8.灰
今日も空は秋晴れだった。青い空に白い雲。変わらず今日も吐き気がする。
教室は今日も四角四面。押し付けられるようで窮屈で苦しくて、けれど逃げ出すこともできない「いい子」の俺にも辟易した。
右向け右、左向け左。
義務教育はそんなものだったのかもしれない。けれどそれは高校になっても変わらなくて、やはり押し付けられるようで苦しいばかりだ。
「……い、おい」
「え? あ、ああ、何?」
ぼんやりと窓の外を眺めていて、呼ばれていることに気付くのが遅くなった。
いつもの男子生徒が目の前に立っていて、俺の顔を覗き込んでいる。じっと目を見られるのも気分が悪くて、机の上のものをリュックサックにしまうふりをして目を背ける。
「今日は絵、描かないのか?」
「今は別にいい」
頭の中がぐるぐるしていないから、別にいい。
ぐちゃぐちゃになって息もできなくなって、絵にしてしまわないと呼吸もままならない。そうなってしまうから絵を描くだけだ。別に好きなわけでもなんでもない、きっと。
彼もどうして俺に構うのか。褒めらえたから、また褒められたくて構うのか。別に人を褒めることは構わない、人は褒められなければ、水を貰わなければ、きっと枯れてしまうから。
「じゃあ、スケッチブック見せてくれ」
「何で?」
「見たいから。駄目か?」
ここで駄目と言えばいいのだろうか。
けれどそう言ってしまえば、この教室からはじき出されてしまうのか。あいつ絵なんか描いてるぞと、そうして指を差されるのだろうか。
ぐるりと考えて、見せたくなくて、けれど見せる他ないような気もして、止まりそうになる呼吸をなんとか繰り返しながらリュックサックに手を伸ばす。
黄色と黒の表紙は、やはり隅が欠けている。もう二度と完全なものになることはない。
「はい」
「ありがと」
理解しないでくれ。
理解しようとしないでくれ。
でも。
けれど。
理解できないとも言わないでくれ。
どうかどうか、何も言わないで。
理解して欲しいとも、私は言わないから。俺であることも何もかも、理解を求めたりはしないから。
スケッチブックには黒い鉛筆で描かれた絵がいくつもある。何度も何度も頭の中を整理するためだけに叩きつけたそこに、ミロのヴィーナスだけがない。
サモトラケのニケはあるのに、どうしてミロのヴィーナスだけがないのだろう。どうしてミロのヴィーナスだけは気に入らなくて破り捨ててしまったのだろう。
そうしたのは自分のはずなのに、自分のことも分からない。
「なんだこれ」
「魚」
溺れて、沈んで、息もできない。
水中で溺れる魚はきっと、生きることに向いていないのだ。ならば陸上で息が止まりそうになる自分は。
「ふうん」
それで、最後。
それで、おしまい。
「よく分かんなかった」
「そっか。俺も分かんないからいいよ別に」
理解しないでくれ。
ごめん分からないだなんて、そんなことを言うくらいならば黙っておいてくれ。
これ以上、俺を――。
「俺、帰る。それ、返して」
戻ってきたスケッチブックをリュックサックに突っ込んで、立ち上がる。まだ何か言いたそうな彼を教室に置き去りにするように、リュックサックを掴んで肩にかけた。
教室を飛び出す。玄関を抜けて、駅へと向かう。
分からないならそれでいい。それでいいから、何も言わなくていい。分からなかったなんて、そんなこと言われなくても分かってる。
誰に理解を求めるわけじゃない。理解をして欲しいわけじゃない。
ただこの息苦しさが消えて欲しくて、これしか方法がなくて、枯れそうな自分を繋いでいるだけ。
駅のホームに飛び込んで、電車を待つ。目の前を通り過ぎる貨物列車に吸い込まれそうになる足を必死で踏み止まらせて、次にやってきた普通電車に飛び乗った。
がたんごとんと電車は揺れる。
家へ帰ったところで、庭で枯葉と枯れ枝が燃やされていた。ぱちぱちと爆ぜる火を見て、リュックサックを開く。
端の欠けたスケッチブック。ただ俺の息苦しさから逃げる場所。それでも息が苦しくなって、自分の首を絞めたくなって、それでもこうして生きている。
何もかも気持ち悪くて、どうしようもなくて、苦しいだけ。
燃えている火のところへ、スケッチブックを突っ込んだ。
いっそのこともう、すべて、なにもかもすべて、灰になれ。
教室は今日も四角四面。押し付けられるようで窮屈で苦しくて、けれど逃げ出すこともできない「いい子」の俺にも辟易した。
右向け右、左向け左。
義務教育はそんなものだったのかもしれない。けれどそれは高校になっても変わらなくて、やはり押し付けられるようで苦しいばかりだ。
「……い、おい」
「え? あ、ああ、何?」
ぼんやりと窓の外を眺めていて、呼ばれていることに気付くのが遅くなった。
いつもの男子生徒が目の前に立っていて、俺の顔を覗き込んでいる。じっと目を見られるのも気分が悪くて、机の上のものをリュックサックにしまうふりをして目を背ける。
「今日は絵、描かないのか?」
「今は別にいい」
頭の中がぐるぐるしていないから、別にいい。
ぐちゃぐちゃになって息もできなくなって、絵にしてしまわないと呼吸もままならない。そうなってしまうから絵を描くだけだ。別に好きなわけでもなんでもない、きっと。
彼もどうして俺に構うのか。褒めらえたから、また褒められたくて構うのか。別に人を褒めることは構わない、人は褒められなければ、水を貰わなければ、きっと枯れてしまうから。
「じゃあ、スケッチブック見せてくれ」
「何で?」
「見たいから。駄目か?」
ここで駄目と言えばいいのだろうか。
けれどそう言ってしまえば、この教室からはじき出されてしまうのか。あいつ絵なんか描いてるぞと、そうして指を差されるのだろうか。
ぐるりと考えて、見せたくなくて、けれど見せる他ないような気もして、止まりそうになる呼吸をなんとか繰り返しながらリュックサックに手を伸ばす。
黄色と黒の表紙は、やはり隅が欠けている。もう二度と完全なものになることはない。
「はい」
「ありがと」
理解しないでくれ。
理解しようとしないでくれ。
でも。
けれど。
理解できないとも言わないでくれ。
どうかどうか、何も言わないで。
理解して欲しいとも、私は言わないから。俺であることも何もかも、理解を求めたりはしないから。
スケッチブックには黒い鉛筆で描かれた絵がいくつもある。何度も何度も頭の中を整理するためだけに叩きつけたそこに、ミロのヴィーナスだけがない。
サモトラケのニケはあるのに、どうしてミロのヴィーナスだけがないのだろう。どうしてミロのヴィーナスだけは気に入らなくて破り捨ててしまったのだろう。
そうしたのは自分のはずなのに、自分のことも分からない。
「なんだこれ」
「魚」
溺れて、沈んで、息もできない。
水中で溺れる魚はきっと、生きることに向いていないのだ。ならば陸上で息が止まりそうになる自分は。
「ふうん」
それで、最後。
それで、おしまい。
「よく分かんなかった」
「そっか。俺も分かんないからいいよ別に」
理解しないでくれ。
ごめん分からないだなんて、そんなことを言うくらいならば黙っておいてくれ。
これ以上、俺を――。
「俺、帰る。それ、返して」
戻ってきたスケッチブックをリュックサックに突っ込んで、立ち上がる。まだ何か言いたそうな彼を教室に置き去りにするように、リュックサックを掴んで肩にかけた。
教室を飛び出す。玄関を抜けて、駅へと向かう。
分からないならそれでいい。それでいいから、何も言わなくていい。分からなかったなんて、そんなこと言われなくても分かってる。
誰に理解を求めるわけじゃない。理解をして欲しいわけじゃない。
ただこの息苦しさが消えて欲しくて、これしか方法がなくて、枯れそうな自分を繋いでいるだけ。
駅のホームに飛び込んで、電車を待つ。目の前を通り過ぎる貨物列車に吸い込まれそうになる足を必死で踏み止まらせて、次にやってきた普通電車に飛び乗った。
がたんごとんと電車は揺れる。
家へ帰ったところで、庭で枯葉と枯れ枝が燃やされていた。ぱちぱちと爆ぜる火を見て、リュックサックを開く。
端の欠けたスケッチブック。ただ俺の息苦しさから逃げる場所。それでも息が苦しくなって、自分の首を絞めたくなって、それでもこうして生きている。
何もかも気持ち悪くて、どうしようもなくて、苦しいだけ。
燃えている火のところへ、スケッチブックを突っ込んだ。
いっそのこともう、すべて、なにもかもすべて、灰になれ。