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作者: 真名鶴
9.最後の晩餐
 プリーツスカートを脱ぎ捨てた。床の上に散らばった制服を踏み付けるようにして、部屋着にしているジャージに手を伸ばす。
 俺は俺でいたいのだ。弱い私ではなくて、いつだって笑っていられる俺でいたいのだ。
 私は、弱いから嫌い。何も言えないから嫌い。電車の中のなまぬるい手も、理解ができないと言われるのにも、笑っているしかできないから大嫌い。
 私を俺で、覆い隠して。ああそれでも、どうしたって息ができない。俺で塗り固めたところで、私は私、弱いまま。
 スケッチブックはなくなった。机の引き出しを開いて、新品を取り出して。真っ白で、白すぎて、吐き気がする。
 白いものなんてすぐに汚れる。真っ白いものは、すぐに黒くなる。
 白い絵の具に黒を一滴。そこにどれだけ白を混ぜていったとしても、もう二度と真っ白には戻らない。重ねて重ねて、その果てに白くなれるのは光だけ。どうしたって色は重ねれば重ねるほどに黒くなって、二度と白くは戻れない。
 反射できる光が減っていく。
 吸収する光ばかりが増えていく。
 そうして何もかも汚れて、汚れて、真っ黒になる。心すらも、何もかも。
 ねえ、息ができないんだよ。でもそんなの、誰にも理解できないのだ。誰からも理解されないのだ。陸地にいるのに溺れそうで、沈みそうで、それでも誰にも気付かれない。
 どこかでひっそりと息を止めてしまう俺に、私に、誰も彼もが気付かない。
 気付かないで。
 どうか、誰も理解しないで。
 どうかそのまま放っておいて。
 真っ白なスケッチブックを汚したくて、ただただ鉛筆で真っ黒に塗りつぶしていく。ただ一番最初のページだけ、それをひたすらに黒く塗る。
 息ができない。息が止まる。ただ黒く黒く塗りつぶされていくように、何かで首を絞められていくように。
 イクチオステガは海中を捨てた。溺れた魚はきっと水中に適応できなかった。
 ねえ、それなら。
 それなら陸上で息もできずに溺れそうになっている人間は。私は。
「白」
 真っ白にはもう戻れない。
 何も知らない存在には最早戻れず、ただひたすらに黒く塗る。生まれ落ちて死へと歩き、けれど誰かが生かそうとする。
 死にたいと願うわけではない。
 けれど、生きていたいとも思えない。
「黒」
 白いものはすぐに汚れて、黒くなる。
 キリストすら、裏切られたではないか。銀貨三十枚で売られたではないか。その後のイスカリオテのユダの苦悩など、知ったことではない。
 最後の晩餐、キリストは裏切者を示唆した。たとえキリストの使徒であったとしても、黒く汚れることは避けられない。どうせ人間、白くはない。ずっと白くあるのならば、それはある種の異常者だろう。
 壁も白い。
 スケッチブックも白い。
 真っ白なものは、どうしようもなく気持ちが悪い。
 どうせこんなものは誰にも理解ができなくて、理解を求めるようなものでもなくて、ただただ一人自分で自分の首を手で絞めながら溺れていく。
 ふと前を向いたその壁が、どうしようもなく嫌だった。手の中の鉛筆を眺めて、けれどもこの鉛筆ではあの壁を黒く塗りつぶすことなんてできはしない。
 白い。
 白い。
 塗りつぶせ。
 真っ白で四角くて息が詰まって、頭の中はぐちゃぐちゃになっていく。頭の中でここから出せと叫んでいる何かがある。
 白いものは、すぐに汚れる。汚すものは、でも、何も。

 ああそうか――これで、いい。
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