うちでのわたし
朱里ちゃんと別れて、少ししてから家に着いた。フィフティ・フィフティではあるが、家に誰もいないということがある。
目安は、炊事場の電気がついているかどうかだ。背伸びして、ブロック塀からのぞき込む。灯りはついている。つまり、今日は留守ではないらしい。
留守でないということがわかったので、私は玄関に向かいチャイムを鳴らした。
チャイムが鳴るとお母さんは、はいはーいと、返事をしながらドアを開けてくれた。家の中に入りただいまと、声を掛けると、お母さんがエプロンのポケットから、一枚のチラシを取り出した。
「これ、なに?」
「奈々の好きそうな店のチラシよ」
お母さんはふふーんと、上機嫌に鼻歌を歌っていた。私は知っている。こういう感じで私にチラシを渡すとき、その大半が塾か家庭教師関係のチラシだ。
私が喜びそうなのは、今まで数えるほどでしかなかった。私が半信半疑でチラシを開くと、その数える程度しかなかった方のチラシだった。
「奈々、お母さんのこと疑ってたでしょ?」
喜びのあまり放心状態だった私は、バカ正直に首を縦に大きく振ってしまった。
「まったく……。でも、それだけ喜んでもらえるならよかったわ」
「ありがとう、お母さん! でもどこでこのチラシを?」
「私の高校の友達がそういう店を建てるそうなの」
私はへぇー、と生返事をしながら、チラシの中身を凝視していた。
「今度の日曜日にオープンらしいから、行ってきなさい」
私はニコニコしながら、首を縦に振った。これで五カ月ぶりにコレクションを増やせる。そう思うと、ワクワクが収まらなかった。
「そういえば、朱里ちゃんだったっけ? あの凄く奈々と仲良くしてくれてる子」
唐突な質問だった。私は何気なく、
「うん、そうだけど?」
と答えた。すると、お母さんはこんな提案をしてきた。
「せっかくだし、一緒に行って来たら? 多分喜んでくれると思うわよ」
それは夢見心地な私を現実に引き戻し、そして絶対に首を縦に振れない提案だった。そりゃそうだ。これは、私のイメージに関わることだ。
朱里ちゃんはずっと学校での私を慕っている。そんな朱里ちゃんのイメージを壊したくない。壊して、離れられたくない。私はただ黙り込んで、一切の答えを出さなかった。
「そうね。奈々の気持ちとか考えていることは分かるわ。私のその友達も、ずっとそういう事で悩んでたし、奈々も、それで嫌な思いをしてきたからね。でも、長く付き合ってくなら、いつかは言わないといけないんじゃないの? そうでなくても、あれだけ慕ってくれているのに、自分の素を見せてくれないなんて、かわいそうじゃない?」
お母さんの忠告は、とても心に突き刺さった。今までで一番仲がいいと言えるのは、間違いなく朱里ちゃんだ。その朱里ちゃんは、自分の全てを惜しげなく見せてくれる。
それなのに、私が見せないというのはどうなんだろう。でも、朱里ちゃんの好きな私は絶対に王子様のように、かっこいい私だ。だからこそ、壊せない。言い出せない。私は黙り込んだままだった。
「まあ、そんな簡単に割り切れるならとっくにそうしてるよね。今すぐにとは言わないわ。ゆっくりでいいからどうするか、答えを見つけなさい」
お母さんはそう言うと、炊事場へ戻っていった。私はその場から動けなかった。
結局明確な答えは出せず、うなだれながら二階の自室に戻った。入るなり荷物を置き、制服から私服に着替える。私はこの瞬間が、一日の中で一番好きだ。
だって、学校で、外で期待されている、作りものの自分を演じる必要がない。そして、かわいいものに囲まれて過ごせる自由な時間になったことを、教えてくれるからだ。
緊張の糸が切れた私は、間の抜けたような声をあげながら、ふかふかのベッドに思いっきりダイブした。そして、傍にいるメルちゃん――テディベアの名前――を顔に引き寄せながら、ぎゅっと強く抱きしめる。これが私の日課だ。
メルちゃんの他にも、かわいい人形やテディベアはたくさんいる――もちろん全員にちゃんと名前を付けている――。だけど、私はメルちゃんを選ぶ。
メルちゃんとは小学生のころからずっと一緒だし、何より一番毛がもこもこしていて、抱き心地がたまらなく気持ちいいからだ。
「メルちゃんただいまぁ」
メルちゃんは何もしゃべらない。それでも、その愛くるしい顔に癒やされるし、メルちゃんから、
「おかえり奈々ちゃん」
という声が聞こえてきそうな、雰囲気を感じさせてくれる。
「メルちゃん、今日も大変だったんだよ」
ただいまのあいさつを済ませ、今日学校であったことをメルちゃんに話す。さっきのように、メルちゃんが何か返事をくれるわけでも、なにか解決策を出してくれるわけでもない――答えてくれるならそれはとてもありがたいけど――。
だけど、こうやって大好きなメルちゃんを抱きしめながら、悩みとかつらかったこととか色々と話すだけで、心の疲れがすぅーと身体から抜けていく。この快感がとてもたまらない。
これが私の正体だ。学校では仕方なく王子様みたいなキャラを演じているが、部屋に入ればそんなのとは縁遠い、とにかく、かわいいものが大好きで、メルヘンチックな女の子だ。
私はあることをきっかけに、それ以来ずっと家族以外には秘密にしている。朱里ちゃんも例外ではない。
「ねえ、メルちゃん。朱里ちゃんは私の部屋に来てもガッカリしないかなぁ。こんな私でも仲良くしてくれるかなあ」
私の秘密を知った朱里ちゃんを、頭の中でシミュレーションしてみる。だけど、最終的には私から離れていくばかりで、何一ついいシチュエーションが見つからない。どういう風に伝えても、結局はそこに辿り着いてしまう。
「…………そうだよね、幻滅しちゃうよね。ありがとう、メルちゃん」
私は今まで通り秘密のままにすることを決めた。
少ししてから、椅子に座り宿題と予習をすることにした。音楽プレイヤーの曲のラインアップから、今日の一曲を探す。
いつもはすんなりと決まるが、今日は珍しくすんなり決まらない。こういう日は何を聞いてもやる気は変わらない。なので、目をつぶって適当にタッチした曲を流すことにした。
「じゃあ、今日は数学から始めよっ」
シャープペンシルを手に取り、教科書とにらめっこしながら問題を解いていく。今日の数学は苦戦すると思っていたけど、予想以上に簡単みたいだ。他の教科は、学校であらかた終わらせてきたので、恐らく予習を含めても一時間以内に終わりそうだ。
そうなれば空いた時間は、今度の日曜日に買いたいもののリストアップをしよう。それでも余りそうなら、変装セットの確認でもしておこう。問題を解きながら、日曜日に想いを馳せていた。
「うふふ、楽しみだわ」
思わず、声に出てしまっていた。
目安は、炊事場の電気がついているかどうかだ。背伸びして、ブロック塀からのぞき込む。灯りはついている。つまり、今日は留守ではないらしい。
留守でないということがわかったので、私は玄関に向かいチャイムを鳴らした。
チャイムが鳴るとお母さんは、はいはーいと、返事をしながらドアを開けてくれた。家の中に入りただいまと、声を掛けると、お母さんがエプロンのポケットから、一枚のチラシを取り出した。
「これ、なに?」
「奈々の好きそうな店のチラシよ」
お母さんはふふーんと、上機嫌に鼻歌を歌っていた。私は知っている。こういう感じで私にチラシを渡すとき、その大半が塾か家庭教師関係のチラシだ。
私が喜びそうなのは、今まで数えるほどでしかなかった。私が半信半疑でチラシを開くと、その数える程度しかなかった方のチラシだった。
「奈々、お母さんのこと疑ってたでしょ?」
喜びのあまり放心状態だった私は、バカ正直に首を縦に大きく振ってしまった。
「まったく……。でも、それだけ喜んでもらえるならよかったわ」
「ありがとう、お母さん! でもどこでこのチラシを?」
「私の高校の友達がそういう店を建てるそうなの」
私はへぇー、と生返事をしながら、チラシの中身を凝視していた。
「今度の日曜日にオープンらしいから、行ってきなさい」
私はニコニコしながら、首を縦に振った。これで五カ月ぶりにコレクションを増やせる。そう思うと、ワクワクが収まらなかった。
「そういえば、朱里ちゃんだったっけ? あの凄く奈々と仲良くしてくれてる子」
唐突な質問だった。私は何気なく、
「うん、そうだけど?」
と答えた。すると、お母さんはこんな提案をしてきた。
「せっかくだし、一緒に行って来たら? 多分喜んでくれると思うわよ」
それは夢見心地な私を現実に引き戻し、そして絶対に首を縦に振れない提案だった。そりゃそうだ。これは、私のイメージに関わることだ。
朱里ちゃんはずっと学校での私を慕っている。そんな朱里ちゃんのイメージを壊したくない。壊して、離れられたくない。私はただ黙り込んで、一切の答えを出さなかった。
「そうね。奈々の気持ちとか考えていることは分かるわ。私のその友達も、ずっとそういう事で悩んでたし、奈々も、それで嫌な思いをしてきたからね。でも、長く付き合ってくなら、いつかは言わないといけないんじゃないの? そうでなくても、あれだけ慕ってくれているのに、自分の素を見せてくれないなんて、かわいそうじゃない?」
お母さんの忠告は、とても心に突き刺さった。今までで一番仲がいいと言えるのは、間違いなく朱里ちゃんだ。その朱里ちゃんは、自分の全てを惜しげなく見せてくれる。
それなのに、私が見せないというのはどうなんだろう。でも、朱里ちゃんの好きな私は絶対に王子様のように、かっこいい私だ。だからこそ、壊せない。言い出せない。私は黙り込んだままだった。
「まあ、そんな簡単に割り切れるならとっくにそうしてるよね。今すぐにとは言わないわ。ゆっくりでいいからどうするか、答えを見つけなさい」
お母さんはそう言うと、炊事場へ戻っていった。私はその場から動けなかった。
結局明確な答えは出せず、うなだれながら二階の自室に戻った。入るなり荷物を置き、制服から私服に着替える。私はこの瞬間が、一日の中で一番好きだ。
だって、学校で、外で期待されている、作りものの自分を演じる必要がない。そして、かわいいものに囲まれて過ごせる自由な時間になったことを、教えてくれるからだ。
緊張の糸が切れた私は、間の抜けたような声をあげながら、ふかふかのベッドに思いっきりダイブした。そして、傍にいるメルちゃん――テディベアの名前――を顔に引き寄せながら、ぎゅっと強く抱きしめる。これが私の日課だ。
メルちゃんの他にも、かわいい人形やテディベアはたくさんいる――もちろん全員にちゃんと名前を付けている――。だけど、私はメルちゃんを選ぶ。
メルちゃんとは小学生のころからずっと一緒だし、何より一番毛がもこもこしていて、抱き心地がたまらなく気持ちいいからだ。
「メルちゃんただいまぁ」
メルちゃんは何もしゃべらない。それでも、その愛くるしい顔に癒やされるし、メルちゃんから、
「おかえり奈々ちゃん」
という声が聞こえてきそうな、雰囲気を感じさせてくれる。
「メルちゃん、今日も大変だったんだよ」
ただいまのあいさつを済ませ、今日学校であったことをメルちゃんに話す。さっきのように、メルちゃんが何か返事をくれるわけでも、なにか解決策を出してくれるわけでもない――答えてくれるならそれはとてもありがたいけど――。
だけど、こうやって大好きなメルちゃんを抱きしめながら、悩みとかつらかったこととか色々と話すだけで、心の疲れがすぅーと身体から抜けていく。この快感がとてもたまらない。
これが私の正体だ。学校では仕方なく王子様みたいなキャラを演じているが、部屋に入ればそんなのとは縁遠い、とにかく、かわいいものが大好きで、メルヘンチックな女の子だ。
私はあることをきっかけに、それ以来ずっと家族以外には秘密にしている。朱里ちゃんも例外ではない。
「ねえ、メルちゃん。朱里ちゃんは私の部屋に来てもガッカリしないかなぁ。こんな私でも仲良くしてくれるかなあ」
私の秘密を知った朱里ちゃんを、頭の中でシミュレーションしてみる。だけど、最終的には私から離れていくばかりで、何一ついいシチュエーションが見つからない。どういう風に伝えても、結局はそこに辿り着いてしまう。
「…………そうだよね、幻滅しちゃうよね。ありがとう、メルちゃん」
私は今まで通り秘密のままにすることを決めた。
少ししてから、椅子に座り宿題と予習をすることにした。音楽プレイヤーの曲のラインアップから、今日の一曲を探す。
いつもはすんなりと決まるが、今日は珍しくすんなり決まらない。こういう日は何を聞いてもやる気は変わらない。なので、目をつぶって適当にタッチした曲を流すことにした。
「じゃあ、今日は数学から始めよっ」
シャープペンシルを手に取り、教科書とにらめっこしながら問題を解いていく。今日の数学は苦戦すると思っていたけど、予想以上に簡単みたいだ。他の教科は、学校であらかた終わらせてきたので、恐らく予習を含めても一時間以内に終わりそうだ。
そうなれば空いた時間は、今度の日曜日に買いたいもののリストアップをしよう。それでも余りそうなら、変装セットの確認でもしておこう。問題を解きながら、日曜日に想いを馳せていた。
「うふふ、楽しみだわ」
思わず、声に出てしまっていた。