残酷な描写あり
R-15
名もなき二人
気を失ったリノアがようやく目覚める。そこでようやく、彼女は自分の姿を見ることができたのだった。
頭の奥底から響く疼痛で、女は目を覚ました。急に起き上がったことでさらにずきんと頭が揺れて、額に手を当てる。
眼球だけを動かして今自分がどこにいるかを確認した。
見える範囲だけでも過剰な装飾が施された部屋だ。それの意味を女は知る由もない。山吹色の光が柔らかく降り注いでいるが、女の心はひどく落ち着かない。
そうやって状況の確認と前後の記憶を思い出そうとするうちに、彼女の視線は姿見へと吸い寄せられた。
ベッドから艶のある薄墨色の脚が伸び、地面の感触を確かめてから身体を引っ張り上げた。しかし女はふらつき、胸の辺りや腕をさする。
「痛い……これが、わたしの姿?」
女は鏡を見る機会に恵まれていなかった。だから今目の前に見えるそれが、自分だと認識するのに時間がかかる。
切れ長の目に覗く臙脂色の瞳。わずかに黒みがかった灰色に近い肌。純白のワンピースがよく似合い、そこから透けて見える下着の色は瞳に近い紅色。身体のラインは細いが胸と尻が膨らみ、さらにその横から瑠璃色の後ろ髪がボサボサと顔を見せていた。
そこここに強い何かを宿している、自分のことながらそんなことを女は思った。
姿見に歩み寄る自分の姿を認識しながら、女はそこに映る己の瞳を覗き込む。奥底が異様に濁っており、とてもじゃないが綺麗とはいえない。理由はとんとわからないが、それ以外にも何か、違和感のようなものがある気がした。
「おはようございます」
突然かけられた背後からの声に飛び退き身構えた女に、声の主人がくすくすと笑いかける。
人形のように整えられた白い顔と、とんがり耳、そしてプラチナブロンドの煌めく絹のような髪が特徴的な女だ。パーカーとスカートを確認し、彼女が記憶の最後で自分と共に行動していた女だと認識した。
「ご無事で何よりです」
「お前は確か、名無しの女……?」
「はい。覚えていてくれましたか」
「もちろん。その目に宿す誇りと、それだけじゃない強い熱も覚えてるよ」
臙脂色が琥珀色と交錯し、視線が絡み合った。琥珀色の瞳が、震える。
「その誇りとやらにその身を委ねるだけで本当にいいのか?」
「どういう、意味でしょう」
「お前はわたしを助けたろう? わたしはお前を助けられなかったみたいだけど」
「いいんです。そんなことをされるほどの存在ではありません」
とん、とベッドに座り込みプラチナブロンドの前髪で顔を隠して女は視線を落とした。床を見つめるその瞳が影に呑み込まれ、色を失っていく。
「またそれか、わたしにはその意味がわからない」
「ルジュヴィは、強者に媚びてへつらって……血を残せれば、それでいいんです。そのために、そのためだけに男の悦し方も、世話の仕方も学んできたんですから」
「ふうん。……そこにお前自身の意志はないってことか」
「はい。私は種を残す道具ですから」
女の語る言葉に感情は宿っていなかった。視線はそのまま床の一点を見つめ続け、燃えるような臙脂色を見つめ返そうともしない。
「わたしの勘違いなら謝るんだが」
小首をかしげ、瑠璃色の髪を揺らしながら女が口を開く。至極あっけらかんとした、軽い口調で。
「同じように扱われるのが、そんなに嫌なのか?」
「え?」
「誰かと――いや、違うな。うーん、わたしはまだまだ外のことはよくわかんないんだけど……わたしを助けようとしたお前をわたしが助けるのは、間違ってるのか?」
「……それ、は」
琥珀色の瞳が揺れながら、首を捻ったままの女へと視線を向ける。
「そんな風に扱われるのが嫌なように見えたんだ。でも、それだけじゃない、そんな気もしたんだ」
「……」
「勘違いだったか。すまない。踏み込んでは、いけないことだったようだ」
困ったように笑う女の瞳が泳いだ。ここから何を切り出したらいいかわからない、そんな顔。
気まずい空気が流れる中、戸惑っていたのはもう一人の女も同じだった。
生まれてこの方向けられたことのない言葉と、感情。先刻から心を揺さぶり続ける彼女の行動と、揺るぎない意志を宿す瞳。
そのどれもが、ルジュヴィという枠で生きてきた彼女にとっては濁流だった。自身の存在価値や、生きてきた理由の全てを呑み込み尽くしてしまうような。そんなことを思うようになったことすら、女にとっては理解のできない事柄だったのだ。
「……わかりません」
「うん?」
「私に、踏み込んでこないでください」
突き放すような言葉に、薄墨色の肌の女は少しだけ傷ついたように視線を逸らし、そのまま姿見と睨めっこを始めた。
それきり、彼女はもう振り返らなくなった。
その後ろ姿を見つめながら、女は自分の口から出た言葉に驚きを隠せないでいた。口元を抑え、目を見開き、喉の奥から吐き出した言葉を反芻する。
自分と違うものを受け入れたくないという自分。自分と同じ女なのに、全然違う生き方をしてきたと見せつけられる価値観、それを怖いと思っていることに、ルジュヴィの女は気付いた。
同時に彼女は思い出す。自分を守り通そうとした彼女の強さと、男に対する強い嫌悪の熱を。
「あの……私、怖いんです」
「……なにが?」
「自分の信じてきた道が、本能が崩れ去るのが」
「怖いなら隠れていればいい。わたしはもう、お前には踏み込まない。……すまない」
ルジュヴィの女は姿見越しに瑠璃色の髪の向こうを見た。どこか、悲痛な顔だった。冷めてしまっているくせに、傷ついたような顔をしていたのだ。
名前をもらったことのない女には、何に対してのすまないなのか、わからなかった。その燃えるような瞳でもう一度見つめて欲しかった。
「違うんです」
無意識に放たれた言葉に驚いたのはルジュヴィの女自身だった。慌てて口をつぐむも、目の前の女の肩がぴくりと反応するのがわかってしまう。
「違うって、なんのこと――っ」
「出ろ、ラストを飾るのはお前たち二人だ。目玉商品として、目一杯輝いてくるといい。――領主様にだけは買われないといいな」
唐突に開け放たれた扉と、そこから入ってきた黒服に会話が遮られてしまった。黒服の言葉の意味がわからないまま、二人は控え室の外に連れ出される。
「こ、れは……」
がらんどうとした巨大な空間へと連れ出され、二人は目を見開いた。
不思議なほど静かな空間。そこに降り注ぐ山吹色の光だけが寂しくもわずかに温もりを広げている。
「長いが、あの階段を登るんだ。ほら、先に行ってる奴がいるだろう? あれについていけばいい」
示されたのは中央に設置された天高く聳え立つ螺旋階段。よくよく目を凝らせば確かに、何人もの先行者がいるらしい。
薄墨色の女はなるほどと納得した。前後の記憶は相変わらず曖昧だが、自分が捕まってしまったのだと理解する。そして、ことここに至っては抵抗は無駄であることも察したのだった。
しかし彼女は、とても大事なことをいくつか忘れている気がしていた。それがなんなのかすら今は思い出せないものの、不思議とこの先起こることについて希望を得ていた。
「とりあえず行こうか」
「はい……」
二人は階段の入り口に立ち、それを見上げる。一体いつまで登ればたどり着けるのだろうかと、疑問は尽きない。
「舞台に出る前に疲れ果てちゃうな」
「はい、そうですね」
「あの……さっきは、何を言おうとしたんだ?」
一段、また一段と進むうちに女たちの顔には疲労が滲んで、少しでも楽になるだろうかと口を開いた。
二人の前を進む音は遠く、二人の後ろにも足音はなかった。だから、ここにいるのは今二人だけだ。
これだけの階段を登っているのだ、見張りはいないはず。それどころか警戒すらしちゃいないだろう。
拾われたがりは、進んでルジュヴィになろうというのだから。
「いえ、なんでもありません」
「そっか」
そんなことを思いながら、プラチナブロンドを輝かせた女は質問に答えようとしなかった。今も彼女に見えるそれは、ルジュヴィにはとても眩しかったからである。
前を歩く女は知らないだろう。どれだけ自分が眩き光を放っているか、名前を失ったにも関わらずその輝きに翳りの一つ見られないのか。
「あのさ、もしもの話」
「え?」
「もしもわたしが、お前に名前をつけてやるって言ったら、どうする?」
ボサボサの髪が大きく揺れて、凛とした女の顔が振り返る。そして少しだけ下を歩く名前のない女を見下ろし、もう一度「どうする?」と重ねて聞いた。
「いきなり言われても」
「しかもさ、それはルジュヴィってやつとは関係なくて……お前をお前たらしめるための名前なんだ」
「どういうことですか?」
「うーん、どう伝えたらいいんだろう?」
頬を指先で掻く姿すら、名前のない女には直視できなかった。どこまでもまっすぐで感情に素直で、それを貫き通すだけの力を持っている。そんな存在がこんな存在に名前をつけてくれるという――彼女にとって困るどころの話ではなかった。
「わたしは――って名前で。……ああなるほど、今のわたしには名前がないのか。なら早く、思い出さないとな」
「そんなに、名前が大事なんですか?」
「当たり前だ。名前ってのは何もないものを、何かにするんだ。何かになれば、それとして生きられる。それとしてどこまでも行けるんだ。……これは、受け売りだけど」
「何かって、なんですか?」
臙脂色の瞳が燃えるような光を宿す。
「さあ? でもそれが、わたしをわたしにするんだと思う。それを失って上書きなんかされたら、わたしは死んだも同然なんだ。そしたらそれはもう、わたしじゃない」
純白のワンピースの膨らんだ胸元に手を当てて、強い意志を持って女は言葉を繋ぐ。
「だから見ておいて。わたしが名前を取り戻すところを。そして高々に叫んでやるんだ。誰にも、わたしを奪わせやしないぞって」
それだけ言うと、かんかんと足音を立てて名前を失った女は駆け上がっていった。疲れなど微塵も感じさせない、軽やかで力強い足取りだった。
手を伸ばすようにしてその後ろ姿を追いかける名前のない女の顔は、泣きながら笑っている。
どうか置いていかないでと、ひたすらに追いかけるのだった。
眼球だけを動かして今自分がどこにいるかを確認した。
見える範囲だけでも過剰な装飾が施された部屋だ。それの意味を女は知る由もない。山吹色の光が柔らかく降り注いでいるが、女の心はひどく落ち着かない。
そうやって状況の確認と前後の記憶を思い出そうとするうちに、彼女の視線は姿見へと吸い寄せられた。
ベッドから艶のある薄墨色の脚が伸び、地面の感触を確かめてから身体を引っ張り上げた。しかし女はふらつき、胸の辺りや腕をさする。
「痛い……これが、わたしの姿?」
女は鏡を見る機会に恵まれていなかった。だから今目の前に見えるそれが、自分だと認識するのに時間がかかる。
切れ長の目に覗く臙脂色の瞳。わずかに黒みがかった灰色に近い肌。純白のワンピースがよく似合い、そこから透けて見える下着の色は瞳に近い紅色。身体のラインは細いが胸と尻が膨らみ、さらにその横から瑠璃色の後ろ髪がボサボサと顔を見せていた。
そこここに強い何かを宿している、自分のことながらそんなことを女は思った。
姿見に歩み寄る自分の姿を認識しながら、女はそこに映る己の瞳を覗き込む。奥底が異様に濁っており、とてもじゃないが綺麗とはいえない。理由はとんとわからないが、それ以外にも何か、違和感のようなものがある気がした。
「おはようございます」
突然かけられた背後からの声に飛び退き身構えた女に、声の主人がくすくすと笑いかける。
人形のように整えられた白い顔と、とんがり耳、そしてプラチナブロンドの煌めく絹のような髪が特徴的な女だ。パーカーとスカートを確認し、彼女が記憶の最後で自分と共に行動していた女だと認識した。
「ご無事で何よりです」
「お前は確か、名無しの女……?」
「はい。覚えていてくれましたか」
「もちろん。その目に宿す誇りと、それだけじゃない強い熱も覚えてるよ」
臙脂色が琥珀色と交錯し、視線が絡み合った。琥珀色の瞳が、震える。
「その誇りとやらにその身を委ねるだけで本当にいいのか?」
「どういう、意味でしょう」
「お前はわたしを助けたろう? わたしはお前を助けられなかったみたいだけど」
「いいんです。そんなことをされるほどの存在ではありません」
とん、とベッドに座り込みプラチナブロンドの前髪で顔を隠して女は視線を落とした。床を見つめるその瞳が影に呑み込まれ、色を失っていく。
「またそれか、わたしにはその意味がわからない」
「ルジュヴィは、強者に媚びてへつらって……血を残せれば、それでいいんです。そのために、そのためだけに男の悦し方も、世話の仕方も学んできたんですから」
「ふうん。……そこにお前自身の意志はないってことか」
「はい。私は種を残す道具ですから」
女の語る言葉に感情は宿っていなかった。視線はそのまま床の一点を見つめ続け、燃えるような臙脂色を見つめ返そうともしない。
「わたしの勘違いなら謝るんだが」
小首をかしげ、瑠璃色の髪を揺らしながら女が口を開く。至極あっけらかんとした、軽い口調で。
「同じように扱われるのが、そんなに嫌なのか?」
「え?」
「誰かと――いや、違うな。うーん、わたしはまだまだ外のことはよくわかんないんだけど……わたしを助けようとしたお前をわたしが助けるのは、間違ってるのか?」
「……それ、は」
琥珀色の瞳が揺れながら、首を捻ったままの女へと視線を向ける。
「そんな風に扱われるのが嫌なように見えたんだ。でも、それだけじゃない、そんな気もしたんだ」
「……」
「勘違いだったか。すまない。踏み込んでは、いけないことだったようだ」
困ったように笑う女の瞳が泳いだ。ここから何を切り出したらいいかわからない、そんな顔。
気まずい空気が流れる中、戸惑っていたのはもう一人の女も同じだった。
生まれてこの方向けられたことのない言葉と、感情。先刻から心を揺さぶり続ける彼女の行動と、揺るぎない意志を宿す瞳。
そのどれもが、ルジュヴィという枠で生きてきた彼女にとっては濁流だった。自身の存在価値や、生きてきた理由の全てを呑み込み尽くしてしまうような。そんなことを思うようになったことすら、女にとっては理解のできない事柄だったのだ。
「……わかりません」
「うん?」
「私に、踏み込んでこないでください」
突き放すような言葉に、薄墨色の肌の女は少しだけ傷ついたように視線を逸らし、そのまま姿見と睨めっこを始めた。
それきり、彼女はもう振り返らなくなった。
その後ろ姿を見つめながら、女は自分の口から出た言葉に驚きを隠せないでいた。口元を抑え、目を見開き、喉の奥から吐き出した言葉を反芻する。
自分と違うものを受け入れたくないという自分。自分と同じ女なのに、全然違う生き方をしてきたと見せつけられる価値観、それを怖いと思っていることに、ルジュヴィの女は気付いた。
同時に彼女は思い出す。自分を守り通そうとした彼女の強さと、男に対する強い嫌悪の熱を。
「あの……私、怖いんです」
「……なにが?」
「自分の信じてきた道が、本能が崩れ去るのが」
「怖いなら隠れていればいい。わたしはもう、お前には踏み込まない。……すまない」
ルジュヴィの女は姿見越しに瑠璃色の髪の向こうを見た。どこか、悲痛な顔だった。冷めてしまっているくせに、傷ついたような顔をしていたのだ。
名前をもらったことのない女には、何に対してのすまないなのか、わからなかった。その燃えるような瞳でもう一度見つめて欲しかった。
「違うんです」
無意識に放たれた言葉に驚いたのはルジュヴィの女自身だった。慌てて口をつぐむも、目の前の女の肩がぴくりと反応するのがわかってしまう。
「違うって、なんのこと――っ」
「出ろ、ラストを飾るのはお前たち二人だ。目玉商品として、目一杯輝いてくるといい。――領主様にだけは買われないといいな」
唐突に開け放たれた扉と、そこから入ってきた黒服に会話が遮られてしまった。黒服の言葉の意味がわからないまま、二人は控え室の外に連れ出される。
「こ、れは……」
がらんどうとした巨大な空間へと連れ出され、二人は目を見開いた。
不思議なほど静かな空間。そこに降り注ぐ山吹色の光だけが寂しくもわずかに温もりを広げている。
「長いが、あの階段を登るんだ。ほら、先に行ってる奴がいるだろう? あれについていけばいい」
示されたのは中央に設置された天高く聳え立つ螺旋階段。よくよく目を凝らせば確かに、何人もの先行者がいるらしい。
薄墨色の女はなるほどと納得した。前後の記憶は相変わらず曖昧だが、自分が捕まってしまったのだと理解する。そして、ことここに至っては抵抗は無駄であることも察したのだった。
しかし彼女は、とても大事なことをいくつか忘れている気がしていた。それがなんなのかすら今は思い出せないものの、不思議とこの先起こることについて希望を得ていた。
「とりあえず行こうか」
「はい……」
二人は階段の入り口に立ち、それを見上げる。一体いつまで登ればたどり着けるのだろうかと、疑問は尽きない。
「舞台に出る前に疲れ果てちゃうな」
「はい、そうですね」
「あの……さっきは、何を言おうとしたんだ?」
一段、また一段と進むうちに女たちの顔には疲労が滲んで、少しでも楽になるだろうかと口を開いた。
二人の前を進む音は遠く、二人の後ろにも足音はなかった。だから、ここにいるのは今二人だけだ。
これだけの階段を登っているのだ、見張りはいないはず。それどころか警戒すらしちゃいないだろう。
拾われたがりは、進んでルジュヴィになろうというのだから。
「いえ、なんでもありません」
「そっか」
そんなことを思いながら、プラチナブロンドを輝かせた女は質問に答えようとしなかった。今も彼女に見えるそれは、ルジュヴィにはとても眩しかったからである。
前を歩く女は知らないだろう。どれだけ自分が眩き光を放っているか、名前を失ったにも関わらずその輝きに翳りの一つ見られないのか。
「あのさ、もしもの話」
「え?」
「もしもわたしが、お前に名前をつけてやるって言ったら、どうする?」
ボサボサの髪が大きく揺れて、凛とした女の顔が振り返る。そして少しだけ下を歩く名前のない女を見下ろし、もう一度「どうする?」と重ねて聞いた。
「いきなり言われても」
「しかもさ、それはルジュヴィってやつとは関係なくて……お前をお前たらしめるための名前なんだ」
「どういうことですか?」
「うーん、どう伝えたらいいんだろう?」
頬を指先で掻く姿すら、名前のない女には直視できなかった。どこまでもまっすぐで感情に素直で、それを貫き通すだけの力を持っている。そんな存在がこんな存在に名前をつけてくれるという――彼女にとって困るどころの話ではなかった。
「わたしは――って名前で。……ああなるほど、今のわたしには名前がないのか。なら早く、思い出さないとな」
「そんなに、名前が大事なんですか?」
「当たり前だ。名前ってのは何もないものを、何かにするんだ。何かになれば、それとして生きられる。それとしてどこまでも行けるんだ。……これは、受け売りだけど」
「何かって、なんですか?」
臙脂色の瞳が燃えるような光を宿す。
「さあ? でもそれが、わたしをわたしにするんだと思う。それを失って上書きなんかされたら、わたしは死んだも同然なんだ。そしたらそれはもう、わたしじゃない」
純白のワンピースの膨らんだ胸元に手を当てて、強い意志を持って女は言葉を繋ぐ。
「だから見ておいて。わたしが名前を取り戻すところを。そして高々に叫んでやるんだ。誰にも、わたしを奪わせやしないぞって」
それだけ言うと、かんかんと足音を立てて名前を失った女は駆け上がっていった。疲れなど微塵も感じさせない、軽やかで力強い足取りだった。
手を伸ばすようにしてその後ろ姿を追いかける名前のない女の顔は、泣きながら笑っている。
どうか置いていかないでと、ひたすらに追いかけるのだった。