R-15
電話の声
葉梨将由は官舎の自室で電話をしている。
ベッドに腰かけ、左足をベッドに乗せている彼の表情は徐々に険しくなっていった。
「話してくれなかったから」
「……気持ちはわかる、けど……」
「それって結局、俺のこと――」
「じゃあなんで、話してくれなかったんだよ」
少しだけ声を荒らげた彼は上を向いて奥歯を噛み締めた。
「俺はもう、いい」
「そう…………冷めた」
電話の向こうの相手は、まだ彼に何かを言っているようだ。
「もう連絡しない。それじゃ」
そう言って、彼は通話ボタンをタップして、スマートフォンをベッドに投げつけた。
跳ねたスマートフォンは壁に当たって、大きな音がした。
◇◇◇
一月十一日 午前十一時五十七分
冬の晴天の日。
その暖かな日差しの元、行き交う人々で賑わう横浜中華街。
そんな賑わいとは打って変わって、捜査員用のマンションがある裏通りは静かだ。
マンションを出て石川町駅方向へ歩いて行くと、見覚えのある濃いグレーのセダンが止まっていた。須藤さんの私有車だ。
今朝、チンパンジー須藤から電話があった。
『そっち行くから』と『昼に行く』とだけ言って電話は切れた。
昼って十二時かな、と思ってマンションを出ると須藤さんの車を見つけた。運転席の窓を覗き込むと、須藤さんはウインドウを開けた。
「あー、運転手さんねえ。交差点から五メートル以内は駐停車禁止なんですよ」
「ふふっ……見逃してよ」
そう言って、笑いながら須藤さんは後ろに乗るよう言った。
――へぇ。公用車がフルモデルチェンジすると、こんなに高級になるのねー。
ドアを閉めると、静寂がそこにあった。
「ヤバいっすね、すっげー高級車になってる」
「な、俺も驚いたけど、公用車を新しくしても、これはクラウンパトより大きくなるから配備はされないだろうな」
俺がシートベルトを着けたことを確認すると、須藤さんは発車した。
他愛もない話を始めた須藤さんだったが、信号待ちでマグの温かい飲み物を飲んだ後、信号が変わってから話し始めた。
――やっと本題か。そんなに面倒そうな感じはしないけど。
「山野だけどさ、今は有給を消化させてるだろ? こっちも事前に……まあ知ってたけど、新たにいろいろと、出てきて、さ……」
男性用仮眠室から出てきた、葉梨も聞かされていなかった六個目のボイスレコーダーの件は、葉梨が山野を懐柔して聞き出していた。
その報告が須藤さんに上がり、すでに山野は有給消化という名の自宅謹慎となっている。米田も何かしらあったようだ。詳細はわからないが。
「葉梨は元々、かなり知ってたみたいですね」
「ああ、あれだろ? 山野のこと、まだ何も知らん時に可愛いと思って二人で遊びに行ってたけど……」
「口は軽いし、ヤリマンだし、って? ふふっ」
「以前はそうじゃなかったんだけどねえ……」
ルームミラー越しに、須藤さんは俺に視線を送る。
「ぼくのせいだとおっしゃるんですか!?」
「ふふっ……どうだろうな」
「山野って、カネ関連も……アレですよね」
山野がホストに入れ上げてるという情報は葉梨から受けていた。同僚に金を借りているという。
「ああ、今日はその話で来た。……会社のカネが、さ……」
「えっ……」
「もう確定。今、山野の親と話し合ってる」
「おっと……マジすか……」
「とりあえず、この話は敬志だけが知ってるから、よろしくね」
「……はい」
◇◇◇
午後一時十二分
相澤裕典と加藤奈緒は昼ご飯を食べにいつもの中華屋へ行き、日替わりランチ三種類を注文して待っていた。
早歩きで店に来たせいで汗ばんでいる加藤は、水を飲み干し、空いたコップを相澤に突き出していた。
「……返盃?」
「あんたずいぶん偉くなったんだね」
「水を入れろってこと?」
「そうだよ」
「もう!」
加藤のコップに水を入れる相澤は頬を膨らませている。それを優しい眼差しで加藤は見ていると、そこに顔なじみとなった女将が席にやって来た。
「今日もたくさん食べるのね」
「ふふっ、もちろんですよ」
二人の間にチャーハン三個、青椒肉絲、麻婆豆腐、餃子十個が置かれた。
「多分、足りないから何か注文します」
「えっ! あ、そうね、ふふっ」
そう言って、女将は相澤をチラッと見た。相澤は置かれた品に目を輝かせている。
「本当に、奈緒ちゃんっていっぱい食べるね」
「燃費悪いからね」
「でも痩せてる」
「これでも、三十過ぎてから肉が付いてきたんだけど」
「えっ……」
相澤は何かを思い浮かべたようで目を彷徨わせた。
「……いいから食べな」
「うん……」
「八宝菜か油淋鶏、どっち頼む?」
「奈緒ちゃんの好きな方でいいよ」
「あんたが決めてよ」
「奈緒ちゃんが食べたい方を俺食べるよ」
「決めてよ」
「どっちでもいいよ」
「決めて」
押し問答をする二人を、店主と女将は口元に笑みを浮かべながら眺めていた。
◇◇◇
午後一時三十分
須藤さんにマンション近くまで送ってもらい、車が見えなくなるまで見ていた。
――新しい捜査員は三人分働く女性だ。頼もしいけど……。
いいや、それは後で考えよう。
今は、優衣香のことだけを考えよう。
マンションには駐車場がなく、近くの時間貸パーキングを月極契約している。
優衣香に電話しよう。
ここでいいだろう。
誰も来ないはずだ。
俺は停めてある公用車に乗り込んだ。
この公用車は優衣香と同じだ。優衣香のは後期型で七速だと言っていた。確かに五速の前期型は、高速道路では問題ないが、渋滞した市街地だとストレスになることもある。
履歴から優衣香の文字を探して、タップした。
あれから何回か電話しているが、今でも緊張するし、怖い。だが、俺は優衣香に謝らなければならない。
◇
「もしもし、俺……あの、今、電話大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
「……優衣ちゃん、声が……」
「ああ、うん、風邪ひいたみたいで、午前中に病院へ行ったけど、インフルエンザじゃなかったよ」
「えっ、あの……大丈夫なの?」
「うーん、咳と喉の痛みで、熱もある」
「ああ……どうしたの? 寒かったから風邪ひいたの?」
「うーん、疲れだと思う。このところ体を……ああ、でも大丈夫だよ。敬ちゃんは? 体調は? ちゃんと寝てるの?」
優衣香は何かを言いかけて止めた。何だろうか。でも、今は優衣香を休ませないといけないと思った。謝罪は優衣香が元気になってからでいいだろう。
「ああ、うん、大丈夫だよ。ありがとう。あの、優衣ちゃん、ゆっくり休んで。また連絡するね。ちゃんとお薬を飲んでね」
◇
午後一時四十七分
捜査員用のマンションには、相澤、加藤、葉梨、本城、武村がいた。皆リビングのテーブルに着席している。
俺は皆の顔を見ながら、爽やかな笑顔で話しかけた。
「皆さん! とってもいいお知らせですよ!」
俺がこういうことを言い出す時は例外なくロクでもないことだから、それを知らない武村以外が俺から視線を外した。
「なんと! 新しい捜査員の補充があります! 皆さん、嬉しいですね!」
捜査員の補充がある時点で余裕が生じるのは確かだから、少しだけ期待している目で俺を見た。武村の目は輝いている。だが、前回の山野の件がある。それが誰なのか、固唾を飲んで俺を見つめた。
「 姐さんです! 明日の昼から玲緒奈さんが来て下さいますよ!」
「えっ! 本当ですか!? 玲緒奈さんが来てくれるんですか!?」
歓喜の声を上げる相澤と、誰のことかわからない武村以外の葉梨、本城、加藤の反応は同じだった。俺もさっきチンパンジーから聞かされた時も同じだった。
茫然自失――。
加藤は目眩がしたのか、隣の相澤にもたれかかった。
「奈緒ちゃん! どうしたの!?」
「マジ……もう無理……」
「ええっ!?」
玲緒奈さんは今年四十一歳になる既婚女性で、俺が信頼する同業女性の一人だ。加藤を指導した先輩であり、同じ所轄の相澤を溺愛した女性でもある。
相澤には優しく指導したが、加藤にはそうではなかった。加藤が狂犬になったのは、玲緒奈さんのせいでもあるし、おかげでもある。
葉梨と本城に関しては知らない。だが表情を見る限り接点はあったのだろう。二人は唇を噛み、目を瞑っている。
「皆さん! お気持ちもわかりますが、私が一番辛いんですよ!」
そうだ。玲緒奈さんに俺は頭が上がらない。玲緒奈んが独身の頃から本当に、俺はお世話になっている。公私共に、お世話になっている。
――だってぼくの義姉だもん。
こんな美少女がなぜ警察官になったのか、何かの間違いではないのかと騒然とさせた松永玲緒奈は、一つ下の俺の兄が警察学校に入った時に、『私はあんたの嫁になる』と兄に言い、兄はよくわからないまま交際をして、よくわからないまま結婚して、二十二歳で父親になっていた。
兄もよくわからなかっただろうが、うちの家族もよくわからなかった。
両親は兄の恋人が一期上の同業とだけ聞いていただけだったから、玲緒奈さんを初めて見た時は動揺していた。初見で兄を選んだという玲緒奈さんを、詐欺ではないのかと疑ったという。玲緒奈さんも警察官なのに。
玲緒奈さんは加藤と同じで、背が高くて痩せている。痩せていた時は『ヤクザの愛人』と呼ばれていたが、三人目を産んだ後に少し肉付きがよくなり、三十代になってからは、『姐さん』と呼ばれるようになった。インテリヤクザと反社の間ぐらいの顔でレスラー体型の兄が公務中に傷を負ったせいでもあるけど。
「では皆さん! 覚悟を決めて、頑張りましょう! 休みだけは! 休みだけは取れますから!」
――よし、ついでに言ってやる。
「俺、明日の朝まで時間もらう。心の準備させて……お願い……」
加藤、葉梨、本城の三人が憐憫の眼差しで俺を見て、小さく頷いた。
そんな俺を見ちゃいない相澤は武村に教えている。『玲緒奈さんはね、すごく優しい女性なんだよ』と。その声にゆっくりと顔を向けた三人は、皆思い思いの表情をしていた。
――よし、優衣ちゃんに会って現実逃避しよう。
看病セットは何を買えばいいのかだけを考えて、玲緒奈さんのことは明日まで忘れようと思った。
― 第5章・了 ―
ベッドに腰かけ、左足をベッドに乗せている彼の表情は徐々に険しくなっていった。
「話してくれなかったから」
「……気持ちはわかる、けど……」
「それって結局、俺のこと――」
「じゃあなんで、話してくれなかったんだよ」
少しだけ声を荒らげた彼は上を向いて奥歯を噛み締めた。
「俺はもう、いい」
「そう…………冷めた」
電話の向こうの相手は、まだ彼に何かを言っているようだ。
「もう連絡しない。それじゃ」
そう言って、彼は通話ボタンをタップして、スマートフォンをベッドに投げつけた。
跳ねたスマートフォンは壁に当たって、大きな音がした。
◇◇◇
一月十一日 午前十一時五十七分
冬の晴天の日。
その暖かな日差しの元、行き交う人々で賑わう横浜中華街。
そんな賑わいとは打って変わって、捜査員用のマンションがある裏通りは静かだ。
マンションを出て石川町駅方向へ歩いて行くと、見覚えのある濃いグレーのセダンが止まっていた。須藤さんの私有車だ。
今朝、チンパンジー須藤から電話があった。
『そっち行くから』と『昼に行く』とだけ言って電話は切れた。
昼って十二時かな、と思ってマンションを出ると須藤さんの車を見つけた。運転席の窓を覗き込むと、須藤さんはウインドウを開けた。
「あー、運転手さんねえ。交差点から五メートル以内は駐停車禁止なんですよ」
「ふふっ……見逃してよ」
そう言って、笑いながら須藤さんは後ろに乗るよう言った。
――へぇ。公用車がフルモデルチェンジすると、こんなに高級になるのねー。
ドアを閉めると、静寂がそこにあった。
「ヤバいっすね、すっげー高級車になってる」
「な、俺も驚いたけど、公用車を新しくしても、これはクラウンパトより大きくなるから配備はされないだろうな」
俺がシートベルトを着けたことを確認すると、須藤さんは発車した。
他愛もない話を始めた須藤さんだったが、信号待ちでマグの温かい飲み物を飲んだ後、信号が変わってから話し始めた。
――やっと本題か。そんなに面倒そうな感じはしないけど。
「山野だけどさ、今は有給を消化させてるだろ? こっちも事前に……まあ知ってたけど、新たにいろいろと、出てきて、さ……」
男性用仮眠室から出てきた、葉梨も聞かされていなかった六個目のボイスレコーダーの件は、葉梨が山野を懐柔して聞き出していた。
その報告が須藤さんに上がり、すでに山野は有給消化という名の自宅謹慎となっている。米田も何かしらあったようだ。詳細はわからないが。
「葉梨は元々、かなり知ってたみたいですね」
「ああ、あれだろ? 山野のこと、まだ何も知らん時に可愛いと思って二人で遊びに行ってたけど……」
「口は軽いし、ヤリマンだし、って? ふふっ」
「以前はそうじゃなかったんだけどねえ……」
ルームミラー越しに、須藤さんは俺に視線を送る。
「ぼくのせいだとおっしゃるんですか!?」
「ふふっ……どうだろうな」
「山野って、カネ関連も……アレですよね」
山野がホストに入れ上げてるという情報は葉梨から受けていた。同僚に金を借りているという。
「ああ、今日はその話で来た。……会社のカネが、さ……」
「えっ……」
「もう確定。今、山野の親と話し合ってる」
「おっと……マジすか……」
「とりあえず、この話は敬志だけが知ってるから、よろしくね」
「……はい」
◇◇◇
午後一時十二分
相澤裕典と加藤奈緒は昼ご飯を食べにいつもの中華屋へ行き、日替わりランチ三種類を注文して待っていた。
早歩きで店に来たせいで汗ばんでいる加藤は、水を飲み干し、空いたコップを相澤に突き出していた。
「……返盃?」
「あんたずいぶん偉くなったんだね」
「水を入れろってこと?」
「そうだよ」
「もう!」
加藤のコップに水を入れる相澤は頬を膨らませている。それを優しい眼差しで加藤は見ていると、そこに顔なじみとなった女将が席にやって来た。
「今日もたくさん食べるのね」
「ふふっ、もちろんですよ」
二人の間にチャーハン三個、青椒肉絲、麻婆豆腐、餃子十個が置かれた。
「多分、足りないから何か注文します」
「えっ! あ、そうね、ふふっ」
そう言って、女将は相澤をチラッと見た。相澤は置かれた品に目を輝かせている。
「本当に、奈緒ちゃんっていっぱい食べるね」
「燃費悪いからね」
「でも痩せてる」
「これでも、三十過ぎてから肉が付いてきたんだけど」
「えっ……」
相澤は何かを思い浮かべたようで目を彷徨わせた。
「……いいから食べな」
「うん……」
「八宝菜か油淋鶏、どっち頼む?」
「奈緒ちゃんの好きな方でいいよ」
「あんたが決めてよ」
「奈緒ちゃんが食べたい方を俺食べるよ」
「決めてよ」
「どっちでもいいよ」
「決めて」
押し問答をする二人を、店主と女将は口元に笑みを浮かべながら眺めていた。
◇◇◇
午後一時三十分
須藤さんにマンション近くまで送ってもらい、車が見えなくなるまで見ていた。
――新しい捜査員は三人分働く女性だ。頼もしいけど……。
いいや、それは後で考えよう。
今は、優衣香のことだけを考えよう。
マンションには駐車場がなく、近くの時間貸パーキングを月極契約している。
優衣香に電話しよう。
ここでいいだろう。
誰も来ないはずだ。
俺は停めてある公用車に乗り込んだ。
この公用車は優衣香と同じだ。優衣香のは後期型で七速だと言っていた。確かに五速の前期型は、高速道路では問題ないが、渋滞した市街地だとストレスになることもある。
履歴から優衣香の文字を探して、タップした。
あれから何回か電話しているが、今でも緊張するし、怖い。だが、俺は優衣香に謝らなければならない。
◇
「もしもし、俺……あの、今、電話大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
「……優衣ちゃん、声が……」
「ああ、うん、風邪ひいたみたいで、午前中に病院へ行ったけど、インフルエンザじゃなかったよ」
「えっ、あの……大丈夫なの?」
「うーん、咳と喉の痛みで、熱もある」
「ああ……どうしたの? 寒かったから風邪ひいたの?」
「うーん、疲れだと思う。このところ体を……ああ、でも大丈夫だよ。敬ちゃんは? 体調は? ちゃんと寝てるの?」
優衣香は何かを言いかけて止めた。何だろうか。でも、今は優衣香を休ませないといけないと思った。謝罪は優衣香が元気になってからでいいだろう。
「ああ、うん、大丈夫だよ。ありがとう。あの、優衣ちゃん、ゆっくり休んで。また連絡するね。ちゃんとお薬を飲んでね」
◇
午後一時四十七分
捜査員用のマンションには、相澤、加藤、葉梨、本城、武村がいた。皆リビングのテーブルに着席している。
俺は皆の顔を見ながら、爽やかな笑顔で話しかけた。
「皆さん! とってもいいお知らせですよ!」
俺がこういうことを言い出す時は例外なくロクでもないことだから、それを知らない武村以外が俺から視線を外した。
「なんと! 新しい捜査員の補充があります! 皆さん、嬉しいですね!」
捜査員の補充がある時点で余裕が生じるのは確かだから、少しだけ期待している目で俺を見た。武村の目は輝いている。だが、前回の山野の件がある。それが誰なのか、固唾を飲んで俺を見つめた。
「 姐さんです! 明日の昼から玲緒奈さんが来て下さいますよ!」
「えっ! 本当ですか!? 玲緒奈さんが来てくれるんですか!?」
歓喜の声を上げる相澤と、誰のことかわからない武村以外の葉梨、本城、加藤の反応は同じだった。俺もさっきチンパンジーから聞かされた時も同じだった。
茫然自失――。
加藤は目眩がしたのか、隣の相澤にもたれかかった。
「奈緒ちゃん! どうしたの!?」
「マジ……もう無理……」
「ええっ!?」
玲緒奈さんは今年四十一歳になる既婚女性で、俺が信頼する同業女性の一人だ。加藤を指導した先輩であり、同じ所轄の相澤を溺愛した女性でもある。
相澤には優しく指導したが、加藤にはそうではなかった。加藤が狂犬になったのは、玲緒奈さんのせいでもあるし、おかげでもある。
葉梨と本城に関しては知らない。だが表情を見る限り接点はあったのだろう。二人は唇を噛み、目を瞑っている。
「皆さん! お気持ちもわかりますが、私が一番辛いんですよ!」
そうだ。玲緒奈さんに俺は頭が上がらない。玲緒奈んが独身の頃から本当に、俺はお世話になっている。公私共に、お世話になっている。
――だってぼくの義姉だもん。
こんな美少女がなぜ警察官になったのか、何かの間違いではないのかと騒然とさせた松永玲緒奈は、一つ下の俺の兄が警察学校に入った時に、『私はあんたの嫁になる』と兄に言い、兄はよくわからないまま交際をして、よくわからないまま結婚して、二十二歳で父親になっていた。
兄もよくわからなかっただろうが、うちの家族もよくわからなかった。
両親は兄の恋人が一期上の同業とだけ聞いていただけだったから、玲緒奈さんを初めて見た時は動揺していた。初見で兄を選んだという玲緒奈さんを、詐欺ではないのかと疑ったという。玲緒奈さんも警察官なのに。
玲緒奈さんは加藤と同じで、背が高くて痩せている。痩せていた時は『ヤクザの愛人』と呼ばれていたが、三人目を産んだ後に少し肉付きがよくなり、三十代になってからは、『姐さん』と呼ばれるようになった。インテリヤクザと反社の間ぐらいの顔でレスラー体型の兄が公務中に傷を負ったせいでもあるけど。
「では皆さん! 覚悟を決めて、頑張りましょう! 休みだけは! 休みだけは取れますから!」
――よし、ついでに言ってやる。
「俺、明日の朝まで時間もらう。心の準備させて……お願い……」
加藤、葉梨、本城の三人が憐憫の眼差しで俺を見て、小さく頷いた。
そんな俺を見ちゃいない相澤は武村に教えている。『玲緒奈さんはね、すごく優しい女性なんだよ』と。その声にゆっくりと顔を向けた三人は、皆思い思いの表情をしていた。
――よし、優衣ちゃんに会って現実逃避しよう。
看病セットは何を買えばいいのかだけを考えて、玲緒奈さんのことは明日まで忘れようと思った。
― 第5章・了 ―