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作者: 清水レモン
済ませるよ
 ぎし。床が、きしむ。いや、ちがうな。心か。
 階段教室の床は板張りだが、湿気がとどこおっている気配はない。
 細菌由来の匂いもしないし、踏み抜けてしまいそうな不安も感じない。
 よくできている、というよりも、しっかりと整えられている。
 これは日常の清掃が行き届いているからなのか、それともこの空間を使用しているひとたちの周波数が調整されているからなのか。
 わからないことには首をつっこむまい。そう思っても、ふと考えてしまう。

 いったい、どんなふうにここでは過ごしている?

 おれは推理しようと一瞬だけ試みたが、すぐやめた。
 それよりもすることがある。
 まずはトイレ、だろう?
 かわやに行っておかなくては。
 用を足す、出る出ないに関係なく。
 尿意があるから行くのではない。
 尿意があるかないかに関係なく体そのものに問いかけるために、おもむくんだ。
 脳は嘘をつくからね。平気で嘘をついてくる。そこんとこ気をつけておかないとだよ。
 自分のことだけどさ。いや、自分のことだからなおのことか。
 脳がおれをだましているのか、おれが脳をだましているのか。
 きりがない、きりがなくなる、あっというまに時間ばかり経過してしまう。

 席を立つとき、イスがみしり。ゆがんだというより反発して元に戻る感じ。
 おれの体重ぶんだけ軽くなった、ということだろう。
 この感覚、知っている。木製ならではの呼吸だよ。木は生きている。というより反応している。空気中に漂う微細な粒子たちの構成に関係なく、なにかを受け止めては解き放ち、あるがままに律動する。
 おれはなだらかな階段をやや急ぎ足で降りていく、そっと気配を帰しながら深呼吸して。整える、整える、整える、靴底が床を踏みしめ、浮かびあがり、軽く蹴りだした。
 圧とゆるみの相互作用が、あっというまにおれを黒板の前に届かせる。ちらり時計ふらり壁ぎわ、そのまま開放中の出入り口から外へ。
 廊下だ。

 こんなに暗かったっけ?

 階段教室が自然な明るさで満たされていたからだろう、廊下は暗い。
 ひときわ暗い空間に、穴のような場所。横穴、そこが目的地。
 訪れるのは二度目の場所だ。
 こんなに近かったっけ。
 もっと時間かかると思ったけれど、おれはもう蛇口の前を通り過ぎていた。
 すでに何人かいて用を足している。おれの体は求めていない。出る気配がない。それでも、おれは場所に挑む。結果は、なにも出なかった。それでいい。ちゃんとわかったから。おれは自分をわかったことになる、脳も体もこの気持ちも。それでいい。あと一科目だ。
 乗り切れそうだ。

 とくに長く居たわけではないが、いつのまにかおれ一人になっていた。さっきとは別の蛇口をひねると水はチョロチョロとしか出てこない。調子が悪いのか、それとも。と、指先に力を込めた次の瞬間にドパァと激しい水流が金属板を撃った。
 あやうく、びしょ濡れだよ…と思ったけれども、まったく濡れた気配がない。飛び散る水しぶきを確かに見たけれど、服に届かない。それだけ広いということか。距離感を見失いぼうぜんとする。

 この学校、おれが知っているサイズ感とは異なるよ。

 見た目で計測する寸法が、いかにいい加減なのかは知っている。
 そのために定規があるわけだし、巻尺はおれの愛用品のひとつ。
 ああ、はかりたい!
 図りたい、計りたい、測りたくてうずうずする!!
 おれのポケットには巻尺はない、いつもより吸収力の高いハンカチがあるだけだ。
 いったい、この空間は。
 おれは自分が知っている建物を思い出す。家、学校、駅、商店街、塾、パン屋。
 一歩、二歩、三歩。歩数ならどうだろう?
 おれは会場に戻りながら歩数を数える。あっというまに百を越えた。いつもとちがうスピード。なんなんだめろめう、この得体の知れない違和感は。
 気持ち悪くないけれど、どことなく薄気味悪くもある。
 そんな得体の知れない空気感が不思議と心地良く感じられ始めていた。
 さ、会場だよ。試験会場の階段教室だ。戻ってきたよ、戻ってきたろ。
 いつもと違う鼓動と脈拍、やっぱり天井が高いよな。いま数えている歩数のことが無意味だと理解できた。いつもより歩幅が広かった気がする、けれども急ぎ足ではなかったよ。なのに予想とのズレがあった。
 広々とした大学キャンパスを会場にしていた模擬試験でも、こんなズレは覚えがない。
 なんなんだろう、このサイズ感。そして居心地。悪くはない、むしろ良い。かといって好きになるほどの印象ではないし、むしろ自然だ。
 自然か。
 自然だ。
 そっか。

 自然に感じること、この「自然な感じ」こそが違和感の正体だ。
 自然なわけないじゃんか。だって初めて来たところだし。想像と異なっているわけだし。
 自分が思うよりも距離が長かった、だとしたらもっと時間がかかってもいいはずだ。おれは、おれが知っている移動時間よりも短縮された結果に驚く。
 え。うそだろ。まだこんな時刻?
 もともと多少ゆとりのある休憩時間、のはず。
 だが、まるで一瞬でテレポートしてきたかのように時間そのものが経過していない。
 気持ちの問題なら理解できるよ?
 でもおれは体を使って移動してきたんだ。往復の距離、その移動時間。いくら、いつもより歩幅が広かったからといってこの速さは…
 階段教室の階段はゆるやかな傾斜。おれが歩くと、わずかにはずむ。ように感じる。
 はずんでいるにちがいない、と確信したのは席に戻った瞬間のこと。
 着席して黒板を視界にとらえ、ちらり時計、うん、早かったし速かった。
 あらためて自分の腕を見た。デジタル表示の数字は克明そのもの。はっきりと読み取れる。

 ふう。

 おれは無意識に深呼吸してしまった。
 あわてて息の気配を消す。いや、消せないか。
 窓辺のカーテンが無音のまま、やけに騒がしそうに揺れていた。
 風なんて吹いていないのにな。

 
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