきたんです」
ゴリラでも十一月の夜に半袖短パンは寒かったのか。当たり前か。
「いいよ、食いに行こうぜ」
その言葉にゴリラは目線を外し、首を傾げた。そしてまた俺を見た。そして――。
「大好きな優衣ちゃんに会いたいなら行けばいいんじゃないですか。髭も剃ったから痛くないし」
――本当に、このまま地球が滅亡すればいいのに。
会議終了後から夕方までの間、俺と相澤裕典はそれまで受け持っていた仕事の引き継ぎをしていた。
帰宅した俺たちは今、自宅で一緒に過ごしている。
官舎は築年数の古い家族寮で、同じ部屋で同居暮らしをしているが、部屋で顔を合わせることは滅多にない。
相澤はキッチンにいる。何か探し物をしているようだ。俺はリビングで横になり、テレビを見ていた。
キッチンにいる相澤に、横になったまま相澤の名前を呼んだ。
相澤は面倒くさそうに目を細めながら、『なんですか』と返す。
――ムカつくな。先輩の俺に向かってソレかよ。
「裕くーん! ごはんはー?」
「ごはんなんてないですよ」
俺も相澤も、身支度を整えるだけにこの部屋へ戻ってくる生活を何年もしている。
俺が最後にここで寝たのはいつだったか。確か、七月だ。エアコンを入れないまま泥のように眠ってしまい、熱中症になって意識が混濁していた所をこのゴリラに助けられた。
相澤は、水回りの掃除だけはきちんと行っている。その代わりに俺は、煎餅と酒を必ず買って帰るようにしていた。
「煎餅は?」
「食っちゃいましたよ」
「なんだよ、少しは残しとけよ」
頬を膨らませている相澤は、空腹で機嫌が悪くなっていた。
「しょうがねえな、金やるからメシ買ってきて」
「はい」
足取り軽く買い物へ出掛ける相澤の足音を聞きながら、優衣香のことを考える。
今日は、明朝八時まで自由だ。それなら優衣香の家に行きたいが、昨日の会議が終わった後にメールをすればよかったのかも知れないが、なんとなく嫌で送れなかった。
電話は、怖い。優衣香へ電話をするのが怖くて、出来ない。優衣香の部屋で過ごす時の優衣香しか知らない俺は、電話をしても、電話の向こうの優衣香が何をしているのかわからないから怖い。男がいるんじゃないかとか、そんな不安があって怖い。
――メール、してみようかな。
ベッドで抱きしめて、初めて知った優衣香の肌身の柔らかさと温もり。別れ際のあのキス。
もう、これまでの関係ではなくなったのだから、メールをしてもいいのではないか。
でも怖い。
なかなか勇気が出ず、何度もスマートフォンの画面を見るが、勇気が出ない。
――電話してみよう。メールじゃなくて。
俺は覚悟を決めてスマートフォンの電話帳をタップした。
笹倉優衣香の文字を見つけ、受話器のマークをタップする。
呼出音が一回、二回、三回と鳴る間、俺の心は騒ぐ。
「もしもし! 敬ちゃん!?」
四回目の呼出音が鳴った時、優衣香は電話に出た。
優衣香の焦った声が頭に響く。
「もしもし。優衣ちゃ――」
「もしもし! どうしたの? 何があったの?」
優衣香がここまで焦るのは何故なのか考えたら、俺がこの十三年間で電話をしたのは一度きりだった。しかもそれは親父が殉職したことを告げる電話だった。
それじゃ優衣香は焦るに決まってる。
俺はそれがおかしくて笑ってしまった。
「ふふっ、優衣ちゃんごめんね、ふふっ」
「えっ! なに? なに!?」
「違うよ、何も起きてないよ。ただ、優衣ちゃんの声が聴きたくなっただけだよ。ごめんね」
電話の向こうの優衣香は、安堵する息遣いをしている。それは別れ際に耳元で聴いたあの吐息と同じに聴こえた。
聴き慣れない電話口の優衣香の声をもっと聴きたい。
「今日はね、久しぶりに家にいて、今、相澤が外出してるから、優衣ちゃんに電話しようと思ったんだよ」
そうなのねと言う優衣香の優しい声で、俺の心は温もりに包まれた。会いたい。声を聴いているけど、目の前にいないのは寂しい。
「優衣ちゃんに会いたいな」
電話口の優衣香も、私も会いたいと言ってくれた。
次からは葉書ではなく、電話してもいいかと優衣香に言うと、それが普通じゃないかなと至極真っ当なことを言ってきた。
「ふふっ、そうだよね」
それから優衣香は、俺をいたわる言葉を続け、俺は相づちを打ちながら、優衣香の優しい声を聴いていた。
「ああそうだ、優衣ちゃん、今日俺ね、髭剃ったよ」
別れ際のあの激しいキスのせいで、優衣香の顔は髭が当たった部分が赤くなっていた。多分、胸元の肌も赤くなっているのだろう。
「だからもう痛くないよ」
まだヒリヒリするよと優衣香は笑いながら話した。
そろそろ相澤が帰ってくるだろう。優衣香の声を聴いていたいが仕方ない。でも、ほんの少しだけでも、優衣香と同じ時間を過ごせたことが嬉しい。
「あの……優衣ちゃん」
「優衣ちゃん、好きだよ……大好き」
電話を切る際に、優衣香から大好きの言葉をもらって、電話を終えた。
優衣香が初めて俺に好きと言ってくれた。それが嬉しくて嬉しくて、頬が緩んでいるのがわかる。そんな自分が恥ずかしい。でもよかった。勇気を出して電話して本当によかっ――
「電話、笹倉さんですか」
男の声に驚いて振り向くと、ゴリラの相澤がそこにいた。
「……どこから聞いてた?」
手ぶらで佇むゴリラは、呆れた表情で目を細めて俺を見ている。
「電話切るちょっと前くらいじゃないですかね」
「……そう」
「松永さんの甘えた声を初めて聞きました」
――このまま地球が滅亡すればいいのに。
「……メシは?」
「これから買いに行きます」
「なんでだよ」
「外に出たら寒くて帰ってきたんです」
ゴリラでも十一月の夜に半袖短パンは寒かったのか。当たり前か。
「いいよ、食いに行こうぜ」
その言葉にゴリラは目線を外し、首を傾げた。そしてまた俺を見た。そして――。
「大好きな優衣ちゃんに会いたいなら行けばいいんじゃないですか。髭も剃ったから痛くないし」
――本当に、このまま地球が滅亡すればいいのに。