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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百五三話 黄歇、人質を入れる
 黄歇は前年に楚侵攻を止めさせる条件として提示した通り、王太子を咸陽に連れてくる。しかし秦王を信用しておらず、自身もその従者として咸陽に留まる。
 秦王はそのまま、朝議を執り行い、楚からの使者の来訪を待った。しばらくすると、進行を務める官吏が叫んだ。
「楚の使者黄歇、参内せよ」
 妙に柔らかく伸びやかな声で告げるその声は、宮廷中によく響く。
 扉が開くと、見覚えのある、少し眉毛が太い男が入ってきた。黄歇は、南方の人間らしい少し浅黒い肌と、大きな目を持っている。そして自信に満ち溢れた表情は、女官の目を引くような男前な雰囲気を醸し出していた。
 秦王は、黄歇が、どこか蘇秦と似ていると感じた。二人を重ねて見れば、どちらも優れた頭脳を持ち、女性に好かれる顔つきであった。
 刃を振るわない文官の武器には、この容姿というものも含まれるのかと、邪推した。しかしそれ以上に、黄歇は蘇秦にも負けずとも劣らぬ、優れた弁論術を持っていた。
 秦王は、黄歇を挑発するようにふんぞり返りながら、「人質は連れてきたのか」と吐き捨てた。
 黄歇は冷静に、「お約束通り、友好の使者を連れて参りました」といって、あくまでそれが人質ではなく、両国の安全保障の為の存在であると強調した。
 黄歇はそういうと、後ろに控えていた王太子の熊完(ゆうかん)に挨拶をさせた。
「楚王の子、熊完にございます。秦との友好の為、咸陽にてその習慣や法を学びながら、日々成長していく所存です」
「よかろう。大事な人質に危害を加えたりはせぬ。伸び伸びと過ごしてくれれば良い」
「御……御意」
 熊完は震えていた。声も上擦っていた。秦王は、この王太子は、秦にて徒党を組み反逆を行うような器量はないと悟った。詰まるところ、警戒するに値しない、取るに足らぬ存在だと見抜いたのである。
 いざとなれば殺せばいいのだと見くびる秦王に、黄歇は告げた。
「従者として私も残ります。王太子様共々、どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
「そなたも咸陽に残るのか。しかしそれでは、楚に賢人がいなくなるではないか」
 その言葉に、秦の文官数名は、くすくすと笑った。しかし黄歇は尚も威風堂々と答えた。
「楚王を支える有志は多く、また私のような人間は、広い楚の地には溢れています。それのみならず、国の礎であり、楚そのものもである王様の太子様がおられる場所もまた、ある意味では、楚の地にございます。私は、片時も王太子様のお側を離れず、楚の為尽くすつもりにございます」
「これぞ忠臣ぞ。余の臣下にも見習って欲しいものだな。良かったな黄歇よ、そなたはその才を遺憾無く発揮する機会に恵まれたのだ。余裕のない国は割れようもない故、その機会を得られたのだ。そなたは屈原や項叔、果ては懐王に至るまで、尊敬せねばならぬぞ」
 秦王はたか笑いをした。楚の国土を縮めるキッカケとなった楚人に感謝しろという挑発は、天下一の強勢を誇る秦王でしか、いうことのできない、度が過ぎるものであった。
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