中立という名の薄氷。
ラリッサ・グレイ公爵令嬢は、美しかった。
艶のある金髪は陽の光を受けてきらめき、紫水晶のような瞳には自信と誇りが宿っていた。その立ち姿には一分の隙もなく、椅子に腰掛ける所作すらもまるで芸術品のよう。生まれながらにして他者を従える気品を持ち、彼女の一挙手一投足は、上級社会で磨かれた優雅さそのものだった。
そんな彼女には、どうしても直らない癖がある。
『自分の気に入らない女の子に、すぐ敵意を向ける』
という、非常に明確かつ厄介な癖が。
なぜ気に入らないのか、その基準はいつも曖昧だ。相手の容姿が気に入らないこともあれば、育ちや家柄、ほんの些細な仕草が気に障ることもある。ただ一つ言えるのは、「ラリッサの中で、何かが地雷を踏んだ」と判断された瞬間、その相手は標的になる、ということだ。
それは些細な言葉や態度の端々からじわじわと始まり、やがて──小さな戦争となる。
今日、その矛先が向けられたのは──編入生のヒロイン、ロザリン・アルフルド男爵令嬢だった。
昼下がりの陽光が穏やかに差し込む王立学園の中庭。手入れの行き届いた芝生の上に設けられた白いパラソルの下、私はラリッサ様とその取り巻きの令嬢たちに囲まれて、静かに紅茶を口にしていた。
涼風がカップの香りを運び、遠くで鳥のさえずりが響いている。けれどその静寂は、心の奥にひそむ緊張を和らげはしなかった。
ラリッサの指先が、優雅に金縁のティーカップを持ち上げ、唇に触れる。
「たいしたことないですわね。身分も、容姿も」
冷たく放たれたその一言に、周囲の空気がぴんと張り詰めた。まるで一瞬にして気温が数度下がったかのような錯覚。取り巻きの令嬢たちは息を飲み、私も静かに眉を寄せた。
──ああ、始まった。
思わず、小さく首を傾けながら、話題の主──ロザリンの姿を思い出す。
彼女は、たしかに可憐だった。桃色の髪をひとつにまとめ、制服の襟元も丁寧に整えていた。笑顔は柔らかく、受け答えも静かで丁寧で、誰かを見下すような態度など微塵もない。けれど──その視線はどこか伏しがちで、どこか怯えたようでもあった。
まるで、他人との間に見えない壁を作っているように。距離を取って、踏み込みすぎないように。そんな印象を受けた。
それは、思い出さずにはいられない姿だった。
──前世の私みたい。
誰かに何かを言われるたび、びくびくして、自分の表情を気にして、人からどう思われているかばかり気にして。気疲れして、笑顔が作れなくなっていったあの頃。
「リアーナ。リアーナ、聞いてらして?」
「あっ……申し訳ありません。少し考え事をしておりました」
我に返って顔を上げると、ラリッサがわずかに眉をひそめていた。取り巻きの令嬢たちが、くすくすと笑いながら私の様子を眺めている。
「もう、リアーナは時々ぼんやりとするわね。ロザリンのことよ。あの娘、アルフレッド殿下のお妃候補とか言われて、身の程を知らなすぎるのよ」
その言葉に、取り巻きたちがすかさず声を上げた。
「ラリッサ様以上の候補なんて、ありえませんわ!」
「なんて厚かましい!」
「アルフレッド王子に相応しいのは、ラリッサ様ただお一人ですもの!」
私は心の中で小さくため息をつく。
──どの世界でもこうして、共通の敵を見つけて結束するものなのね。
もちろん、ラリッサがそういう気質であるというのもあるけれど、こういう空気に同調していく流れは、前世でもよく見た。
職場でのマウントの取り合い、陰口、派閥争い。空気を読むことを強いられ、誰かをかばえば標的になるリスクを負う。巻き込まれたくなければ、無難に同調するのが一番安全。
それでも、今のロザリンを思うと──どうしても言葉が詰まる。
「リアーナも、図々しいと思うでしょう?」
ラリッサが私に視線を向ける。その瞳には、当然のように「同意」を求める確信があった。
けれど、私は言葉に詰まった。
ロザリンが、自ら「妃候補です」と言いふらしているわけではない。周囲が勝手に騒いでいるだけで、本人はそれに戸惑いながら静かにしている。
どうして、それを「図々しい」と言えるのだろう。
「そうですね⋯⋯」
慎重に言葉を選びながら、私はティーカップを手に取った。
「──まだ、慣れていらっしゃらないだけで、対応が上手くできないのかもしれません」
「慣れていない?」
ラリッサがわずかに眉を寄せる。取り巻きたちも、一様に首を傾げていた。
私は思い切って続きを口にする。
「突然、王立学園という場に身を置くことになって、それも注目の的ともなれば、誰でも少なからず戸惑うと思います。人の噂というのは、本人の意志とは関係なく独り歩きするものではありませんか? ロザリン様は、慣れていないが故に、それをうまくあしらうことができないのでしょう」
一呼吸おいて、私はラリッサをまっすぐに見つめた。
「ただ⋯⋯ラリッサ様には──そういった噂が取るに足らないものであると、むしろ、動じる必要などないのではないでしょうか?」
ラリッサの紫の瞳が細められ、ふうん、と鼻を鳴らした。
「そうですわね。確かにくだらない噂ですわ。アルフレッド殿下に誰が相応しいか、わたくしが一番理解しておりますもの」
そう言って、彼女はまた紅茶を口にした。その動きには、どこか機嫌を直したような雰囲気があった。
取り巻きたちも顔を見合わせ、小さなため息をつきながら、先ほどまでの高揚は少しだけ静まったように見える。
──少しだけ、空気を変えることができた⋯⋯のかもしれない。
胸をなでおろしたけれど──
「でも、あの娘にはご自分の立場を教えて差し上げなくてはならないわね」
ラリッサがぽつりと呟いたその一言で、私の安心は儚く崩れ去った。
──あー⋯⋯これ、絶対なにかされるやつだわ。
ロザリンに対するラリッサの過干渉と敵意。それは、ゲームでも物語の序盤を大きく動かす要因だった。
そして、その過干渉に巻き込まれていくのは、決まって「取り巻き」たち。
もちろん、私もその中の一人だった。
──なんとかして関わるのは最小限にしないと。
平穏に生きるためには、関わらないこと。目立たないこと。空気のように──
それが最適解。そう思っていた。
そう言い聞かせて、私は今日も本当の気持ちに蓋をする。
けれど、心をごまかすたびに、胸の奥が少しずつ軋むのがわかる。それが、隅に押し込まれている私の心の、かすかな悲鳴だと、本当は気付いていた。
艶のある金髪は陽の光を受けてきらめき、紫水晶のような瞳には自信と誇りが宿っていた。その立ち姿には一分の隙もなく、椅子に腰掛ける所作すらもまるで芸術品のよう。生まれながらにして他者を従える気品を持ち、彼女の一挙手一投足は、上級社会で磨かれた優雅さそのものだった。
そんな彼女には、どうしても直らない癖がある。
『自分の気に入らない女の子に、すぐ敵意を向ける』
という、非常に明確かつ厄介な癖が。
なぜ気に入らないのか、その基準はいつも曖昧だ。相手の容姿が気に入らないこともあれば、育ちや家柄、ほんの些細な仕草が気に障ることもある。ただ一つ言えるのは、「ラリッサの中で、何かが地雷を踏んだ」と判断された瞬間、その相手は標的になる、ということだ。
それは些細な言葉や態度の端々からじわじわと始まり、やがて──小さな戦争となる。
今日、その矛先が向けられたのは──編入生のヒロイン、ロザリン・アルフルド男爵令嬢だった。
昼下がりの陽光が穏やかに差し込む王立学園の中庭。手入れの行き届いた芝生の上に設けられた白いパラソルの下、私はラリッサ様とその取り巻きの令嬢たちに囲まれて、静かに紅茶を口にしていた。
涼風がカップの香りを運び、遠くで鳥のさえずりが響いている。けれどその静寂は、心の奥にひそむ緊張を和らげはしなかった。
ラリッサの指先が、優雅に金縁のティーカップを持ち上げ、唇に触れる。
「たいしたことないですわね。身分も、容姿も」
冷たく放たれたその一言に、周囲の空気がぴんと張り詰めた。まるで一瞬にして気温が数度下がったかのような錯覚。取り巻きの令嬢たちは息を飲み、私も静かに眉を寄せた。
──ああ、始まった。
思わず、小さく首を傾けながら、話題の主──ロザリンの姿を思い出す。
彼女は、たしかに可憐だった。桃色の髪をひとつにまとめ、制服の襟元も丁寧に整えていた。笑顔は柔らかく、受け答えも静かで丁寧で、誰かを見下すような態度など微塵もない。けれど──その視線はどこか伏しがちで、どこか怯えたようでもあった。
まるで、他人との間に見えない壁を作っているように。距離を取って、踏み込みすぎないように。そんな印象を受けた。
それは、思い出さずにはいられない姿だった。
──前世の私みたい。
誰かに何かを言われるたび、びくびくして、自分の表情を気にして、人からどう思われているかばかり気にして。気疲れして、笑顔が作れなくなっていったあの頃。
「リアーナ。リアーナ、聞いてらして?」
「あっ……申し訳ありません。少し考え事をしておりました」
我に返って顔を上げると、ラリッサがわずかに眉をひそめていた。取り巻きの令嬢たちが、くすくすと笑いながら私の様子を眺めている。
「もう、リアーナは時々ぼんやりとするわね。ロザリンのことよ。あの娘、アルフレッド殿下のお妃候補とか言われて、身の程を知らなすぎるのよ」
その言葉に、取り巻きたちがすかさず声を上げた。
「ラリッサ様以上の候補なんて、ありえませんわ!」
「なんて厚かましい!」
「アルフレッド王子に相応しいのは、ラリッサ様ただお一人ですもの!」
私は心の中で小さくため息をつく。
──どの世界でもこうして、共通の敵を見つけて結束するものなのね。
もちろん、ラリッサがそういう気質であるというのもあるけれど、こういう空気に同調していく流れは、前世でもよく見た。
職場でのマウントの取り合い、陰口、派閥争い。空気を読むことを強いられ、誰かをかばえば標的になるリスクを負う。巻き込まれたくなければ、無難に同調するのが一番安全。
それでも、今のロザリンを思うと──どうしても言葉が詰まる。
「リアーナも、図々しいと思うでしょう?」
ラリッサが私に視線を向ける。その瞳には、当然のように「同意」を求める確信があった。
けれど、私は言葉に詰まった。
ロザリンが、自ら「妃候補です」と言いふらしているわけではない。周囲が勝手に騒いでいるだけで、本人はそれに戸惑いながら静かにしている。
どうして、それを「図々しい」と言えるのだろう。
「そうですね⋯⋯」
慎重に言葉を選びながら、私はティーカップを手に取った。
「──まだ、慣れていらっしゃらないだけで、対応が上手くできないのかもしれません」
「慣れていない?」
ラリッサがわずかに眉を寄せる。取り巻きたちも、一様に首を傾げていた。
私は思い切って続きを口にする。
「突然、王立学園という場に身を置くことになって、それも注目の的ともなれば、誰でも少なからず戸惑うと思います。人の噂というのは、本人の意志とは関係なく独り歩きするものではありませんか? ロザリン様は、慣れていないが故に、それをうまくあしらうことができないのでしょう」
一呼吸おいて、私はラリッサをまっすぐに見つめた。
「ただ⋯⋯ラリッサ様には──そういった噂が取るに足らないものであると、むしろ、動じる必要などないのではないでしょうか?」
ラリッサの紫の瞳が細められ、ふうん、と鼻を鳴らした。
「そうですわね。確かにくだらない噂ですわ。アルフレッド殿下に誰が相応しいか、わたくしが一番理解しておりますもの」
そう言って、彼女はまた紅茶を口にした。その動きには、どこか機嫌を直したような雰囲気があった。
取り巻きたちも顔を見合わせ、小さなため息をつきながら、先ほどまでの高揚は少しだけ静まったように見える。
──少しだけ、空気を変えることができた⋯⋯のかもしれない。
胸をなでおろしたけれど──
「でも、あの娘にはご自分の立場を教えて差し上げなくてはならないわね」
ラリッサがぽつりと呟いたその一言で、私の安心は儚く崩れ去った。
──あー⋯⋯これ、絶対なにかされるやつだわ。
ロザリンに対するラリッサの過干渉と敵意。それは、ゲームでも物語の序盤を大きく動かす要因だった。
そして、その過干渉に巻き込まれていくのは、決まって「取り巻き」たち。
もちろん、私もその中の一人だった。
──なんとかして関わるのは最小限にしないと。
平穏に生きるためには、関わらないこと。目立たないこと。空気のように──
それが最適解。そう思っていた。
そう言い聞かせて、私は今日も本当の気持ちに蓋をする。
けれど、心をごまかすたびに、胸の奥が少しずつ軋むのがわかる。それが、隅に押し込まれている私の心の、かすかな悲鳴だと、本当は気付いていた。