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作者: 京泉
中立宣言と、静かな戦線布告。
 ラリッサがロザリンに向ける視線は、日に日に鋭さを増していた。
 理由は単純。ラリッサにしてみれば「自分より目立つ存在」が許せないだけなのだ。

 そして案の定──嫌がらせが行われた日は、すぐにやってきた。

 その日、ラリッサは用事があると早々に帰宅し、久々の解放感を得た私はずっと気になっていた裏庭の茂みに向かった。
 ラリッサの取り巻きになってから心が休むことはなく、目の前の草と向き合って、黙々と土に触れている時間が「私」を取り戻す時間だった。

「⋯⋯ふぅ、集中し過ぎてしまったわ。ああ、いい時間だった」
「相変わらず、独り言は健在だな」
「きゃあっ⋯⋯エルンスト様!」

 スッキリとした気分で茂みから出てすぐ、不意に背後から声をかけられ、飛び上がるように振り返ると、そこには垣根に背をもたれさせたエルンストの姿があった。寛いでいる姿のその手には一冊の革表紙の本。相変わらずの冷静な表情──けれど目元にかすかな笑みがある。

「い、いつからそこに⋯⋯もしかして、ずっと見ていらしたのですか?」
「ずっと、というほどではないが、そこそこ長い時間、黙々と草を引き抜く姿を見ていた」

 どことなく声の調子が柔らかいのは気のせいではないはず。

「⋯⋯これは、気分転換みたいなものです。余計なことを考えなくて済みますから」
「それはよく分かる。俺も⋯⋯読書をするときだけは、周囲の騒がしさを忘れられる」

 彼の手にある本の背表紙を見れば、政治論文集のようだった。あまりに硬派な選書に、思わず私は目を見張る。

「⋯⋯私の趣味と並べると、高尚さの違いが山と谷くらいありますね⋯⋯」
「どちらも静けさの中でしか得られないものだ。本を読む者も、草を抜く者も、根は似たようなものだと俺は思う」

 無理矢理共通点を見出されたようで、少し笑ってしまう。エルンストはそんな私を見て、小さく息をついた。

「しかし⋯⋯あれほど真剣な顔で草と向き合っている君を見た時は、正直、奇妙な場面に立ち会ってしまったかと思った。だが、不思議と目が離せなかった」
「そ、それは褒め言葉なんでしょうか」
「わからないが、悪意はない」

 真顔でさらりと返すその姿に、私は思わず肩を震わせた。笑うつもりはなかったのに、なんだか可笑しくて仕方がない。

 風がそよぎ、木々の葉が揺れる。ふたりの間に流れる沈黙は、居心地が悪くなかった。

 どれほどの時間が過ぎたのだろう。ふと、遠くから笑い声が聞こえた。
 私は立ち上がり、手袋についた土を払う。

「そろそろ帰ります⋯⋯裏庭と言っても全く誰も来ないとは限りませんし、こんなところ誰かに見られたらエルンスト様にご迷惑をおかけしてしまいますから」
「⋯⋯迷惑、か。君のそういうところは厄介だな」

 エルンスト様はどこか名残惜しげに本を閉じた。その仕草が妙に印象に残った。

「では、エルンスト様、失礼します」
「ああ⋯⋯リアーナ嬢」
「はい?」
「また、こうして静かな時間を共有できるといい」

 静かだが、まっすぐなその言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。

「⋯⋯私も、そう思います」

 一礼して背を向ける。足音を立てぬよう、ゆっくりと。
 私はふと後ろを振り返った。

 そこには、茂みの緑の中に佇むエルンストの姿。陽光を背に受け、本を片手に立つその姿は、まるで物語の一場面のようだった。

 けれどこれは、誰にも見られてはならない、小さな静けさの記憶。

 私は再び前を向き、少しだけ早足で通路を抜けた。

──────────────────

 裏庭から中庭に出てすぐ、くすくすと笑いながら歩くラリッサの取り巻きたちの背中が見えて私は気付かれないように垣根に身を隠した。
 同じ取り巻きでも彼女たちはラリッサの機嫌取りを切磋琢磨しているから私のことなんて眼中にないのだけれど、気付かれていないのなら気付かせる必要はない。

「あの娘の顔。泣きそうでしたわね」
「ええ、インク汚れは落ちにくいのよね」
「これでラリッサ様が少しでも落ち着くと良いのだけれど」
「ホントよね。ラリッサ様は私たちに指図するだけなのに、このところずっと機嫌が悪し」
「いつ矛先がこちらに向くかハラハラするわよね」
「本来ならこんな事、リアーナにさせればいいのに。使えない子よねリアーナも」
「地味で影も薄いし、いてもいなくても同じだけれど、こういう時に本当、使えないのよねえ」

 くすくすという笑い声が遠ざかっていくのを、私は茂みの陰でじっと聞いていた。
 取り巻きたちの足音が中庭の石畳を踏みしめる音とともに遠ざかっていくのを確かめてから、そっと息を吐いた。

──よかった。気付かれずに済んだ。

 「リアーナも使えない子よね」──笑い混じりのその言葉が耳に残る。同時に自分の立ち位置を、改めて思い知らされた。
 
──「使えない」なんて嫌な言葉。

 使える、使えない。そんなのは自分の思い通りに相手が動いたか、動かなかったかの印象でしかないのに。

 私はそっと垣根から抜け出し、取り巻きたちとは逆の方向、中庭に続く小道へと歩き出す。
  藤棚の影に差しかかったそのとき、かすかに──しゃくり上げるような声が耳に届いた。
 
──誰か、泣いている?

 小さく首を傾げ、足を止める。耳を澄ますと、再び、くぐもった声が風に乗って届いた。物音を立てないよう、そっと垣根の向こうを覗き込む。

 視界に入ったのは桃色の髪。そこにいたのは、ロザリンだった。

 ロザリンはしゃがみ込んで、何かを拾っていた。その手元には散乱した数冊の本と、割れたインク壺。

──ああ⋯⋯さっきのはロザリンに嫌がらせした話だったのね⋯⋯最低だわ。

 誰かがわざとぶつかり、インクをこぼし、本を落とさせた。そうすれば、ラリッサは気分が良くなる──きっと、そう思って。

 ロザリンは何も言わず、黙々と散らばった本を拾い集めている。その背中は、まるで⋯⋯前世の私のようだった。

──ロザリンへの嫌がらせ。関わっちゃダメよリアーナ⋯⋯。

 私の指先が強く握られる。決めたでしょう。中心人物とは関わらない。平穏に生きる努力をするのだと。
 でも⋯⋯もう一度ロザリンの背に戻す。

──目を逸らし、無関係を貫くのは簡単。
 でも、それで⋯⋯本当にいいの?

 私の中で、ふたつの気持ちが綱引きをしていた。
 関わらないと決めたのは、誰のため? 自分のため。
 目の前で傷付いている誰かを見て、見ぬふりをするのは⋯⋯それもまた、自分のため。

──それは、ラリッサたちとどこが違うの?

 小さく唇を噛んだ。こんな風に迷うのは、予定外だ。前世の私なら、こういう場面では迷わなかった。会社の中で、誰かが理不尽な目に遭っても、見て見ぬふりをすることが「大人の対応」だったから。

 でも、私は──ずっと後悔していた。
 声をかけなかったこと、黙っていたこと、無関係でいようとしたこと。
 傷付いていた人の背中に、手を差し伸べなかったこと。

 そういう後悔は、静かに、でも確実に、心に染みついていく。

 それでも、足は前に出なかった。喉の奥がつかえる。声をかけようとするたび、心のどこかで「やめておけ」と囁く声がする。

──もし、ロザリンに近づいて、それがラリッサたちに知られたら? 裏切ったと標的にされる。

 心がぎゅうっと縮こまるようだった。怖い。本当に、怖い。
 私は静かに日々を過ごしたい。平穏でいたい。

 けれど──

 目の前のロザリンは、ひとつずつ本を拾い、割れたインク壺の欠片をそっと集めていた。誰にも助けを求めず、声も上げず、まるでそれが当然の罰であるかのように。

 その姿が、やけに胸に刺さった。

──リアーナ。本当にこれでいいの?

 私の中のもう一人の私が問いかけてくる。
 彼女を見捨てて、大好きな草むしりをして、何事もなかったふりをして生きていくの?

 それで──本当に、平穏だと言えるの?

 私の喉が、ようやく動いた。

「これ、使って」
「えっ⋯⋯あの⋯⋯ありがとうございます」
「誰も見ていないから、安心して。それと、何も聞かないで」

 私が差し出したハンカチを受け取ったロザリンの大きな瞳が、揺れる。

 私は本のひとつを拾い、ポンポンと砂埃を払った。

「気づかなかったことにするから、私のことも忘れて。でも、インクは早めに柑橘系の果物の皮とぬるま湯で叩き洗いするといいわ。その時にインクシミを乾いた布ではさんで汚れを移すように叩き洗いするの」

 小さくそう言って、本を返すと、ロザリンは震える声で再び「ありがとうございます」とつぶやいた。

 私はそれに返事をせず、背を向けた。

 私は誰の味方でもない。でも、理不尽に晒された誰かを独りにするのも──もう、嫌だった。

「派手な人生は望んでいない⋯⋯のではないのか? ラリッサ嬢が目を付けているロザリン嬢と関われば、君も標的にされるのではないか?」

 藤棚のところまで戻って「やってしまった」と深呼吸した背後から聞こえたのは、先ほど別れたばかりのエルンストの声だった。

「見ていたんですか?」
「君が帰ると言ったのに正門とは反対方向へ行くのが見えて⋯⋯ 少し、気になっただけだ」

 彼は藤棚のベンチに腰を下ろし、私にも座るよう促した。

「ロザリン嬢に味方することはラリッサ嬢の敵になる。ラリッサ嬢が怖くないのか?」
「怖いです。それでも⋯⋯無関心でいられるほど私は私の心を見ないふりできませんでした。それに、私はどちらの味方でもありません」

 綺麗事を言う私にエルンストは少しだけ目を細めた。その表情は、評価でも、嘲りでもなかった。

「中立とは、最も孤独な立場だ。だが、誰よりも自由だ。君はそれを選んだということだな。ならば、覚悟をしておくんだな。ただ、リアーナ、君は独りではない──が、いる」
「最後、なんと⋯⋯」
「二度は言わない」

 不思議と彼の言葉には冷たさよりも、どこか暖かい優しさと、言葉にはできない微かな想いが宿っているように感じた。
 彼の言葉の最後は聞こえなかったはずなのに、胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなっていた。まるで、独りじゃないと──そんな風に言われた気がした。

──────────────────

 ロザリンに声をかけた日から数日後。
 図書室で本を読んでいた私に、小さな声がかけられた。

「⋯⋯あの、リアーナ様」

 見上げると、ロザリンが立っていた。戸惑いと緊張の入り混じった表情。

「ロザリン様? どうかされましたか?」
「この前は、ありがとうございます⋯⋯あの、私、ラリッサ様に呼び出されて、その⋯⋯」
「気づかなかったことにする、私のことも忘れてとお伝えしたと思いますが」

 彼女は悲しそうに目を伏せた。

「⋯⋯でも、あなたを独りにもしません。だから、落ち着いて話してください」

 ロザリンは目を見開いて、そして静かにうなずいた。

「⋯⋯はい。ありがとうございます」

 彼女の声にわずかながら希望が滲んだ。
 私はロザリンが話し出すのを待ちながら覚悟を決めた。
 関わらないと決めていた。けれど、それは「見捨てる」こととは違う。

 それが、私の選んだ「中立」という戦い方だった。
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