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作者: 風森愛
R-15
幕間 言葉足らずの乙女心
 午後四時五十八分

 ――この世は不条理だ。

 私は今、リビングにある全身が映る大きな鏡で自分を見ている。

 ネット通販で買ったものを着て大きな鏡で見ているが、着用画像では裾が骨盤を覆っていたのに私が着たら臍が見えている。どういうことだ。

 原因はわかっている。私の背が高いからだ。
 一昨年の健康診断で身長は一メートル六十八センチだったが、昨年の健康診断では一センチ伸びていた。おそらく原因は懸垂マシンだろう。

 ――今年は大台に乗るのか?

 大丈夫だ。大台に乗ったところで葉梨は一メートル八十五センチだ。大丈夫、超えない。まだ、大丈夫。それだけは安心していいだろう。
 だが、ネット通販で買ったこれはどうなのか。臍が見えているのだ。小さい女の子ならば大成功だったろうが、いかんせん私はデカい女だ。やはり失敗だったのだ。臍が見えている。

 ――この世は不条理だ。

 先週、私はネットで『初エッチで男性が彼女に着て欲しいランジェリー』というタイトルの記事を読んでいたのだが、そこに書かれていた男性は全員、違うことを言っていた。なんの参考にもならないじゃないか。そう思った。
 仕方なく私はベビードールがいいだろうと考えて、ネット通販で商品を見て、買った。

 だがそれが、これで、臍が見えている。
 ネットで調べた私の努力は、水の泡――。

 ――この世は不条理だ。

 実は、参考にしたいからと松永さんに質問をしたのだが、結論から言えばそれも失敗だったのだ。今思えば、初っぱなの人選の時点で私は間違えている。

 彼女からまだおあずけを食らっていて悶々としている松永さんに彼女が着ていたら嬉しいランジェリーを聞いてみると、松永さんは元気よく『全裸』と言い、聞かなきゃよかったと思った。だが、『葉梨は喜ぶと思うから、本人に聞いてみたら?』と言ったのだ。
 そんなこと恥ずかしくて聞けないだろう。聞けないから調べたのだ。葉梨に聞けないから松永さんに聞いたのだ。だから松永さんに女心をわかっていないと抗議すると、『なんで俺に聞くのは恥ずかしくないの?』と呆れられた。ごもっともだ。

 仕方ない、松永さんの言う通りに葉梨に聞いてみよう。写真を撮って、葉梨に送ってみるか。
 葉梨の好みのランジェリーはどういうものなのだろうか。
 これは葉梨の新しい一面を知ることになるコミュニケーションだ。私は頬が緩んだ。


 ◇


 葉梨にこのベビードールを平置きして真上から撮った写真をメッセージアプリで送信した。『これはどう?』とメッセージを送ったのだが、葉梨は『証拠品ですか?』と返してきた。

 ――違う、そうじゃない。

 そうか、フローリングに平置きするのはなんとなく嫌で、このマットに平置きしたのがいけなかったのか。
 実家で父から何かに使うだろうと言われて持たされた、透明なデスクマットの下に敷くこのグリーンのマットがよくなかったのか。
 ああ、言われてみれば確かに証拠品の写真のようだ。まるでランパブの摘発事案――。

 ――お父さん、床に転がってるケトルベルを置くよ。

 やはりフローリングに平置きはなんとなく嫌だから、私は畳の上にベビードールを置き、正座して写真を撮り、それを葉梨に送った。『こっちは?』とメッセージを送ると、返ってきたメッセージは『押収品展示ですか?』だった。

 ――違う、そうじゃない。

 だが、言われてみれば確かに押収品展示のようだ。
 新人の頃、窃盗未遂で逮捕した男性宅から押収した大量の女性用下着をひたすら道場に並べたことがある。
 私が適当に並べていると、玲緒奈さんや先輩たちから上下セットにしろとか色を揃えてグラデーションになるように並べろとか面倒なことを言われながら相澤と一緒に道場に並べていた。

 相澤はゴリラだが、ああ見えても几帳面だ。一生懸命並べながら、『ピンクってこんなに色があるんだね』と、ガーターベルトを手に持ち、女性用下着を上下セットにしようと神経衰弱をしながら言っていた。
 私は疲労と睡眠不足でフラフラしながらそれを聞いていたせいか、出てきた言葉が『ピンクって二百色あんねん』だった。
 相澤は眉根を寄せて私を真っすぐ見つめていたが、何も言わなかった。相澤も疲れていたのだろう。

 その会見のニュースを見た父は私が勤務する所轄だと気づき連絡を寄越したが、『私が並べたんだよ』と誇らしげに言うと絶句していた。私は褒められると思ったのだが、今思えば、うら若き二十歳の愛娘が下着を並べている姿を想像して哀しくなったのだろう。同じ公務員とはいえ、国税局勤めの父は女性用下着を並べたことは無いだろうし。

 ――お父さん、警察官ってそんなもんなんだよ。


 ◇


 私はどうすればいいのだろうか。
 葉梨に『こういうのは好き?』とメッセージを送った。それで私の気持ちは伝わるだろうか。

 先程の証拠品と押収品のメッセージはすぐに既読になって返信があった。だが、既読はついたが返信が遅い。今、葉梨は官舎に戻った頃だと思うのだが、何か忙しくしているのだろう。

 しばらくすると、葉梨から電話がかかってきた。

「もしもし」
「もしもし! 葉梨です!」
「はーい」
「あの、どうしたんですか?」
「なにが?」

 葉梨は、女性用下着の写真を送られた上に質問の意図がわからず悩んでいたという。だから電話したと言った。

 ――言葉足らずだったのか。

「ごめんね。どうかなと思って、送った」
「はい、あの……それで、何が、どうかな、なのでしょうか」
「あー。えっと、葉梨は、私が、これを着ていたら、嬉しい?」
「はっ!?」

 ――文法を間違えたのだろうか。

「臍が見えるけど」
「んっ!?」
「臍は隠れている方がいいでしょ?」
「えっ!?」

 葉梨は臍が見えていた方がいいのか。好きなものをはっきりと言えない時もあるのだな、と新しい一面を知って嬉しかった。

 葉梨に官舎で同室の岡島はいるのか聞くと、岡島はいないという。
 岡島は私と同期なのだが、私はこの十六年間、岡島を物理的に抹殺してやろうと思い続けている。しかし、機会に恵まれずに今に至る。
 あの日、膝カックンした岡島のことを私は一生忘れない。

「岡島がいないならさ、ビデオ通話しようよ」
「えっ、はい!」

 せっかく葉梨とビデオ通話するのだから、このベビードールを着てセットのパンツを履こう。パンツはソングでケツが寒いが仕方ない。
 私はメッセージアプリのビデオ通話をタップし、葉梨の応答を待った。

 葉梨が応答すると、困った表情をしていた。どうしたのだろうか。

「葉梨はこういうの好き?」
「えっと、あの、もう、着ている、と」
「うん」

 私が今着ているベビードールは黒いサテンで、薄いピンクのリボンが縁取りとしてフリフリしている。肩紐は細い紐が二本だ。何のために二本あるのかわからないが、おそらく念のためだろう。

 葉梨は私が着ているものならなんでもいいという。それでは困るのだが、頭を抱えながら目を閉じてそう言う葉梨は、先輩の私に気を遣っているのだろう。

「ねえ葉梨、臍が見えているんだよ」
「んんっ!?」

 私は懸垂マシンで腹筋をする時に握るグリップにスマートフォンを立てかけ、全身が映るようにした。

「ほら、臍が見えるでしょ?」
「……はい」
「臍が見えててもいいの?」
「……はい。見えていてもいいです」

 ついでだから、葉梨へこのベビードールを買うに至った経緯を話した。ネットで『初エッチで男性が彼女に着て欲しいランジェリー』というタイトルの記事を読んだこと、そこに書かれていた男性の意見は皆違っていて参考にならず、葉梨に聞いてみよう思ったと言った。

 記事タイトルを言った時点で葉梨は唇を噛んで天井を見上げていたが、今は画面を見ている。

「あの、加藤さん」
「なにー?」
「今から行ってもいいですか?」
「あー、うん……」
「すみません、ご迷惑なら……」

 迷惑なわけがない。だが、今日の葉梨は休みではない。午前零時には捜査員用のマンションに戻らなくてはならない。官舎へは荷物を取りに戻っただけだ。

「あのさ、これ以外にも、買ったものがあるんだよね」
「えっ……」
「それを見せるから、えっと、あの……マッチョしかいないジムに行かない?」
「はっ!?」

 画面の葉梨は、眉根を寄せて真っすぐ見つめている。きっと『お前は何を言っているんだ』とでも言いたいのだろうが、先輩の私に言えるわけがない。だが私は葉梨のこの顔が好きだ。ちょっとカッコいいと思っている。

 こんなにも早く、葉梨とマッチョしかいないジムに行けるとは思わなかった。嬉しい。
 世界中にあるマッチョしかいないジムだが、葉梨はどのジムにいるマッチョよりもカッコいいだろう。
 だからマッチョしかいないジムのロゴ入りの青いリンガータンクを着た葉梨は、世界で一番カッコいいはずだ。買っておいてよかった。

 一人の女だけを夢中にさせる男は、いい男――。

 私はもう、葉梨に夢中だ。




 
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