R-15
幕間 ここから始まる二人(前編)
この店ではハンドサインと目配せ、私の十指のどこに指輪をしているか、それに注文するカクテルの種類で意図が伝わるようにしてある。
松永さんにここへ初めて連れて来てもらったのは六年前だった。この四十を少し越えた位のバーテンダーの望月さんと松永さんの関係は知らない。だがおそらく、彼は情報提供者だ。それも関係が長い。
私が払う会計は通常料金だが、彼が受け取るべき手間賃は、松永さんが私の分も支払っているのだと思う。
私がジャックローズを注文する時のサインは、連れの男の視界から見えない所へ行って欲しいという意味と、もう一つ、他の意味がある。
◇
「ジャックローズをお願いします」
葉梨はペースが早い。私は今四杯目だが、彼は六杯目だ。最初にモスコミュールを注文し、その後はビールだった。サーバーのゴールドの注ぎ口から注がれるビールが楽しかったのか、嬉しそうに眺めていた。
葉梨の脚に置かれたままの私の手は、葉梨の指に翻弄されている。優しく執拗に、緩急を織り交ぜた葉梨の指先は、私の体をも熱くさせている。
手を引っ込めたい気もするが、このまま葉梨に委ねたままでもいいとも思う。
バーテンダーが消えたら私は葉梨の耳元で囁くのだが、どうしようか。
◇
「加藤さん、本当に……誕生日に……デートしてくれるんですか?」
「嫌なの?」
「違いますっ! けど……」
「なに?」
「すみません、嬉しくて……すごい嬉しいです」
耳を赤くして恥ずかしそうにそう言った葉梨が可愛いなと思った。『私も嬉しい』その言葉を笑顔で言えるなら、可愛く素直に言える女なら、今頃私は相澤と結婚していて、警察を辞めていて、ちびゴリラの母になっていたと思う。
この前、『小さくて可愛い野川』に相澤を取られると思って、相澤に言ってしまった。なぜか言ってしまった。
『裕くんのことがずっと好きだった』
そう。好きだった。私は相澤が好きだった。
警察学校の廊下で貧血で倒れた時、近くにいた相澤が私をお姫様抱っこをして医務室に運んでくれた。
「奈緒ちゃん! 奈緒ちゃん! 大丈夫だよ!」
初めて会った時から、なぜか嫌な気持ちにならなかった相澤にお姫様抱っこされて私は恋に落ちた。
まるで少女漫画のようなシチュエーションだ。オノマトペは胸が跳ねる『トクン』だろうか。しかし実際はそんなものはなく、ただ私は相澤に恋をするのが当たり前だと思っただけだった。
ゴリラがイケメンに見えたわけではない。ゴリラはゴリラだった。ゴリラが私をお姫様抱っこして一生懸命走っていた。自分で走った方が速いだろうなと、薄れゆく意識の中で私の名を呼ぶゴリラを見ていた。
いつか私の恋心を相澤に伝えようと思っていたが、勇気が出ずにいつまでも言えなかった。
ある時、相澤が『いろいろあって美女が野獣に恋するアニメ』のDVDを彼女の家で観たと聞いた時、私は今がチャンスだと思った。勇気を出して、『美女は野獣が元イケメン王子だから恋したんじゃないよ、野獣に恋をしたんだよ』と言った。
私の中では、勇気を出してかなり踏み込んだ相澤へのラブコールだった。だが相澤は気づいてくれなかった。
七年前、松永さんに私が相澤を好きだとバレた時にその一件を話したのだが、松永さんから『バカなの?』と呆れられた。
この片思いは十六年も続いている。
相澤が結婚するまで片思いしていればいいと思っていた。相澤が結婚したら諦めようと思っていた。
私はあまり男が好きではない。
それは性的指向の話ではなく、交際に至るプロセスや交際が面倒だと思っていて、私は相澤が恋人なら、夫ならいいなとだけ思って、片思いを続けていた。
そんな中、同期の岡島直矢から官舎で同室の葉梨と相澤と四人で飲もうと誘われた。私は相澤がいるならいいといつも通り伝えて承諾した。
葉梨は背が高くて体格のいい熊だった。性格も温厚で、見た目と中身が合わないのはゴリラの相澤と同じだなとその時は思った。
その後は葉梨と個人的に連絡を取るようになり、月に一度は必ず会って仕事を教えていった。
葉梨は私を女として見なかった。私には都合がよかった。
ある日、葉梨が変わったと思う日が訪れた。
次に会う日を電話で話しながら決めていた時、葉梨が指定した日は私の誕生日だったから、その旨を葉梨に言うと、『加藤さんのお誕生日当日の夜に会う男が俺でいいんですか?』と答えた。いつもの元気のよい声ではなく、落ち着いた男性の声だった。私は何も考えずに承諾した。
約束の日の数日前、葉梨は電話をしてきた。葉梨はホテルのレストランで食事をしようと。せっかくの誕生日なのだから、と。
当日、私は指定されたホテルのランクに合うワンピースを着て、ヘアメイクを整えて待ち合わせ場所に行くと、そこには普段のスーツよりも上質なスーツを着た葉梨がいた。髪も切ったのであろう、小綺麗な熊がいた。
そのホテルは高級ホテルだったが、葉梨は場慣れしていた。なぜなのか。私はただ、それが気になった。
ホテルでは、私の誕生日とはいえ会う理由は仕事を教えるためなのだから、フレンチを食べながら仕事の話をした。ただ、熊がフレンチを食べている姿は面白いなと思って、いつもより笑顔だったと思う。葉梨はそんな私を見て、笑顔になっていた。
あの日は、後輩が誕生日祝いをしてくれたことが本当に嬉しくて、楽しく過ごしていた。だが、食後にバーラウンジで窓際のカウンターから夜景を見ながらカクテルを飲んでいた時、いつもより酔っていた葉梨が、私に体を向けて目を見ながらこう言ったのだ。
『俺の誕生日も一緒に過ごしてくれますか?』
その時の葉梨の目は男だった。
まさか葉梨からそういう目で見られるとは思っていなかったから、私は露骨に不機嫌になったのか、私を見た葉梨は焦ってすぐに謝罪をした。
ホテルを後にして、さすがに私の誕生日祝いであろうとも料金が高額であるからお金を払うと葉梨に伝えたのだが、葉梨は受け取らなかった。『彼女と別れて金の使い道がないんです』と言いながら。
私はその時、女と別れたから葉梨は男を見せたのかと納得した。
『葉梨はいい男だ』
私は思ったままを口にしていた。
葉梨は『えっ』と言ったまま固まっていたから、言葉足らずで申し訳ないと詫びて、誕生日を祝ってくれたことについてではなく、葉梨を一年以上見て来た上で、私は葉梨がいい男だと思ったと伝えた。その時の葉梨は耳を赤くしていて可愛いなと思った。
その後はいつも通りに月に一度は会い、電話やメールで連絡を取っていた。会うとたまに男を見せる時もあったが、私は気にならなくなっていたし、それよりも男を見せない時の方が気になった。
私は葉梨のことを気になり出したのだろう。
相澤にお姫様抱っこされた時とは違う感情を、私は葉梨に抱いたようだった。
◇
バーテンダーはキッチンへ行った。約束通り一分は戻って来ない。私は彼を目で追った後、葉梨の唇を見てから目を見た。
「ねえ、葉梨」
私は口を開けて、小声で言った。もちろん葉梨には聞こえないから、葉梨は少しだけ首を傾げ、耳を私に寄せた。
「私を抱いて」
葉梨は明らかに動揺している。そして横目で私を見た。私はそれを見て口元を緩め、葉梨の耳朶にそっとキスをして、カウンター下で絡めたままの指先に力を込めた。ずっと葉梨に翻弄されている私の意志表示だ。
◇
私がラストにジャックローズを頼む時の連れの男は本命だ、というサインはずいぶん前にバーテンダーの彼とふざけて決めたことだった。
私が化粧室にいる間、彼は葉梨に何か言うだろう。
洗面台の鏡に映る自分の唇に目を落として、口紅を塗り直した。そしてグロスを重ねようした時、私は手を止めた。
――グロスはやめよう。
開けかけたリップグロスを閉じて、ポーチにしまった。
松永さんにここへ初めて連れて来てもらったのは六年前だった。この四十を少し越えた位のバーテンダーの望月さんと松永さんの関係は知らない。だがおそらく、彼は情報提供者だ。それも関係が長い。
私が払う会計は通常料金だが、彼が受け取るべき手間賃は、松永さんが私の分も支払っているのだと思う。
私がジャックローズを注文する時のサインは、連れの男の視界から見えない所へ行って欲しいという意味と、もう一つ、他の意味がある。
◇
「ジャックローズをお願いします」
葉梨はペースが早い。私は今四杯目だが、彼は六杯目だ。最初にモスコミュールを注文し、その後はビールだった。サーバーのゴールドの注ぎ口から注がれるビールが楽しかったのか、嬉しそうに眺めていた。
葉梨の脚に置かれたままの私の手は、葉梨の指に翻弄されている。優しく執拗に、緩急を織り交ぜた葉梨の指先は、私の体をも熱くさせている。
手を引っ込めたい気もするが、このまま葉梨に委ねたままでもいいとも思う。
バーテンダーが消えたら私は葉梨の耳元で囁くのだが、どうしようか。
◇
「加藤さん、本当に……誕生日に……デートしてくれるんですか?」
「嫌なの?」
「違いますっ! けど……」
「なに?」
「すみません、嬉しくて……すごい嬉しいです」
耳を赤くして恥ずかしそうにそう言った葉梨が可愛いなと思った。『私も嬉しい』その言葉を笑顔で言えるなら、可愛く素直に言える女なら、今頃私は相澤と結婚していて、警察を辞めていて、ちびゴリラの母になっていたと思う。
この前、『小さくて可愛い野川』に相澤を取られると思って、相澤に言ってしまった。なぜか言ってしまった。
『裕くんのことがずっと好きだった』
そう。好きだった。私は相澤が好きだった。
警察学校の廊下で貧血で倒れた時、近くにいた相澤が私をお姫様抱っこをして医務室に運んでくれた。
「奈緒ちゃん! 奈緒ちゃん! 大丈夫だよ!」
初めて会った時から、なぜか嫌な気持ちにならなかった相澤にお姫様抱っこされて私は恋に落ちた。
まるで少女漫画のようなシチュエーションだ。オノマトペは胸が跳ねる『トクン』だろうか。しかし実際はそんなものはなく、ただ私は相澤に恋をするのが当たり前だと思っただけだった。
ゴリラがイケメンに見えたわけではない。ゴリラはゴリラだった。ゴリラが私をお姫様抱っこして一生懸命走っていた。自分で走った方が速いだろうなと、薄れゆく意識の中で私の名を呼ぶゴリラを見ていた。
いつか私の恋心を相澤に伝えようと思っていたが、勇気が出ずにいつまでも言えなかった。
ある時、相澤が『いろいろあって美女が野獣に恋するアニメ』のDVDを彼女の家で観たと聞いた時、私は今がチャンスだと思った。勇気を出して、『美女は野獣が元イケメン王子だから恋したんじゃないよ、野獣に恋をしたんだよ』と言った。
私の中では、勇気を出してかなり踏み込んだ相澤へのラブコールだった。だが相澤は気づいてくれなかった。
七年前、松永さんに私が相澤を好きだとバレた時にその一件を話したのだが、松永さんから『バカなの?』と呆れられた。
この片思いは十六年も続いている。
相澤が結婚するまで片思いしていればいいと思っていた。相澤が結婚したら諦めようと思っていた。
私はあまり男が好きではない。
それは性的指向の話ではなく、交際に至るプロセスや交際が面倒だと思っていて、私は相澤が恋人なら、夫ならいいなとだけ思って、片思いを続けていた。
そんな中、同期の岡島直矢から官舎で同室の葉梨と相澤と四人で飲もうと誘われた。私は相澤がいるならいいといつも通り伝えて承諾した。
葉梨は背が高くて体格のいい熊だった。性格も温厚で、見た目と中身が合わないのはゴリラの相澤と同じだなとその時は思った。
その後は葉梨と個人的に連絡を取るようになり、月に一度は必ず会って仕事を教えていった。
葉梨は私を女として見なかった。私には都合がよかった。
ある日、葉梨が変わったと思う日が訪れた。
次に会う日を電話で話しながら決めていた時、葉梨が指定した日は私の誕生日だったから、その旨を葉梨に言うと、『加藤さんのお誕生日当日の夜に会う男が俺でいいんですか?』と答えた。いつもの元気のよい声ではなく、落ち着いた男性の声だった。私は何も考えずに承諾した。
約束の日の数日前、葉梨は電話をしてきた。葉梨はホテルのレストランで食事をしようと。せっかくの誕生日なのだから、と。
当日、私は指定されたホテルのランクに合うワンピースを着て、ヘアメイクを整えて待ち合わせ場所に行くと、そこには普段のスーツよりも上質なスーツを着た葉梨がいた。髪も切ったのであろう、小綺麗な熊がいた。
そのホテルは高級ホテルだったが、葉梨は場慣れしていた。なぜなのか。私はただ、それが気になった。
ホテルでは、私の誕生日とはいえ会う理由は仕事を教えるためなのだから、フレンチを食べながら仕事の話をした。ただ、熊がフレンチを食べている姿は面白いなと思って、いつもより笑顔だったと思う。葉梨はそんな私を見て、笑顔になっていた。
あの日は、後輩が誕生日祝いをしてくれたことが本当に嬉しくて、楽しく過ごしていた。だが、食後にバーラウンジで窓際のカウンターから夜景を見ながらカクテルを飲んでいた時、いつもより酔っていた葉梨が、私に体を向けて目を見ながらこう言ったのだ。
『俺の誕生日も一緒に過ごしてくれますか?』
その時の葉梨の目は男だった。
まさか葉梨からそういう目で見られるとは思っていなかったから、私は露骨に不機嫌になったのか、私を見た葉梨は焦ってすぐに謝罪をした。
ホテルを後にして、さすがに私の誕生日祝いであろうとも料金が高額であるからお金を払うと葉梨に伝えたのだが、葉梨は受け取らなかった。『彼女と別れて金の使い道がないんです』と言いながら。
私はその時、女と別れたから葉梨は男を見せたのかと納得した。
『葉梨はいい男だ』
私は思ったままを口にしていた。
葉梨は『えっ』と言ったまま固まっていたから、言葉足らずで申し訳ないと詫びて、誕生日を祝ってくれたことについてではなく、葉梨を一年以上見て来た上で、私は葉梨がいい男だと思ったと伝えた。その時の葉梨は耳を赤くしていて可愛いなと思った。
その後はいつも通りに月に一度は会い、電話やメールで連絡を取っていた。会うとたまに男を見せる時もあったが、私は気にならなくなっていたし、それよりも男を見せない時の方が気になった。
私は葉梨のことを気になり出したのだろう。
相澤にお姫様抱っこされた時とは違う感情を、私は葉梨に抱いたようだった。
◇
バーテンダーはキッチンへ行った。約束通り一分は戻って来ない。私は彼を目で追った後、葉梨の唇を見てから目を見た。
「ねえ、葉梨」
私は口を開けて、小声で言った。もちろん葉梨には聞こえないから、葉梨は少しだけ首を傾げ、耳を私に寄せた。
「私を抱いて」
葉梨は明らかに動揺している。そして横目で私を見た。私はそれを見て口元を緩め、葉梨の耳朶にそっとキスをして、カウンター下で絡めたままの指先に力を込めた。ずっと葉梨に翻弄されている私の意志表示だ。
◇
私がラストにジャックローズを頼む時の連れの男は本命だ、というサインはずいぶん前にバーテンダーの彼とふざけて決めたことだった。
私が化粧室にいる間、彼は葉梨に何か言うだろう。
洗面台の鏡に映る自分の唇に目を落として、口紅を塗り直した。そしてグロスを重ねようした時、私は手を止めた。
――グロスはやめよう。
開けかけたリップグロスを閉じて、ポーチにしまった。