残酷な描写あり
脱出!
「……正気とは思えませぬ! 南都七大寺の一つである興福寺を、自ら焼くなんて!」
一覚殿が大声で喚く。僕は人差し指を自分の唇に当てて、黙ってほしいという仕草をした。すると一覚殿は渋々黙ってくれた。
「確かに正気ではありません。血迷った策です。最上のやり方ではないのですが、これしか方法がないのです」
静かに喋る僕。それに合わせて一覚殿も声を落とした。
「そもそも焼いてどうするのですか? もしかして混乱に紛れて脱出するのですか?」
「そのとおりです」
「他の僧たちにはどのように説明すれば――」
「説明はしません。黙ってやります」
「ますます正気とは思えない! 死人が出たらどうするのですか!」
「僧たちが居ない建物――覚慶殿の部屋を出火元にします。そして覚慶殿が自死する前に火をつけたと触れ回って、僧たちに刷り込みます。おそらく兵士たちに捕まってもそう証言してくれるでしょう」
一覚殿は「そ、そのようなこと……」とあまりのことに二の句が継げなかった。
沈黙が覚慶殿の部屋に訪れた。それを破ったのは――
「……なるべく逃げ遅れた者を出さぬために、僧たちには説明したほうがいいんじゃないか?」
覚慶殿だった。いつになく真剣な表情。
僕は「しかし賛同してくれるかどうか……」と言葉を濁した。
「私が説得する。もしも賛同してくれなかったら……それを受け入れよう」
「覚慶殿……それで良いのですか?」
「良いんだ。兄上が死んでもう終わりだと思っていた。しかし――」
言葉を切って、僕に微笑んだ。
「最後に友と会えて、心残りが無くなった。それだけで満足だ」
その言葉に僕は――泣きそうになったけど堪えた。
「……最後だなんて言わないでください。必ず助けてみせます。この命に代えても!」
「ふっ。ありがたい言葉だな」
覚慶殿は立ち上がって一覚殿に言う。
「一覚、皆を集めてくれ」
「覚慶さま……よろしいのですか?」
黙って頷く覚慶殿。すると今まで黙っていた行雲さまが言う。
「私も一緒に説得させてください」
「行雲さま。あなたは反対されていたのでは――」
僕の言葉に行雲さまはにこりと笑う。
「先ほどのやりとりを聞いて、覚慶さまを死なせられないと思ったのだ。ここで見捨ててしまえば、僧どころか人として畜生にも劣る」
「……ありがたいです」
そして覚慶殿が一覚殿に言う。
「そなたも私の供になってくれるか? 何かと気心の通じた人間が居てくれると助かる」
「わ、分かりました。お供します」
そういうわけで、僕たちは興福寺の僧たちを説得することになった。
しかし――当然のことながら反対の声が多かった。
「歴史ある興福寺を焼くだと!?」
「戯けたことを言うな!」
「許されると思っているのか!」
本堂に集められた僧たちの怒声に僕たちはなんとか宥めようと試みるけど、上手くいかなかった。
さて。どうしようか……
「焼失した建物は織田家が補償します。また覚慶さまが脱出し将軍として擁立されましたら、五千貫を献金させていただく」
行雲さまの提案に僧の一人が「金の問題ではないのだ!」と怒鳴った。
すかさず行雲が「このまま松永家の兵士に軟禁された生活を送ってもよろしいのですか?」と問う。
僧たちはざわめくが声高に良しとする声はあがらない。
「しかし自ら寺を焼くというのはいかがなものか。外聞がある。世間体もある」
後方に座っていた高僧と思わしき人がそのように苦言を呈した。頷く僧も多い。
それには僕が答えた。
「松永家の仕業にすればいいです。誰も自ら火をつけたなどとは思わないでしょう。いや、自然とそうなります」
僕の言葉に高僧は「なるほど。分からなくもないですな」と納得してくれた。
そして高僧は「ではもう一つ見返りをくだされ」と言い出した。
「住職!? まさか許可なさるつもりですか!?」
えっ? 住職だったんだ。
「見返り? 五千貫では不足ですか?」
行雲さまの言葉に住職は「金ではありません」と首を振った。
「もし織田信長さまが覚慶さまを奉じて上洛を果たした暁には、我らを独立勢力として認めてもらいたい」
「……同盟を結ぶということですかな」
「そうですな。その代わり協力は厭いません」
行雲さまはしばらく考えてから「分かりました」と頷いた。
思わず「よろしいのですか?」と訊ねてしまった。
「まあな。兄上には事後報告になってしまうが、覚慶さまを救い出せるのならお許しになるはずだ」
住職は「決まりですな」と言って僧たちに命じた。
「まず焼けては困るものを持ち出す準備を。運びきれぬものは箱に入れて地中に埋めよ。掘り返せるように目印を忘れぬように」
「住職……」
「ははは。この歳になってもわしは悟っていないな」
住職は茶目っ気たっぷりに言う。
「覚慶さまを奉じることができるのなら、逆賊松永に天罰が下されるかもしれん。そう考えると協力したほうが良いと思う自分がいる」
そして覚慶殿に頭を下げた。
「将軍さまを弑逆されて憤っているのは、あなたさまだけではありませぬ。しかし、あなたしか、裁きを下せる方は居られませぬ。どうか兄君の仇を討ちなされ」
「……すまないな。住職」
それから一刻後。全ての準備が整った。
僕は油を撒いて建物に火をつけた。
あっという間に広がる炎。
煌々と燃える建物を見るといけないことをしてしまった思いがしてしまう。
「さあ行くぞ雲之介」
普通の僧と同じ格好になった覚慶殿。僕は頷いて逃げる僧たちの後ろをついて行く。
「なんだこれは!」
「どうやら火事らしいぞ!」
「殿から火をつけるなと厳命されていたじゃないか!」
組頭たちが混乱を抑えようとしているが、想定外のことに誰も対応できていない。
松永の兵士たちが右往左往している中、僕たち四人は僧たちに紛れて興福寺から脱出できた。
「それで、これから与一郎のところへ行くのだな」
「ええ。近くの宿屋に居ります」
宿屋の前には森さまと細川さまが居て、僕たちを出迎えてくれた。
「おお! 雲之介。ようやったな!」
「森さま。ええ。無事にお連れしました」
覚慶殿は細川さまと話している。
「与一郎。久しいな」
「覚慶さま。元気そうで何よりです」
「この姿を見てそう言えるのか? 相変わらず皮肉が利いているな」
僧衣で走ってきたので汗だくになっている覚慶殿。そこに竹筒を差し出す細川さま。
「まずは飲んでくだされ。それから宿屋で今後のことを話しましょう」
「分かった。ふう。やっと一息つけるな」
しかし周りの様子を窺っていた一覚殿が「こちらに数人来ます!」と鋭く言った。
見ると最初に出会った組頭が十人ほど引き連れてこちらにやってきた。
「やはり、お前の仕業か。そしてそのお方が覚慶さま――」
「やれやれ。逆賊の手下にも目端の利いた者が居るな」
細川さまがするりと刀を抜いた。森さまも持っていた槍を構える。
「この人数で勝てると思うのか?」
「言っている意味が分からないな」
細川さまは嘲笑うように組頭に言った。
「たった十人で我らに勝てると思うのか?」
その言葉どおり、細川さまと森さまは組頭を含めた十人を殺してしまった。
まさに怪物二人。武の心得がない僕には到底及びのつかない世界だった。
「流石だな。しかしこの宿屋はもう使えなくなった」
覚慶さまが手を合わせながら言う。松永の兵士を弔っているのだろう。一覚殿も同じようにする。
「そうですな。雲之介。明智殿と長益殿を呼んできてくれ」
細川さまの言葉に僕が頷いて行こうとすると「その必要はない」と宿屋から二人が出てきた。
「長益さま。準備はよろしいですか? 明智さまも?」
「ああ。行くぞ雲。そして初めましてですね。覚慶さま」
「うん? ああ、雲之介から聞いている。よろしくな、長益」
僕たちは闇夜に紛れて奈良の町を出た。とりあえず松永家の勢力圏から出るのだ。
向かう先は――伊勢国。そこから尾張国へと帰還する。
一覚殿が大声で喚く。僕は人差し指を自分の唇に当てて、黙ってほしいという仕草をした。すると一覚殿は渋々黙ってくれた。
「確かに正気ではありません。血迷った策です。最上のやり方ではないのですが、これしか方法がないのです」
静かに喋る僕。それに合わせて一覚殿も声を落とした。
「そもそも焼いてどうするのですか? もしかして混乱に紛れて脱出するのですか?」
「そのとおりです」
「他の僧たちにはどのように説明すれば――」
「説明はしません。黙ってやります」
「ますます正気とは思えない! 死人が出たらどうするのですか!」
「僧たちが居ない建物――覚慶殿の部屋を出火元にします。そして覚慶殿が自死する前に火をつけたと触れ回って、僧たちに刷り込みます。おそらく兵士たちに捕まってもそう証言してくれるでしょう」
一覚殿は「そ、そのようなこと……」とあまりのことに二の句が継げなかった。
沈黙が覚慶殿の部屋に訪れた。それを破ったのは――
「……なるべく逃げ遅れた者を出さぬために、僧たちには説明したほうがいいんじゃないか?」
覚慶殿だった。いつになく真剣な表情。
僕は「しかし賛同してくれるかどうか……」と言葉を濁した。
「私が説得する。もしも賛同してくれなかったら……それを受け入れよう」
「覚慶殿……それで良いのですか?」
「良いんだ。兄上が死んでもう終わりだと思っていた。しかし――」
言葉を切って、僕に微笑んだ。
「最後に友と会えて、心残りが無くなった。それだけで満足だ」
その言葉に僕は――泣きそうになったけど堪えた。
「……最後だなんて言わないでください。必ず助けてみせます。この命に代えても!」
「ふっ。ありがたい言葉だな」
覚慶殿は立ち上がって一覚殿に言う。
「一覚、皆を集めてくれ」
「覚慶さま……よろしいのですか?」
黙って頷く覚慶殿。すると今まで黙っていた行雲さまが言う。
「私も一緒に説得させてください」
「行雲さま。あなたは反対されていたのでは――」
僕の言葉に行雲さまはにこりと笑う。
「先ほどのやりとりを聞いて、覚慶さまを死なせられないと思ったのだ。ここで見捨ててしまえば、僧どころか人として畜生にも劣る」
「……ありがたいです」
そして覚慶殿が一覚殿に言う。
「そなたも私の供になってくれるか? 何かと気心の通じた人間が居てくれると助かる」
「わ、分かりました。お供します」
そういうわけで、僕たちは興福寺の僧たちを説得することになった。
しかし――当然のことながら反対の声が多かった。
「歴史ある興福寺を焼くだと!?」
「戯けたことを言うな!」
「許されると思っているのか!」
本堂に集められた僧たちの怒声に僕たちはなんとか宥めようと試みるけど、上手くいかなかった。
さて。どうしようか……
「焼失した建物は織田家が補償します。また覚慶さまが脱出し将軍として擁立されましたら、五千貫を献金させていただく」
行雲さまの提案に僧の一人が「金の問題ではないのだ!」と怒鳴った。
すかさず行雲が「このまま松永家の兵士に軟禁された生活を送ってもよろしいのですか?」と問う。
僧たちはざわめくが声高に良しとする声はあがらない。
「しかし自ら寺を焼くというのはいかがなものか。外聞がある。世間体もある」
後方に座っていた高僧と思わしき人がそのように苦言を呈した。頷く僧も多い。
それには僕が答えた。
「松永家の仕業にすればいいです。誰も自ら火をつけたなどとは思わないでしょう。いや、自然とそうなります」
僕の言葉に高僧は「なるほど。分からなくもないですな」と納得してくれた。
そして高僧は「ではもう一つ見返りをくだされ」と言い出した。
「住職!? まさか許可なさるつもりですか!?」
えっ? 住職だったんだ。
「見返り? 五千貫では不足ですか?」
行雲さまの言葉に住職は「金ではありません」と首を振った。
「もし織田信長さまが覚慶さまを奉じて上洛を果たした暁には、我らを独立勢力として認めてもらいたい」
「……同盟を結ぶということですかな」
「そうですな。その代わり協力は厭いません」
行雲さまはしばらく考えてから「分かりました」と頷いた。
思わず「よろしいのですか?」と訊ねてしまった。
「まあな。兄上には事後報告になってしまうが、覚慶さまを救い出せるのならお許しになるはずだ」
住職は「決まりですな」と言って僧たちに命じた。
「まず焼けては困るものを持ち出す準備を。運びきれぬものは箱に入れて地中に埋めよ。掘り返せるように目印を忘れぬように」
「住職……」
「ははは。この歳になってもわしは悟っていないな」
住職は茶目っ気たっぷりに言う。
「覚慶さまを奉じることができるのなら、逆賊松永に天罰が下されるかもしれん。そう考えると協力したほうが良いと思う自分がいる」
そして覚慶殿に頭を下げた。
「将軍さまを弑逆されて憤っているのは、あなたさまだけではありませぬ。しかし、あなたしか、裁きを下せる方は居られませぬ。どうか兄君の仇を討ちなされ」
「……すまないな。住職」
それから一刻後。全ての準備が整った。
僕は油を撒いて建物に火をつけた。
あっという間に広がる炎。
煌々と燃える建物を見るといけないことをしてしまった思いがしてしまう。
「さあ行くぞ雲之介」
普通の僧と同じ格好になった覚慶殿。僕は頷いて逃げる僧たちの後ろをついて行く。
「なんだこれは!」
「どうやら火事らしいぞ!」
「殿から火をつけるなと厳命されていたじゃないか!」
組頭たちが混乱を抑えようとしているが、想定外のことに誰も対応できていない。
松永の兵士たちが右往左往している中、僕たち四人は僧たちに紛れて興福寺から脱出できた。
「それで、これから与一郎のところへ行くのだな」
「ええ。近くの宿屋に居ります」
宿屋の前には森さまと細川さまが居て、僕たちを出迎えてくれた。
「おお! 雲之介。ようやったな!」
「森さま。ええ。無事にお連れしました」
覚慶殿は細川さまと話している。
「与一郎。久しいな」
「覚慶さま。元気そうで何よりです」
「この姿を見てそう言えるのか? 相変わらず皮肉が利いているな」
僧衣で走ってきたので汗だくになっている覚慶殿。そこに竹筒を差し出す細川さま。
「まずは飲んでくだされ。それから宿屋で今後のことを話しましょう」
「分かった。ふう。やっと一息つけるな」
しかし周りの様子を窺っていた一覚殿が「こちらに数人来ます!」と鋭く言った。
見ると最初に出会った組頭が十人ほど引き連れてこちらにやってきた。
「やはり、お前の仕業か。そしてそのお方が覚慶さま――」
「やれやれ。逆賊の手下にも目端の利いた者が居るな」
細川さまがするりと刀を抜いた。森さまも持っていた槍を構える。
「この人数で勝てると思うのか?」
「言っている意味が分からないな」
細川さまは嘲笑うように組頭に言った。
「たった十人で我らに勝てると思うのか?」
その言葉どおり、細川さまと森さまは組頭を含めた十人を殺してしまった。
まさに怪物二人。武の心得がない僕には到底及びのつかない世界だった。
「流石だな。しかしこの宿屋はもう使えなくなった」
覚慶さまが手を合わせながら言う。松永の兵士を弔っているのだろう。一覚殿も同じようにする。
「そうですな。雲之介。明智殿と長益殿を呼んできてくれ」
細川さまの言葉に僕が頷いて行こうとすると「その必要はない」と宿屋から二人が出てきた。
「長益さま。準備はよろしいですか? 明智さまも?」
「ああ。行くぞ雲。そして初めましてですね。覚慶さま」
「うん? ああ、雲之介から聞いている。よろしくな、長益」
僕たちは闇夜に紛れて奈良の町を出た。とりあえず松永家の勢力圏から出るのだ。
向かう先は――伊勢国。そこから尾張国へと帰還する。