R-15
誘導尋問
優衣香を十四歳の時に好きになって、十五歳の夏にラブレターを渡したと相澤に話したのは九年前だった。
実家に招き、リビングから見える優衣香の家を指差して、隣の幼なじみの優衣香のことが今でも好きだと言った時の相澤の驚いた顔が面白かった。
優衣香が一人暮らしするマンションに訪ねることも、着替えが置いてあることも、体の関係がないこともその時に言った。
それからしばらくして、俺が複数の女と同時進行で関係を持つ時は優衣香に男がいる時だと気づいた相澤から、『なぜ笹倉さんは松永さんと付き合ってくれないのか』と聞かれて、俺が警察官だからだよ、と答えた。
あの事件が起きた時に、優衣香が家に来ている、俺はどこにいるのか、俺に会いたいと優衣香が泣いている、今から来れないかと母から連絡が来ても、俺は仕事で優衣香の元に行けなかった。
――優衣香を守れない俺は優衣香を幸せに出来ない。
あの事件の後、優衣香は誰とも交際していない。『怖い』ただ一言、そう呟いて俺の腕の中で震える優衣香を見て、俺は警察官にならなければよかったと心底後悔した。
でも、事件後に初めて会った時、優衣香は俺を心の支えだと言ってくれた。俺だってそうだ。優衣香が笑顔で迎えてくれるから、俺は俺でいられる。優衣香の前でだけ、俺は俺でいられる。
――だから、今のままでも、いい。
◇
十一月二十七日 午後四時十三分
三日間の有給休暇を終えた野川はこのマンションに戻ることなく、署で事務処理をすることになった。武村は交替でマンションへ来ているが、同じ所轄の反社の本城とペアを組んでいてマンションに戻ることは少ない。
昨夜、野川から電話が来た。実家で休息をしっかり取れたのだろう。元気な声で『相澤さんによろしく伝えて下さい!』と言っていた。だが、俺に詫びる言葉は小さな声で目眩がした。
「松永さん、もしかして起きてます?」
今、仮眠室で俺は窓際のベッドに横になっているが、ドアが開いて、入ってきた相澤が俺に問いかけた。最近俺が寝ていないこと心配しているようだ。
「松永さん……笹倉さんのことでそんなことになってるんですよね?」
――そんなことって何だよ。
そう思って顔を相澤に向けたが、仮眠室のドアを閉めてこちらに近づいて来ていた相澤は、俺の顔を見て立ち止まった。
「そんなことって何?」
相澤が言うには、俺は目が落ち窪んで頬もコケていると。顔色が悪くて髪に艶もなく、唇がガサガサだと。細身スーツのスラックスのウエストにシワが寄ってると。ワイシャツも首周りに隙間が出てると。脇腹のワイシャツにシワが寄ってると。
「そんなん俺らいつもだろ。まともな生活出来ねぇんだし」
「松永さん、メシ食ってます? 寝てます?」
「てかさ、お前、何で優衣香が原因って思ったの?」
その言葉に相澤は目をそらした。
このゴリラの相澤は秘密は守る男だ。俺が叩き込んだ。だが、このゴリラは秘密があることがすぐ顔に出てしまう。
――何か知ってるな。
窓際から体の向きを変えて、床に足をついてベッドに座った。
自分に向き合った俺に、相澤はそこから一歩踏み出したが、髪をかき上げた俺の顔を見るとまた立ち止まった。
俺は立ち上がって相澤の顔を見ながら近づいた。
美容院でストレートパーマをかけた髪は口元まで伸びている。髪が視界を塞ぐが、相澤の顔ははっきりと見える。
立ち止まった場所で体を強張らせている相澤の前に立った。拳ひとつ分も離れていない距離で。
相澤は俺の顔を見ようと顔を上げた。
「知ってることを全て話せよ」
「言えません」
「言えないってことは言えないことがあるってことだけど、意味わかってんの?」
その言葉にハッとした相澤は目をそらした。
薄墨を刷いたような空の色。
薄暗い仮眠室に俺と相澤。
バルコニーに激しく打ち付ける雨粒の音と遠くに雷鳴が聞こえる。
「……言います」
相澤は、俺が水しか飲んでない、食事を取らないと葉梨が心配していたという。他の捜査員も気づいているから上にも報告が上がったが、インテリヤクザの米田は松永は女に振られたんだろと言っていたと。だから笹倉さんと何かあったんだと思ったと言った。
「で?」
「……それだけです」
――んなわけねえだろ。
相澤に体を寄せた。
膝を当てると相澤は後退りしていく。
そのまま仮眠室の扉を背にするまでの一メートル五十センチを相澤の目を見ながら追い詰める。
怯えた相澤の逃げ道は仮眠室の扉が塞ぐ。
肘を相澤の肩に乗せて右手で髪を掴み、左手で額を押して顔を上げた。
相澤の顔を覗き込む。
前髪が相澤の頬に垂れ下がる。
「相澤」
俺と相澤は十五センチの身長差がある。だが、柔道のゴリラと剣道の俺では近接戦に強い自分の方が優位だとわかっているはずなのに、このゴリラは怯えていた。
「話してよ」
激しい雨の音が聞こえ出した薄暗い部屋で、時折通り過ぎる稲光と雷鳴が映し出すのは、怯えた相澤の表情だった。
「さっ……笹倉さんは松永さんが元気にしてると聞いて安心してました。だっ……だから笹倉さんは大丈夫です」
「優衣香と会ったの?」
「はい」
「ああ……そっか。でも何で、優衣香はお前に俺の話をしたのかな。お前から話したの? 初めてだよね、優衣香とお前が俺の話するの」
「…………」
「まあいいや。で、大丈夫って何が大丈夫なの?」
「…………」
「何が大丈夫なの?」
「……松永さんが元気にしてると聞い――」
「相澤、そうじゃなくて。俺はね、相澤が大丈夫だと思い至った原因と経緯を聞いてるの」
相澤は視線を彷徨わせていたが、俺の目を見ると覚悟を決めたのか口を開いた。
「笹倉さんは松永さんだけを想ってます! 松永さん! 安心して下さい! お願いですからメシ食って下さい!」
――こいつは優衣香と間宮の関係を知ってる。
俺は全身の血が沸き立つのがわかった。
相澤の肩に乗せた腕を離して、その肩を軽く押した。上半身は揺れたが、相澤はすぐに俺の顔を見た。その目は真っすぐ俺を見据えている。
――こいつはこれ以上のことは話さないと決めたな。
俺が叩き込んだ秘密保持を守る相澤を頼もしく思うと同時に、憎たらしくも思った。そう思うと口元が緩む。
俺は相澤に背を向けてベッドへ戻った。
天井を見上げると、扉の前で立ち尽くす相澤が視界に入るが相澤は動かない。
相澤は下を向いている。
また雷鳴がした。
俺は天井を見上げながら、頭の中で考えていたことを声にした。
「俺さ、この前初めて、優衣香をベッドで抱いたんだよ。ああ、いや、抱きしめたんだよ。それ以上のことはしてない。けど、初めてキスしたんだよ」
相澤は何も言わない。ただ、俺の話を聞いている。だから俺は続けた。
「キスしたら止まらなくなって、何度もして、優衣香は俺の女だ、やっと俺の女になったんだって、そう思った。そう思ってたんだよ」
「だから! 笹倉さんも松永さんを好きですよ!」
「ああ」
「だったら――」
「でも間宮と一緒にいるのを――」
「それは――」
「間宮ならいいかって――」
「だから違う――」
「ふふっ……やっぱりお前、優衣香と間宮のことを知ってんだな。ふふっ」
雨粒の音が激しくなる。
その音は、俺の鼓膜を、俺の心を震わせる。
――相澤にカマかけたつもりだったけど、違った。俺は思い違いしてた。
俺は優衣香が他の男と一緒にいたことが許せなかったんじゃない。
俺は優衣香に捨てられることが怖かったんだ。
俺は優衣香に忘れられることが怖かったんだ。
――あの時の恐怖と同じだ。
「でも裕くんありがとう」
そう口に出たような気がしたが、言っていないかも知れないなと思いながら、俺は眠りに落ちた。
実家に招き、リビングから見える優衣香の家を指差して、隣の幼なじみの優衣香のことが今でも好きだと言った時の相澤の驚いた顔が面白かった。
優衣香が一人暮らしするマンションに訪ねることも、着替えが置いてあることも、体の関係がないこともその時に言った。
それからしばらくして、俺が複数の女と同時進行で関係を持つ時は優衣香に男がいる時だと気づいた相澤から、『なぜ笹倉さんは松永さんと付き合ってくれないのか』と聞かれて、俺が警察官だからだよ、と答えた。
あの事件が起きた時に、優衣香が家に来ている、俺はどこにいるのか、俺に会いたいと優衣香が泣いている、今から来れないかと母から連絡が来ても、俺は仕事で優衣香の元に行けなかった。
――優衣香を守れない俺は優衣香を幸せに出来ない。
あの事件の後、優衣香は誰とも交際していない。『怖い』ただ一言、そう呟いて俺の腕の中で震える優衣香を見て、俺は警察官にならなければよかったと心底後悔した。
でも、事件後に初めて会った時、優衣香は俺を心の支えだと言ってくれた。俺だってそうだ。優衣香が笑顔で迎えてくれるから、俺は俺でいられる。優衣香の前でだけ、俺は俺でいられる。
――だから、今のままでも、いい。
◇
十一月二十七日 午後四時十三分
三日間の有給休暇を終えた野川はこのマンションに戻ることなく、署で事務処理をすることになった。武村は交替でマンションへ来ているが、同じ所轄の反社の本城とペアを組んでいてマンションに戻ることは少ない。
昨夜、野川から電話が来た。実家で休息をしっかり取れたのだろう。元気な声で『相澤さんによろしく伝えて下さい!』と言っていた。だが、俺に詫びる言葉は小さな声で目眩がした。
「松永さん、もしかして起きてます?」
今、仮眠室で俺は窓際のベッドに横になっているが、ドアが開いて、入ってきた相澤が俺に問いかけた。最近俺が寝ていないこと心配しているようだ。
「松永さん……笹倉さんのことでそんなことになってるんですよね?」
――そんなことって何だよ。
そう思って顔を相澤に向けたが、仮眠室のドアを閉めてこちらに近づいて来ていた相澤は、俺の顔を見て立ち止まった。
「そんなことって何?」
相澤が言うには、俺は目が落ち窪んで頬もコケていると。顔色が悪くて髪に艶もなく、唇がガサガサだと。細身スーツのスラックスのウエストにシワが寄ってると。ワイシャツも首周りに隙間が出てると。脇腹のワイシャツにシワが寄ってると。
「そんなん俺らいつもだろ。まともな生活出来ねぇんだし」
「松永さん、メシ食ってます? 寝てます?」
「てかさ、お前、何で優衣香が原因って思ったの?」
その言葉に相澤は目をそらした。
このゴリラの相澤は秘密は守る男だ。俺が叩き込んだ。だが、このゴリラは秘密があることがすぐ顔に出てしまう。
――何か知ってるな。
窓際から体の向きを変えて、床に足をついてベッドに座った。
自分に向き合った俺に、相澤はそこから一歩踏み出したが、髪をかき上げた俺の顔を見るとまた立ち止まった。
俺は立ち上がって相澤の顔を見ながら近づいた。
美容院でストレートパーマをかけた髪は口元まで伸びている。髪が視界を塞ぐが、相澤の顔ははっきりと見える。
立ち止まった場所で体を強張らせている相澤の前に立った。拳ひとつ分も離れていない距離で。
相澤は俺の顔を見ようと顔を上げた。
「知ってることを全て話せよ」
「言えません」
「言えないってことは言えないことがあるってことだけど、意味わかってんの?」
その言葉にハッとした相澤は目をそらした。
薄墨を刷いたような空の色。
薄暗い仮眠室に俺と相澤。
バルコニーに激しく打ち付ける雨粒の音と遠くに雷鳴が聞こえる。
「……言います」
相澤は、俺が水しか飲んでない、食事を取らないと葉梨が心配していたという。他の捜査員も気づいているから上にも報告が上がったが、インテリヤクザの米田は松永は女に振られたんだろと言っていたと。だから笹倉さんと何かあったんだと思ったと言った。
「で?」
「……それだけです」
――んなわけねえだろ。
相澤に体を寄せた。
膝を当てると相澤は後退りしていく。
そのまま仮眠室の扉を背にするまでの一メートル五十センチを相澤の目を見ながら追い詰める。
怯えた相澤の逃げ道は仮眠室の扉が塞ぐ。
肘を相澤の肩に乗せて右手で髪を掴み、左手で額を押して顔を上げた。
相澤の顔を覗き込む。
前髪が相澤の頬に垂れ下がる。
「相澤」
俺と相澤は十五センチの身長差がある。だが、柔道のゴリラと剣道の俺では近接戦に強い自分の方が優位だとわかっているはずなのに、このゴリラは怯えていた。
「話してよ」
激しい雨の音が聞こえ出した薄暗い部屋で、時折通り過ぎる稲光と雷鳴が映し出すのは、怯えた相澤の表情だった。
「さっ……笹倉さんは松永さんが元気にしてると聞いて安心してました。だっ……だから笹倉さんは大丈夫です」
「優衣香と会ったの?」
「はい」
「ああ……そっか。でも何で、優衣香はお前に俺の話をしたのかな。お前から話したの? 初めてだよね、優衣香とお前が俺の話するの」
「…………」
「まあいいや。で、大丈夫って何が大丈夫なの?」
「…………」
「何が大丈夫なの?」
「……松永さんが元気にしてると聞い――」
「相澤、そうじゃなくて。俺はね、相澤が大丈夫だと思い至った原因と経緯を聞いてるの」
相澤は視線を彷徨わせていたが、俺の目を見ると覚悟を決めたのか口を開いた。
「笹倉さんは松永さんだけを想ってます! 松永さん! 安心して下さい! お願いですからメシ食って下さい!」
――こいつは優衣香と間宮の関係を知ってる。
俺は全身の血が沸き立つのがわかった。
相澤の肩に乗せた腕を離して、その肩を軽く押した。上半身は揺れたが、相澤はすぐに俺の顔を見た。その目は真っすぐ俺を見据えている。
――こいつはこれ以上のことは話さないと決めたな。
俺が叩き込んだ秘密保持を守る相澤を頼もしく思うと同時に、憎たらしくも思った。そう思うと口元が緩む。
俺は相澤に背を向けてベッドへ戻った。
天井を見上げると、扉の前で立ち尽くす相澤が視界に入るが相澤は動かない。
相澤は下を向いている。
また雷鳴がした。
俺は天井を見上げながら、頭の中で考えていたことを声にした。
「俺さ、この前初めて、優衣香をベッドで抱いたんだよ。ああ、いや、抱きしめたんだよ。それ以上のことはしてない。けど、初めてキスしたんだよ」
相澤は何も言わない。ただ、俺の話を聞いている。だから俺は続けた。
「キスしたら止まらなくなって、何度もして、優衣香は俺の女だ、やっと俺の女になったんだって、そう思った。そう思ってたんだよ」
「だから! 笹倉さんも松永さんを好きですよ!」
「ああ」
「だったら――」
「でも間宮と一緒にいるのを――」
「それは――」
「間宮ならいいかって――」
「だから違う――」
「ふふっ……やっぱりお前、優衣香と間宮のことを知ってんだな。ふふっ」
雨粒の音が激しくなる。
その音は、俺の鼓膜を、俺の心を震わせる。
――相澤にカマかけたつもりだったけど、違った。俺は思い違いしてた。
俺は優衣香が他の男と一緒にいたことが許せなかったんじゃない。
俺は優衣香に捨てられることが怖かったんだ。
俺は優衣香に忘れられることが怖かったんだ。
――あの時の恐怖と同じだ。
「でも裕くんありがとう」
そう口に出たような気がしたが、言っていないかも知れないなと思いながら、俺は眠りに落ちた。