残酷な描写あり
R-15
第百五四話 白起、王翦に会う
軍務から離れ、療養をする白起。しかし、秦王が新たに騎都尉に取り立てた男に会う為、久々に兵舎を訪れる。
同年 咸陽
白起は秦王から、一時のあいだ、軍務を離れて療養する許可を得ていた。その際、一部の将兵を昇格させるよう、直談判をしていた。それは戦で特に目立った活躍をしていた、西県の将兵が中心であった。
白起はその中でも一名、一際異彩を放つ存在がいることに気付いていた。
白起は、将軍に昇進した楊摎に変わって騎都尉に抜擢された、西県軍の男に会うため、久々に兵舎を訪れた。
「官吏よ、本日ここで、騎都尉と会う予定なのだ。連れて参れ」
「これは武安君殿。すぐに連れて参ります」
部屋で待つこと数分、扉を開けて入ってきたのは、騎都尉であった。一瞬、誰だか分からなかった。男は今まで、角を生やした仮面を身につけていた。しかし、高級将校となり、規則に則って素顔を晒していたので、まるで誰だか分からなかったのである。
しかしそれが騎都尉であることは、声で分かった。独特な深みと柔らかさを併せ持つその声は、その男のものであった。
「武安君殿にご挨拶申し上げます。騎都尉の王翦にございます」
「いつ聞いても、良い声をしているな。戦場で人を斬っている男の声には思えん程、心地の良い声をしている」
王翦は反応に困っているのか、無言だった。また、表情一つ変えないその態度は、どこか不気味であり、心の内が読めなかった。
日常的に仮面を付けていたから、表情を浮かべる意味を、忘れてしまったのかと思った。
「大して面識もない私を騎都尉などという重大な役に抜擢していただき、お礼申し上げます」
「気にするな。遠目でも分かる程、そなたの才は格別なものであった。私は、いつかそなたが化ける気がする」
「死んで化けるという意味ですか?」
「違う。そなたが大国を滅ぼすような、大きな存在に化けるという意味だ。そなたは、大器であると感じている。その才を、我が秦の為に活かしてくれ」
「御意」
「生まれはどこだ」
「頻陽(ひんよう)県です。鎬京の近くです」
「どうして西県にいるのだ。かなり距離があるが」
「友に連れられ、軍に入りました。すると腕が良いからと、西県への配属となりました」
王翦はずっと無表情であった。大事な訓練でもしていたのだろうか。だとすれば、この時間は面倒以外のなに物でもないであろう。
「もう行って良いぞ」
「ありがとうございます」
白起はそれから、屋敷へ戻った。
屋敷は、これまでとは異なる雰囲気であった。
「おかえりなさい旦那様」
「あぁ、今戻った」
そこには、秦王が贈ってきた、女がいた。過去にも似たようなことはあったが、それとは様子が異なった。今回は複数人ではなく、一人の女であり、しかもただの床上手ではなく、家柄も良く、気品がある女であった。
春(しゅん)と名乗るその女は、屋敷に仕える侍従の女どもをすぐにまとめあげ、今では、最早他人ではなくなっていた。
この歳になって妻もいないとなれば、世間に笑われる。この春なら、妻に娶るに差し支えない女であることは、明らかであった。
それから程なくして白起は、春を妻に娶った。特に好意などというものはない。これまで、欲情はあれども、好意を人に対して抱いたことはなかった。
しかし春は、それでもいいといった。ただ自分は、主人である白起が戦に集中できるよう、家中の煩わしさを請け負いたいだけなのだと、いった。
白起は不思議なことをいう女だと感じながらも、春の隣に、どこか居心地の良さを感じていた。
白起は秦王から、一時のあいだ、軍務を離れて療養する許可を得ていた。その際、一部の将兵を昇格させるよう、直談判をしていた。それは戦で特に目立った活躍をしていた、西県の将兵が中心であった。
白起はその中でも一名、一際異彩を放つ存在がいることに気付いていた。
白起は、将軍に昇進した楊摎に変わって騎都尉に抜擢された、西県軍の男に会うため、久々に兵舎を訪れた。
「官吏よ、本日ここで、騎都尉と会う予定なのだ。連れて参れ」
「これは武安君殿。すぐに連れて参ります」
部屋で待つこと数分、扉を開けて入ってきたのは、騎都尉であった。一瞬、誰だか分からなかった。男は今まで、角を生やした仮面を身につけていた。しかし、高級将校となり、規則に則って素顔を晒していたので、まるで誰だか分からなかったのである。
しかしそれが騎都尉であることは、声で分かった。独特な深みと柔らかさを併せ持つその声は、その男のものであった。
「武安君殿にご挨拶申し上げます。騎都尉の王翦にございます」
「いつ聞いても、良い声をしているな。戦場で人を斬っている男の声には思えん程、心地の良い声をしている」
王翦は反応に困っているのか、無言だった。また、表情一つ変えないその態度は、どこか不気味であり、心の内が読めなかった。
日常的に仮面を付けていたから、表情を浮かべる意味を、忘れてしまったのかと思った。
「大して面識もない私を騎都尉などという重大な役に抜擢していただき、お礼申し上げます」
「気にするな。遠目でも分かる程、そなたの才は格別なものであった。私は、いつかそなたが化ける気がする」
「死んで化けるという意味ですか?」
「違う。そなたが大国を滅ぼすような、大きな存在に化けるという意味だ。そなたは、大器であると感じている。その才を、我が秦の為に活かしてくれ」
「御意」
「生まれはどこだ」
「頻陽(ひんよう)県です。鎬京の近くです」
「どうして西県にいるのだ。かなり距離があるが」
「友に連れられ、軍に入りました。すると腕が良いからと、西県への配属となりました」
王翦はずっと無表情であった。大事な訓練でもしていたのだろうか。だとすれば、この時間は面倒以外のなに物でもないであろう。
「もう行って良いぞ」
「ありがとうございます」
白起はそれから、屋敷へ戻った。
屋敷は、これまでとは異なる雰囲気であった。
「おかえりなさい旦那様」
「あぁ、今戻った」
そこには、秦王が贈ってきた、女がいた。過去にも似たようなことはあったが、それとは様子が異なった。今回は複数人ではなく、一人の女であり、しかもただの床上手ではなく、家柄も良く、気品がある女であった。
春(しゅん)と名乗るその女は、屋敷に仕える侍従の女どもをすぐにまとめあげ、今では、最早他人ではなくなっていた。
この歳になって妻もいないとなれば、世間に笑われる。この春なら、妻に娶るに差し支えない女であることは、明らかであった。
それから程なくして白起は、春を妻に娶った。特に好意などというものはない。これまで、欲情はあれども、好意を人に対して抱いたことはなかった。
しかし春は、それでもいいといった。ただ自分は、主人である白起が戦に集中できるよう、家中の煩わしさを請け負いたいだけなのだと、いった。
白起は不思議なことをいう女だと感じながらも、春の隣に、どこか居心地の良さを感じていた。
王翦(生没年不詳)……戦国時代の秦の将軍。頻陽県東郷の人。
趙や楚を滅し、秦の天下統一に貢献した。白起、廉頗、李牧と並ぶ戦国四大名将の一人に数えられる。
頻陽県東郷……現在の中華人民共和国陝西省渭南市富平県の北東。
趙や楚を滅し、秦の天下統一に貢献した。白起、廉頗、李牧と並ぶ戦国四大名将の一人に数えられる。
頻陽県東郷……現在の中華人民共和国陝西省渭南市富平県の北東。