R-15
空いたグラス
一月十七日 午前二時四十分
相澤裕典と野川里奈は、捜査員用のマンションに戻ろうとしていた。
「相澤さん」
後ろからかけられた言葉に振り返った相澤は、マフラーで顔の半分を隠した野川里奈を見た。寒さのせいか頬が赤く染まっている彼女の吐く息は白く、夜空へと消えていく。
「寒い?」
「えっ……はいっ!」
「あー、じゃ、こっちおいで」
マンションまではあと十五分で着くが、すでに二人は一時間以上も歩き続けている。野川は疲れているようだった。
野川は慣れないヒールにフレアースカート、ショート丈のコート姿で、お洒落を優先させたせいで防寒は出来ていない。
相澤は野川に手を差し出すが、躊躇する。少しの間の後で二人は手を繋いだが、野川は相澤をちらちらと見る。それを見た相澤は手を解きダウンコートを脱いで、野川のコートの上から覆い、袖をウエスト部分に結んだ。
「疲れたでしょ? おんぶするよ」
「ええっ!? でも……」
「いいから。背中に野川がいれば俺も寒くないし」
「ああ……はい……すみません」
相澤は野川に背を向けてしゃがむと、野川が体を預けた。立ち上がり、歩き出すが、野川は頭の置き場に悩んでいるようだった。
「あの、相澤さん」
「なに?」
「すみません、本当に。ご迷惑おかけして……」
「いいんだよ、疲れたでしょ」
「はい……」
野川は遠慮がちに相澤のネックウォーマーへ顔をつけた。それを見た相澤は口元を緩め、優しく声をかける。
「玲緒奈さんと加藤は普段からトレーニングしてるけど、野川までやることはないからね。野川は辛かったら言えばいいんだよ」
◇
午前二時四十五分
バーの帰り道、食べ過ぎた俺は腹が苦しかった。葉梨は足りなかったようで、望月からもらった煎餅を食べながら歩いている。
「葉梨って、柔道じゃないよね?」
「ええ、俺はグレ――」
進行方向先、約百メートル先にある交差点の角の暗がりから、若干上半身を前傾させた大きなリュックを背負った男が出てきた。葉梨も煎餅を頬張りながら見ている。
「子泣き爺って、おんぶだっけ?」
「……うーん、抱っこ、だった気がします」
ぼんやりと浮かび上がるシルエットだけを見ていると妖怪にしか見えなかったが、街灯の灯りが微かにその男に届いた時、俺も葉梨も驚いた。
「おっと……アイツまたすっ転んだのか?」
「かも知れませんね」
◇
同時刻
捜査員用のマンションのリビングに松永玲緒奈は一人でいた。加藤奈緒は仮眠室で寝ているが、そろそろ起きる時間だ。
松永玲緒奈は捜査員が上げた本部提出用の書類に目を通しているが、殆ど全ての書類に赤ペンで添削していた。
添削が終わって天井を見上げて溜め息を吐いた時、仮眠室のドアが開き、洗面所のドアが開く音がした。
その音を聞き、傍らのマグボトルのフタを開け、飲み物を少しだけ飲んだ。
テーブルに広げた書類をまとめ、トレーに入れてから立ち上がり、キッチンへ向かう。
グラスとミネラルウォーターを持って戻ると加藤奈緒がリビングのドアを開けた。
「おはよー」
「おはようございます」
「水、飲む?」
「はい、いただきます」
二人とも着席し、松永玲緒奈はグラスにミネラルウォーターを注ぎ、加藤奈緒の前に置いた。
「奈緒ちゃん、裕くんと……」
「……はい。しました」
「そっか。奈緒ちゃんはもう、気持ちを切り替えたの?」
「はい。裕くんで、よかったと思ってます」
「そっか」
加藤奈緒はグラスに注がれたミネラルウォーターを半分飲み、テーブルにグラスを置いた。
松永玲緒奈はグラスを見つめる加藤奈緒の姿を見ていた。
「あの、玲緒奈さん」
「なにー?」
「松永さ……あ、あの敬志さんの件……」
「ああ、いい。聞かないよ」
「でも……」
加藤奈緒は顔を上げて松永玲緒奈の顔を見たが、目を伏せてしまった。
「私は聞かない。あのさ、敬志はあんたに何もしなかったんでしょ?」
「はい」
「ならいい。それだけわかれば私はいいの」
松永玲緒奈は加藤奈緒のグラスにミネラルウォーターを注いだ。
「じゃあさ、一つだけ聞かせてよ」
「はい」
「敬志が言ってたこと……敬志はあんたに本気だったってやつ。あれ、本当?」
「……確かに、そう、おっしゃってました」
「で、あんたは絆されて、敬志に襲われた、と」
「うっ……」
怯えた目をする加藤奈緒に、松永玲緒奈は口元に笑みを浮かべたまま見つめていた。
「あの敬志が挫けるわけがない……でも、何もされなかったんでしょ?」
「はい……望月さんにお願いして潰してもらいました」
その言葉に目を見開いた松永玲緒奈は、笑いを堪えながら肩を震わせていた。
◇◇◇
野川の足をコートで包み、おんぶする相澤の姿を見ていると、葉梨が話しかけてきた。
「加藤さんは、相澤さんのああいう優しさに惹かれたんですかね」
加藤が相澤をなぜ好きになったのかを聞いた時、加藤は首を傾げながら、『多分、お姫様抱っこされたからです』と答えていた。
恋に落ちる理由などそんなもんだろうと俺は思った。俺だって優衣香の髪が風に揺れてたからだし。
「何が言いたいの?」
「……やっぱり不安で」
「なんでよ?」
「お二人は同期でずっと一緒だったわけですから」
恋の始まりは不安がつきものだ。俺だって本当に優衣香が俺をずっと好きでいてくれるのか不安で堪らない。
「なあ、相澤が優しいのは、加藤にだけじゃないんだよ。男女問わず、周囲の人間全員に優しい。それは知ってるだろう?」
「はい。俺にも優しい先輩です」
「加藤は、自分だけを見てくれるお前がいいに決まってる」
「……そうですか」
「加藤はお前しか見てないよ」
不安そうな顔をする葉梨を見ていると、俺も不安になってくる。
――始めたら、終わりがある。
「なあ、葉梨」
「はい!」
「もうさ、プロポーズしちゃおうよ」
「ええっ!?」
「俺も、する」
「ええっ!?」
終わらなければいい。
終わらない恋をすれば、いい。
「あー、でもまだ俺ら、ヤッてねえな、そういや」
「んふっ……そうですね」
「じゃ、ヤッてからプロポーズしよう。賢者タイムに言うと女は信用するよ」
「ちょっ!? 今まで何言ってきたんですかっ!?」
「……まあ、いろいろ、と、ね?」
さっきまで不安そうな顔をしていた葉梨は、少し眉根を寄せて真っすぐ見つめている。きっと、『お前は何を言っているんだ』とでも言いたいが先輩の俺には言えないから顔だけでアピールしているのだろう。
そんな真面目な葉梨くんが加藤の恋人で本当によかったと思う。ほんの少しだけ、信頼は失くした気がするが。
― 第7章・了 ―
相澤裕典と野川里奈は、捜査員用のマンションに戻ろうとしていた。
「相澤さん」
後ろからかけられた言葉に振り返った相澤は、マフラーで顔の半分を隠した野川里奈を見た。寒さのせいか頬が赤く染まっている彼女の吐く息は白く、夜空へと消えていく。
「寒い?」
「えっ……はいっ!」
「あー、じゃ、こっちおいで」
マンションまではあと十五分で着くが、すでに二人は一時間以上も歩き続けている。野川は疲れているようだった。
野川は慣れないヒールにフレアースカート、ショート丈のコート姿で、お洒落を優先させたせいで防寒は出来ていない。
相澤は野川に手を差し出すが、躊躇する。少しの間の後で二人は手を繋いだが、野川は相澤をちらちらと見る。それを見た相澤は手を解きダウンコートを脱いで、野川のコートの上から覆い、袖をウエスト部分に結んだ。
「疲れたでしょ? おんぶするよ」
「ええっ!? でも……」
「いいから。背中に野川がいれば俺も寒くないし」
「ああ……はい……すみません」
相澤は野川に背を向けてしゃがむと、野川が体を預けた。立ち上がり、歩き出すが、野川は頭の置き場に悩んでいるようだった。
「あの、相澤さん」
「なに?」
「すみません、本当に。ご迷惑おかけして……」
「いいんだよ、疲れたでしょ」
「はい……」
野川は遠慮がちに相澤のネックウォーマーへ顔をつけた。それを見た相澤は口元を緩め、優しく声をかける。
「玲緒奈さんと加藤は普段からトレーニングしてるけど、野川までやることはないからね。野川は辛かったら言えばいいんだよ」
◇
午前二時四十五分
バーの帰り道、食べ過ぎた俺は腹が苦しかった。葉梨は足りなかったようで、望月からもらった煎餅を食べながら歩いている。
「葉梨って、柔道じゃないよね?」
「ええ、俺はグレ――」
進行方向先、約百メートル先にある交差点の角の暗がりから、若干上半身を前傾させた大きなリュックを背負った男が出てきた。葉梨も煎餅を頬張りながら見ている。
「子泣き爺って、おんぶだっけ?」
「……うーん、抱っこ、だった気がします」
ぼんやりと浮かび上がるシルエットだけを見ていると妖怪にしか見えなかったが、街灯の灯りが微かにその男に届いた時、俺も葉梨も驚いた。
「おっと……アイツまたすっ転んだのか?」
「かも知れませんね」
◇
同時刻
捜査員用のマンションのリビングに松永玲緒奈は一人でいた。加藤奈緒は仮眠室で寝ているが、そろそろ起きる時間だ。
松永玲緒奈は捜査員が上げた本部提出用の書類に目を通しているが、殆ど全ての書類に赤ペンで添削していた。
添削が終わって天井を見上げて溜め息を吐いた時、仮眠室のドアが開き、洗面所のドアが開く音がした。
その音を聞き、傍らのマグボトルのフタを開け、飲み物を少しだけ飲んだ。
テーブルに広げた書類をまとめ、トレーに入れてから立ち上がり、キッチンへ向かう。
グラスとミネラルウォーターを持って戻ると加藤奈緒がリビングのドアを開けた。
「おはよー」
「おはようございます」
「水、飲む?」
「はい、いただきます」
二人とも着席し、松永玲緒奈はグラスにミネラルウォーターを注ぎ、加藤奈緒の前に置いた。
「奈緒ちゃん、裕くんと……」
「……はい。しました」
「そっか。奈緒ちゃんはもう、気持ちを切り替えたの?」
「はい。裕くんで、よかったと思ってます」
「そっか」
加藤奈緒はグラスに注がれたミネラルウォーターを半分飲み、テーブルにグラスを置いた。
松永玲緒奈はグラスを見つめる加藤奈緒の姿を見ていた。
「あの、玲緒奈さん」
「なにー?」
「松永さ……あ、あの敬志さんの件……」
「ああ、いい。聞かないよ」
「でも……」
加藤奈緒は顔を上げて松永玲緒奈の顔を見たが、目を伏せてしまった。
「私は聞かない。あのさ、敬志はあんたに何もしなかったんでしょ?」
「はい」
「ならいい。それだけわかれば私はいいの」
松永玲緒奈は加藤奈緒のグラスにミネラルウォーターを注いだ。
「じゃあさ、一つだけ聞かせてよ」
「はい」
「敬志が言ってたこと……敬志はあんたに本気だったってやつ。あれ、本当?」
「……確かに、そう、おっしゃってました」
「で、あんたは絆されて、敬志に襲われた、と」
「うっ……」
怯えた目をする加藤奈緒に、松永玲緒奈は口元に笑みを浮かべたまま見つめていた。
「あの敬志が挫けるわけがない……でも、何もされなかったんでしょ?」
「はい……望月さんにお願いして潰してもらいました」
その言葉に目を見開いた松永玲緒奈は、笑いを堪えながら肩を震わせていた。
◇◇◇
野川の足をコートで包み、おんぶする相澤の姿を見ていると、葉梨が話しかけてきた。
「加藤さんは、相澤さんのああいう優しさに惹かれたんですかね」
加藤が相澤をなぜ好きになったのかを聞いた時、加藤は首を傾げながら、『多分、お姫様抱っこされたからです』と答えていた。
恋に落ちる理由などそんなもんだろうと俺は思った。俺だって優衣香の髪が風に揺れてたからだし。
「何が言いたいの?」
「……やっぱり不安で」
「なんでよ?」
「お二人は同期でずっと一緒だったわけですから」
恋の始まりは不安がつきものだ。俺だって本当に優衣香が俺をずっと好きでいてくれるのか不安で堪らない。
「なあ、相澤が優しいのは、加藤にだけじゃないんだよ。男女問わず、周囲の人間全員に優しい。それは知ってるだろう?」
「はい。俺にも優しい先輩です」
「加藤は、自分だけを見てくれるお前がいいに決まってる」
「……そうですか」
「加藤はお前しか見てないよ」
不安そうな顔をする葉梨を見ていると、俺も不安になってくる。
――始めたら、終わりがある。
「なあ、葉梨」
「はい!」
「もうさ、プロポーズしちゃおうよ」
「ええっ!?」
「俺も、する」
「ええっ!?」
終わらなければいい。
終わらない恋をすれば、いい。
「あー、でもまだ俺ら、ヤッてねえな、そういや」
「んふっ……そうですね」
「じゃ、ヤッてからプロポーズしよう。賢者タイムに言うと女は信用するよ」
「ちょっ!? 今まで何言ってきたんですかっ!?」
「……まあ、いろいろ、と、ね?」
さっきまで不安そうな顔をしていた葉梨は、少し眉根を寄せて真っすぐ見つめている。きっと、『お前は何を言っているんだ』とでも言いたいが先輩の俺には言えないから顔だけでアピールしているのだろう。
そんな真面目な葉梨くんが加藤の恋人で本当によかったと思う。ほんの少しだけ、信頼は失くした気がするが。
― 第7章・了 ―