R-15
姐さん、襲来(前編)
一月十二日 午後一時二十六分
そろそろ、姐さんが来る頃だろうか。
俺はウインドブレーカーを着て、マンションの外廊下まで出て姐さんを迎えようと玄関ドアを開けると、廊下の向こうから姐さんが歩いてくるのが見えた。
「お疲れさま。久しぶりだねー、出迎えありがとう」
姐さんはリュックを背負い、トランクを引いて大きな布製のバッグを肩にかけている。俺は『お疲れさまです。寒かったでしょう。さ、中へどうぞ』と言って中へ入ってもらうと、声がした。
「お疲れさまです!」
加藤奈緒、相澤裕典、葉梨将由、本城昇太、武村雅人の捜査員全員が、廊下で松永玲緒奈を出迎えている。
スリッパに履き替えて靴を揃えた姐さんは俺たちを見てこう言った。
「通れなくない? バカなの?」
幅九十センチ、長さ二メートル七十センチの廊下に五人がいる。狭い廊下にミッチミチで。
「おっしゃる通りです、玲緒奈さん」
――姐さん、みんな緊張し過ぎて正常な判断が出来ないんですよ。
リビングへ行くために皆が振り向き、俺はトランクを持って玲緒奈さんの前を歩き出した所で、玲緒奈さんが布製のバッグから何かを取り出した。
それは『ピッ』という呑気な音がして、同時に俺の肩に衝撃を感じた。痛くはないが、なぜそんなものを玲緒奈さんが持っているのかを考えながら振り向くと、ピコピコハンマーを手に持って上品な笑みを浮かべる玲緒奈さんはこう言った。
「ほら、今、いろいろウルサイじゃない、パワハラとかね。だからピコピコハンマーで叩けばいいかと思って」
――姐さんは、『叩かない』という選択をしないんですね。
「ええ、そうですね。おっしゃる通りです……さ、リビングへどうぞ」
振り向くと、ピコピコハンマーに怯える五人の警察官がいた。
――警察官も人の子だもんね。怖いものくらい、あるよね。
◇
リビングのドアの正面には大きなテーブルがある。これは長机を三つ合わせて大きなテーブルのようにしていた。
左手のキッチンに接するダイニング部分には座卓と座布団がある。テーブルに書類がある状態の場合は食事は座卓で食べるようにしているが、そこはすごく、昭和な雰囲気の趣のある一角となっている。みかんが乗っている鎌倉彫の菓子盆は俺が持ってきた。
「座卓? なんであるの?」
「ああ、これは……書類に味噌汁ぶちまけた奴がいましてね、それで食事は座卓で取るようにしているんですよ」
「あら、どなたがこぼしたの?」
――声音が変わった。ぼくこわい。
玲緒奈さんの目つきは変わらずだが、言葉遣いの上品メーターが上がった。そのメーターは数段階ある。
捜査員からの『松永め、余計なことを』と思っているだろうと思料される視線が突き刺さる。
普通ならそうだ。この場面でならミスを告げ口したと、松永は余計なことを言った、バカなのかと誰もが思うだろうが、今回に関しては、それは違う。
「相澤です」
そう言うと、狂犬の親玉の玲緒奈さんは途端に『優しい女の人』になり、声音も変わった。
「そっかぁー、裕くんがこぼしちゃったんだ。もー! ちゃんとみんなにごめんなさいしたの?」
「はい! しました!」
――姐さん、葉梨と本城がドン引きしてますよ。
葉梨と本城は、玲緒奈さんが狂犬加藤の産みの親だと知っているが、相澤を溺愛する姿は初めて見る。だがそれよりも、ただの『優しい女の人』を加藤が受け継いでいないことに驚いたようだ。二人は加藤を見ていた。
――奈緒ちゃんとばっちり。
椅子に座った玲緒奈さんは左に相澤を侍らせた。右には武村雅人が座ろうとしている。
――武村はチャレンジャー! すごいよ雅人さん!
玲緒奈さんの武村を見る目は優しい。まだ武村の素行は知らないのだろうか。俺が武村にやったことの原因は玲緒奈さんに言っていないが、知らないはずがない。だが、優しい目をしているから、玲緒奈さんには問題ないのだろう。
全員が席に着いた時、武村が玲緒奈さんにコーヒーを淹れると伝え、『ありがとう』と言うと、加藤も席を立った。その姿を見て、テーブルに置いたピコピコハンマーを手に取った玲緒奈さんは本城の頭を叩いた。
「痛っ! 俺ですかっ!?」
「そうよ?」
「でも玲緒奈さん、あの……私がやらないと」
「どうして?」
「えっと……女だから……」
その言葉に眉根を寄せた玲緒奈さんは加藤にキレた。さすが狂犬の親玉だ。思わず顔を伏せた。
玲緒奈さんの目つきが変わり、優しい声音で言葉遣いが上品になるのは、狂犬メーターが振り切れる寸前のサインだ。一種のアンガーマネジメントのようだが、結局はピコピコハンマーで引っ叩くからアンガーをマネジメント出来ていないじゃないかと思う。
「ちょっとお待ちになって。ねえ、一番下の武村さんがお茶の準備をなさるのよ? その手伝いをなさるなら、あなたではなくて、本城さんがやることではなくて? 違うかしら? ……ねえ、あなた。後輩の立場もあるのよ? おわかり?」
「あっ……はい、そうです、申し訳ございませんでした」
「ふふふ……ああ、それと本城さん、あなたもよ? 加藤さんがやるようだから自分は関係ないと思ったのかしら? 私はね、あなたがやるべきことだと、思いますのよ?」
「ヒィッ! そうです、俺です! 申し訳ございませんでした!」
本城はまたピコピコハンマーで頭を叩かれた。
――多分、『俺』じゃなくて『私』と言わなかったからだと思うよ。
三十歳の本城は反社にしか見えない見た目をしていて、リビングにいると組事務所にしか思えなくなるが、玲緒奈さんに説教されている姿は下っ端構成員にしか見えない。
玲緒奈さんはピコピコハンマーを置くと隣の相澤に向き、『裕くんはちゃんとしてるもんね、偉いね』と言い、『はい!』と元気よく答える相澤に優しく微笑んでいた。
俺はその相澤の姿を見て、十七歳の時に玲緒奈さんに初めて会った時のことを思い出した。
◇
俺の兄が二十歳の時、玲緒奈さんと結婚を前提としたお付き合いをしていると聞いた両親は、初めて玲緒奈さんを家に招いた。
その頃の俺にとって玲緒奈さんは綺麗なお姉さんだった。
当時俺は十七歳で、弟の理志は十歳だった。
綺麗なお姉さんに浮かれる理志を隣に座らせ、理志の話を一生懸命聞いている姿は今でも記憶に残っている。俺も話したかったが、理志がずっと話しているから話せなかった。だが玲緒奈さんはそれがわかっていて、理志の話を俺も話に加わることが出来るように誘導していた。優しいお姉さんだった。
当時、テレビCMで『綺麗なお姉さんは好きですか』がキャッチコピーのCMがあった。
理志とテレビを見ている時にそれが流れると、二人で頷いて、理志は『うん! 好き!』と大声で言い、母は笑っていた。
優衣香とは高校が別だった。公立高校に進むなら同じ高校のはずだったが、優衣香はバレーボールを続けたいからと私立の女子高に進んだ。
優衣香とは家が隣だから学校の行き帰りに会うこともあったし、休日は理志と遊びにうちに来ることもあった。
優衣香のことはもちろんずっと好きだったが、十七歳の俺は玲緒奈さんが綺麗なお姉さんで憧れた。それは優衣香への恋心とは違う感情だった。だが、それは警察学校に入るまでの青春の思い出となる。
俺が警察学校に入る直前に兄と玲緒奈さんは結婚したが、警察官として会った俺に玲緒奈さんは厳しかった。豹変した玲緒奈さんに驚いたが、兄は『これが標準だよ』と言っていた。
『警察官になったってことは、私の後輩ってこと。だから甘やかさないからね』
そう言う玲緒奈さんに、挨拶の声が小さいと手の甲で頬を叩かれた。俺は青春を返してくれと言いたかったが、言えなかった。
警察官にならなかった弟の理志のことは、今でも玲緒奈さんは溺愛している。
狂犬加藤も狂犬の親玉も知らない理志は、世界で一番幸せ者だと思う。
◇
武村と本城がコーヒーを全員分仕度してリビングへ戻って来ると、玲緒奈さんはコーヒーを置く順番、砂糖とミルクの個人の好みの数を淀みなく各々の前に置いていく武村と本城に口元を緩めていた。
二人が着席すると「さて、本題に入りましょうか」 と言い、打ち合わせが始まった。
そろそろ、姐さんが来る頃だろうか。
俺はウインドブレーカーを着て、マンションの外廊下まで出て姐さんを迎えようと玄関ドアを開けると、廊下の向こうから姐さんが歩いてくるのが見えた。
「お疲れさま。久しぶりだねー、出迎えありがとう」
姐さんはリュックを背負い、トランクを引いて大きな布製のバッグを肩にかけている。俺は『お疲れさまです。寒かったでしょう。さ、中へどうぞ』と言って中へ入ってもらうと、声がした。
「お疲れさまです!」
加藤奈緒、相澤裕典、葉梨将由、本城昇太、武村雅人の捜査員全員が、廊下で松永玲緒奈を出迎えている。
スリッパに履き替えて靴を揃えた姐さんは俺たちを見てこう言った。
「通れなくない? バカなの?」
幅九十センチ、長さ二メートル七十センチの廊下に五人がいる。狭い廊下にミッチミチで。
「おっしゃる通りです、玲緒奈さん」
――姐さん、みんな緊張し過ぎて正常な判断が出来ないんですよ。
リビングへ行くために皆が振り向き、俺はトランクを持って玲緒奈さんの前を歩き出した所で、玲緒奈さんが布製のバッグから何かを取り出した。
それは『ピッ』という呑気な音がして、同時に俺の肩に衝撃を感じた。痛くはないが、なぜそんなものを玲緒奈さんが持っているのかを考えながら振り向くと、ピコピコハンマーを手に持って上品な笑みを浮かべる玲緒奈さんはこう言った。
「ほら、今、いろいろウルサイじゃない、パワハラとかね。だからピコピコハンマーで叩けばいいかと思って」
――姐さんは、『叩かない』という選択をしないんですね。
「ええ、そうですね。おっしゃる通りです……さ、リビングへどうぞ」
振り向くと、ピコピコハンマーに怯える五人の警察官がいた。
――警察官も人の子だもんね。怖いものくらい、あるよね。
◇
リビングのドアの正面には大きなテーブルがある。これは長机を三つ合わせて大きなテーブルのようにしていた。
左手のキッチンに接するダイニング部分には座卓と座布団がある。テーブルに書類がある状態の場合は食事は座卓で食べるようにしているが、そこはすごく、昭和な雰囲気の趣のある一角となっている。みかんが乗っている鎌倉彫の菓子盆は俺が持ってきた。
「座卓? なんであるの?」
「ああ、これは……書類に味噌汁ぶちまけた奴がいましてね、それで食事は座卓で取るようにしているんですよ」
「あら、どなたがこぼしたの?」
――声音が変わった。ぼくこわい。
玲緒奈さんの目つきは変わらずだが、言葉遣いの上品メーターが上がった。そのメーターは数段階ある。
捜査員からの『松永め、余計なことを』と思っているだろうと思料される視線が突き刺さる。
普通ならそうだ。この場面でならミスを告げ口したと、松永は余計なことを言った、バカなのかと誰もが思うだろうが、今回に関しては、それは違う。
「相澤です」
そう言うと、狂犬の親玉の玲緒奈さんは途端に『優しい女の人』になり、声音も変わった。
「そっかぁー、裕くんがこぼしちゃったんだ。もー! ちゃんとみんなにごめんなさいしたの?」
「はい! しました!」
――姐さん、葉梨と本城がドン引きしてますよ。
葉梨と本城は、玲緒奈さんが狂犬加藤の産みの親だと知っているが、相澤を溺愛する姿は初めて見る。だがそれよりも、ただの『優しい女の人』を加藤が受け継いでいないことに驚いたようだ。二人は加藤を見ていた。
――奈緒ちゃんとばっちり。
椅子に座った玲緒奈さんは左に相澤を侍らせた。右には武村雅人が座ろうとしている。
――武村はチャレンジャー! すごいよ雅人さん!
玲緒奈さんの武村を見る目は優しい。まだ武村の素行は知らないのだろうか。俺が武村にやったことの原因は玲緒奈さんに言っていないが、知らないはずがない。だが、優しい目をしているから、玲緒奈さんには問題ないのだろう。
全員が席に着いた時、武村が玲緒奈さんにコーヒーを淹れると伝え、『ありがとう』と言うと、加藤も席を立った。その姿を見て、テーブルに置いたピコピコハンマーを手に取った玲緒奈さんは本城の頭を叩いた。
「痛っ! 俺ですかっ!?」
「そうよ?」
「でも玲緒奈さん、あの……私がやらないと」
「どうして?」
「えっと……女だから……」
その言葉に眉根を寄せた玲緒奈さんは加藤にキレた。さすが狂犬の親玉だ。思わず顔を伏せた。
玲緒奈さんの目つきが変わり、優しい声音で言葉遣いが上品になるのは、狂犬メーターが振り切れる寸前のサインだ。一種のアンガーマネジメントのようだが、結局はピコピコハンマーで引っ叩くからアンガーをマネジメント出来ていないじゃないかと思う。
「ちょっとお待ちになって。ねえ、一番下の武村さんがお茶の準備をなさるのよ? その手伝いをなさるなら、あなたではなくて、本城さんがやることではなくて? 違うかしら? ……ねえ、あなた。後輩の立場もあるのよ? おわかり?」
「あっ……はい、そうです、申し訳ございませんでした」
「ふふふ……ああ、それと本城さん、あなたもよ? 加藤さんがやるようだから自分は関係ないと思ったのかしら? 私はね、あなたがやるべきことだと、思いますのよ?」
「ヒィッ! そうです、俺です! 申し訳ございませんでした!」
本城はまたピコピコハンマーで頭を叩かれた。
――多分、『俺』じゃなくて『私』と言わなかったからだと思うよ。
三十歳の本城は反社にしか見えない見た目をしていて、リビングにいると組事務所にしか思えなくなるが、玲緒奈さんに説教されている姿は下っ端構成員にしか見えない。
玲緒奈さんはピコピコハンマーを置くと隣の相澤に向き、『裕くんはちゃんとしてるもんね、偉いね』と言い、『はい!』と元気よく答える相澤に優しく微笑んでいた。
俺はその相澤の姿を見て、十七歳の時に玲緒奈さんに初めて会った時のことを思い出した。
◇
俺の兄が二十歳の時、玲緒奈さんと結婚を前提としたお付き合いをしていると聞いた両親は、初めて玲緒奈さんを家に招いた。
その頃の俺にとって玲緒奈さんは綺麗なお姉さんだった。
当時俺は十七歳で、弟の理志は十歳だった。
綺麗なお姉さんに浮かれる理志を隣に座らせ、理志の話を一生懸命聞いている姿は今でも記憶に残っている。俺も話したかったが、理志がずっと話しているから話せなかった。だが玲緒奈さんはそれがわかっていて、理志の話を俺も話に加わることが出来るように誘導していた。優しいお姉さんだった。
当時、テレビCMで『綺麗なお姉さんは好きですか』がキャッチコピーのCMがあった。
理志とテレビを見ている時にそれが流れると、二人で頷いて、理志は『うん! 好き!』と大声で言い、母は笑っていた。
優衣香とは高校が別だった。公立高校に進むなら同じ高校のはずだったが、優衣香はバレーボールを続けたいからと私立の女子高に進んだ。
優衣香とは家が隣だから学校の行き帰りに会うこともあったし、休日は理志と遊びにうちに来ることもあった。
優衣香のことはもちろんずっと好きだったが、十七歳の俺は玲緒奈さんが綺麗なお姉さんで憧れた。それは優衣香への恋心とは違う感情だった。だが、それは警察学校に入るまでの青春の思い出となる。
俺が警察学校に入る直前に兄と玲緒奈さんは結婚したが、警察官として会った俺に玲緒奈さんは厳しかった。豹変した玲緒奈さんに驚いたが、兄は『これが標準だよ』と言っていた。
『警察官になったってことは、私の後輩ってこと。だから甘やかさないからね』
そう言う玲緒奈さんに、挨拶の声が小さいと手の甲で頬を叩かれた。俺は青春を返してくれと言いたかったが、言えなかった。
警察官にならなかった弟の理志のことは、今でも玲緒奈さんは溺愛している。
狂犬加藤も狂犬の親玉も知らない理志は、世界で一番幸せ者だと思う。
◇
武村と本城がコーヒーを全員分仕度してリビングへ戻って来ると、玲緒奈さんはコーヒーを置く順番、砂糖とミルクの個人の好みの数を淀みなく各々の前に置いていく武村と本城に口元を緩めていた。
二人が着席すると「さて、本題に入りましょうか」 と言い、打ち合わせが始まった。