残酷な描写あり
33.新たな来訪者5
ティンクとスペチオさんを特別実験室に残して食道に戻って来た私達は、クワトルが作ってくれた夕食を一足先に食べていた。
「そういえばモラン、帰って来た時から気になっていたのだけど、なんだか様子が変よ。何かあったの?」
モランは私が帰ってきた時から、様子がおかしかった。落ち込んでいる……という訳ではなさそうだが、どこか縮こまった態度だった。モランの背中にある、翼人族を象徴する髪の色と同じ栗色をした立派な翼が、モランの気持ちと同調するかのように下に向いて垂れ下がっているのを見る限り、何かがあったのは間違いないと私に確信を抱かせるには十分だった。
「えっ!? あ、はい、あの、その……」
突然声をかけられたモランは、口ごもりまた顔を下に向ける。そんなモランを気遣って、アインが変わりに私の質問に答えた。
「ええとですねセレスティア様、モランはどうもスペチオ様に驚かされてからスペチオ様のことを怖がっている……いえ、畏怖しているのですよ」
……どゆこと?
私は詳しい話を聞くべく、モランに説明を求めた。
モランは口ごもりながらも、ゆっくりと口を開き話をしてくれた。
◆ ◆
時間は1日前に遡る――。
事の始まりはセレスティア様の屋敷の最寄りにある町、『リエースの町』にティンクちゃんと一緒に買い物に来て、そのついでに町を案内してもらっていた時だった。
「あ、セレスティア様からだ! ちょっと待っててねモランちゃん」
ティンクちゃんは耳を手で覆うように当てて、何やらボソボソと話始めた。
話の内容までは聞こえなかったが、セレスティア様から何か連絡が来たみたいだ。
昨日、アインさんに屋敷を案内してもらった時に説明されたことだけど、ティンクちゃんやクワトルさん、アインさん、そして今は貿易都市に出稼ぎに行っている二人、名前はたしか、ニーナさんとサムスさんだったかな?
セレスティア様の使用人のこの五人の人達は、セレスティア様から『錬金術』と言う特別な術を施してもらい、姿や記憶をそのままに強靭なゴーレムの体に肉体を作り替える『ゴーレム化』というものを施してもらったらしい。
『錬金術』や『ゴーレム化』……初めて聞くその術の事をアインさんに聞こうとしたら、「私からは話せないから、詳しいことはセレスティア様から聞いてね」と、はぐらかされてしまった。
詳しいことはセレスティア様に聞かないと分からないけど、どうやらゴーレム化によってティンクちゃん達は不老の身体になり、身体能力も格段に向上したと、アインさんは言っていた。
そしてそのゴーレム化によって、『主の命令を受信する』というゴーレム特有の機能も手に入れたのだという。
この機能は、生み出されたゴーレムが持っている機能で、主人からの命令をどんな形であっても受け取ることが出来る、というものという。それは言葉だけじゃなく、頭の中で考えた思考でも大丈夫らしい。
更にセレスティア様はこの機能に少し手を加えて、命令を受けとる『受信』だけじゃなく、逆に思念を送り返す『送信』も出来るようにして、『通話』が出来るようにしたそうだ。
詳しいことは私にはよく解らなかったけど、簡単に言えば相手を思い浮かべて念じるだけで、どんなに距離が離れていてもまるで近くに居るみたいに会話が出来るらしい。
アインさんからそんな説明を受けたが、私にはよく分からない事だらけだった。
だけど、あの固さ調節機能付きのベッドを開発した事といい、聞いたこともない『錬金術』という術に、これまた聞いたことのない『ゴーレム化』という技術で肉体を作り替えるセレスティア様が、如何に凄い人なのかだけは容易に理解できた。
私が昨日の事を思い出していた間に、セレスティア様との通話が終わったティンクちゃんが、「セレスティア様が急用でこっちに来るみたいだから、町の外で待っててだって!」と会話の内容を簡潔に話してくれた。
それから私とティンクちゃんは、町での買い物を急いで済ませて、セレスティア様が来るのを町の外で待った。
それからしばらくして、セレスティア様は大きな馬に乗ってやって来た。クワトルさんも一緒だった。
セレスティア様は急いだ様子で、口早に事情を説明してくれた。
どうやらセレスティア様は、友人の方から急な呼び出しを受けたようで、その付き添いにクワトルさんとティンクちゃんを連れて行くのだそうだ。そして私は屋敷に戻るように指示された。
私はティンクちゃんから収納魔法付きの買い物袋を受け取ると、セレスティア様が即席で作り出した馬のゴーレムに跨がり、セレスティア様達と別れてそのまま屋敷へと戻った。
屋敷に戻った私は、アインさんに指導してもらいながら屋敷の掃除に取り掛かった。
セレスティア様の屋敷は私が暮らしていた家に比べて小さかったが、貿易都市で見た貴族の屋敷よりは遥かに大きかった。
私とアインさんは屋敷の2階に沢山ある個室を、順番に一部屋づつ掃除して周った。
そして全ての部屋を掃除し終えた時、部屋に置いてあった時計を確認したアインさんが声を上げた。
「あら、もうこんな時間、とっくに昼の刻を過ぎてるわ! モラン、私は昼食の準備をするけど、その間あなたには別のことをお願いするわね」
アインさんはそう言うと、私を連れて裏庭にやって来た。
裏庭はかなりの広さがあり、おおよそ屋敷が2つ分くらいすっぽり入る程だった。
そんな広大な敷地の裏庭だが、実はそのほとんどが沢山の種類の野菜が生る菜園だったり、色とりどりの花が咲き乱れる花壇だったりする。
そんな華やかな裏庭の隅には、大きな石造り倉庫が一つ建っている。倉庫の中は、屋敷の個室8部屋分はありそうなぐらいな広さがあった。しかし、そこには様々な道具や物が沢山置かれているので、実際に人が動けるスペースは個室1部屋分ぐらいあるかどうかかな?
アインさんはそんな倉庫の中を慣れた様子で移動して、ガサゴソと目的の物をあっさりと探し出してきた。そして「はい、これ」と言って渡されたのは、バケツとデッキブラシだった。
「モランには屋根の掃除をお願いするわね。モランはその翼で空を飛べるから屋根から落ちる心配はないだろうし、丁度適任だと思うの。屋根掃除は最近忙しくて手が回ってなかったから汚れが溜まってると思うけど頑張ってね! 水はあの井戸から汲み上げて自由に使ってね。そして、汚れた水は畑や花壇から離れた庭の隅に捨ててね」
アインさんはそう説明しながら、倉庫の横にある屋根付きの小さな井戸を指差した。
「じゃあ後はよろしくね。屋根の掃除は今日中に終わらせてくれればいいから、無理はしないで疲れたら休憩はしっかり取ってね!」
「はい! わかりました!」
そうしてアインさんは屋敷の中に戻り、裏庭には私一人だけが残った。
私はアインさんに言われた通り、井戸に備え付けられていた桶を使って井戸から水を汲み上げると、バケツに移していく。そして、水が入ったバケツとデッキブラシを持って屋根まで楽々と飛んでいく。空を飛べる翼人族にとっては、水の入った重いバケツを屋根まで運ぶなんて簡単なことだ。
屋根に飛び乗った私は、早速掃除を開始した。
「う~ん、アインさんの言っていた通り、かなり汚れてるなぁ」
屋根の上は私が予想したよりもかなり汚れていた。
というのも屋敷は木々深い森の奥に建っている為、周りは当然森に囲まれている。だが、屋敷の外周は綺麗に木々が伐採されて拓けている。すると、屋敷の屋根の上は太陽を遮る物は当然無くなる。植物が豊富な環境で、太陽が一番よく当たる屋根の上は、当然植物たちが成長する絶好の温床となっていた。
その結果はごらんの通りで、私の目の前には苔がまみれた屋根が広がっていた。
アインさんは最近手が回らなかったと言っていたが、見る限りではどうやらかなり放置されていた様子の屋根は、それはもう掃除のし甲斐がありそうだった。
私はそんな光景に気落ちしないように、「やるぞー!」と気合を入れて掃除を始めた。
――そして、それがやって来た。
それは、私が6回目になるバケツの水を入れ替えた頃だった。
屋根にビッシリ生えた苔は思っていたよりしつこくて、直ぐに水が汚れて何度も水を入れ替える事になっていた。
苔なんて濡らしたブラシで擦れば簡単に落ちるだろうと思っていた私は、予想外の苔のしぶとさに苦戦してしまい、掃除があまり進んでいなかった。
「まさか屋根に付いた苔汚れが、こんなにしつこいとは思わなかった……」
綺麗にできたのは屋根全体のほんの一部だけで、このペースだと、とても一日で終わるとは思えなかった。
正直言うと、この短時間の掃除でもかなりの疲れがでていた。だけど、私のここでの生活の初日の仕事を「疲れました」で終わらせるなんて、私に期待して雇ってくれたセレスティア様に申し訳がたたない。それに、地上に来て初めて出来た居場所をそんなことで失う訳にはいかなかった。
「せっかくあの退屈な島を飛び出したのに、こんな事で躓くわけにはいかないよね……!」
私は気合を入れ直し疲れを意識から外して、もう一頑張りをしようとした。まさにその時――。
「ほう、翼人族とは珍しいの。……じゃが、この屋敷にはお前のような翼人族は住んでおらん。お前は何者じゃ?」
背後から突然そんな言葉が聞こえたと思うと、大きな影が私に覆い被さった。
私は突然背後に現れた気配に、咄嗟に振り返る。
――そこには、抗いようのない力の化身が君臨していた。
“それ”は私の数倍はある大きな体で、太陽を背にする形で宙に浮かび私を睨んでいた。
全身は光を反射する鏡の様な銀色の鱗が折り重なるように覆っており、頭からは2本の立派な角が後ろに向かって流れるように生えている。
大きな両手足には、“それ”の獰猛さを体現したような鋭く太い爪が並び、口には鋭利に尖った牙が、そして背中から飛び出す二枚一対の大きく広がった翼が、“それ”の存在感を更に増長させていた。
その時、私は生物としての本能で察した。今私の目の前にいるその存在は、この世界の生態系の頂点に君臨するとされる『絶対王者』。
大きな翼で天空を支配し、圧倒的な力で地上を蹂躙する。伝説として語られ称えられる生物『竜種』に間違いないと……。
「あ……ああ……うぅ…………あっ……」
私はその場で腰を抜かしてしまった。
それもそうだ。あまりにも圧倒的な強者の突然の登場に、本能が全力で『逃げろ!』と警鐘を鳴らしている。でも竜種が私を睨む目を見た瞬間から蛇に睨まれた蛙のようになって、全身の力が抜けてその場から動くことが出来なくなってしまった。
「……聞こえなかったか? 翼人族の少女よ。お前は何者じゃ?」
空気を振動させるほどドスの効いた声で喋る竜種からのその問いかけに、更に恐怖が倍増されて私を襲うが、同時に「早くなにか答えないと!」という生存本能が私の口を咄嗟に動かした。
「あ、あの……わた、私は……、私は、昨日から使用人として雇われて、ここで働くことになりました『モラン』と言います! 今は、アインさんに頼まれて屋根の掃除をしていました!」
私は必死に自分の事を説明した。さっきの竜種の言葉から、この竜種が屋敷の内情を知っていると考えた私は、『自分は新しく雇われた使用人』ということを強調して説明した。
「新しい使用人だと? ……ふむ」
そう言って腕を組んだ竜種は、私……正確には私が着ているアインさん手作りの黒のメイド服と、まだ苔が多く残る屋敷の屋根と、私が持っていたデッキブラシ、足元にあった汚れた水の入ったバケツを順に見た。そして、何か納得したように口元を歪めてニヤリと笑った。
その笑みは、私にはどう見ても邪悪なものにしか見えなかった。
「なるほど、納得した。しかし、この広い屋根を一人で掃除するのは大変じゃろう? ――どれ、ワシが手伝ってやろう!」
そう言うと目の前の竜種は、大きな翼を動かして更に10メートルほど上空に飛び上がった。
一体何をするつもりだろう? ……嫌な予感がする。
そんな私の予感は直ぐに的中することになった。
竜種は目の前に魔法陣を展開すると、あろうことか屋敷の屋根に狙いを定めたのだ。
ちょっ、ちょっと待ってえぇぇぇぇぇーー!? 竜種の魔術とか洒落にならないよ!
そんなの屋敷に向けて放ったら、倒壊どころか辺り一帯が更地に早変わりだよ!
「ま、待っ――」
私は咄嗟に止めようと言葉を発しようとしたが、それよりも早く竜種の魔術が発動した。
魔法陣から細く束ねられた水が滝のように溢れ出すと、轟音と共に屋根へと直撃した。
「ドドドドドドッ――」と轟音を響かせながら勢いよく噴射された水は屋根に残っていた苔汚れを的確に襲い、その全てを洗い流していくのが見えた――。
◆ ◆
「――こんなものじゃろうかの」
苔汚れを全て落として綺麗になった屋根を見て竜種……スペチオはそう呟いた。
今発動した魔術は、水を細く束ねることで、高圧力になった水を勢いよく射出する魔術だ。本来ならこの魔術で噴射される水は硬質な岩石に穴を開けてしまうほど強力で、屋敷の屋根など簡単に破壊できる威力がある。
そんな事をすればセレスティアに怒られるだけで済まない事はいくらスペチオでも理解しており、かなり、かなぁ~り手加減して威力を落としに落として使った。その結果、屋根を壊すことなく苔汚れだけを見事に落として綺麗にする事に成功したのだ。
自分の絶妙な力加減の仕方にスぺチオはとても満足した。
「どうだ見たか、翼人族の少女よ! これが竜の力じゃ!!」
「……………………」
「……あれ?」
モランが驚き畏れ敬う反応を楽しむ。人を脅かすのが大好きなスペチオは、ただそれだけのためにこんな事をしたのだが、当のモランはあまりの出来事に頭の処理速度がキャパシティを越えてしまい、更にスペチオの魔術の余波の水を浴びたショックで、全身ビショビショになりながら目を回し気絶してしまっていた。
「そういえばモラン、帰って来た時から気になっていたのだけど、なんだか様子が変よ。何かあったの?」
モランは私が帰ってきた時から、様子がおかしかった。落ち込んでいる……という訳ではなさそうだが、どこか縮こまった態度だった。モランの背中にある、翼人族を象徴する髪の色と同じ栗色をした立派な翼が、モランの気持ちと同調するかのように下に向いて垂れ下がっているのを見る限り、何かがあったのは間違いないと私に確信を抱かせるには十分だった。
「えっ!? あ、はい、あの、その……」
突然声をかけられたモランは、口ごもりまた顔を下に向ける。そんなモランを気遣って、アインが変わりに私の質問に答えた。
「ええとですねセレスティア様、モランはどうもスペチオ様に驚かされてからスペチオ様のことを怖がっている……いえ、畏怖しているのですよ」
……どゆこと?
私は詳しい話を聞くべく、モランに説明を求めた。
モランは口ごもりながらも、ゆっくりと口を開き話をしてくれた。
◆ ◆
時間は1日前に遡る――。
事の始まりはセレスティア様の屋敷の最寄りにある町、『リエースの町』にティンクちゃんと一緒に買い物に来て、そのついでに町を案内してもらっていた時だった。
「あ、セレスティア様からだ! ちょっと待っててねモランちゃん」
ティンクちゃんは耳を手で覆うように当てて、何やらボソボソと話始めた。
話の内容までは聞こえなかったが、セレスティア様から何か連絡が来たみたいだ。
昨日、アインさんに屋敷を案内してもらった時に説明されたことだけど、ティンクちゃんやクワトルさん、アインさん、そして今は貿易都市に出稼ぎに行っている二人、名前はたしか、ニーナさんとサムスさんだったかな?
セレスティア様の使用人のこの五人の人達は、セレスティア様から『錬金術』と言う特別な術を施してもらい、姿や記憶をそのままに強靭なゴーレムの体に肉体を作り替える『ゴーレム化』というものを施してもらったらしい。
『錬金術』や『ゴーレム化』……初めて聞くその術の事をアインさんに聞こうとしたら、「私からは話せないから、詳しいことはセレスティア様から聞いてね」と、はぐらかされてしまった。
詳しいことはセレスティア様に聞かないと分からないけど、どうやらゴーレム化によってティンクちゃん達は不老の身体になり、身体能力も格段に向上したと、アインさんは言っていた。
そしてそのゴーレム化によって、『主の命令を受信する』というゴーレム特有の機能も手に入れたのだという。
この機能は、生み出されたゴーレムが持っている機能で、主人からの命令をどんな形であっても受け取ることが出来る、というものという。それは言葉だけじゃなく、頭の中で考えた思考でも大丈夫らしい。
更にセレスティア様はこの機能に少し手を加えて、命令を受けとる『受信』だけじゃなく、逆に思念を送り返す『送信』も出来るようにして、『通話』が出来るようにしたそうだ。
詳しいことは私にはよく解らなかったけど、簡単に言えば相手を思い浮かべて念じるだけで、どんなに距離が離れていてもまるで近くに居るみたいに会話が出来るらしい。
アインさんからそんな説明を受けたが、私にはよく分からない事だらけだった。
だけど、あの固さ調節機能付きのベッドを開発した事といい、聞いたこともない『錬金術』という術に、これまた聞いたことのない『ゴーレム化』という技術で肉体を作り替えるセレスティア様が、如何に凄い人なのかだけは容易に理解できた。
私が昨日の事を思い出していた間に、セレスティア様との通話が終わったティンクちゃんが、「セレスティア様が急用でこっちに来るみたいだから、町の外で待っててだって!」と会話の内容を簡潔に話してくれた。
それから私とティンクちゃんは、町での買い物を急いで済ませて、セレスティア様が来るのを町の外で待った。
それからしばらくして、セレスティア様は大きな馬に乗ってやって来た。クワトルさんも一緒だった。
セレスティア様は急いだ様子で、口早に事情を説明してくれた。
どうやらセレスティア様は、友人の方から急な呼び出しを受けたようで、その付き添いにクワトルさんとティンクちゃんを連れて行くのだそうだ。そして私は屋敷に戻るように指示された。
私はティンクちゃんから収納魔法付きの買い物袋を受け取ると、セレスティア様が即席で作り出した馬のゴーレムに跨がり、セレスティア様達と別れてそのまま屋敷へと戻った。
屋敷に戻った私は、アインさんに指導してもらいながら屋敷の掃除に取り掛かった。
セレスティア様の屋敷は私が暮らしていた家に比べて小さかったが、貿易都市で見た貴族の屋敷よりは遥かに大きかった。
私とアインさんは屋敷の2階に沢山ある個室を、順番に一部屋づつ掃除して周った。
そして全ての部屋を掃除し終えた時、部屋に置いてあった時計を確認したアインさんが声を上げた。
「あら、もうこんな時間、とっくに昼の刻を過ぎてるわ! モラン、私は昼食の準備をするけど、その間あなたには別のことをお願いするわね」
アインさんはそう言うと、私を連れて裏庭にやって来た。
裏庭はかなりの広さがあり、おおよそ屋敷が2つ分くらいすっぽり入る程だった。
そんな広大な敷地の裏庭だが、実はそのほとんどが沢山の種類の野菜が生る菜園だったり、色とりどりの花が咲き乱れる花壇だったりする。
そんな華やかな裏庭の隅には、大きな石造り倉庫が一つ建っている。倉庫の中は、屋敷の個室8部屋分はありそうなぐらいな広さがあった。しかし、そこには様々な道具や物が沢山置かれているので、実際に人が動けるスペースは個室1部屋分ぐらいあるかどうかかな?
アインさんはそんな倉庫の中を慣れた様子で移動して、ガサゴソと目的の物をあっさりと探し出してきた。そして「はい、これ」と言って渡されたのは、バケツとデッキブラシだった。
「モランには屋根の掃除をお願いするわね。モランはその翼で空を飛べるから屋根から落ちる心配はないだろうし、丁度適任だと思うの。屋根掃除は最近忙しくて手が回ってなかったから汚れが溜まってると思うけど頑張ってね! 水はあの井戸から汲み上げて自由に使ってね。そして、汚れた水は畑や花壇から離れた庭の隅に捨ててね」
アインさんはそう説明しながら、倉庫の横にある屋根付きの小さな井戸を指差した。
「じゃあ後はよろしくね。屋根の掃除は今日中に終わらせてくれればいいから、無理はしないで疲れたら休憩はしっかり取ってね!」
「はい! わかりました!」
そうしてアインさんは屋敷の中に戻り、裏庭には私一人だけが残った。
私はアインさんに言われた通り、井戸に備え付けられていた桶を使って井戸から水を汲み上げると、バケツに移していく。そして、水が入ったバケツとデッキブラシを持って屋根まで楽々と飛んでいく。空を飛べる翼人族にとっては、水の入った重いバケツを屋根まで運ぶなんて簡単なことだ。
屋根に飛び乗った私は、早速掃除を開始した。
「う~ん、アインさんの言っていた通り、かなり汚れてるなぁ」
屋根の上は私が予想したよりもかなり汚れていた。
というのも屋敷は木々深い森の奥に建っている為、周りは当然森に囲まれている。だが、屋敷の外周は綺麗に木々が伐採されて拓けている。すると、屋敷の屋根の上は太陽を遮る物は当然無くなる。植物が豊富な環境で、太陽が一番よく当たる屋根の上は、当然植物たちが成長する絶好の温床となっていた。
その結果はごらんの通りで、私の目の前には苔がまみれた屋根が広がっていた。
アインさんは最近手が回らなかったと言っていたが、見る限りではどうやらかなり放置されていた様子の屋根は、それはもう掃除のし甲斐がありそうだった。
私はそんな光景に気落ちしないように、「やるぞー!」と気合を入れて掃除を始めた。
――そして、それがやって来た。
それは、私が6回目になるバケツの水を入れ替えた頃だった。
屋根にビッシリ生えた苔は思っていたよりしつこくて、直ぐに水が汚れて何度も水を入れ替える事になっていた。
苔なんて濡らしたブラシで擦れば簡単に落ちるだろうと思っていた私は、予想外の苔のしぶとさに苦戦してしまい、掃除があまり進んでいなかった。
「まさか屋根に付いた苔汚れが、こんなにしつこいとは思わなかった……」
綺麗にできたのは屋根全体のほんの一部だけで、このペースだと、とても一日で終わるとは思えなかった。
正直言うと、この短時間の掃除でもかなりの疲れがでていた。だけど、私のここでの生活の初日の仕事を「疲れました」で終わらせるなんて、私に期待して雇ってくれたセレスティア様に申し訳がたたない。それに、地上に来て初めて出来た居場所をそんなことで失う訳にはいかなかった。
「せっかくあの退屈な島を飛び出したのに、こんな事で躓くわけにはいかないよね……!」
私は気合を入れ直し疲れを意識から外して、もう一頑張りをしようとした。まさにその時――。
「ほう、翼人族とは珍しいの。……じゃが、この屋敷にはお前のような翼人族は住んでおらん。お前は何者じゃ?」
背後から突然そんな言葉が聞こえたと思うと、大きな影が私に覆い被さった。
私は突然背後に現れた気配に、咄嗟に振り返る。
――そこには、抗いようのない力の化身が君臨していた。
“それ”は私の数倍はある大きな体で、太陽を背にする形で宙に浮かび私を睨んでいた。
全身は光を反射する鏡の様な銀色の鱗が折り重なるように覆っており、頭からは2本の立派な角が後ろに向かって流れるように生えている。
大きな両手足には、“それ”の獰猛さを体現したような鋭く太い爪が並び、口には鋭利に尖った牙が、そして背中から飛び出す二枚一対の大きく広がった翼が、“それ”の存在感を更に増長させていた。
その時、私は生物としての本能で察した。今私の目の前にいるその存在は、この世界の生態系の頂点に君臨するとされる『絶対王者』。
大きな翼で天空を支配し、圧倒的な力で地上を蹂躙する。伝説として語られ称えられる生物『竜種』に間違いないと……。
「あ……ああ……うぅ…………あっ……」
私はその場で腰を抜かしてしまった。
それもそうだ。あまりにも圧倒的な強者の突然の登場に、本能が全力で『逃げろ!』と警鐘を鳴らしている。でも竜種が私を睨む目を見た瞬間から蛇に睨まれた蛙のようになって、全身の力が抜けてその場から動くことが出来なくなってしまった。
「……聞こえなかったか? 翼人族の少女よ。お前は何者じゃ?」
空気を振動させるほどドスの効いた声で喋る竜種からのその問いかけに、更に恐怖が倍増されて私を襲うが、同時に「早くなにか答えないと!」という生存本能が私の口を咄嗟に動かした。
「あ、あの……わた、私は……、私は、昨日から使用人として雇われて、ここで働くことになりました『モラン』と言います! 今は、アインさんに頼まれて屋根の掃除をしていました!」
私は必死に自分の事を説明した。さっきの竜種の言葉から、この竜種が屋敷の内情を知っていると考えた私は、『自分は新しく雇われた使用人』ということを強調して説明した。
「新しい使用人だと? ……ふむ」
そう言って腕を組んだ竜種は、私……正確には私が着ているアインさん手作りの黒のメイド服と、まだ苔が多く残る屋敷の屋根と、私が持っていたデッキブラシ、足元にあった汚れた水の入ったバケツを順に見た。そして、何か納得したように口元を歪めてニヤリと笑った。
その笑みは、私にはどう見ても邪悪なものにしか見えなかった。
「なるほど、納得した。しかし、この広い屋根を一人で掃除するのは大変じゃろう? ――どれ、ワシが手伝ってやろう!」
そう言うと目の前の竜種は、大きな翼を動かして更に10メートルほど上空に飛び上がった。
一体何をするつもりだろう? ……嫌な予感がする。
そんな私の予感は直ぐに的中することになった。
竜種は目の前に魔法陣を展開すると、あろうことか屋敷の屋根に狙いを定めたのだ。
ちょっ、ちょっと待ってえぇぇぇぇぇーー!? 竜種の魔術とか洒落にならないよ!
そんなの屋敷に向けて放ったら、倒壊どころか辺り一帯が更地に早変わりだよ!
「ま、待っ――」
私は咄嗟に止めようと言葉を発しようとしたが、それよりも早く竜種の魔術が発動した。
魔法陣から細く束ねられた水が滝のように溢れ出すと、轟音と共に屋根へと直撃した。
「ドドドドドドッ――」と轟音を響かせながら勢いよく噴射された水は屋根に残っていた苔汚れを的確に襲い、その全てを洗い流していくのが見えた――。
◆ ◆
「――こんなものじゃろうかの」
苔汚れを全て落として綺麗になった屋根を見て竜種……スペチオはそう呟いた。
今発動した魔術は、水を細く束ねることで、高圧力になった水を勢いよく射出する魔術だ。本来ならこの魔術で噴射される水は硬質な岩石に穴を開けてしまうほど強力で、屋敷の屋根など簡単に破壊できる威力がある。
そんな事をすればセレスティアに怒られるだけで済まない事はいくらスペチオでも理解しており、かなり、かなぁ~り手加減して威力を落としに落として使った。その結果、屋根を壊すことなく苔汚れだけを見事に落として綺麗にする事に成功したのだ。
自分の絶妙な力加減の仕方にスぺチオはとても満足した。
「どうだ見たか、翼人族の少女よ! これが竜の力じゃ!!」
「……………………」
「……あれ?」
モランが驚き畏れ敬う反応を楽しむ。人を脅かすのが大好きなスペチオは、ただそれだけのためにこんな事をしたのだが、当のモランはあまりの出来事に頭の処理速度がキャパシティを越えてしまい、更にスペチオの魔術の余波の水を浴びたショックで、全身ビショビショになりながら目を回し気絶してしまっていた。