残酷な描写あり
3-2 蔓延る暗闇
祖父と夕食を食べ終え、外に出るとむわっとした独特の湿気を感じた。
5月も残り一週間強、いよいよ6月が近づいている。
梅雨も目の前だ。
「いやあ、食べたね」
「うん。……もう、帰る?」
「少し、商店街を回ってもいいかい?」
「分かった」
少し早めに食事をしたからか、時刻はまだ19時。
普段なら今から食べるような時間だ。
空は真っ暗、当然辺りも暗く夜の気配が蔓延している。
それなのにこの場所は商店街の一つ裏側という事もあり、小さな街灯と並ぶ店の提灯等、仄かな光源に照らされている。
日和にとっては気持ちが悪いほどに半端な明るさの空間だった。
じわりと背中に嫌な汗を感じる。
日和は夜の闇に明るさがある空間が苦手だった。
真っ暗闇か、寧ろ昼間のように明るい方が辛くない。
だから光のある方へ、日和の足は自分が思っていた以上に早く進んでいたらしい。
「日和ちゃ――……」
背中の気配がふっ、と一瞬にして消えた。
祖父の声が突然掻き消えた事に気付いたのは、正面から後ろへ流れる気持ち悪い風が通り過ぎてからだった。
「……え?おじい、ちゃん?」
唐突に一人になり、ひたりと暗い闇が日和を感覚的に襲う。
どこにも祖父の、それどころか今は人の気配すら感じない。
この時間であればまだ賑やかな場所の筈なのに。
流れ出た汗が体を冷やし、悪寒がした。
商店街から洩れる光源がぐにゃりと感覚を狂わせ、気持ち悪さが込み上げてくる。
両手を胸に当て、恐怖にバクバクと大きく鼓動を打つ心臓を押さえ付けた。
でないと背後から何かに襲われそうな気がして、息が詰まってしまうのだ。
気を抜くと過呼吸になってしまいそうな息を意識的に落ち着かせながら歩く。
日和は『人がいない、街灯に照らされた夜』が特に苦手だった。
それは日和が見た幼い記憶。
街灯照らす駅前の公園、周りに人が一切居なかった当時の状況に起因している。
似た場所へ行くと、その光景が簡単にフラッシュバックして恐怖が募る。
血に塗れて死んだ父を襲った何かが、その辺りから出てくる気がして、夜が、光が、嫌いだった。
目の前の景色は歪んで、悪夢の真っ只中にいるような感覚だ。
(どうしよう……だけど今はそんな事、気にしていられない……!)
いつもの自分ならば完全にへこたれて助けが来るまでその場で蹲っていただろう。
しかし今はそれどころではないと気持ちに力を込める。
姿を消した家族を探して、日和は足を止める事なく周囲を捜し始めた。
「どこ……おじいちゃん、どこ……!?」
悲痛な声をあげ、足の速度が自然と上がる。
同時に鼓動も早く打ち付け、日和の表情は徐々に焦りと恐怖に染まっていく。
ゆっくりと辺りを見回すことも許されない。
「お願い、行かないで……おじいちゃん、おじいちゃん……!」
どこを歩いているのかすら最早よく分からない。
暗い道を走り、もしかしたらと明るい表通りへ出る。
しかし、どこにもいない。
寧ろ、誰もいない。
「あ、あぁ……ひっ……あっ!」
空を見上げないと夜だと認識できない程に明るい表通りの中、本来ならば今でも賑わっている筈の空間なのに。
今は夜だと強い認識をしてしまって、明るい表通りは更に強く日和の恐怖を駆り立てる。
走った疲労か恐怖の震えか、日和の足はがくんと膝から落ちた。
転んだ傍に、生徒手帳が落ちる。
そこから覗いた羽根は前見た時とは全く別物だと思う程に、真っ黒になっていた。
「そん、な……」
悪い予感しかしない。
血飛沫と四股が飛んで、記憶の中の父がまた殺された。
「そ、そんな事、ない……!!」
ぞわりと全身が震えて、振り払うように全力で首を振る。
体を起こし、涙が溜まりつつある目を袖で拭って日和は立ち上がる。
「おじいちゃん、待ってて……!!」
日和は羽根を手帳に挟み、ポケットに突っこむと再び路地の方へ走り出した。
一本道を抜け、商店街の裏道に入っていく。
仄かな灯り漂う苦手な気配に怖気づく訳にはいかない。
意を決して捜索を試みようとすると、背後から聞き覚えのある声がかかった。
「あれっ、日和……?」
「えっ?」
それは最近よく聞く声で、日和は振り向く。
中華風の服を着て、目を丸くした水鏡波音がそこに立っていた。
「……ご飯、食べてたのよね? 何しているのよ、こんな夜道に。危ないわよ」
眉をひそめ怪訝な表情を向ける波音に日和は距離を縮め、小さな両肩を掴む。
今助けてくれる人間は目の前の彼女しかいない、と考える前に体が動いた。
「波音、助けて! おじいちゃんがいなくなっちゃったの! さっきまで、隣を歩いてたのに……!」
真っ青な顔を向ける日和に、波音はぴくりと眉を動かす。
「いついなくなったか分かる?」
「わ、わかんない……! でも突然消えて……」
「消えたの? どういう感じで消えたの?」
「えっ? えっと……ま、前から風みたいなのが吹いて、おじいちゃんはその後居ないことに気付いて……」
「貴女が探し始めてからどれだけ経った?」
「わ、わかんない……! 多分10分ほど!」
波音は少し黙り込み、右手を腰に当てる。
どうやらこれが考える時のクセらしい。
しばらく経って、顔を上げた波音の表情は出会った頃よりも硬くなった。
「悪いけど、期待はしないで。ある程度は覚悟しておきなさい。分かった?」
波音の鋭い視線がまるで獲物を捕らえる肉食獣のようになる。
その視線だけで、日和の中で何かの諦めがついた。
「……うん、分かった……」
先ほどまで焦りがあった日和の表情は一瞬にして波音達がよく知る感情の見えない姿へと戻る。
さっきまでの感情をむき出しにした姿が珍しいのだろうか、日和の様子を見ていた波音は小さく息を吐いてくるりと日和に背を向けた。
「……ひとまず、ついてきなさい」
いつもの感情のない表情。
そんな日和の姿に何の動揺も出さず、波音は付近の小道へ体を向けて歩き出す。
日和は静かにその後を追った。
波音は足早に、小学生が興味で通りそうな細い小道ばかりに足を向ける。
いくつかの大きな通りを横切り、神流川に架かる橋を渡り、近道だと思われる場所を歩いているようにも見えるが……一体何処へ向かっているのだろう。
歩く道は街灯照らす夜の道。
日和の苦手な道ばかりだが、何故か波音と一緒ならばそこまででもない。
今は祖父の事だけを考えて、日和は波音の背をついて行った。
「まずいわね。居ないわ」
「え……?」
突如立ち止まって、目を細めて明らかに苛立ちを見せる波音の手元から音が鳴る。
どうやらスマートフォンの通信連絡が届いたようだった。
訝しげにスマートフォンを取り出し、指でいくつかの操作をすると目を瞑って右手を腰に当てる。
無言の波音はちらりと日和に視線を向け、ため息を吐いた。
「焔」
波音の短い言葉に反応するように、波音の背後の何もない空間に突如赤い炎が湧く。
一瞬ぶわっ、と燃え広がって消失したその場所に、手のひらサイズの男の子がちんまりと浮いていた。
「どうしたの、波音。見つかった?」
ふよふよと動き、波音の肩に乗る。
その姿に日和は何を見ているのか不思議な感覚と共に、小さな姿に少しだけ愛嬌を感じた。
「ええ、見つかったわ。老人の男性、それと狼型よ」
一点だけを見つめて、波音は言う。
その蛇のような視線の先には、日和が立っている。
「老人の……まさか、おじいちゃん……!?」
「見なきゃ分からないけど……大丈夫?」
「……」
さっと青くなる日和に対して波音は淡々として静かだ。
波音がふざけたことを言う訳がなく、日和はついに黙り込んでしまった。
「ひとまず、行くわ」
波音はその様子すら気にすることなく再び次の目的地へと足を踏み出す。
焔はちらちらと日和を見ては小さな体を炎で包んだかと思うと、180cmくらいの青年に変わった。
斜めにカットされた前髪、綺麗で真っ直ぐな赤髪を首元で片側に流した特徴的な髪型は、面長で切れ目の美麗な顔によく似合っている。
波音と同じ真っ赤な中華衣装は更にその存在を際立たせていた。
「大丈夫?」
「た、多分……」
「身内の変わり果てた姿なんて、誰が見たって気持ちのいいモノじゃない。そんなの、身内以外でも一緒だけどね。……これを持ちな。心を鎮めてくれる」
「焔……まあいいわ」
波音は名前を呼び引き留めようとするが、それ以上は何も言わない。
焔は優しく微笑んで手のひらサイズの球体を日和に手渡す。
ガラスのような綺麗な透明惑のある球は日和の手に収まると、ぼっ、と音を立てて燭台の灯りのような黄色の炎を灯した。
ゆらゆらと揺らめくそれは自然と魅入ってしまうほどに静かで、綺麗で、刹那的で、けれど手に伝わる熱さは一切ない程に不思議な物だ。
「あの、ありがとうございます……」
夜の怖さは既に波音に会った時点で消えていたが、祖父への心配もこの後の不安もこの炎のおかげか、日和は落ち着いて歩くことができた。
時刻は20時を過ぎている。
人通りもない、静けさに沈んだ町の中を縫うように歩けば正面に公園が見えてきた。
「ついたわよ」
冷えた波音の言葉が、夜の静けさにくっきりと痕を残す。
公園の中では竜牙と玲が、黒い布を囲って立っていた。
「あら、玲も来てたの」
「日和、ちゃん。どうして波音と……」
玲は顔を真っ青にし、声を震わせている。
その反応で既に日和の不安は確信に変わった。
まだ、姿を見ずとも解る。
その黒い布の中のモノが。
「……中、確認しないって選択肢もあるよ。どうする?」
冷ややかな波音とは対照的に温かく心配する焔。
日和の心は手に持つ炎の影響か、とても静かで落ち着いている。
亡くなった父は真っ赤な顔で見ることすらできなかった。
棺の中では猶更だ。
だからこそ、顔を見ずにお別れをするのは――本望ではない。
「いえ……おじいちゃんに、祖父に会わせて下さい……」
「日和――……っ」
日和の決意に玲は焦りの声で呼び掛けるものの、竜牙が手を出し制止する。
「玲、お前が取り乱してどうする。金詰日和、この者は体……特に腹部の損傷が激しく、見せられるのは顔のみだ。いいか?」
竜牙は今までに見せた姿とはまるで別人のように、雰囲気も表情も緊張感を漂わせている。
日和はゆっくりと深呼吸をして、竜牙を真っ直ぐに見て頷いた。
その決意を確認し、竜牙はしゃがみ黒い布の一部を捲る。
中で横たわる姿が現れた瞬間、どくんと日和の心臓が跳ね上がった。
目は一気に潤って一瞬にして視界が塞がれていく。
ぼたりぼたりと大粒の涙が頬を伝って流れて、心が、体が、声が震えた。
「あ……あぁ…………おじ、おじい、ちゃん……!やっ、やっと……見つ、けた……」
安らかとは言えないが、布の中で祖父は確かに眠っていた。
辛い。悲しい。日和の中に生まれた感情はそんなものではない。
それとは異質の――
「良かった……ちゃんと、顔……見れて、良かった……」
――安堵。
「……!」
玲だけは胸を強く握り、歯を強く食いしばる。
そして日和の隣に寄り添ってその背を擦った。
「……間に合わなくて、ごめん……」
波音と竜牙はその間静かに目配せをしていた。
波音はスマートフォンを取り出すと、操作を始め、ちらりと日和に視線を向ける。
耐えきれなくなったのだろう、日和は子供のように泣きながら嗚咽していた。
しばらく、公園のベンチで休むことになった。
日和は炎を抱え、抜け殻のように静かに虚空を見つめ、玲はその隣に付き添う。
竜牙は気付けば亡くなった祖父と共に姿を消し、波音はちらちらと何か機会を窺っているようだった。
「……ねぇ、そろそろ良い?報告、行きたいのだけど」
「波音!!」
この重たい空気の中でどうしてそんな事を言うのかと玲は強い剣幕で立ちあがり、波音を睨む。
波音は動じる事なく腕を組み、口を開いた。
「こうしていても仕方ないでしょう?それにヤツはあんたが処理したんでしょう?」
猛禽類のような視線が玲に刺さり、玲は口を一文字にして噤む。
その手は何かを堪えるように力を込めて震えていた。
そこにひたりと何かが玲の手を包み込む。
「……っ」
「兄、さん……私は……大丈夫、だから……」
「ひよ……!…………ごめん、ごめん……。日和ちゃんが一番辛い筈なのに……」
いつの間にか、日和は玲の手を取って後ろに立っていた。
目は虚ろだが、玲をしっかり見ている。
波音は不機嫌そうにため息を出すと何の迷いもなく背中を向けた。
「行くわよ」
5月も残り一週間強、いよいよ6月が近づいている。
梅雨も目の前だ。
「いやあ、食べたね」
「うん。……もう、帰る?」
「少し、商店街を回ってもいいかい?」
「分かった」
少し早めに食事をしたからか、時刻はまだ19時。
普段なら今から食べるような時間だ。
空は真っ暗、当然辺りも暗く夜の気配が蔓延している。
それなのにこの場所は商店街の一つ裏側という事もあり、小さな街灯と並ぶ店の提灯等、仄かな光源に照らされている。
日和にとっては気持ちが悪いほどに半端な明るさの空間だった。
じわりと背中に嫌な汗を感じる。
日和は夜の闇に明るさがある空間が苦手だった。
真っ暗闇か、寧ろ昼間のように明るい方が辛くない。
だから光のある方へ、日和の足は自分が思っていた以上に早く進んでいたらしい。
「日和ちゃ――……」
背中の気配がふっ、と一瞬にして消えた。
祖父の声が突然掻き消えた事に気付いたのは、正面から後ろへ流れる気持ち悪い風が通り過ぎてからだった。
「……え?おじい、ちゃん?」
唐突に一人になり、ひたりと暗い闇が日和を感覚的に襲う。
どこにも祖父の、それどころか今は人の気配すら感じない。
この時間であればまだ賑やかな場所の筈なのに。
流れ出た汗が体を冷やし、悪寒がした。
商店街から洩れる光源がぐにゃりと感覚を狂わせ、気持ち悪さが込み上げてくる。
両手を胸に当て、恐怖にバクバクと大きく鼓動を打つ心臓を押さえ付けた。
でないと背後から何かに襲われそうな気がして、息が詰まってしまうのだ。
気を抜くと過呼吸になってしまいそうな息を意識的に落ち着かせながら歩く。
日和は『人がいない、街灯に照らされた夜』が特に苦手だった。
それは日和が見た幼い記憶。
街灯照らす駅前の公園、周りに人が一切居なかった当時の状況に起因している。
似た場所へ行くと、その光景が簡単にフラッシュバックして恐怖が募る。
血に塗れて死んだ父を襲った何かが、その辺りから出てくる気がして、夜が、光が、嫌いだった。
目の前の景色は歪んで、悪夢の真っ只中にいるような感覚だ。
(どうしよう……だけど今はそんな事、気にしていられない……!)
いつもの自分ならば完全にへこたれて助けが来るまでその場で蹲っていただろう。
しかし今はそれどころではないと気持ちに力を込める。
姿を消した家族を探して、日和は足を止める事なく周囲を捜し始めた。
「どこ……おじいちゃん、どこ……!?」
悲痛な声をあげ、足の速度が自然と上がる。
同時に鼓動も早く打ち付け、日和の表情は徐々に焦りと恐怖に染まっていく。
ゆっくりと辺りを見回すことも許されない。
「お願い、行かないで……おじいちゃん、おじいちゃん……!」
どこを歩いているのかすら最早よく分からない。
暗い道を走り、もしかしたらと明るい表通りへ出る。
しかし、どこにもいない。
寧ろ、誰もいない。
「あ、あぁ……ひっ……あっ!」
空を見上げないと夜だと認識できない程に明るい表通りの中、本来ならば今でも賑わっている筈の空間なのに。
今は夜だと強い認識をしてしまって、明るい表通りは更に強く日和の恐怖を駆り立てる。
走った疲労か恐怖の震えか、日和の足はがくんと膝から落ちた。
転んだ傍に、生徒手帳が落ちる。
そこから覗いた羽根は前見た時とは全く別物だと思う程に、真っ黒になっていた。
「そん、な……」
悪い予感しかしない。
血飛沫と四股が飛んで、記憶の中の父がまた殺された。
「そ、そんな事、ない……!!」
ぞわりと全身が震えて、振り払うように全力で首を振る。
体を起こし、涙が溜まりつつある目を袖で拭って日和は立ち上がる。
「おじいちゃん、待ってて……!!」
日和は羽根を手帳に挟み、ポケットに突っこむと再び路地の方へ走り出した。
一本道を抜け、商店街の裏道に入っていく。
仄かな灯り漂う苦手な気配に怖気づく訳にはいかない。
意を決して捜索を試みようとすると、背後から聞き覚えのある声がかかった。
「あれっ、日和……?」
「えっ?」
それは最近よく聞く声で、日和は振り向く。
中華風の服を着て、目を丸くした水鏡波音がそこに立っていた。
「……ご飯、食べてたのよね? 何しているのよ、こんな夜道に。危ないわよ」
眉をひそめ怪訝な表情を向ける波音に日和は距離を縮め、小さな両肩を掴む。
今助けてくれる人間は目の前の彼女しかいない、と考える前に体が動いた。
「波音、助けて! おじいちゃんがいなくなっちゃったの! さっきまで、隣を歩いてたのに……!」
真っ青な顔を向ける日和に、波音はぴくりと眉を動かす。
「いついなくなったか分かる?」
「わ、わかんない……! でも突然消えて……」
「消えたの? どういう感じで消えたの?」
「えっ? えっと……ま、前から風みたいなのが吹いて、おじいちゃんはその後居ないことに気付いて……」
「貴女が探し始めてからどれだけ経った?」
「わ、わかんない……! 多分10分ほど!」
波音は少し黙り込み、右手を腰に当てる。
どうやらこれが考える時のクセらしい。
しばらく経って、顔を上げた波音の表情は出会った頃よりも硬くなった。
「悪いけど、期待はしないで。ある程度は覚悟しておきなさい。分かった?」
波音の鋭い視線がまるで獲物を捕らえる肉食獣のようになる。
その視線だけで、日和の中で何かの諦めがついた。
「……うん、分かった……」
先ほどまで焦りがあった日和の表情は一瞬にして波音達がよく知る感情の見えない姿へと戻る。
さっきまでの感情をむき出しにした姿が珍しいのだろうか、日和の様子を見ていた波音は小さく息を吐いてくるりと日和に背を向けた。
「……ひとまず、ついてきなさい」
いつもの感情のない表情。
そんな日和の姿に何の動揺も出さず、波音は付近の小道へ体を向けて歩き出す。
日和は静かにその後を追った。
波音は足早に、小学生が興味で通りそうな細い小道ばかりに足を向ける。
いくつかの大きな通りを横切り、神流川に架かる橋を渡り、近道だと思われる場所を歩いているようにも見えるが……一体何処へ向かっているのだろう。
歩く道は街灯照らす夜の道。
日和の苦手な道ばかりだが、何故か波音と一緒ならばそこまででもない。
今は祖父の事だけを考えて、日和は波音の背をついて行った。
「まずいわね。居ないわ」
「え……?」
突如立ち止まって、目を細めて明らかに苛立ちを見せる波音の手元から音が鳴る。
どうやらスマートフォンの通信連絡が届いたようだった。
訝しげにスマートフォンを取り出し、指でいくつかの操作をすると目を瞑って右手を腰に当てる。
無言の波音はちらりと日和に視線を向け、ため息を吐いた。
「焔」
波音の短い言葉に反応するように、波音の背後の何もない空間に突如赤い炎が湧く。
一瞬ぶわっ、と燃え広がって消失したその場所に、手のひらサイズの男の子がちんまりと浮いていた。
「どうしたの、波音。見つかった?」
ふよふよと動き、波音の肩に乗る。
その姿に日和は何を見ているのか不思議な感覚と共に、小さな姿に少しだけ愛嬌を感じた。
「ええ、見つかったわ。老人の男性、それと狼型よ」
一点だけを見つめて、波音は言う。
その蛇のような視線の先には、日和が立っている。
「老人の……まさか、おじいちゃん……!?」
「見なきゃ分からないけど……大丈夫?」
「……」
さっと青くなる日和に対して波音は淡々として静かだ。
波音がふざけたことを言う訳がなく、日和はついに黙り込んでしまった。
「ひとまず、行くわ」
波音はその様子すら気にすることなく再び次の目的地へと足を踏み出す。
焔はちらちらと日和を見ては小さな体を炎で包んだかと思うと、180cmくらいの青年に変わった。
斜めにカットされた前髪、綺麗で真っ直ぐな赤髪を首元で片側に流した特徴的な髪型は、面長で切れ目の美麗な顔によく似合っている。
波音と同じ真っ赤な中華衣装は更にその存在を際立たせていた。
「大丈夫?」
「た、多分……」
「身内の変わり果てた姿なんて、誰が見たって気持ちのいいモノじゃない。そんなの、身内以外でも一緒だけどね。……これを持ちな。心を鎮めてくれる」
「焔……まあいいわ」
波音は名前を呼び引き留めようとするが、それ以上は何も言わない。
焔は優しく微笑んで手のひらサイズの球体を日和に手渡す。
ガラスのような綺麗な透明惑のある球は日和の手に収まると、ぼっ、と音を立てて燭台の灯りのような黄色の炎を灯した。
ゆらゆらと揺らめくそれは自然と魅入ってしまうほどに静かで、綺麗で、刹那的で、けれど手に伝わる熱さは一切ない程に不思議な物だ。
「あの、ありがとうございます……」
夜の怖さは既に波音に会った時点で消えていたが、祖父への心配もこの後の不安もこの炎のおかげか、日和は落ち着いて歩くことができた。
時刻は20時を過ぎている。
人通りもない、静けさに沈んだ町の中を縫うように歩けば正面に公園が見えてきた。
「ついたわよ」
冷えた波音の言葉が、夜の静けさにくっきりと痕を残す。
公園の中では竜牙と玲が、黒い布を囲って立っていた。
「あら、玲も来てたの」
「日和、ちゃん。どうして波音と……」
玲は顔を真っ青にし、声を震わせている。
その反応で既に日和の不安は確信に変わった。
まだ、姿を見ずとも解る。
その黒い布の中のモノが。
「……中、確認しないって選択肢もあるよ。どうする?」
冷ややかな波音とは対照的に温かく心配する焔。
日和の心は手に持つ炎の影響か、とても静かで落ち着いている。
亡くなった父は真っ赤な顔で見ることすらできなかった。
棺の中では猶更だ。
だからこそ、顔を見ずにお別れをするのは――本望ではない。
「いえ……おじいちゃんに、祖父に会わせて下さい……」
「日和――……っ」
日和の決意に玲は焦りの声で呼び掛けるものの、竜牙が手を出し制止する。
「玲、お前が取り乱してどうする。金詰日和、この者は体……特に腹部の損傷が激しく、見せられるのは顔のみだ。いいか?」
竜牙は今までに見せた姿とはまるで別人のように、雰囲気も表情も緊張感を漂わせている。
日和はゆっくりと深呼吸をして、竜牙を真っ直ぐに見て頷いた。
その決意を確認し、竜牙はしゃがみ黒い布の一部を捲る。
中で横たわる姿が現れた瞬間、どくんと日和の心臓が跳ね上がった。
目は一気に潤って一瞬にして視界が塞がれていく。
ぼたりぼたりと大粒の涙が頬を伝って流れて、心が、体が、声が震えた。
「あ……あぁ…………おじ、おじい、ちゃん……!やっ、やっと……見つ、けた……」
安らかとは言えないが、布の中で祖父は確かに眠っていた。
辛い。悲しい。日和の中に生まれた感情はそんなものではない。
それとは異質の――
「良かった……ちゃんと、顔……見れて、良かった……」
――安堵。
「……!」
玲だけは胸を強く握り、歯を強く食いしばる。
そして日和の隣に寄り添ってその背を擦った。
「……間に合わなくて、ごめん……」
波音と竜牙はその間静かに目配せをしていた。
波音はスマートフォンを取り出すと、操作を始め、ちらりと日和に視線を向ける。
耐えきれなくなったのだろう、日和は子供のように泣きながら嗚咽していた。
しばらく、公園のベンチで休むことになった。
日和は炎を抱え、抜け殻のように静かに虚空を見つめ、玲はその隣に付き添う。
竜牙は気付けば亡くなった祖父と共に姿を消し、波音はちらちらと何か機会を窺っているようだった。
「……ねぇ、そろそろ良い?報告、行きたいのだけど」
「波音!!」
この重たい空気の中でどうしてそんな事を言うのかと玲は強い剣幕で立ちあがり、波音を睨む。
波音は動じる事なく腕を組み、口を開いた。
「こうしていても仕方ないでしょう?それにヤツはあんたが処理したんでしょう?」
猛禽類のような視線が玲に刺さり、玲は口を一文字にして噤む。
その手は何かを堪えるように力を込めて震えていた。
そこにひたりと何かが玲の手を包み込む。
「……っ」
「兄、さん……私は……大丈夫、だから……」
「ひよ……!…………ごめん、ごめん……。日和ちゃんが一番辛い筈なのに……」
いつの間にか、日和は玲の手を取って後ろに立っていた。
目は虚ろだが、玲をしっかり見ている。
波音は不機嫌そうにため息を出すと何の迷いもなく背中を向けた。
「行くわよ」