R-15
もう一つの居場所
十一月三十日 午前三時五十分
カランカランと、ドアについたベルが鳴る。
その音が聞こえた望月奏人がキッチンの暖簾の隙間に手を入れて俺を見た。
望月は驚きつつも嬉しそうに顔を綻ばせる。
「おおっ! いらっしゃい。松永さん、久しぶりだね」
俺のいつもの場所――。
カウンターの隅の定位置に座ると、望月はコースターを置き、おしぼりを手渡しながら、俺の髪型を見た。
「その髪型って、寒くないの?」
「ふふっ……すっごく寒いよ」
昨日の昼、俺は弟の美容院へ行った。
耳の上の三センチ上から下の髪を刈り上げ、上の髪は後ろで結んでいる。髪の手入れが大変だと弟に相談したらこうなった。
「何をお作りします?」
望月は俺の髪型を見て笑いながら注文を聞いた。俺も笑顔で『ロングアイランドアイスティーで』と言うと、俺の手元に視線を落とし、また俺の目を見て『かしこまりました』と答えた。
◇
このバーテンダーの拠点は元々都内で、七年前まで俺の情報提供者だったが、彼の持つ情報が不要になった今でも俺はこの店に来ている。横浜中華街の外れにあるオーセンティックなバーだ。
――自分が自分でいられる場所。
仕事中にふらっと訪れることもあり、ノンアルコールのドリンクを注文する際のハンドサインを決めてある。
ここには加藤も連れて来たこともあり、たまに訪れるようだ。多分、加藤は葉梨とここに来たと思った。なぜかはわからないが、なんとなくそんな気がして、今日はこの店にやってきた。
「今日はダーツはやる?」
「いや、今日は……まだいい」
ロングアイランドアイスティーのノンアルコールは、紅茶に炭酸水を混ぜたもの。それを彼がコースターに乗せた時、彼が口を開いた。
「奈緒さんのことは黙秘しますよ」
「もー!!」
彼自身も、ここでの加藤の振る舞いに驚いたのだろう。加藤は男とこの店に来ると、指輪を着けている指と目配せで連れの男がどういう関係かを彼に知らせる。そして男のドリンクのアルコール度数の増減をハンドサインで行う。
「奈緒さん、自分のドリンクだけアルコール増やすサインをした」
「……マジで?」
「初めてのことでびっくりしたよ」
加藤は面倒な男の場合、『ちゃんと帰宅出来る』レベルまでさっさと追い込む。友人などの場合は、初めから目配せで知らせてあるから彼は何もしない。
「アルコール度数を増やしても酔わないのにね」
「ふふっ、そうだね、確かに……でも――」
にんまりと笑う彼は、来店時の加藤のサインと目配せは『要注意の男』だったが、指輪をしていないことと最初からターキーソーダを注文したことを不思議に思っていた。そして加藤が二杯目から自分のみアルコールの度数を増やすサインを送ってきたことに驚き、加藤を注意深く見ていると、加藤が今まで見たことの無い振る舞いを葉梨にしていてまた驚いたという。
「奈緒さんの本命なのかと思ったけど……どうなの?」
「ああ、連れの男は今俺と一緒に働いてる奴で、俺がデートをセッティングしたんだよ」
「ああ、そうなんだ。なら……ねえ」
「ん?」
「ふふっ……奈緒さん美人だし、あんな目で見られたら男はみんな落ちるよ」
彼のその言葉に、加藤に四回目の土下座をした理由を思い出した。加藤と彼が結託して、俺を潰しにかかったのだ。
「やめて。思い出しちゃうから。やめて」
「アハハハッ! あれはよくなかったね」
ノンアルコールのロングアイランドアイスティーを飲み干し、店の奥にあるハードダーツボードを見ていると、それを見ていた彼からダーツを渡され、『さあ、どうぞ』と離席を促された。
◇
ダーツは父がやっていた。父の書斎と称した二階の四畳半の和室は普段は鍵がかけてあって入室禁止だったが、たまに部屋に入れてくれることもあった。
部屋の壁にはハードダーツボードが掛けてあり、スローラインとして養生テープが畳に貼られていた。約三十三センチのボードに向かい、父は投げ方を教えてくれた。
――お父さん。
父はすごく優しかった。母が躾に厳しくて俺ら三人は父の帰宅を待ちわびた。だが刑事課の父はあまり帰ってくることは無かった。そんな中でも、どうにかして時間を作って、ほんの数分だけの時もあったが、俺ら三人と関わる時間を作っていた。
警察官になり、父を知る人達からは厳しく育てられたと思われていたことが不思議だった。確かに兄は柔道をやり、俺は剣道だったから、警察官の息子として厳しく育てられたと思われるのも仕方ない。父とは同じ所轄になることは無かったが、俺の仕事ぶりは筒抜けだったようで、父から叱られることもあった。
――お父さん、会いたいな。
署長になってすぐ、母が夕飯を作っていた時に電話が鳴った。俺は署からの連絡だった。
『刺されて重傷です』
俺は呆然としてしまい、パトカーに押し込められた記憶があって、次の記憶は手術室の前で先に到着していた兄と兄嫁の顔を見た時だった。
――お父さん、隣の優衣ちゃんがね。
俺の離婚が成立した後、父と二人で飲みに行った。
その時に初めて、中学の頃から優衣香が好きだと言った。結婚前に優衣香の前で泣いたことも話した。
父は驚いていたが、父と母の馴れ初め話を教えてくれた。
『十二本の赤い薔薇の花束をデートの度に贈って、毎回プロポーズした』
父の一目惚れから始まった恋は、初回のデートからプロポーズだったという。俺は母から友達の紹介だと聞かされていたから驚いた。
母は、警察官の妻として自分を律することも、息子三人を厳しく育てることも完璧にこなした。
夫婦関係はどうなのかと思い返せば、そもそも父が家にいなかったから、仲が良かったとは思えない。かといって冷え切った関係でもない。普通の夫婦なのだろうと思っていた。
でも、父が治療の甲斐なく亡くなった後、母は父の匂いが残る枕を抱いて、声を押し殺して泣いていた。
『敬志も、一番好きな人と結婚すればいいよ』
――お父さん、優衣ちゃんが俺を好きって言ってくれたんだよ。
ダーツをする時は、父を思い出す時。
実家にはあまり帰れないけど、ここには来れる。
――お父さん、俺、いつか優衣ちゃんにプロポーズするよ。
◇
「ねえ、ブラッディーメアリーお願い。胡椒いっぱいで」
「かしこまりました」
席に戻り、ブラッディーメアリーのノンアルコール――ただのトマトジュース――を飲む。
「あのさ、今度彼女を連れてくるから」
「ん? 奈緒さん?」
ここは俺の居場所だから、優衣香に男がいる時に手を付けた女は連れて来たことがない。俺が連れて来た女性は加藤だけだ。
「違うよ、俺の恋人だよ」
「えっ……」
「なんでそんなに驚いてるのよ。ふふっ」
酒を飲んだ優衣香は、十五年前に見たことがある。酔って肌が上気して、少し眠そうな目に見つめられて、俺の心臓はトクンと跳ねた。
優衣香とはいろんな所に行きたいと思っている。
まだ手も繋いだこともないから、手を繋いで歩いてみたい。だから、手を繋いでここに来ようと思う。
――優衣ちゃん、ここは俺の好きな場所なんだよ。
「松永さん、顔が……あの……」
「うるさいな、いいだろうが」
「アハハハッ。奈緒さんも松永さんもどうしちゃったのよ」
会計を済ませて席を立ち、ジャケットとコートを着ていると、彼が話しかけてきた。
「今ので百万超えたけど……」
この店がある地域は、慣例としてチャージを取らないが、ノンアルコールのドリンク二杯で一万円を払うのは多すぎる。だが、情報提供者として出会った以上、これは必要なことだ。
「いいよ、取っとけよ」
「でも……」
「じゃあさ、加藤がこの前の男とまた来たらさ、濃厚なロングアイランドアイスティーを男にご馳走してやってよ」
「嫌がらせ?」
「お前ら俺に飲ませただろうが」
「まだ根に持ってるの?」
お互いに笑い合いながら、『またね』と俺はドアを開けた。冷気が頬を撫ぜ、首を竦めた。
「この頭、すっげ寒い」
彼の笑い声を聞きながら、ドアを閉める。
――優衣香もこの店を気に入ってくれるといいな。
カランカランと、ドアについたベルが鳴る。
その音が聞こえた望月奏人がキッチンの暖簾の隙間に手を入れて俺を見た。
望月は驚きつつも嬉しそうに顔を綻ばせる。
「おおっ! いらっしゃい。松永さん、久しぶりだね」
俺のいつもの場所――。
カウンターの隅の定位置に座ると、望月はコースターを置き、おしぼりを手渡しながら、俺の髪型を見た。
「その髪型って、寒くないの?」
「ふふっ……すっごく寒いよ」
昨日の昼、俺は弟の美容院へ行った。
耳の上の三センチ上から下の髪を刈り上げ、上の髪は後ろで結んでいる。髪の手入れが大変だと弟に相談したらこうなった。
「何をお作りします?」
望月は俺の髪型を見て笑いながら注文を聞いた。俺も笑顔で『ロングアイランドアイスティーで』と言うと、俺の手元に視線を落とし、また俺の目を見て『かしこまりました』と答えた。
◇
このバーテンダーの拠点は元々都内で、七年前まで俺の情報提供者だったが、彼の持つ情報が不要になった今でも俺はこの店に来ている。横浜中華街の外れにあるオーセンティックなバーだ。
――自分が自分でいられる場所。
仕事中にふらっと訪れることもあり、ノンアルコールのドリンクを注文する際のハンドサインを決めてある。
ここには加藤も連れて来たこともあり、たまに訪れるようだ。多分、加藤は葉梨とここに来たと思った。なぜかはわからないが、なんとなくそんな気がして、今日はこの店にやってきた。
「今日はダーツはやる?」
「いや、今日は……まだいい」
ロングアイランドアイスティーのノンアルコールは、紅茶に炭酸水を混ぜたもの。それを彼がコースターに乗せた時、彼が口を開いた。
「奈緒さんのことは黙秘しますよ」
「もー!!」
彼自身も、ここでの加藤の振る舞いに驚いたのだろう。加藤は男とこの店に来ると、指輪を着けている指と目配せで連れの男がどういう関係かを彼に知らせる。そして男のドリンクのアルコール度数の増減をハンドサインで行う。
「奈緒さん、自分のドリンクだけアルコール増やすサインをした」
「……マジで?」
「初めてのことでびっくりしたよ」
加藤は面倒な男の場合、『ちゃんと帰宅出来る』レベルまでさっさと追い込む。友人などの場合は、初めから目配せで知らせてあるから彼は何もしない。
「アルコール度数を増やしても酔わないのにね」
「ふふっ、そうだね、確かに……でも――」
にんまりと笑う彼は、来店時の加藤のサインと目配せは『要注意の男』だったが、指輪をしていないことと最初からターキーソーダを注文したことを不思議に思っていた。そして加藤が二杯目から自分のみアルコールの度数を増やすサインを送ってきたことに驚き、加藤を注意深く見ていると、加藤が今まで見たことの無い振る舞いを葉梨にしていてまた驚いたという。
「奈緒さんの本命なのかと思ったけど……どうなの?」
「ああ、連れの男は今俺と一緒に働いてる奴で、俺がデートをセッティングしたんだよ」
「ああ、そうなんだ。なら……ねえ」
「ん?」
「ふふっ……奈緒さん美人だし、あんな目で見られたら男はみんな落ちるよ」
彼のその言葉に、加藤に四回目の土下座をした理由を思い出した。加藤と彼が結託して、俺を潰しにかかったのだ。
「やめて。思い出しちゃうから。やめて」
「アハハハッ! あれはよくなかったね」
ノンアルコールのロングアイランドアイスティーを飲み干し、店の奥にあるハードダーツボードを見ていると、それを見ていた彼からダーツを渡され、『さあ、どうぞ』と離席を促された。
◇
ダーツは父がやっていた。父の書斎と称した二階の四畳半の和室は普段は鍵がかけてあって入室禁止だったが、たまに部屋に入れてくれることもあった。
部屋の壁にはハードダーツボードが掛けてあり、スローラインとして養生テープが畳に貼られていた。約三十三センチのボードに向かい、父は投げ方を教えてくれた。
――お父さん。
父はすごく優しかった。母が躾に厳しくて俺ら三人は父の帰宅を待ちわびた。だが刑事課の父はあまり帰ってくることは無かった。そんな中でも、どうにかして時間を作って、ほんの数分だけの時もあったが、俺ら三人と関わる時間を作っていた。
警察官になり、父を知る人達からは厳しく育てられたと思われていたことが不思議だった。確かに兄は柔道をやり、俺は剣道だったから、警察官の息子として厳しく育てられたと思われるのも仕方ない。父とは同じ所轄になることは無かったが、俺の仕事ぶりは筒抜けだったようで、父から叱られることもあった。
――お父さん、会いたいな。
署長になってすぐ、母が夕飯を作っていた時に電話が鳴った。俺は署からの連絡だった。
『刺されて重傷です』
俺は呆然としてしまい、パトカーに押し込められた記憶があって、次の記憶は手術室の前で先に到着していた兄と兄嫁の顔を見た時だった。
――お父さん、隣の優衣ちゃんがね。
俺の離婚が成立した後、父と二人で飲みに行った。
その時に初めて、中学の頃から優衣香が好きだと言った。結婚前に優衣香の前で泣いたことも話した。
父は驚いていたが、父と母の馴れ初め話を教えてくれた。
『十二本の赤い薔薇の花束をデートの度に贈って、毎回プロポーズした』
父の一目惚れから始まった恋は、初回のデートからプロポーズだったという。俺は母から友達の紹介だと聞かされていたから驚いた。
母は、警察官の妻として自分を律することも、息子三人を厳しく育てることも完璧にこなした。
夫婦関係はどうなのかと思い返せば、そもそも父が家にいなかったから、仲が良かったとは思えない。かといって冷え切った関係でもない。普通の夫婦なのだろうと思っていた。
でも、父が治療の甲斐なく亡くなった後、母は父の匂いが残る枕を抱いて、声を押し殺して泣いていた。
『敬志も、一番好きな人と結婚すればいいよ』
――お父さん、優衣ちゃんが俺を好きって言ってくれたんだよ。
ダーツをする時は、父を思い出す時。
実家にはあまり帰れないけど、ここには来れる。
――お父さん、俺、いつか優衣ちゃんにプロポーズするよ。
◇
「ねえ、ブラッディーメアリーお願い。胡椒いっぱいで」
「かしこまりました」
席に戻り、ブラッディーメアリーのノンアルコール――ただのトマトジュース――を飲む。
「あのさ、今度彼女を連れてくるから」
「ん? 奈緒さん?」
ここは俺の居場所だから、優衣香に男がいる時に手を付けた女は連れて来たことがない。俺が連れて来た女性は加藤だけだ。
「違うよ、俺の恋人だよ」
「えっ……」
「なんでそんなに驚いてるのよ。ふふっ」
酒を飲んだ優衣香は、十五年前に見たことがある。酔って肌が上気して、少し眠そうな目に見つめられて、俺の心臓はトクンと跳ねた。
優衣香とはいろんな所に行きたいと思っている。
まだ手も繋いだこともないから、手を繋いで歩いてみたい。だから、手を繋いでここに来ようと思う。
――優衣ちゃん、ここは俺の好きな場所なんだよ。
「松永さん、顔が……あの……」
「うるさいな、いいだろうが」
「アハハハッ。奈緒さんも松永さんもどうしちゃったのよ」
会計を済ませて席を立ち、ジャケットとコートを着ていると、彼が話しかけてきた。
「今ので百万超えたけど……」
この店がある地域は、慣例としてチャージを取らないが、ノンアルコールのドリンク二杯で一万円を払うのは多すぎる。だが、情報提供者として出会った以上、これは必要なことだ。
「いいよ、取っとけよ」
「でも……」
「じゃあさ、加藤がこの前の男とまた来たらさ、濃厚なロングアイランドアイスティーを男にご馳走してやってよ」
「嫌がらせ?」
「お前ら俺に飲ませただろうが」
「まだ根に持ってるの?」
お互いに笑い合いながら、『またね』と俺はドアを開けた。冷気が頬を撫ぜ、首を竦めた。
「この頭、すっげ寒い」
彼の笑い声を聞きながら、ドアを閉める。
――優衣香もこの店を気に入ってくれるといいな。