R-15
幕間 始めたら終わりがある
嫌な予感はしていた。
加藤から、刑事課の間宮さんが女とラブホに行く所を野川が見たらしいと言われた時、相手は笹倉さんじゃないか、松永さんはそれを見て冷静でいられたのか不安になった。
でも、笹倉さんの自宅に伺った時に聞いた話と、間宮さんから聞いた話に矛盾は無かった。ラブホにも行ってない。だから二人の間に何も無かったのだから、もう俺は関わらないでいいと思っていた。
このところ松永さんに会うことは無くて、今日会ったら、松永さんが痩せていた。生気の無い目をしていた。長めの髪をちゃんと手入れしてなくて髪がパサパサだった。葉梨は松永さんが食事を取らないと言っていた。
野川を笹倉さんのマンション付近で回収した後、松永さんは笹倉さんに会いに行ったと思ってたけど、行ってなかった。その足で署に行って武村に説教していたと間宮さんが教えてくれた。
だからあの日以来、笹倉さんに会いに行ってないんだ。
笹倉さんに恋人が出来て自暴自棄になっても、こんなことになったことなんて今まで一度も無かったのに。
やっぱり、笹倉さんのことでこんなに思い詰めてるんだと思った。
俺が言えばよかったんだ。
俺があの日に松永さんに言えばよかったんだ。
そうすれば松永さんは笹倉さんを行かせなかった。
そうすれば松永さんはこんなことにならなかった。
◇
十一月二十七日 午後五時二十九分
松永さんが寝息を立てて眠る姿を俺はあれからずっと見ている。眠いけど、今日は松永さんをずっと見ていたい気持ちになった。
松永さんはあのまま寝てしまった。
雨は止んで日が落ちて、街の明かりがカーテンから漏れて、松永さんを照らしている。
――ちゃんと寝てる。
髪を掴まれた時の松永さんの目はすごく怖かった。
あの目を見たら足が竦んでしまった。だってあの日の松永さんと同じだったから。
あの目で凄まれたら、全てを話さないと殺されると思った。
でも、俺は話さなかった。
でも、松永さんは勘づいた。
でも、裕くんありがとうって言った。
――これでよかったんだ。
◇
笹倉さんのお母さんが殺されたこと、家が放火されたこと、交際相手がその場で自殺したことを、半年近く経ってから知った松永さんが刑事課の俺の所に来た日の松永さんのあの目はもう二度と見たくないと思った。思ってたけど、また見てしまった。
生存を脅かされる極限に置かれていた人間の目。
半年以上も単独行動で情報を遮断されていた松永さんを、署の誰もが松永さんだと気づかなかった。それくらい、松永さんは変わり果てていた。
松永さんを暴漢と誤認した署員が制止しようとしたけど、次々と倒されて廊下に転がっていた。壁や床には血液は飛び、追い縋る署員の手は空を切り、怒号と唸り声と悲鳴だけの廊下だった。
悪夢を見ているようだった。
俺を見つけた松永さんは凶暴な目をしていて、今まで見たことのない人間の目で俺だけを見ていた。
俺は殺されると思った。
松永さんは俺の前に来て、俺の腕をものすごい力で掴んだ。それから何かを言いたかったのだろうけど、声が出なかった。掠れた空気の音だけが聞こえた。
やっとそこで俺は松永さんだと気づいたが、俺もその時にはもう何も考えられなくなっていて、なんとか絞り出した言葉は『事実です』だった。
その瞬間、松永さんが強く掴んだ俺の腕は開放されて、松永さんはそのまま膝から崩れ落ちた。
松永さんは力の入らない腕で俺の胸を叩き、嗚咽を漏らしながら笹倉さんの名前を呼んでいた。
『優衣ちゃん……優衣ちゃん……』
俺の腕の中で、声にならない声で、笹倉さんの名前を呼び続けていた。
松永さんは、大切な人が全てを失って暗闇の中にいることすら知らなかった。松永さんの心の中はわからないが、自分の存在が否定された気持ちになったのだと思う。友達ですらない、と。笹倉さんにとって自分はいなくてもいい人間だと思ったのだと思う。
松永さんは笹倉さんを二十年以上想い続けて、この前やっと手に入れた。でも手に入れたと同時に手にするものがあるということを松永さんは知らなかった。
多分、それを知ったから怖かったんだろうな。だって松永さんは恋愛経験ゼロだから。笹倉さんは恋人じゃなくて幼馴染みで友達だから。
笹倉さんに恋人が出来ても別れるまで待ってるだけ。笹倉さんがいつまでも結婚しないから、松永さんは失恋を経験しようにも出来なかった。
始めたら終わりがあることを、松永さんは知らなかった。
松永さん。恋い焦がれる笹倉さんの気持ちが自分から離れてしまうのでは、と思い悩むのは辛かったでしょう? 怖かったでしょう? でも二回目じゃないですか? あの時と同じように自分でどうにかするしかないですよ。
でも松永さん、笹倉さんはちゃんと間宮さんの交際の申し出を断ってましたよ。
『心に決めた男性がいるんです』
そう間宮さんに伝えたそうですよ。
あの日、間宮さんと笹倉さんが一緒にいた理由は、間宮さんがどうしてもとお願いしたからでしたよ。
あんな熊とゴリラの間の子みたいな間宮さんの誘いを断れる女性は狂犬の加藤ぐらいしかいませんよ。
ゴリラ単体の俺ですら面識があるのに今でも笹倉さんは怯えますからね。
フラれた間宮さんは落ち込んでましたよ。
笹倉さんは間宮さんの好みのタイプど真ん中でしたからね。
でも間宮さんは俺と松永さんの三人で合コンしようって言ってきましたよ。
あの熊とゴリラの間の子は挫けませんね。
どうしますか、松永さん。
笹倉さんにヤキモチを焼かせるために合コンに行ったらダメですからね。
◇
ベッドに置いたスマートフォンが震えた。
画面を見ると加藤からのメッセージを受信した通知だった。
ベッドに座り、加藤のメッセージを開くと、『服はスーツでいいの?』とある。
あの日以降、加藤はスカートを履く日が多くなった。寒いのに我慢している気がする。加藤がズボンでも俺は何とも思わないのに。
『スーツにしよう。ズボンね。暖かくして』そう送ると加藤からすぐに返信があった。
『ありがと。了解。なんで起きてんの? 寝たら?』
加藤はリビングに一人でいる。松永さんは寝ているからリビングに行って話せばいいのだけど、あの話をしようとすると、加藤は手を出してくる。
『話がある』
『なに? 寝な』
『この前の話』
『やめて。寝な』
『ならいつ話せばいいの?』
『その話したら殴る。早く寝な』
――始めたら、終わりがある。
奈緒ちゃんはわかっているのかな。俺と関係を持って、終わったら元には戻れないと。
それでもいいと、奈緒ちゃんは思っているのかな。
――奈緒ちゃん、俺は嫌なんだよ。
奈緒ちゃんは、俺の中でずっと同期の奈緒ちゃんでいて欲しいんだよ。
美人でカッコよくて足が速くていつも俺をぶっちぎっていく後ろ姿を見ていたいんだよ。
俺は、奈緒ちゃんを失くしたくないんだよ。
――始めたら、終わりがある。
――だから、今のままで、いい。
加藤から、刑事課の間宮さんが女とラブホに行く所を野川が見たらしいと言われた時、相手は笹倉さんじゃないか、松永さんはそれを見て冷静でいられたのか不安になった。
でも、笹倉さんの自宅に伺った時に聞いた話と、間宮さんから聞いた話に矛盾は無かった。ラブホにも行ってない。だから二人の間に何も無かったのだから、もう俺は関わらないでいいと思っていた。
このところ松永さんに会うことは無くて、今日会ったら、松永さんが痩せていた。生気の無い目をしていた。長めの髪をちゃんと手入れしてなくて髪がパサパサだった。葉梨は松永さんが食事を取らないと言っていた。
野川を笹倉さんのマンション付近で回収した後、松永さんは笹倉さんに会いに行ったと思ってたけど、行ってなかった。その足で署に行って武村に説教していたと間宮さんが教えてくれた。
だからあの日以来、笹倉さんに会いに行ってないんだ。
笹倉さんに恋人が出来て自暴自棄になっても、こんなことになったことなんて今まで一度も無かったのに。
やっぱり、笹倉さんのことでこんなに思い詰めてるんだと思った。
俺が言えばよかったんだ。
俺があの日に松永さんに言えばよかったんだ。
そうすれば松永さんは笹倉さんを行かせなかった。
そうすれば松永さんはこんなことにならなかった。
◇
十一月二十七日 午後五時二十九分
松永さんが寝息を立てて眠る姿を俺はあれからずっと見ている。眠いけど、今日は松永さんをずっと見ていたい気持ちになった。
松永さんはあのまま寝てしまった。
雨は止んで日が落ちて、街の明かりがカーテンから漏れて、松永さんを照らしている。
――ちゃんと寝てる。
髪を掴まれた時の松永さんの目はすごく怖かった。
あの目を見たら足が竦んでしまった。だってあの日の松永さんと同じだったから。
あの目で凄まれたら、全てを話さないと殺されると思った。
でも、俺は話さなかった。
でも、松永さんは勘づいた。
でも、裕くんありがとうって言った。
――これでよかったんだ。
◇
笹倉さんのお母さんが殺されたこと、家が放火されたこと、交際相手がその場で自殺したことを、半年近く経ってから知った松永さんが刑事課の俺の所に来た日の松永さんのあの目はもう二度と見たくないと思った。思ってたけど、また見てしまった。
生存を脅かされる極限に置かれていた人間の目。
半年以上も単独行動で情報を遮断されていた松永さんを、署の誰もが松永さんだと気づかなかった。それくらい、松永さんは変わり果てていた。
松永さんを暴漢と誤認した署員が制止しようとしたけど、次々と倒されて廊下に転がっていた。壁や床には血液は飛び、追い縋る署員の手は空を切り、怒号と唸り声と悲鳴だけの廊下だった。
悪夢を見ているようだった。
俺を見つけた松永さんは凶暴な目をしていて、今まで見たことのない人間の目で俺だけを見ていた。
俺は殺されると思った。
松永さんは俺の前に来て、俺の腕をものすごい力で掴んだ。それから何かを言いたかったのだろうけど、声が出なかった。掠れた空気の音だけが聞こえた。
やっとそこで俺は松永さんだと気づいたが、俺もその時にはもう何も考えられなくなっていて、なんとか絞り出した言葉は『事実です』だった。
その瞬間、松永さんが強く掴んだ俺の腕は開放されて、松永さんはそのまま膝から崩れ落ちた。
松永さんは力の入らない腕で俺の胸を叩き、嗚咽を漏らしながら笹倉さんの名前を呼んでいた。
『優衣ちゃん……優衣ちゃん……』
俺の腕の中で、声にならない声で、笹倉さんの名前を呼び続けていた。
松永さんは、大切な人が全てを失って暗闇の中にいることすら知らなかった。松永さんの心の中はわからないが、自分の存在が否定された気持ちになったのだと思う。友達ですらない、と。笹倉さんにとって自分はいなくてもいい人間だと思ったのだと思う。
松永さんは笹倉さんを二十年以上想い続けて、この前やっと手に入れた。でも手に入れたと同時に手にするものがあるということを松永さんは知らなかった。
多分、それを知ったから怖かったんだろうな。だって松永さんは恋愛経験ゼロだから。笹倉さんは恋人じゃなくて幼馴染みで友達だから。
笹倉さんに恋人が出来ても別れるまで待ってるだけ。笹倉さんがいつまでも結婚しないから、松永さんは失恋を経験しようにも出来なかった。
始めたら終わりがあることを、松永さんは知らなかった。
松永さん。恋い焦がれる笹倉さんの気持ちが自分から離れてしまうのでは、と思い悩むのは辛かったでしょう? 怖かったでしょう? でも二回目じゃないですか? あの時と同じように自分でどうにかするしかないですよ。
でも松永さん、笹倉さんはちゃんと間宮さんの交際の申し出を断ってましたよ。
『心に決めた男性がいるんです』
そう間宮さんに伝えたそうですよ。
あの日、間宮さんと笹倉さんが一緒にいた理由は、間宮さんがどうしてもとお願いしたからでしたよ。
あんな熊とゴリラの間の子みたいな間宮さんの誘いを断れる女性は狂犬の加藤ぐらいしかいませんよ。
ゴリラ単体の俺ですら面識があるのに今でも笹倉さんは怯えますからね。
フラれた間宮さんは落ち込んでましたよ。
笹倉さんは間宮さんの好みのタイプど真ん中でしたからね。
でも間宮さんは俺と松永さんの三人で合コンしようって言ってきましたよ。
あの熊とゴリラの間の子は挫けませんね。
どうしますか、松永さん。
笹倉さんにヤキモチを焼かせるために合コンに行ったらダメですからね。
◇
ベッドに置いたスマートフォンが震えた。
画面を見ると加藤からのメッセージを受信した通知だった。
ベッドに座り、加藤のメッセージを開くと、『服はスーツでいいの?』とある。
あの日以降、加藤はスカートを履く日が多くなった。寒いのに我慢している気がする。加藤がズボンでも俺は何とも思わないのに。
『スーツにしよう。ズボンね。暖かくして』そう送ると加藤からすぐに返信があった。
『ありがと。了解。なんで起きてんの? 寝たら?』
加藤はリビングに一人でいる。松永さんは寝ているからリビングに行って話せばいいのだけど、あの話をしようとすると、加藤は手を出してくる。
『話がある』
『なに? 寝な』
『この前の話』
『やめて。寝な』
『ならいつ話せばいいの?』
『その話したら殴る。早く寝な』
――始めたら、終わりがある。
奈緒ちゃんはわかっているのかな。俺と関係を持って、終わったら元には戻れないと。
それでもいいと、奈緒ちゃんは思っているのかな。
――奈緒ちゃん、俺は嫌なんだよ。
奈緒ちゃんは、俺の中でずっと同期の奈緒ちゃんでいて欲しいんだよ。
美人でカッコよくて足が速くていつも俺をぶっちぎっていく後ろ姿を見ていたいんだよ。
俺は、奈緒ちゃんを失くしたくないんだよ。
――始めたら、終わりがある。
――だから、今のままで、いい。