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作者: 清水レモン
足元に伝わる
 おれ自身の調整だ。
 だから…みなおしを中断し、単純な計算を解く。
 あせるな、あせるなよ?
 こう思った時点で、すでにあせっている。わかってる。こんな経験いままでだって何度も。
 けど…まさか本番よりによって入試で?
 空を見たい、この、どうしようもない気持ちを、どうにかしたくて。
 問題文を読み返す、まるで初めて読んだときのように…とは、いかないか。
 自分でもわかる、しっかり読み返していても。どこか、うわのそら。 
 わかるよ、そりゃ。読み飛ばしたいし、省略したい行動の筆頭だろ、こんなの…読み返すなんて。
 こんなとき…どうするんだっけ?
 なあ、おい、決めておいたよな。
 あせったとき、あせるかもしれないから、そのときどうするこうしよう。って決めておいた。覚えてるだろ、そのとき決めた約束を思い出せ。
 うるせえな自分なんなんだよ、もう。
 
 あせったとき、あるいはもうどうしようもなくて本当に、どうしようもなくなったとき。
 そのときは。
 『書き直さない』
 
 そう、どうしようもないなと感じたときは、『解答を書き直さない』
 
 解答を書き直さない。そのためには、すでに全問解答していること。本番の勝負だ、じっくり解いている…だろう? そのうえで、もう一度あらためて問題を解きなおしている。んだろう?
 だったら!
 覚悟を決めて、解答用紙に手をつけないこと。そう誓うんだ。

 そんなことを決めていた。あらためて思い出した。思い出したところで、どうにもならない気がしている。しょうがない、しょうがないよ、しょうがないじゃないか。
 おれは誓う、心の奥で、この胸の奥深く、思わず奥歯をかみしめたくなるような感情のまま、誓う。
 …『書き直しません。解答用紙、このまま提出します』
 誓う。誓った。誰に?
 なんだよ、おれはおれに誓って覚悟して、ひとりきりの芝居だな、これ。
 
 おれは鉛筆を置く。机に、縦にして。横ではない。これも決めておいた。
 自分から自分への合図だ。おれは、もう全問しっかり解答したよ、と。
 だから筆箱から次の鉛筆を取り出す。新しい鉛筆、縦に置いた鉛筆と見た目は一緒。
 ちがうのは先端、とがり具合、すり減り。
 おれの入試、最初の科目。算数。それは、もうすでに終わった。時間がきたら提出する、回収される。だからそれまでは自由時間。
 おれは新しい鉛筆をつかみ、指先を意識した。
 この感触を知っている。なのに、さっきまでとは、まるでちがう。
 さあ、自由時間だ。試験の残り時間とかじゃない。余った時間とも、ちがう。おれが、おれのためだけに、遊ぶ時間のはじまりだ。

 問題文の先頭に、小さく四角を描く。時計、まだたっぷりの残り時間。おれの自由な遊びなのに、すぐ意識が戻ってしまう…いまはなにをしているんだっけ? 試験だろ、試験だよ。いつもの。
 いつもの?
 ちがう、これは模試じゃない。本番だ。
 ならば、本気でここから遊ぼうぜ。
 やるだけやって、ここに来た。向き合って、やれることやった。
 遊ぼうぜ、おまえの好きな算数で。得意な計算を。いや、ちがう。
 苦手だったはずなのに、いつのまにか面白く感じるようになっていて、いつのまにか得意と思えるようになっていた。
 さあ、本日は中学受験の当日です、待ちに待った入学試験の本番です。
 くだらねえな、ちっ。

 さすがに落書きは、やめておこう。
 おれは鳥や島を描きたくなったが自制する。そうだ、中学に入ったら絵を描こう。美術部あるのかな、あったよな、入ろうか、入ったら思う存分に絵を描けるよな?
 こんなにも、おれはおしゃべりだったっけ。脳内ひとりごとが止まらない。脳だと思うが心だろうか。意識して唇をとじている。まちがっても、つぶやいたりしないように。うっかり声をもらしてしまわないように。唇をとじて、とじていることを意識する。意識と認識って、ちがうんだっけか。
 認識って、なに。
 ほら。計算、さっきと同じになる。手順が同じ、数字も一緒だろう。なにがどうなって、どこで変化したんだっけ。認識と意識とは文字がちがうけど意味は同じなんじゃないか。いや、文字がちがうんだから意味もちがうか。ゆかりはゆかりで、ゆかりなんだから呼んだときは同じ名前だけれど「由加里」と「由香里」じゃ別人だろ。あ、この数字。やりなおしたときとちがう。ちがうけど最初と一緒。

 「よーし。おワーり」
 
 え!?
 おれは問題を解いている途中だぞ。時計、まだ約束の5分前じゃんか。なに言ってるんだ、あの先生。

 「もう終わったろ、とっくに解き終わって退屈してんだろ。なー?
  まあ、あと5分てとこだ。
  名前と受験番号、確認しとけ。書きもらすなよー?
  いいな、いいか、返事するな、わかったか~?」

 ちらり時計『あと5分もないじゃんかよ嘘つき。あと残り、せいぜい3分あるかどうか…』
 おれは名前をチェック、受験番号を黙読、まちがいない。正しい。あっている。念のため、もう一度。
 名前。おれの名前。
 受験番号、まちがいなく自分の番号。机の上においてある受験票と同じ数字。
 時計ちらり『まだ微妙に時間あるのか』

 約束の時刻だ。ぴったり。黒板の時計の針も、腕のデジタル表示も。同じ。

 「…そろそろか。なったか。まだか。なったよな。まだいいか。
  おい、ほんとに確認しろよ?
  名前、書いてないやつ、たまにいるんだよ本当に本当だぞ。書いたか。
  おれの顔じゃない、見るのはテメエの手元ちゃんと下を向け、確認しろ。
  おい…ま、いっか。よしそれじゃ」

 「はいそこまで」
 と、背後から聞こえた。おれは振り向かない。
 見えないし見ないけれど教室の、いちばん後ろに先生がいる。その先生の声だろう。
 乾いた靴の音が響き、少し湿った床の感触が鈍く、とどろく。
 耳よりも足元から伝わってくるのが、はっきりわかった。

 終わった。最初の科目、算数。終わったな、終わったよ。
 あんなに余り余って余裕こいた時間が、終わってみたら一瞬か。

 あっけないもんだ。
 
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