残酷な描写あり
それはそれ
「雲之介さん。私は悲しいですよ。どうして婚姻のことを、おっしゃってくださらなかったのですか?」
「……すみません」
「……別に謝ってほしいわけではないのですが」
長政の屋敷の一室。
僕とお市さまは二人きりで話していた。
いや、話しているのではない。
お市さまは無表情のまま問い続ける。
僕はひたすら謝っている。
「理由を聞いているのです。どうして一年もの間、隠していたのですか?」
「それは……言う機会がありませんでしたので」
「一年の間、言う機会がなかったと?」
「…………」
本当は言うと恐ろしい目――今まさにあっている――が怖くてたまらなかったからだ。
もしかすると言おうとして忘れていたのは、恐ろしさのあまり、記憶から消していたのかもしれない。
「はあ。まったく、雲之介さんは酷い人ですね」
「ええと、酷い人……」
「私のことを袖にしたこと、忘れていませんか?」
うぐぐ。心を抉るような一言だ。
何も言い返せない……いや、一つだけ言えることがある!
「で、でも! そのおかげで長政と婚姻できた――」
「それはそれです」
あ、そうなんだ。お市さまの中では別物なんだ……
「初恋の相手に袖にされるってかなり悲しいことなんですよ?」
「…………」
「ま、志乃さんのことは認めますよ。あの人は――雲之介さんに相応しい奥方でした」
志乃……僕もそう思う。志乃が居なかったら、とてもじゃないけど生きていけなかった。
「でも――散々私の心を弄んだ雲之介さんが再婚するのは、なんだか許せないです」
「ご、語弊があります……」
「……昔、輿入れ前夜に『僕には、裏切れない大切な守りたい人が居るんです』って言いましたよね? その人ってもちろん志乃さんのことですよね?」
「……よく覚えていますね」
「あの夜のことは、いつまでも忘れません……そんなことはどうでもいいんです。あなたは、私の想いや志乃さんのことを無視して、再婚するんですね?」
心がのこぎりで刻まれるような痛みを感じる……
「では、再婚するなと、お市さまは言うんですね?」
「はい。そう言っております」
きっぱりと言うお市さま。
「でも、上様のご命令なので……」
「私が一筆書きます。これで問題ないですよね?」
そういう問題……なんだろうか……?
「いや、それに晴太郎やかすみにもそろそろ母親が必要なんじゃないかなって」
「二人に聞きましたか?」
「……聞いてないです」
「またですか? もしかして、私や子供たちのことを馬鹿にしているんですか?」
ずずいとこっちに寄って来るお市さま。
美しい人の怒りは迫力がある……
「ああ! 子供たちにも知らせたほうがいいですねそうだそれがいいじゃあ早く帰らないと――」
どすと鈍い音がして刺さった。
立ち上がろうとした瞬間、畳に火箸が刺さった。
「ねえ。どうして私の元から去ろうとするんですか?」
お市さまは笑顔だったけど、目は笑っていなかった。
それどころか目に光が無かった。
「雲之介さん? 私はあなたのことが好きでした。好きで好きでたまりませんでした。もちろん長政さまのことも愛していますが初恋のあなたも同じくらい愛していましたよ。一生添い遂げたいくらいです。それどころか一緒に死んでもいいくらいです。二人同時に死ぬって素敵ですね。でも雲之介さんはそんな私を裏切って再婚しようとしている。なんて悲しいことでしょうか? 本当に悲しいですね。悲しいですね悲しいですね悲しいですね。志乃さんと婚姻したときは物凄く悲しかったですけど、それ以上に悲しいです。心がとても痛いです。分かりますか? 火箸で突き刺せば痛みを分かってくれますか? 実際にやってみますか? それは嫌ですよね? しかしそんな嫌なことを雲之介さんはしようとしているのですよ? あはは、本当に酷い人ですね。どれだけの人を泣かせたんですか? 私と志乃さんだけですよね? そうですよね? そうだと言ってくださいよ。というよりなんで再婚しようと思ったんですか? 若い奥方が良いんですか? 出世のためですか? それとも何か別の思惑があるんですか? もしも思惑があるのなら教えてくださいよ。あるのでしたら謝ります。もしもなかったら雲之介さん、謝ってください。さあ、言ってごらんなさい。さあ。さあさあ。さあさあさあ――」
顔を直前まで近づけて迫ってくるお市さま。
返答を間違えたら、確実に刺される。
逆手に持っている火箸が目の端に見える――
「市! もうやめないか!」
がらりと横の襖が開いて、出てきたのは長政だった。
おお! 助かった……とは思えなかった。
言葉は強いけど、足ががたがた震えている。
はっきり言って、かなり怯えている。
「あら。入って来ないように言いましたよね?」
邪魔だ、入ってくるなと言外におっしゃっているお市さまに長政は「ひいい!」と情けない声をあげる。
「い、市。雲之介が再婚しようが、お前には……」
「関係あるからこうして話し合っているではありませんか」
話し合うというより、一方的に責められている……
「そういえば、長政さまは、一年前から知っていましたか?」
矛先が長政に向かった。
この隙に逃げられないかな?
「し、知っていたが、雲之介に口止めされていたのだ……」
「どうして、口止めしたんですか?」
おかえりなさい、矛先。
短いおでかけだったね。
「お、お市さまだけじゃなくて、僕の家臣と同輩、秀吉以外には伝えたくなかったんです……」
「……なんでですか?」
「再婚は志乃の一回忌が済んでからにしようと思いまして……」
僕の言葉を聞いたお市さまは、一瞬目を丸くした。
――よし、ここだ!
「志乃が死んで、上様から婚姻するように言われて。僕は戸惑いました。何もかも変わってしまった生活に。いつも隣に居た志乃が居ない。大好きだった志乃が居ない。とても悲しくて、思い出に浸って暮らしていました。でも、それじゃ駄目だって気づいたんです。晴太郎やかすみのために、上様や秀吉のために、一所懸命頑張らないといけないって」
「……雲之介さん」
「それに一門衆になるって噂が流れたら、やっかみが生まれます。そしてそれは仕事に悪影響が出る。それじゃ本末転倒です」
「…………」
なんか、良い感じにお市さまは感じ入っている!
好機だ!
「一年間の間、黙っていてごめんなさい。お市さまにすまない気持ちもありましたけど、それ以上に僕の勝手な判断でした。本当に申し訳ございません」
深く頭を下げる。誠意を込めて、ただひたすら許しを乞う。
「……雲之介さんが再び婚姻する話を長益から聞かされたとき、とても悲しかったのです」
お市さまの声が、元通りになりつつある。
硬い声音ではなく、柔らかい声音。
「私のことや志乃さんのことを忘れてしまったのだと。そう思ってしまいました。でもそうではなかったのですね」
おお、分かってくれたのか!
良かった! 本当に良かった!
「雲之介さん、顔を上げてください」
「はい――」
僕は顔を上げた。
思いっきり、振りかぶった手。
ばちんと音がして、僕の首がごきりと鳴った。
頬を物凄い力で叩かれたのだと認識できたのは、流れる鼻血が畳に落ちたときだった。
そして痛みが走る。
「お、お市さま……?」
「それはそれです。私、怒っているので」
呆然と叩かれた頬を触っていると、お市さまは立ち上がって、あまりの光景に腰砕けになっている長政の首根っこを掴む。
「長政さまもきちんと説明していただきますから」
「ひいいいい!? 雲之介、助けて――」
ばたんと閉じられる襖。
残された僕。
そして静寂。
「長益さま……あなたの悪趣味な手紙がこれを狙っていたとしたら、かなり効果的でしたよ……」
絶対に許さない。絶対にだ。
岐阜城に行って、早くぶん殴りたい。
その後、屋敷に戻って、婚姻のことを晴太郎やかすみに話して、なんとか納得してもらった。
精根尽き果てた僕は、そのまま寝てしまう。
長政のことは、忘れよう……
「……すみません」
「……別に謝ってほしいわけではないのですが」
長政の屋敷の一室。
僕とお市さまは二人きりで話していた。
いや、話しているのではない。
お市さまは無表情のまま問い続ける。
僕はひたすら謝っている。
「理由を聞いているのです。どうして一年もの間、隠していたのですか?」
「それは……言う機会がありませんでしたので」
「一年の間、言う機会がなかったと?」
「…………」
本当は言うと恐ろしい目――今まさにあっている――が怖くてたまらなかったからだ。
もしかすると言おうとして忘れていたのは、恐ろしさのあまり、記憶から消していたのかもしれない。
「はあ。まったく、雲之介さんは酷い人ですね」
「ええと、酷い人……」
「私のことを袖にしたこと、忘れていませんか?」
うぐぐ。心を抉るような一言だ。
何も言い返せない……いや、一つだけ言えることがある!
「で、でも! そのおかげで長政と婚姻できた――」
「それはそれです」
あ、そうなんだ。お市さまの中では別物なんだ……
「初恋の相手に袖にされるってかなり悲しいことなんですよ?」
「…………」
「ま、志乃さんのことは認めますよ。あの人は――雲之介さんに相応しい奥方でした」
志乃……僕もそう思う。志乃が居なかったら、とてもじゃないけど生きていけなかった。
「でも――散々私の心を弄んだ雲之介さんが再婚するのは、なんだか許せないです」
「ご、語弊があります……」
「……昔、輿入れ前夜に『僕には、裏切れない大切な守りたい人が居るんです』って言いましたよね? その人ってもちろん志乃さんのことですよね?」
「……よく覚えていますね」
「あの夜のことは、いつまでも忘れません……そんなことはどうでもいいんです。あなたは、私の想いや志乃さんのことを無視して、再婚するんですね?」
心がのこぎりで刻まれるような痛みを感じる……
「では、再婚するなと、お市さまは言うんですね?」
「はい。そう言っております」
きっぱりと言うお市さま。
「でも、上様のご命令なので……」
「私が一筆書きます。これで問題ないですよね?」
そういう問題……なんだろうか……?
「いや、それに晴太郎やかすみにもそろそろ母親が必要なんじゃないかなって」
「二人に聞きましたか?」
「……聞いてないです」
「またですか? もしかして、私や子供たちのことを馬鹿にしているんですか?」
ずずいとこっちに寄って来るお市さま。
美しい人の怒りは迫力がある……
「ああ! 子供たちにも知らせたほうがいいですねそうだそれがいいじゃあ早く帰らないと――」
どすと鈍い音がして刺さった。
立ち上がろうとした瞬間、畳に火箸が刺さった。
「ねえ。どうして私の元から去ろうとするんですか?」
お市さまは笑顔だったけど、目は笑っていなかった。
それどころか目に光が無かった。
「雲之介さん? 私はあなたのことが好きでした。好きで好きでたまりませんでした。もちろん長政さまのことも愛していますが初恋のあなたも同じくらい愛していましたよ。一生添い遂げたいくらいです。それどころか一緒に死んでもいいくらいです。二人同時に死ぬって素敵ですね。でも雲之介さんはそんな私を裏切って再婚しようとしている。なんて悲しいことでしょうか? 本当に悲しいですね。悲しいですね悲しいですね悲しいですね。志乃さんと婚姻したときは物凄く悲しかったですけど、それ以上に悲しいです。心がとても痛いです。分かりますか? 火箸で突き刺せば痛みを分かってくれますか? 実際にやってみますか? それは嫌ですよね? しかしそんな嫌なことを雲之介さんはしようとしているのですよ? あはは、本当に酷い人ですね。どれだけの人を泣かせたんですか? 私と志乃さんだけですよね? そうですよね? そうだと言ってくださいよ。というよりなんで再婚しようと思ったんですか? 若い奥方が良いんですか? 出世のためですか? それとも何か別の思惑があるんですか? もしも思惑があるのなら教えてくださいよ。あるのでしたら謝ります。もしもなかったら雲之介さん、謝ってください。さあ、言ってごらんなさい。さあ。さあさあ。さあさあさあ――」
顔を直前まで近づけて迫ってくるお市さま。
返答を間違えたら、確実に刺される。
逆手に持っている火箸が目の端に見える――
「市! もうやめないか!」
がらりと横の襖が開いて、出てきたのは長政だった。
おお! 助かった……とは思えなかった。
言葉は強いけど、足ががたがた震えている。
はっきり言って、かなり怯えている。
「あら。入って来ないように言いましたよね?」
邪魔だ、入ってくるなと言外におっしゃっているお市さまに長政は「ひいい!」と情けない声をあげる。
「い、市。雲之介が再婚しようが、お前には……」
「関係あるからこうして話し合っているではありませんか」
話し合うというより、一方的に責められている……
「そういえば、長政さまは、一年前から知っていましたか?」
矛先が長政に向かった。
この隙に逃げられないかな?
「し、知っていたが、雲之介に口止めされていたのだ……」
「どうして、口止めしたんですか?」
おかえりなさい、矛先。
短いおでかけだったね。
「お、お市さまだけじゃなくて、僕の家臣と同輩、秀吉以外には伝えたくなかったんです……」
「……なんでですか?」
「再婚は志乃の一回忌が済んでからにしようと思いまして……」
僕の言葉を聞いたお市さまは、一瞬目を丸くした。
――よし、ここだ!
「志乃が死んで、上様から婚姻するように言われて。僕は戸惑いました。何もかも変わってしまった生活に。いつも隣に居た志乃が居ない。大好きだった志乃が居ない。とても悲しくて、思い出に浸って暮らしていました。でも、それじゃ駄目だって気づいたんです。晴太郎やかすみのために、上様や秀吉のために、一所懸命頑張らないといけないって」
「……雲之介さん」
「それに一門衆になるって噂が流れたら、やっかみが生まれます。そしてそれは仕事に悪影響が出る。それじゃ本末転倒です」
「…………」
なんか、良い感じにお市さまは感じ入っている!
好機だ!
「一年間の間、黙っていてごめんなさい。お市さまにすまない気持ちもありましたけど、それ以上に僕の勝手な判断でした。本当に申し訳ございません」
深く頭を下げる。誠意を込めて、ただひたすら許しを乞う。
「……雲之介さんが再び婚姻する話を長益から聞かされたとき、とても悲しかったのです」
お市さまの声が、元通りになりつつある。
硬い声音ではなく、柔らかい声音。
「私のことや志乃さんのことを忘れてしまったのだと。そう思ってしまいました。でもそうではなかったのですね」
おお、分かってくれたのか!
良かった! 本当に良かった!
「雲之介さん、顔を上げてください」
「はい――」
僕は顔を上げた。
思いっきり、振りかぶった手。
ばちんと音がして、僕の首がごきりと鳴った。
頬を物凄い力で叩かれたのだと認識できたのは、流れる鼻血が畳に落ちたときだった。
そして痛みが走る。
「お、お市さま……?」
「それはそれです。私、怒っているので」
呆然と叩かれた頬を触っていると、お市さまは立ち上がって、あまりの光景に腰砕けになっている長政の首根っこを掴む。
「長政さまもきちんと説明していただきますから」
「ひいいいい!? 雲之介、助けて――」
ばたんと閉じられる襖。
残された僕。
そして静寂。
「長益さま……あなたの悪趣味な手紙がこれを狙っていたとしたら、かなり効果的でしたよ……」
絶対に許さない。絶対にだ。
岐阜城に行って、早くぶん殴りたい。
その後、屋敷に戻って、婚姻のことを晴太郎やかすみに話して、なんとか納得してもらった。
精根尽き果てた僕は、そのまま寝てしまう。
長政のことは、忘れよう……