7.ミロのヴィーナス
家に帰れば「おかえり」の声。それにただ「ただいま」と短く返して手を洗って、部屋に駆け込んだ。何かを描かなければという焦燥感と、頭の中のぐるぐると、結局何枚スケッチブックのページを汚しても完全には消えてくれない。
ただふっと頭をよぎったことばを捕まえて、それを白いページに叩きつける。
ミロのヴィーナス。サモトラケのニケと同様に、欠けた部分のある彫像。ヴィーナスの二本の腕は失われたままで、それでも人は欠けているからこそ美しいなどという。
手と腕が失われていることは、かえって人の想像力をかき立てる。思い思いの美を描き、その欠けたところを補おうとするせいか。それともあるがままを美しいなどと言うからか。
そんなことを言う口と同じ口で、同じでないことを悪しざまに罵ったりするくせに。
美術の教科書には、ミロのヴィーナスの写真がある。二本の腕は当然なく、そこは欠けたまま。
「腕」
どうして腕はないのだろう。
それでもミロのヴィーナスはそこに美しく佇んで、ではそれを羨ましいと思うかと言えば、そんなこともない。多分これは、そんなものではないのだ。
鉛筆をただひたすらに動かした。白いページを黒く汚して、自分の手も鉛筆の黒鉛で黒く汚して。それでもただひたすらに写真の像を写していく。
それは決して美しくない。ただそこに黒く描かれたミロのヴィーナスの模写は美しくない。そして、描いていても何も消えない。
これは誰かの真似事だ。ただ美しいと賞賛されるものを模写したところで、何一つとして満たされはしない。欠損が美しいとされるものに、自分のおかしな部分もそうして認められるかと託したところで、結局そうはなれないのだから。
おかしい。
おかしいのか。
からりと鉛筆を投げ出して、自分の喉に手を当てる。おうとつのないそこはつるりとしていて、少し力を入れれば自分でも自分を殺せそうなものなのに。
けれど人間は、自分の手で自分の首を絞めても死ねはしないのだ。苦しくなれば手を離してしまうから。だから首を括ろうと思ったら、手ではない別の何かにするしかない。
手はあるのに。ではこの手に一体何の意味がある。自分で自分の首を絞められすらもしないのに。
「ヴィーナスの腕……」
ではこの欠けたヴィーナス像の絵に腕を足せば、それは自分の満足するものになり得るのか。スタート地点が猿真似でしかないものに自分の要素を付け足したとて、一体何の意味があるのだろう。
それならば最初から、自分の絵柄で描けばいい。今までに自分が吸収したものを使って、自分の頭の中を叩きつけて、ただ思うがままに。
そうではないから、余計に苦しい。余計に気持ちが悪い。
すべて同じになって画一化して、その先に一体何があるというのだろう。右向け右ができない子供を落ちこぼれとレッテルを貼るように。
ヴィーナスにもし腕があって、そしてその腕に持っているものが林檎でなかったら、もしも弓矢であったのならば、人々はどうするのだろう。その手に持っていたものが弓矢であれば、それはアフロディテではなくなるのだから。神というものをかつての人々は、その手に持つものやポーズで区別したという。それは日本における仏像だって同じこと。
もしも手に持つものは弓矢であったのならば、ミロのヴィーナスは途端にその名前をアルテミスに変える。
ではそうなったならば、人はこの彫像を何と呼ぶのだろう。手のひらを返すように、その名前で読んで「実は前からそう思っていたのです」などとしたり顔で言うのだろうか。
そうな風に理解したふりをするくらいなら、最初から何も言わなければいい。理解ができないのならば、何も言わなければいい。
誰も、理解なんて求めないから。
ミロのヴィーナスが名乗ったわけではない。それはただ発見した人が、それを調べた人が、これはヴィーナスであると名付けただけのこと。実際に作った彫刻家が、これはミロのヴィーナスですと言ったわけでもない。
ただ、そこに静かに、美しく佇む。
放っておいてくれればいいのに。誰も理解しようとしなければいいのに。
分からないと突き付けるくらいなら、最初から何も言わないでくれ。俺は何も求めていないから。俺に近寄ってくれとも思わないから。
結局、描き上げたそれは腕が欠けていた。そこに腕を付け足す気にはなれなかった。ああこれは駄目な絵だなとスケッチブックからそのページを破り、ぐしゃぐしゃに丸めて捨てる。
スケッチブックを綴じているところの隙間に、ほんの少しの切れ端が残る。それがどうしようもなく気に入らなくて、叩いて振って、それを取り出した。
ああ、これでいい。
ただふっと頭をよぎったことばを捕まえて、それを白いページに叩きつける。
ミロのヴィーナス。サモトラケのニケと同様に、欠けた部分のある彫像。ヴィーナスの二本の腕は失われたままで、それでも人は欠けているからこそ美しいなどという。
手と腕が失われていることは、かえって人の想像力をかき立てる。思い思いの美を描き、その欠けたところを補おうとするせいか。それともあるがままを美しいなどと言うからか。
そんなことを言う口と同じ口で、同じでないことを悪しざまに罵ったりするくせに。
美術の教科書には、ミロのヴィーナスの写真がある。二本の腕は当然なく、そこは欠けたまま。
「腕」
どうして腕はないのだろう。
それでもミロのヴィーナスはそこに美しく佇んで、ではそれを羨ましいと思うかと言えば、そんなこともない。多分これは、そんなものではないのだ。
鉛筆をただひたすらに動かした。白いページを黒く汚して、自分の手も鉛筆の黒鉛で黒く汚して。それでもただひたすらに写真の像を写していく。
それは決して美しくない。ただそこに黒く描かれたミロのヴィーナスの模写は美しくない。そして、描いていても何も消えない。
これは誰かの真似事だ。ただ美しいと賞賛されるものを模写したところで、何一つとして満たされはしない。欠損が美しいとされるものに、自分のおかしな部分もそうして認められるかと託したところで、結局そうはなれないのだから。
おかしい。
おかしいのか。
からりと鉛筆を投げ出して、自分の喉に手を当てる。おうとつのないそこはつるりとしていて、少し力を入れれば自分でも自分を殺せそうなものなのに。
けれど人間は、自分の手で自分の首を絞めても死ねはしないのだ。苦しくなれば手を離してしまうから。だから首を括ろうと思ったら、手ではない別の何かにするしかない。
手はあるのに。ではこの手に一体何の意味がある。自分で自分の首を絞められすらもしないのに。
「ヴィーナスの腕……」
ではこの欠けたヴィーナス像の絵に腕を足せば、それは自分の満足するものになり得るのか。スタート地点が猿真似でしかないものに自分の要素を付け足したとて、一体何の意味があるのだろう。
それならば最初から、自分の絵柄で描けばいい。今までに自分が吸収したものを使って、自分の頭の中を叩きつけて、ただ思うがままに。
そうではないから、余計に苦しい。余計に気持ちが悪い。
すべて同じになって画一化して、その先に一体何があるというのだろう。右向け右ができない子供を落ちこぼれとレッテルを貼るように。
ヴィーナスにもし腕があって、そしてその腕に持っているものが林檎でなかったら、もしも弓矢であったのならば、人々はどうするのだろう。その手に持っていたものが弓矢であれば、それはアフロディテではなくなるのだから。神というものをかつての人々は、その手に持つものやポーズで区別したという。それは日本における仏像だって同じこと。
もしも手に持つものは弓矢であったのならば、ミロのヴィーナスは途端にその名前をアルテミスに変える。
ではそうなったならば、人はこの彫像を何と呼ぶのだろう。手のひらを返すように、その名前で読んで「実は前からそう思っていたのです」などとしたり顔で言うのだろうか。
そうな風に理解したふりをするくらいなら、最初から何も言わなければいい。理解ができないのならば、何も言わなければいい。
誰も、理解なんて求めないから。
ミロのヴィーナスが名乗ったわけではない。それはただ発見した人が、それを調べた人が、これはヴィーナスであると名付けただけのこと。実際に作った彫刻家が、これはミロのヴィーナスですと言ったわけでもない。
ただ、そこに静かに、美しく佇む。
放っておいてくれればいいのに。誰も理解しようとしなければいいのに。
分からないと突き付けるくらいなら、最初から何も言わないでくれ。俺は何も求めていないから。俺に近寄ってくれとも思わないから。
結局、描き上げたそれは腕が欠けていた。そこに腕を付け足す気にはなれなかった。ああこれは駄目な絵だなとスケッチブックからそのページを破り、ぐしゃぐしゃに丸めて捨てる。
スケッチブックを綴じているところの隙間に、ほんの少しの切れ端が残る。それがどうしようもなく気に入らなくて、叩いて振って、それを取り出した。
ああ、これでいい。