R-15
幕間 おにぎり派の忠告
「本城は、砂糖二本とミルク二つ、だったよね?」
そう言いながら、玲緒奈さんは俺の前にコーヒーカップを置いた。湯気と共に立ち上る香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとうございます」
「いいのよー」
玲緒奈さんは俺の後ろを通り過ぎ、昭和感あふれる座卓コーナーに座った。
捜査員用のマンションでは長机を並べてテーブル代わりにしているが、相澤さんが味噌汁を溢して書類にぶちまけたから食事は座卓で食べるようにしている。
座卓にある鎌倉彫の菓子盆は松永敬志さんの結婚式の引き出物で、松永さんが何度捨てても気づくと手元に戻って来ているという、松永さんラブな菓子盆だ。
その菓子盆からベランダの窓へ目線を動かした。
窓の外は快晴で、雲一つない青空が広がっている。冬の寒さなど微塵も感じさせないような天気だ。暖房の効いた部屋の中だが、この暖かな陽射しもあってなおさら心地よく感じられる。今日も穏やかで平和な一日になりそうな予感がした。
◇
玲緒奈さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながらパソコンで作業をしているが、視界の端に振り向いて俺を見る玲緒奈さんがいた。
何かと思い視線を玲緒奈さんにやると、『本城ってさ、サンドウイッチ好きだよね?』と言う。
最近は卵のサンドウイッチにチキンを挟んで食べるのが好きだ。チキンを挟んだだけなのに、満足感の得られるサンドウイッチになる。
それは署の隣のコンビニではなく、少し離れたコンビニの女性店員が教えてくれて、もちろん俺はその女性店員に恋をした。でもまたすぐに加藤さんに見つかり、『バカなの?』と言われた。
加藤さんの言う『バカなの?』は、一般女性の言う『こんにちは、いいお天気ですね』と同じ意味だと松永さんから言われて納得しているが、加藤さんは、『お釣り返す時に男性客の手のひらを包むような店員って、私らの仕事増やしてると思わないの?』と続けた。
確かにそうだ。色恋営業のようなものだ。
勘違いした男性客がストーカーとなり、性被害や刃傷沙汰になって俺らが臨場する。
――仕事が増えて、休みが減る。最悪だ。
そうやって俺の恋はまた秒で終わったが、サンドウイッチにチキンを挟むライフハックには何の罪もないから、俺はチキンを挟んでいる。
「サンドウイッチ好きです」
「近くに小さいパン屋さんあるの知ってる?」
捜査員用のマンション近隣は中華街で、肉まんや甘栗なら売っているが、パン屋はあっただろうか。近隣を思い出しても記憶が無い。
「知らないです」
「学校に納入してるパン屋さんみたいでさ、コッペパンとかロールパンに卵とかコロッケとか挟んである、なんか懐かしい感じのパンしか無いんだけど、美味しいよ」
「そうなんですか」
ちょうど昼時だ。玲緒奈さんに教えられたパン屋に俺も行ってみることにした。
◇
捜査員用のマンションを出て石川町駅方向へ三分ほど歩いた所にそのパン屋はあった。
そのパン屋はお店かと思ったが、商品什器が路面に面しているお店で、什器に並ぶパンは玲緒奈さんが言っていた通りの懐かしい感じのパンだった。
「いらっしゃいませ」
「ああ、えっと……」
「んふふふ……ごゆっくりお選び下さい」
優しげな声に顔を上げると、艶やかな黒髪をポニーテールにしている三角巾をした女性店員が微笑んでいた。
――キミの瞳を、逮捕する。
また俺は恋に落ちた。
◇
恋をすると世界が光り輝く。
緑が美しい。空が、太陽が、全てが美しい。
植栽の下にあるゴミも美しいし、マジギレしてピコピコハンマーで引っ叩いてくる玲緒奈さんですら美しく輝いて見える。
俺は彼女に恋をしてから毎日が楽しい。
恋をしていない時は、痴情のもつれ事案に振り回されるとうんざりする。この世から恋愛感情が無くなれば警察業務の半分は無くなるだろうと思っているし、そうすれば休みも、有休休暇も取れるだろう。
休みたい、ただそれだけを考えて、見知らぬ男女の痴情のもつれに振り回されている。
でも恋をすると一変する。全てが愛しく思えるのだ。
恋をすると自分比二割増しで全力対応する俺を加藤さんは手の甲で引っ叩いてくるが、しょうがないじゃないか、おまわりさんも人間だもの――。
◇
玲緒奈さんが教えてくれたパン屋で彼女に一目惚れしてからというもの、俺は毎日のようにそのパン屋へ通った。
彼女の名前を、俺はまだ知らない。だって名札をしていないから。
名前を聞いてみようかな。でもどうやって聞こうか。そんなことを考えるのも幸せな時間だ。
だがしかし、この恋もまた加藤さんにすぐバレてしまうのだろうか。それだけは避けたい。絶対に。
そんなことを考えながら、今日もパン屋まで来た。
――あ、松永さんだ。
サンドウイッチよりもおにぎり派の松永さんがパン屋にいるなんて珍しいなと思ったが、なんとなく隠れた方がいいと思って隠れて見ていると、松永さんと彼女の話し声が聞こえた。
「いつもありがとうございます。でもうちのパンだけじゃ足りないんじゃないんですか?」
「……パンだけじゃない、から」
彼女の瞳は松永さんに逮捕されていた。
ああ、あれか。『キミに会いに来ているんだよ』みたいな意味か。この色男め。
彼女は漫画にあるような『キュン』みたいな顔してキラキラおめめで松永さんを見つめているじゃないか。
イケメンの松永さんに見つめられてそんなことを言われたら女なんてみんな『キュン』ってするだろう。しないで『バカなんですか?』と言うのは狂犬の加藤さんくらいだ。
だが俺は思った。ついに、ついに松永さんは再始動したのか、と。
ここ数年はすっごく大人しくなったが、松永さんは女を食い散らかす人だ。たまに女がお門違いな署に来て暴れて大惨事になる。いつか彼女も般若顔で暴れるのか――。
松永さんはパンが入った紙袋を持って、捜査員用のマンションとは反対側へ歩いていった。
俺はその後ろ姿を見ていたが、五年前にその女の確保に向かったものの、暴れる女からボッコボコにされた記憶が蘇ってきた。
公務労災で休もうとしたら須藤さんから『仕事増やすのやめてくれない?』と言われた記憶――。
そんなしょんぼり事案は頭の片隅に追いやり、俺はパン屋へ行った。
「いらっしゃいませ」
「ああ……こんにちは」
松永さんのせいなのだろう、いつもより笑顔の彼女は可愛い。でも俺だって松永さんよりいい所はある。俺は彼女に一途だ。食い散らかしたりしない。
「今日もいつものですか?」
「えっ、ああ、はい。そうします」
彼女は微笑んで、俺がいつも注文するロールパンの卵とツナ、コロッケのコッペパンを取り出した。
袋詰めしながら彼女は、『うちのパンだけじゃ足りないんじゃないんですか?』と言った。
――チャンスだ。チャンスがやってきた!
「ああ、ふっ……俺はパンだけじゃない、から……」
そう言って彼女の瞳を見た。
彼女は微笑んでいる。
松永さんみたいにイケメンじゃないが、俺だって悪くないはずだ。見た目は反社だけど、仕事じゃない時は爽やかな笑顔で人当たりのいい反社だし。
「あ、おにぎりとかカップ麺とかも食べてるんですか?」
「んんっ!?」
◇
イケメンと反社ヅラはこんなにも対応に差があるのかと思いながら捜査員用のマンションに帰ろうとパン屋を後にして、角を曲がった時だった。松永さんが俺を見ていた。
「お疲れ」
「……お疲れさまです」
――俺を待っていたのだろうか。
だとしたらパン屋の近くで隠れていたこともバレているのだろうかと考えていると、歩き始めた松永さんは優しげな笑顔で口を開いた。
「フォーリンラブでウッキウキの所に悪いんだけど、あの子はやめときな」
なぜバレているのだろうか。なぜバレているのだろうか。あまりに動揺しすぎて俺は同じ言葉を二度も心の中で言ってしまった――。
「あの子、三回結婚して、旦那は若いのに三人とも死んでる。保険金詐欺の線もあって……まあ、シロだけど」
――えっらい重いじゃないか。
「えっと、その捜査、してたんですか?」
「いや、あの子の兄ちゃんは俺の情報提供者だから」
「おっと……」
「死んでもいいってくらい惚れてるなら俺は止めないよ」
そう言い残し、松永さんは俺を残して去って行った。
俺には彼女しかいない……そう思っていたが、俺はまだ死にたくない。
だがしかし、彼女の兄貴が松永さんの情報提供者だということはわかった。手をつけちゃダメな女性――。
――警察官になりたかったけど、警察官になるんじゃなかった。
誰にも知られない恋をしたいと、俺は思った。
そうだ、アプリだ。アプリで探そう。俺はそう思った。
痴情のもつれ事案でちょいちょい出てくるアプリ、正しく使えば、大丈夫――。
そう言いながら、玲緒奈さんは俺の前にコーヒーカップを置いた。湯気と共に立ち上る香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとうございます」
「いいのよー」
玲緒奈さんは俺の後ろを通り過ぎ、昭和感あふれる座卓コーナーに座った。
捜査員用のマンションでは長机を並べてテーブル代わりにしているが、相澤さんが味噌汁を溢して書類にぶちまけたから食事は座卓で食べるようにしている。
座卓にある鎌倉彫の菓子盆は松永敬志さんの結婚式の引き出物で、松永さんが何度捨てても気づくと手元に戻って来ているという、松永さんラブな菓子盆だ。
その菓子盆からベランダの窓へ目線を動かした。
窓の外は快晴で、雲一つない青空が広がっている。冬の寒さなど微塵も感じさせないような天気だ。暖房の効いた部屋の中だが、この暖かな陽射しもあってなおさら心地よく感じられる。今日も穏やかで平和な一日になりそうな予感がした。
◇
玲緒奈さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながらパソコンで作業をしているが、視界の端に振り向いて俺を見る玲緒奈さんがいた。
何かと思い視線を玲緒奈さんにやると、『本城ってさ、サンドウイッチ好きだよね?』と言う。
最近は卵のサンドウイッチにチキンを挟んで食べるのが好きだ。チキンを挟んだだけなのに、満足感の得られるサンドウイッチになる。
それは署の隣のコンビニではなく、少し離れたコンビニの女性店員が教えてくれて、もちろん俺はその女性店員に恋をした。でもまたすぐに加藤さんに見つかり、『バカなの?』と言われた。
加藤さんの言う『バカなの?』は、一般女性の言う『こんにちは、いいお天気ですね』と同じ意味だと松永さんから言われて納得しているが、加藤さんは、『お釣り返す時に男性客の手のひらを包むような店員って、私らの仕事増やしてると思わないの?』と続けた。
確かにそうだ。色恋営業のようなものだ。
勘違いした男性客がストーカーとなり、性被害や刃傷沙汰になって俺らが臨場する。
――仕事が増えて、休みが減る。最悪だ。
そうやって俺の恋はまた秒で終わったが、サンドウイッチにチキンを挟むライフハックには何の罪もないから、俺はチキンを挟んでいる。
「サンドウイッチ好きです」
「近くに小さいパン屋さんあるの知ってる?」
捜査員用のマンション近隣は中華街で、肉まんや甘栗なら売っているが、パン屋はあっただろうか。近隣を思い出しても記憶が無い。
「知らないです」
「学校に納入してるパン屋さんみたいでさ、コッペパンとかロールパンに卵とかコロッケとか挟んである、なんか懐かしい感じのパンしか無いんだけど、美味しいよ」
「そうなんですか」
ちょうど昼時だ。玲緒奈さんに教えられたパン屋に俺も行ってみることにした。
◇
捜査員用のマンションを出て石川町駅方向へ三分ほど歩いた所にそのパン屋はあった。
そのパン屋はお店かと思ったが、商品什器が路面に面しているお店で、什器に並ぶパンは玲緒奈さんが言っていた通りの懐かしい感じのパンだった。
「いらっしゃいませ」
「ああ、えっと……」
「んふふふ……ごゆっくりお選び下さい」
優しげな声に顔を上げると、艶やかな黒髪をポニーテールにしている三角巾をした女性店員が微笑んでいた。
――キミの瞳を、逮捕する。
また俺は恋に落ちた。
◇
恋をすると世界が光り輝く。
緑が美しい。空が、太陽が、全てが美しい。
植栽の下にあるゴミも美しいし、マジギレしてピコピコハンマーで引っ叩いてくる玲緒奈さんですら美しく輝いて見える。
俺は彼女に恋をしてから毎日が楽しい。
恋をしていない時は、痴情のもつれ事案に振り回されるとうんざりする。この世から恋愛感情が無くなれば警察業務の半分は無くなるだろうと思っているし、そうすれば休みも、有休休暇も取れるだろう。
休みたい、ただそれだけを考えて、見知らぬ男女の痴情のもつれに振り回されている。
でも恋をすると一変する。全てが愛しく思えるのだ。
恋をすると自分比二割増しで全力対応する俺を加藤さんは手の甲で引っ叩いてくるが、しょうがないじゃないか、おまわりさんも人間だもの――。
◇
玲緒奈さんが教えてくれたパン屋で彼女に一目惚れしてからというもの、俺は毎日のようにそのパン屋へ通った。
彼女の名前を、俺はまだ知らない。だって名札をしていないから。
名前を聞いてみようかな。でもどうやって聞こうか。そんなことを考えるのも幸せな時間だ。
だがしかし、この恋もまた加藤さんにすぐバレてしまうのだろうか。それだけは避けたい。絶対に。
そんなことを考えながら、今日もパン屋まで来た。
――あ、松永さんだ。
サンドウイッチよりもおにぎり派の松永さんがパン屋にいるなんて珍しいなと思ったが、なんとなく隠れた方がいいと思って隠れて見ていると、松永さんと彼女の話し声が聞こえた。
「いつもありがとうございます。でもうちのパンだけじゃ足りないんじゃないんですか?」
「……パンだけじゃない、から」
彼女の瞳は松永さんに逮捕されていた。
ああ、あれか。『キミに会いに来ているんだよ』みたいな意味か。この色男め。
彼女は漫画にあるような『キュン』みたいな顔してキラキラおめめで松永さんを見つめているじゃないか。
イケメンの松永さんに見つめられてそんなことを言われたら女なんてみんな『キュン』ってするだろう。しないで『バカなんですか?』と言うのは狂犬の加藤さんくらいだ。
だが俺は思った。ついに、ついに松永さんは再始動したのか、と。
ここ数年はすっごく大人しくなったが、松永さんは女を食い散らかす人だ。たまに女がお門違いな署に来て暴れて大惨事になる。いつか彼女も般若顔で暴れるのか――。
松永さんはパンが入った紙袋を持って、捜査員用のマンションとは反対側へ歩いていった。
俺はその後ろ姿を見ていたが、五年前にその女の確保に向かったものの、暴れる女からボッコボコにされた記憶が蘇ってきた。
公務労災で休もうとしたら須藤さんから『仕事増やすのやめてくれない?』と言われた記憶――。
そんなしょんぼり事案は頭の片隅に追いやり、俺はパン屋へ行った。
「いらっしゃいませ」
「ああ……こんにちは」
松永さんのせいなのだろう、いつもより笑顔の彼女は可愛い。でも俺だって松永さんよりいい所はある。俺は彼女に一途だ。食い散らかしたりしない。
「今日もいつものですか?」
「えっ、ああ、はい。そうします」
彼女は微笑んで、俺がいつも注文するロールパンの卵とツナ、コロッケのコッペパンを取り出した。
袋詰めしながら彼女は、『うちのパンだけじゃ足りないんじゃないんですか?』と言った。
――チャンスだ。チャンスがやってきた!
「ああ、ふっ……俺はパンだけじゃない、から……」
そう言って彼女の瞳を見た。
彼女は微笑んでいる。
松永さんみたいにイケメンじゃないが、俺だって悪くないはずだ。見た目は反社だけど、仕事じゃない時は爽やかな笑顔で人当たりのいい反社だし。
「あ、おにぎりとかカップ麺とかも食べてるんですか?」
「んんっ!?」
◇
イケメンと反社ヅラはこんなにも対応に差があるのかと思いながら捜査員用のマンションに帰ろうとパン屋を後にして、角を曲がった時だった。松永さんが俺を見ていた。
「お疲れ」
「……お疲れさまです」
――俺を待っていたのだろうか。
だとしたらパン屋の近くで隠れていたこともバレているのだろうかと考えていると、歩き始めた松永さんは優しげな笑顔で口を開いた。
「フォーリンラブでウッキウキの所に悪いんだけど、あの子はやめときな」
なぜバレているのだろうか。なぜバレているのだろうか。あまりに動揺しすぎて俺は同じ言葉を二度も心の中で言ってしまった――。
「あの子、三回結婚して、旦那は若いのに三人とも死んでる。保険金詐欺の線もあって……まあ、シロだけど」
――えっらい重いじゃないか。
「えっと、その捜査、してたんですか?」
「いや、あの子の兄ちゃんは俺の情報提供者だから」
「おっと……」
「死んでもいいってくらい惚れてるなら俺は止めないよ」
そう言い残し、松永さんは俺を残して去って行った。
俺には彼女しかいない……そう思っていたが、俺はまだ死にたくない。
だがしかし、彼女の兄貴が松永さんの情報提供者だということはわかった。手をつけちゃダメな女性――。
――警察官になりたかったけど、警察官になるんじゃなかった。
誰にも知られない恋をしたいと、俺は思った。
そうだ、アプリだ。アプリで探そう。俺はそう思った。
痴情のもつれ事案でちょいちょい出てくるアプリ、正しく使えば、大丈夫――。