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作者: 夜門シヨ
19頁
 名を呼ばれた氷狼フェンリルは、眠たげな重く鋭い瞳で兄妹を睨みつける。同時に、体感温度が急激に下がる。兄妹は氷狼からの圧にみじろぎながらも、端々が凍りついてきている上着と毛布をぎゅうと身体に吸い寄せて仁王立ちをし、なんとか耐えてみせた。
 フェンリルが佇む地面からは絶え間なく白い靄が溢れ出しており、彼を止めなければ、世界全てが刻々と凍りついていくのだろう。

「おい。質問に答えろ、女」

 そこに、彼女が夢で見た自分に優しい狼の面影はなかった。
 
「……その子が、ここまで案内してくれたんです」

 ナルはごくりと唾を飲み込んで、フェンリルの周囲をクルクルと浮遊する狼型のレムレスを震える指で差す。それを目で追うフェンリルは「余計なことをしやがって」と吐き捨てる。それを聞いたレムレスは、ケタケタと笑っている。

「余計なこと?」
「そうさ。コイツが貴様らを呼び寄せなければ……この世界は、氷の世界になったというのに」

 フェンリルは、のっそりとその巨体を起き上がらせる。

「夜に閉ざして、ありもしない泡沫の夢のために眠るだけなら、俺様は凍らせてしまえばいいと考えるな」

 そして、ゆっくりと兄妹――ナルの元へと近づいていく。フェンリルの巨体はナルの何倍もあり、その影が彼女をより一層闇へと溶け込ませようとする。フェンリルの不機嫌で凶悪な顔が、彼女の顔スレスレまで近づく。
 
「あの時も、そうすればよかったよ。俺様と生きる道を選んでくれなかった貴様を――凍らしてしまえばよかった」

 氷狼の言葉にナルは微動だにせず、恐れず、真っ直ぐに彼の虚な琥珀の瞳を見つめる。

「フェンリルさん。今すぐこんなことをやめて……話をしませんか。どうか、貴方の知っている私達のことを、教えてください」

  目を逸さぬ彼女に対し、氷狼は「めんどうな」と呟きながら、寒さでぎこちないながらも隣で構えているナリ――の持っている剣に目線を移す。

「そいつは何か話したのか?」

 突然フェンリルに質問を投げられたナリは「は?」と声を出すものの、瞬時に全てを理解した彼は小さな声で「……いや、聞いてない」と弱々しく答える。

「何も。何も聞かせてくれない」
「お兄ちゃん?」
「そうだろう。だから俺様もそうしよう」

 フェンリルは大きく一歩兄妹から離れ、フラフラしているレムレスにガブリッと牙を突き立てる。噛みつかれたレムレスは実態のないはずの体をジタバタとさせて抜け出そうとするものの、最後は弱々しくこの現状を受け入れて動かなくなった。氷狼は、レムレスを口からペッと吐き出し、前脚で冷たい地面へと踏みつける。
 そして再び、虚な瞳をナルに向ける。
 
「……女。このレムレスを……俺様を殺すんだ」

 フェンリルの言葉にナルは両手をギュッと爪を立てて握りしめる。そこには、彼女のふつふつとした怒りが込められている。 

「訳の分からないことばかり話さないで!」

 普段の彼女からは想像出来ない怒声を吐き出した。彼女の怒りように、兄ナリはまばたきを何度もしながら妹を凝視するものの。フェンリルは、何も反応をしなかった。
 
「私は、ただ教えて欲しいだけなんです! それなのに、殺してだなんて……おかしなこと言わないで!」

 そんな彼女の精一杯の訴えを聞いても、フェンリルは考えを変えようとはしない。

「勘違いするな。武器を使ってじゃない。言葉だ。貴様自身の口で、俺様の欲しい言葉を言ってくれれば……今ここにいる俺様は死ねるんだ」
「……お願いだから教えてください、フェンリルさん……私は、私達は、何を忘れているんですか」

 フェンリルの話を理解出来ないナルは、今にも泣きそうな表情を見せる。そんな彼女に、氷狼はため息を一つ。
 
「悲しいこと、辛いこと。思い出さなくていいことだ。思い出せばきっと……貴様は、また耐えられない」

 レムレスがケタケタと再び笑う。「それが、このレムレスが望むものだしな」と呟きながら、さらに牙に込める力を強くさせる。
 ナルは、怒りで熱くなった体を覚ますため、溢れそうな涙を強引に拭き取り、深呼吸をして冷たい空気を身体に吸い込ませる。脳裏で、あの夢が蘇る。ただの夢、まやかしの夢かもしれないもの。……それでも。

「それでも、私は貴方との記憶を取り戻したい」

 その夢を見ていた彼女の胸は、氷狼が放つ冷たさなどない、温かさしか感じなかったのだ。ナルは、高鳴る胸を拳で押さえつける。
 
「悲しい記憶、辛い記憶。それが大半を占めたとしても……幸せな記憶だってあるでしょ? 例えば、フェンリルさんとの出会いとか」
 
 ナルは満面の笑みで語った。氷狼の心を溶かした、その笑顔で。
 その彼女の「幸せな記憶」という言葉に、ナリは剣についている宝石――彼女に触れ、「俺も、そうだな」と声をかける。宝石が、チラリと光ったように思えた。
 彼女の言葉を黙って聞いていたフェンリルは、乾いた笑みを吐き出す。「あぁ、貴様はそういう女だったな」と言いながら。

「でもな。俺様からは何も話せねぇよ。それは、許されないことだ」
「許されないって……誰からだよ?」

 ナリの言葉に、フェンリルは視線をある方角へと向ける。それは、空。この世界を閉じ込める箱の蓋。または――この世界を彩る表紙。
 彼は一つ息を吐く。その息は、ほんの少し薄くなっていた。
 
「貴様らを、愛してる者だよ」

 彼の言葉に首を傾げる兄妹。それでも、彼はニヤッと笑うだけだ。フェンリルはいつの間にか身体から出していた白いもやを止め、兄妹へ尻尾を向ける。

「じゃあな。どうか、記憶のないまま生きてくれ。……おやすみ、〈――〉」
「――っ」
 
 ナルは咄嗟にフェンリルへと手を伸ばす。が、その手は当然空を切るのだ。氷狼が一歩歩くたびに、凍りついていた地面がじわじわと溶けていく。地面にめり込まされていたレムレスは、身体をぶるぶると震わせて、どこかへと消えていった。――どこかで、パタリと何かが閉じる音が小さく鳴った。
 ナルは届かぬ手を、優しく胸へ持っていき、大切に抱きしめる。

「……おやすみなさい、フェンリルさん」

 フェンリルに別れを告げた兄妹。彼等が一息、ほのかに冷たくなくなった空気で深呼吸をする。そして、兄妹は目と目が合う。互いに、口を動かして名を呼ぼうとした。
 ぱちゃっと、溶けかけの氷が弾ける音がした。
 音のした方へ兄妹が振り向くとそこには、ほんの少し傷だらけのロキがいた。彼は兄妹の近くへ歩み寄ってくる。近寄ってくるロキの表情は周囲が暗すぎて分からず、けれど怒っているだろうというのだけは予感していた兄妹は「説教が来る」と身構えるのだ、が。
 ロキは、兄妹を自身の大きな腕の中に包み込み、強く抱きしめるのだ。小さな安堵の声を絞り出して。「よかった」と呟くのだ。彼の突然の行動に、ナルは大きな瞳をパチクリとさせ、いつも暴れるナリでさえ体が固まってしまっている。
 兄妹はロキの顔を見て――にこりと微笑んで、持て余していた両腕をロキへ抱きしめ返すのに使った。
 
 それを、ロプトは見ていた。一雫の血の涙を流して。
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