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作者: 真名鶴
6.溺れる魚
 帰宅途中の公園で、なんとなしに足を止めた。そこには遊ぶ子供もおらず、ただぎいぎいとブランコが風に揺れている。
 どうしてだか、つんと塩素のにおいが鼻につく。ちょろちょろと水を吐き出し続けている蛇口のせいかと、のろのろとそこに近付いて蛇口を閉めた。
 塩素だ。ただの消毒用。プールのにおいほど色濃くはなく、けれど魚はこの中では生きられない。
 メダカは、水道水では駄目なのだという。水道の水に入れるのならば、二日三日汲みおいて、塩素を抜かなければならないという。
 そこまでして、泳がせたいか。そこまでして、泳ぎたいか。
 近くの小川からメダカは姿を消している。多分どこに行っても、もうあまり見かけることはなくなったのだろう。消えて、消えて、どこへいく。
 消毒された水はきれいなのか。魚が泳げぬその水を、果たして『きれい』などと呼んで良いものか。塩素のにおいがする水を、果たして何と呼ぶことが正しいのだろう。
「魚」
 ぐるぐると。
 ただひたすらにぐるぐると。
 水と魚を考える。考えて考えて、ああまた思考がぐちゃぐちゃだ。こうなってしまうともうどうしようもなくて、ベンチに座ってリュックからスケッチブックと鉛筆を取り出すしかない。
 スケッチブックの表紙の端が少し折れてしまっていて、それをなんとか真っ直ぐにならないものかと何度か反対に折り曲げて戻してを繰り返す。そんなことをしていたものだからぽろりとそこは破れて取れてしまって、砂地に落ちたそれをぐしゃりと爪先で踏みつぶす。
 こうなってしまったものは、もう戻らない。破れて、落ちて、セロハンテープで貼り付けたって、破れてしまった事実は覆らない。
「魚だ」
 端がないのは気に入らないが、もうどうしようもなかった。
 破れてしまった切れ端を拾い上げてひとつしかないポケットに突っ込んで、スケッチブックの白いページを開く。
 齧れ。鉛筆の先で白い部分を齧っていけ。
 ごぽりごぽりと、魚は溺れていく。塩素の水の中、呼吸もできず。
 は、と息を吐き出した。人間は陸上に適応した生命であり、水の中では呼吸ができない。進化の過程でかつてあった鰓は肺となり、水の中からイクチオステガは這い出した。
 どうして安穏であった水中を捨て、進化していく種族は陸上へ上がろうなどと思ったのだろう。
 彼らがずっと水の中にあったのなら、きっと人間は。人間は――。
「できた」
 白いページの上、魚は溺れて沈んでいく。
 泳ぐことのできない魚は、その水に適応できなかった。ならばこうして陸上にいるのに息ができなくなりそうな自分は、陸地という環境に適応できていないのか。
 俺は、おかしいのか。
 俺はどこか、おかしいのか。
 でも俺は俺でしかなく、俺でいたいからなんとかして呼吸を続けている。喉を押さえて、もがいてあがいて、それでも息をしろと自分に命じて。
 溺れていく。魚は沈む。
 水の底まで落ちていけば、その先は何もない。落ちて落ちて、沈んで。呼吸の仕方も忘れたままに。泳ぎ方すらも忘れたままに。
「この、魚は」
 溺れていく。
 陸地にいるはずなのに、溺れ、溺れて。
 息ができなくて、自分の首を絞めた。それでようやくひゅうひゅうと息をしはじめるのだから、俺という生き物はきっと欠陥品だ。
「魚は……」
 頭の中でぐるぐるしていたものは、スケッチブックに沈んでいった。
 息を吸う。吐き出す。たったそれだけのことに苦労する人間の感覚なんて、きっと大多数の人は知らないのだ。こうやって陸地で溺れそうになっている俺のことなど、誰も知らない。
 知ったところで、理解できない。
 それならいっそ知らないままでいい。
 分からないと言われる方が、もっとずっと苦しくて、そうして、何かを投げ捨てて叫びたくなる。
 スケッチブックの端は欠けたまま。それを見ているのが嫌で、破り捨てたくなって、その衝動をただスケッチブックをリュックの中に放り込むことで投げ捨てた。
 息をしろ。
 心臓は動いている。それならまだ、息をしなければ。
 そうやって命じて命じて、ようやく陸地で呼吸ができる。いっそ水中に沈んで溺れてしまえば、息ができなくなることに諦めもついたのかもしれないのに。
 陸地にいるせいで、呼吸をしろと命じなければならないのだ。こんなところで、溺れて死ぬなと。いっそ溺れてしまえれば、きっと楽になれるのに。
 それでも俺はただ息をしろと己に命じ続けて、そうして息を吸っては吐いて。ひゅうひゅうとへたくそな呼吸を繰り返している。
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