R-15
3分で大惨事
十一月二十二日 午前十一時五十八分
雲に覆われた空がここから見える。今にも雨粒が落ちて来てもおかしくないような天気だ。
昨夜は野川を捕まえて、それから署に行って武村を説教した。だが、米田からは連絡はない。
――なんでかな。
◇
捜査員用のマンションのリビングルームには長机三つが合わせて置いてあり、大きいテーブルのようにセットしてある。椅子はパイプ椅子で十脚。
俺はバルコニーに一番近い椅子に座り、パソコンを眺めていた。
――目がしょぼしょぼする。
対角線上の椅子に座って同じくパソコンとにらめっこしているのは、俺と相澤とは違う所轄から一人でやって来た捜査員だ。
コイツはゴリラの相澤より背が高くて体格もいい。だが、身のこなしが柔道をやっていたそれではない。俺はてっきり刑事課所属かと思っていたが違った。生活安全部だという。いるよね、こういうタイプ。
――熊。ちょっと方向性の違う熊。
初回の会議で、ゴリラの相澤を見ていた野川を見ていたのがこの熊だ。相澤は熊と同じ所轄だった時もあり、久しぶりに会って二人は楽しそうにしているが、俺はコイツと初めて会った。
熊とゴリラが一緒にいる姿は見ているだけで暑苦しいが、寒い今なら丁度いいかと思って『ぼくもキミと仲良くしたいな』と今朝からずっとコイツに念を送っている。だが、コイツは俺に怯えて目も合わせてくれない。
――ぼくかなしいな。
とりあえずコーヒーでも淹れてやろうかと思い、『なあ、葉梨』と熊の名前を呼んだが、言い切らないうちに葉梨は既に立ち上がっていた。
「コーヒーは飲――」
「コーヒーですね! 淹れます!」
「……ありがとう」
俺がまず熊の葉梨がコーヒーを飲むどうかを聞いて、飲むなら俺がコーヒーを淹れてあげて、それから交流を深めてキャッキャウフフしようとしてたのにどうして。
「お砂糖とミルクはどうしますか!?」
――熊がお砂糖とミルクって言った! なんか可愛い!
「ミルクは二つで。砂糖はいらないよ」
「はい!」
そこに加藤奈緒が外出から戻ってきた。
昨夜と同じ格好のままだった。メイクは綺麗にしているが、疲れが隠せていない。
リビングのドアを開けた加藤はいつもの目をして、すぐにやめた。そして俺を見て眉根を寄せている。
「お疲れ様です。なんだか楽しそうですね」
「お疲れ。そうでしょ? 葉梨と楽しく過ごしてるよ」
俺と加藤のやり取りを聞いていた葉梨は驚いた顔をして俺と加藤の顔を交互に見たが、『加藤さんもコーヒーいかがですか?』と加藤に声をかけ、加藤は『ありがとう、頂きます』と言って、俺の右隣の席に着いた。
――話があるんだな。
横目で見る加藤は優しい笑みを葉梨に向けている。何もなければ、対角線上に座る俺と葉梨のどちらかの前に座るはずが、俺の隣に加藤は来た。
加藤はテーブルに肘をついて手のひらを見ながら親指以外の指を閉じたり開いたりしている。それをコーヒーの仕度をしている葉梨がチラッと見た。
葉梨はコーヒーを置いた。加藤は三グラムのスティックシュガーの残り半分とミルク一つ。俺は葉梨に伝えた通りだ。
「下の自販機に行ってきます」
葉梨はそう言うと、コートを着てリビングを出て行った。
玄関ドアが開き、閉じる。
施錠する音が聞こえて、施錠確認の大きな音がした。
「教育が行き届いてて何より」
「葉梨は物覚えがよくて柔軟な対応が出来ます」
手のひらを見ながら親指以外の指を閉じる。それは『五分以上はかからないが四分以内に帰って来るな』というハンドサインだ。加藤と相澤の同期である岡島直矢が葉梨と官舎で同室で、四人で飲みに行った時に加藤が見込んだと言っていた。
「で? 話は?」
「野川はボイスレコーダーで米田さんとの会話を全て録音していました」
「おっと……」
昨夜、優衣香のマンション付近で野川を回収した後の話だった。
咽び泣く野川が落ち着いたのは三十分ほど経った頃だったが、野川はカバンから取り出したボイスレコーダーを加藤に見せたという。野川は音声を全て書き起こしていた。そのメモも加藤に見せて、どうすればいいか聞いてきたと。
加藤はその音声データをその場で複製し、野川に実家に帰るよう説得したという。
加藤は既に帰宅していた米田に連絡をして、優衣香の最寄駅の駅名を告げ、『泣きじゃくる野川を保護した。何があったのか言わない。実家に帰りたいと言っている。このまま送ってもいいか』と米田に指示を仰いだ。
野川に電話を代わるか否かを問うが、米田は躊躇していたそうだ。そりゃそうだ。電話の声は漏れる。相澤と加藤に聞かれてしまう。有給取得を許可した米田との電話はそこで終わった。
三人は官舎に行き、加藤と野川は荷物をまとめるために野川の部屋へ行った。相澤はそのボイスレコーダーのマイクロSDカードを『詳細はわからないが野川が泣きながら米田さんに渡して欲しいと言っていた』と、刑事課の課員が揃う中で武村に渡した。その後、仕度の済んだ野川をまた乗せ、実家に送り届けたと。
――すごーい。奈緒ちゃん完璧。さすがー。
「ま、コーヒー飲もうか」
砂糖とミルクを混ぜながら、加藤は『ボイスレコーダーを持たせたのは私です』と言った。
「俺との会話も全て録音してんの?」
「さあ、どうでしょうか。私は米田さんとの会話だけを指示しました。何か不都合なことでもありましたか?」
野川にその素振りはなかった。毎日観察しているが、ボイスレコーダーに限らずその他の機器類を持っているような素振りはなかった。そもそも俺はそんなものは想定内だ。
だが、美容院に野川を連れて行った時のことをふと思い出して、視線を彷徨わせた。それを加藤はコーヒーを飲みながら横目で見ている。
「ヤバいな……俺、野川に出会って三分でパンツ見えるよって言っちゃった」
「ブフーッ!」
加藤が噴き出したコーヒーは見事な放物線を描いた。コーヒーは一番向こうの長机まで飛び散っている。加藤は背中を揺らせてむせている。
「びっくりした。リアルで噴き出した人を初めて見たよ」
――あ……狂犬の顔してる……。
怖くなって加藤から視線を外した。
マズい、怒らせてしまったようだ。とりあえず落ち着かないとなと思ってコーヒーを口に含んだが、耳に流れ込んだ、『まあ、出会って三分でハメなかっただけ評価しますよ』に、俺も盛大にコーヒーを噴き出してしまった。
「……大惨事だ」
「ホントにね! 誰のせいですかね! もう!」
そう言うと加藤はキッチンに布巾を取りに行った。その時、玄関が開く音がして、大きな声が聞こえた。それを聞いた加藤が『おかえり』と言い、足音を大きく立ててリビングに葉梨が入ってきた。
「えっ……俺やります! 加藤さん、俺やりますから!」
テーブルの大惨事を布巾で拭こうとしている加藤に葉梨が声をかけるが、振り返った狂犬の加藤の顔を見て後退りした。
――わかるよ、狂犬の加藤は俺も怖いもんね。
「葉梨、おかえり。コーヒー美味しく頂いてるよ。ありがとうね。ちょっと溢しちゃったけど」
コーヒー皿を持ち、カップを上に上げて口元にエレガントな笑みを浮かべて葉梨を見たが、俺の視界にはテーブルを拭きながら狂犬度を増した目で俺を睨んでいる加藤もいた。
――あ、土下座パターンだこれ。
テーブルを拭き終わった加藤はキッチンへ行き、布巾を洗い始めた。葉梨は加藤を気にかけながらも椅子に座り、またパソコンとにらめっこを始めている。
布巾を洗う水音だけがするこのリビングで、時折葉梨と目が合い、ほほえみ返しをした。
――今、ぼくは熊と心が通じ合ってる。
そこに加藤が戻ってきた。狂犬のままで。
元の席――それは、俺の隣――。
葉梨は俺に憐憫の眼差しを送っている。
隣に座ってコーヒーを飲み始めた加藤に俺は『お昼をご一緒しませんか』と誘ったが、『既に済ませましたので』と言われた。もうアウトだ。
「何をお召し上がりに?」
「ラーメンと炒飯と餃子です」
「まあ、それはいいですね」
ダメだ。何とか加藤の機嫌を取ろうとしたけど完全にアウトだこれ。だが、そこに救世主が現れた。
――救世主、その名は葉梨将由、三十二歳、見た目は熊。
部屋に戻ってきたものの、狂犬加藤を見たせいで存在を忘れていた買った飲み物を思い出し、それをコートのポケットから取り出した救世主のお告げはこうだった。
「下の自販機にいくつか新しいのが入ってたんですよ! 加藤さんには強炭酸です! どうぞ! それと相澤さんにはジャスミンティーを渡して下さい!」
――あー、それ今一番やっちゃダメなやつ……。
俺は三年ぶり六回目の土下座の準備を始めた。
雲に覆われた空がここから見える。今にも雨粒が落ちて来てもおかしくないような天気だ。
昨夜は野川を捕まえて、それから署に行って武村を説教した。だが、米田からは連絡はない。
――なんでかな。
◇
捜査員用のマンションのリビングルームには長机三つが合わせて置いてあり、大きいテーブルのようにセットしてある。椅子はパイプ椅子で十脚。
俺はバルコニーに一番近い椅子に座り、パソコンを眺めていた。
――目がしょぼしょぼする。
対角線上の椅子に座って同じくパソコンとにらめっこしているのは、俺と相澤とは違う所轄から一人でやって来た捜査員だ。
コイツはゴリラの相澤より背が高くて体格もいい。だが、身のこなしが柔道をやっていたそれではない。俺はてっきり刑事課所属かと思っていたが違った。生活安全部だという。いるよね、こういうタイプ。
――熊。ちょっと方向性の違う熊。
初回の会議で、ゴリラの相澤を見ていた野川を見ていたのがこの熊だ。相澤は熊と同じ所轄だった時もあり、久しぶりに会って二人は楽しそうにしているが、俺はコイツと初めて会った。
熊とゴリラが一緒にいる姿は見ているだけで暑苦しいが、寒い今なら丁度いいかと思って『ぼくもキミと仲良くしたいな』と今朝からずっとコイツに念を送っている。だが、コイツは俺に怯えて目も合わせてくれない。
――ぼくかなしいな。
とりあえずコーヒーでも淹れてやろうかと思い、『なあ、葉梨』と熊の名前を呼んだが、言い切らないうちに葉梨は既に立ち上がっていた。
「コーヒーは飲――」
「コーヒーですね! 淹れます!」
「……ありがとう」
俺がまず熊の葉梨がコーヒーを飲むどうかを聞いて、飲むなら俺がコーヒーを淹れてあげて、それから交流を深めてキャッキャウフフしようとしてたのにどうして。
「お砂糖とミルクはどうしますか!?」
――熊がお砂糖とミルクって言った! なんか可愛い!
「ミルクは二つで。砂糖はいらないよ」
「はい!」
そこに加藤奈緒が外出から戻ってきた。
昨夜と同じ格好のままだった。メイクは綺麗にしているが、疲れが隠せていない。
リビングのドアを開けた加藤はいつもの目をして、すぐにやめた。そして俺を見て眉根を寄せている。
「お疲れ様です。なんだか楽しそうですね」
「お疲れ。そうでしょ? 葉梨と楽しく過ごしてるよ」
俺と加藤のやり取りを聞いていた葉梨は驚いた顔をして俺と加藤の顔を交互に見たが、『加藤さんもコーヒーいかがですか?』と加藤に声をかけ、加藤は『ありがとう、頂きます』と言って、俺の右隣の席に着いた。
――話があるんだな。
横目で見る加藤は優しい笑みを葉梨に向けている。何もなければ、対角線上に座る俺と葉梨のどちらかの前に座るはずが、俺の隣に加藤は来た。
加藤はテーブルに肘をついて手のひらを見ながら親指以外の指を閉じたり開いたりしている。それをコーヒーの仕度をしている葉梨がチラッと見た。
葉梨はコーヒーを置いた。加藤は三グラムのスティックシュガーの残り半分とミルク一つ。俺は葉梨に伝えた通りだ。
「下の自販機に行ってきます」
葉梨はそう言うと、コートを着てリビングを出て行った。
玄関ドアが開き、閉じる。
施錠する音が聞こえて、施錠確認の大きな音がした。
「教育が行き届いてて何より」
「葉梨は物覚えがよくて柔軟な対応が出来ます」
手のひらを見ながら親指以外の指を閉じる。それは『五分以上はかからないが四分以内に帰って来るな』というハンドサインだ。加藤と相澤の同期である岡島直矢が葉梨と官舎で同室で、四人で飲みに行った時に加藤が見込んだと言っていた。
「で? 話は?」
「野川はボイスレコーダーで米田さんとの会話を全て録音していました」
「おっと……」
昨夜、優衣香のマンション付近で野川を回収した後の話だった。
咽び泣く野川が落ち着いたのは三十分ほど経った頃だったが、野川はカバンから取り出したボイスレコーダーを加藤に見せたという。野川は音声を全て書き起こしていた。そのメモも加藤に見せて、どうすればいいか聞いてきたと。
加藤はその音声データをその場で複製し、野川に実家に帰るよう説得したという。
加藤は既に帰宅していた米田に連絡をして、優衣香の最寄駅の駅名を告げ、『泣きじゃくる野川を保護した。何があったのか言わない。実家に帰りたいと言っている。このまま送ってもいいか』と米田に指示を仰いだ。
野川に電話を代わるか否かを問うが、米田は躊躇していたそうだ。そりゃそうだ。電話の声は漏れる。相澤と加藤に聞かれてしまう。有給取得を許可した米田との電話はそこで終わった。
三人は官舎に行き、加藤と野川は荷物をまとめるために野川の部屋へ行った。相澤はそのボイスレコーダーのマイクロSDカードを『詳細はわからないが野川が泣きながら米田さんに渡して欲しいと言っていた』と、刑事課の課員が揃う中で武村に渡した。その後、仕度の済んだ野川をまた乗せ、実家に送り届けたと。
――すごーい。奈緒ちゃん完璧。さすがー。
「ま、コーヒー飲もうか」
砂糖とミルクを混ぜながら、加藤は『ボイスレコーダーを持たせたのは私です』と言った。
「俺との会話も全て録音してんの?」
「さあ、どうでしょうか。私は米田さんとの会話だけを指示しました。何か不都合なことでもありましたか?」
野川にその素振りはなかった。毎日観察しているが、ボイスレコーダーに限らずその他の機器類を持っているような素振りはなかった。そもそも俺はそんなものは想定内だ。
だが、美容院に野川を連れて行った時のことをふと思い出して、視線を彷徨わせた。それを加藤はコーヒーを飲みながら横目で見ている。
「ヤバいな……俺、野川に出会って三分でパンツ見えるよって言っちゃった」
「ブフーッ!」
加藤が噴き出したコーヒーは見事な放物線を描いた。コーヒーは一番向こうの長机まで飛び散っている。加藤は背中を揺らせてむせている。
「びっくりした。リアルで噴き出した人を初めて見たよ」
――あ……狂犬の顔してる……。
怖くなって加藤から視線を外した。
マズい、怒らせてしまったようだ。とりあえず落ち着かないとなと思ってコーヒーを口に含んだが、耳に流れ込んだ、『まあ、出会って三分でハメなかっただけ評価しますよ』に、俺も盛大にコーヒーを噴き出してしまった。
「……大惨事だ」
「ホントにね! 誰のせいですかね! もう!」
そう言うと加藤はキッチンに布巾を取りに行った。その時、玄関が開く音がして、大きな声が聞こえた。それを聞いた加藤が『おかえり』と言い、足音を大きく立ててリビングに葉梨が入ってきた。
「えっ……俺やります! 加藤さん、俺やりますから!」
テーブルの大惨事を布巾で拭こうとしている加藤に葉梨が声をかけるが、振り返った狂犬の加藤の顔を見て後退りした。
――わかるよ、狂犬の加藤は俺も怖いもんね。
「葉梨、おかえり。コーヒー美味しく頂いてるよ。ありがとうね。ちょっと溢しちゃったけど」
コーヒー皿を持ち、カップを上に上げて口元にエレガントな笑みを浮かべて葉梨を見たが、俺の視界にはテーブルを拭きながら狂犬度を増した目で俺を睨んでいる加藤もいた。
――あ、土下座パターンだこれ。
テーブルを拭き終わった加藤はキッチンへ行き、布巾を洗い始めた。葉梨は加藤を気にかけながらも椅子に座り、またパソコンとにらめっこを始めている。
布巾を洗う水音だけがするこのリビングで、時折葉梨と目が合い、ほほえみ返しをした。
――今、ぼくは熊と心が通じ合ってる。
そこに加藤が戻ってきた。狂犬のままで。
元の席――それは、俺の隣――。
葉梨は俺に憐憫の眼差しを送っている。
隣に座ってコーヒーを飲み始めた加藤に俺は『お昼をご一緒しませんか』と誘ったが、『既に済ませましたので』と言われた。もうアウトだ。
「何をお召し上がりに?」
「ラーメンと炒飯と餃子です」
「まあ、それはいいですね」
ダメだ。何とか加藤の機嫌を取ろうとしたけど完全にアウトだこれ。だが、そこに救世主が現れた。
――救世主、その名は葉梨将由、三十二歳、見た目は熊。
部屋に戻ってきたものの、狂犬加藤を見たせいで存在を忘れていた買った飲み物を思い出し、それをコートのポケットから取り出した救世主のお告げはこうだった。
「下の自販機にいくつか新しいのが入ってたんですよ! 加藤さんには強炭酸です! どうぞ! それと相澤さんにはジャスミンティーを渡して下さい!」
――あー、それ今一番やっちゃダメなやつ……。
俺は三年ぶり六回目の土下座の準備を始めた。