残酷な描写あり
贖罪
現実世界にリーシュとスクートの意識が戻るのは、ほぼ同時であった。
悪夢へと魂を潜り込ませた代償か、リーシュの身体はまるで石像に括りつけられているのかと思うほどに重く、疲弊していた。
体力、精神力、魔力……どれもが限界まで消耗しており、気を抜けばあっという間に意識を失いかねないほどであった。
しかしリーシュは息も絶え絶えながらも、どうにか現実へ戻ってこれたことに安堵する。
あと僅かに判断が遅れれば、リーシュはスクートの悪夢に囚われたまま抜け出せなくなっていたかもしれないのだから。
いまにも眠りに落ちてしまいそうな意識を鼓舞し、リーシュはゆっくりとスクートへ頭を傾ける。
窓より差し込むうっすらと柔い月明かりに照らされる従者は、静かにうつむいていた。その表情は怒りでも恐れでもなく……悟ったような諦観と罪悪感がこびりついた男の顔だった。
そんな従者の表情を見てしまったリーシュは、己の過ちを理解した。悪夢を封印するという方法ではなく、もっと別の手段を模索するべきだったと。
ごめんなさい。たったそれだけの言葉も喉元で泡のように弾け、リーシュは声に出すことができなかった。
そうして何度も喉奥で繰り返しているうちに、秒針だけがカチリ、カチリと時を刻んでいく。
どれほど時間が流れたのか。ふいにスクートの口元が動いた。
「すまなかった」
従者が発した言葉にリーシュは耳を疑った。
「いまのお前の表情と悪夢での出来事から、何をしようとしたのかはおおよそ理解できた。決して悪意があったわけではないということも」
普段のスクートからは考えられないような、従者の優しい声音。リーシュの喉元を塞ぐ緊張が、溶けるようにほぐれていく。
「――――ごめんなさい。繰り返される悪夢で衰弱していくスクートを、見てられなかった」
「お前が謝る必要などないだろう。元はといえば、過去を隠し通そうとしたおれに落ち度がある。……あの悪夢、どこからどこまで見ていた?」
「塔の頂上でドラゴンと戦い討ち倒し……暗い地下牢に繋がれるまで」
「全部、か」
リーシュは無言でうなずいた。
「時折、あの悪夢がよみがえることがあった。一度うなされれば、しばらくの間は悩まされずに済んだ。だが今回は違った。きっと安心したのだろう。偶然にもお前に会い、そしてミスティアに来て……久しぶりに人間としての生を味わった気がする。逃亡の最中は息をつく暇も余裕もなかったからな」
ミスティアに流れ着くまでの苦難を思い出すかのように、スクートは目を瞑り深く息を吐いた。
「はるか遠い昔。唯一なる神を奉じる正教会は、森羅万象を司る魔法使いを迫害し、歴史の表舞台よりその存在を消した。だが魔法使いの末裔たちは生き残っており、こうして幾千年もの間を霧の中で過ごしてきた」
「……そうね」
「知っての通り、教会はかつてほどの力はないにしても現存し、そしておれは教会の手先である聖騎士だった。おれとお前は、本来であれば決して交わってはいけない運命にある」
「……知っている」
リーシュにとって外界は決して届かぬ憧れであり夢であった。確かにスクートはかつて魔法使いたちをこの地へ追いやった末裔なのかもしれない。
だが恨むべきはあくまで過去の教会であり、いまを生きるスクートではない。リーシュにとっては小さな軋轢に過ぎず、些細なことに過ぎなかった。
だが、スクートにとってはそうではなかった。
「――――おれは、お前になら殺されてもいい」
罪人の懺悔にも見て取れるその言葉には、底知れぬ悔恨の念が詰まっていた。
「霧の森でお前と初めて出会ったとき、どうにでもなれという自暴自棄と疑念の入り混じった興味に引かれて、おれはお前についていった。おれと関わる全ての人間が、不幸になってしまえとまで思っていた。あのときのおれは、きっと心までもが化け物になりかけていたのだろう」
顔を上げリーシュに向き直ったスクートの目は、僅かに……だが確かに揺らいでいた。
「だが、お前はおれを人間として扱ってくれた。二度と味わうことはないと諦めていた、人として生を与えてくれた。溢れる好奇心も満たせない、お前をこんな小さな世界に閉じ込められた遠因でもある、このおれを、こんなおれを!」
「スクート……」
口数も表情の変化も乏しく、常に冷静であった普段のスクートとはかけ離れたいまの姿。きっとこれが、彼の本来の素なのだろう。
「すまなかった、お前を騙すような真似をして。おれを殺せば積もりに積もった溜飲も少しは下がるだろう。遺体は、あの森へ捨てて欲しい。そうすれば、あの……悪夢の主がミスティアを見つけることもないはずだ」
「ばか者。なに勝手にわたしが殺すことになっているのよ。スクートが教会の関係者であることなんて、前から薄々気がついていた」
リーシュの一言はスクートの虚を突いた。
「……そうか。ばれていたか」
「ええ。あなたは隠し事には向いていないわ」
「恨んではいないのか? 教会のしでかした愚行を、かつて手先であったおれを」
「教会は恨んでも、スクートを恨んだことは一度もないわ。むしろ、あなたを従者にして正解だった。高潔で、勇敢で……そして人の心を知っている。そんな者こそ、わたしの従者にふさわしい。そんな者こそ、クロスフォードの盾にふさわしい」
限界を超えた疲労により意識が飛びそうな中、リーシュはスクートに本心を告げる。
リーシュは確かに失敗を犯した。悪夢を封じ込めるという本来の目的は断片的に終わり、そもそもスクートの了承を得ずに行動したのが間違いだった。
だが結果として、スクートの背負う罪悪感を減らすことはできただろう。色々あったものの、今回の一件はおおむね良い方向へ転がったとリーシュは実感していた。
「なぜだ、どうしておれのような取るに足らない存在を、お前は……」
「また明日からよろしくね……きっと、忙しく、な――――」
言葉の途中で、リーシュは襲い来る睡魔に意識を奪われた。椅子から転げ落ちそうなリーシュの身体を、しかしスクートは慌てて抱きかかえた。
「……お前は、優しすぎる」
――――だからこそ、おれはこの里から出て行かなければならない。リーシュが許そうとも、もはやスクートは己を許すことができなかった。
そしてリーシュが大切な人になってしまったがゆえに、やはり彼は死を望むべきなのだ。自身を探す教会の影どもが、万が一にもミスティアの存在に気付くという可能性をなくすために。
すぅすぅと寝息を立てるリーシュを、スクートはそっとベッドに寝かせる。
そして従者の礼装をはずし黒血に汚れた革鎧を身につけ、机の上に置手紙をしたためた。
「リーシュ。最後に会えたのが、君でよかった」
寂しそうに小声で呟くと、スクートは部屋の扉を静かに閉めた。
そして庭をうろつく木傀儡たちの目を掻い潜り、クロスフォードの屋敷を後にする。
後ろ髪を引かれるような思いを断ち切り、彼は歩き出す。初めてリーシュと出会った、あの惑いの森へと。
……屋敷より少し離れた木の枝に、そんな哀愁漂う男の背をじっと見据える二羽のふくろうがいた。
ふくろうは互いに顔を合わせ、首を捻りながらさえずった。やがてその一匹が相方を残し、音を殺し木より飛び立つ。
そしてふくろうは、アロフォーニアの古塔を目指し飛び去った。