残酷な描写あり
第7回 明日に備える 昨日を探る:3-1
セディカが目を覚ましたときには、青年たちは引き上げていた。身支度を整えてから訪ねれば、二人は既に作戦会議を始めていたらしく、大分前から起きていたようだと思う。一晩中起きていたとまでは思わなかった。
「朝ご飯の前に一個いいかな」
立ち上がろうとしたトシュを制して、ジョイドが指を一本立てた。
「ここって〈冥府の女王〉——〈黄泉の君〉の寺院じゃない?」
「ええ」
正確に言うなら、〈黄泉の君〉を主祭神とする寺院、である。
一つの寺院に複数の神々が祀られていることはよくあるが、大抵はその中でもただ一柱が主祭神として扱われ、他は配祀神と呼ばれる一歩下がった立場に甘んじる。主祭神になりやすい神もいれば配祀神になりやすい神もおり、〈慈しみの君〉などは人気が高いものだから、主祭神とされることも多い一方で、他の神の寺院に配祀神として追加されることも多い。
冥府を統べるという〈黄泉の君〉、またの名を〈冥府の女王〉の寺院は、即ち葬送の施設でもあった。逆に言えば、墓地を有して葬儀を執り行う寺院には、主祭神でなく配祀神であったとしても大抵祀られている。〈黄泉の君〉から死者を取り上げられるのはただ独り〈天帝〉のみである——その死者を天上に迎え入れるか、地上において神に任じるという形で。
なお、この寺院の名は〈神宝多き寺〉といって、特に黄泉や葬送を思わせるものではなかった。こういう場合の「神宝」は神の恩恵や教えや、教えを伝える経典、はたまた僧侶を指すのだったはずだ。即物的な宝を所有していると思われて泥棒に入られることが間々あるので、近年では寺院の名には用いられなくなっていると聞いたことがあるけれど。
「それでね、ちょっと君に頼みたいことがあるんだけど。死者の平安を祈って、神琴の演奏を奉納することがあるのは知ってる?」
「〈慰霊の楽〉なら、一応、弾けるわ。譜面は見たいけど」
元より、神琴は本来、そうした用途の楽器であった。山を越える役には立たないけれども、寺院では本領を発揮する。
「長居することになりそうだからさ。ついでにって言ったらあれだけど、身内の供養をお願いしようかと思ってるんだ。よかったら神琴を弾いてくれないかな」
ジョイドの言葉に、セディカよりもトシュの方が目を瞠った。それから参ったなと言わんばかりに頭を掻く。
「身内の供養とか目の前で言われちゃ、俺は別にいいわってスルーするわけにもいかねえんだが」
「俺らは普段、碌に墓参りにも行かないからね。いい機会じゃない」
自動的にと言おうか強制的にと言おうか、トシュも連帯することになったらしい。
人前で弾くのはハードルが高いようなら、勿論無理にとは言わないけど、とジョイドは言い添えた。何が「勿論」なのか、と山中でのことを少々恨めしく思い出しながら、しかし、セディカは戸惑う。
「それは……その……わたしが弾いて、意味があるの? 本人じゃないなら、本職の人に頼むものじゃない?」
本来は奉納する本人、または代表者が弾くものだろう。本職の弾き手に代行を依頼することも珍しくはないが、本人が弾かないという無礼を、本職の高い技術で埋め合わせるという意味があったはずだ。
「それはおまえが本人側に回ればいいだろ。お母様とお祖母様も合同で供養すりゃいい」
暑ければ服を脱げばよいだろうとでもいうような、事もなげな調子でトシュが言った。
セディカはしばし沈黙した。
「……い、幾ら、かかるの?」
寺院を通して奉納する。つまりは寺院で儀式を行ってもらうわけだから、本堂の使用料や、神への仲介料が必要になるのだ。弾き手そのものをセディカが務めたとしても。
もしも寺院がそうした名目で料金を取るのは筋違いだと思うなら、そもそも寺院を巻き込まず、自宅で神への祈りを胸に弾けばよいのである。寺院という神聖な場や、僧侶という修行を積んだ人物や、正式な儀式という形式に、俗世や一般人や気持ち単体とは異なる価値を見出すなら、有償であることに文句をつけるものではない。行き倒れの死者を無償で弔うような慈善とは別の話だ。
だが、あるべき論を振りかざしたところで、今のセディカでは一銭も払いようがない。〈金烏〉の親戚の元に辿り着けたとしても、母や祖母の、それも葬儀ではなく何年も経ってからの供養に、セディカに代わって費用を出してくれるとは限らない。今さらと言えば今さらだけれども——食事を始めとする日常生活を助けてもらうのとは、それこそ、別の話だろう。
「それは俺らが出すよ。神琴の弾き手をやってもらうわけだし」
簡単に言われた。意見を聞かれもしなかったトシュも、眉一つ寄せるでもなく当たり前の顔をしている。
が、セディカは浮かない表情をしていたのだろう。
「じゃあ——十年ぐらい、ううん、十五年かな。それぐらい経ったら、俺らのために〈慈愛神〉への祈祷を頼んでよ。俺らの無事を祈ってさ」
やはりあっさりとした提案に、少女は目を瞬いた。今一人の青年が納得したような苦笑を浮かべる。
「十五年後に、俺らを気にする人間が何人いるかわかんねえもんな。まだどこかに腰を据えてもいねえだろうし」
「俺らが一緒にいるとも限らないしねえ。一人になってるかもしれない。そういうところに、神の加護を祈ってもらえると——多分、すごく助かる」
「……十五年後」
言い換えれば、大人になったら、である。祈祷料を自分で用意できるようになった頃。
それは確かに妥当な交換であるかもしれず、遠い未来に行うことこそが重要なのかもしれなかった。約束を覚えているとも限らないし、約束を果たしても破っても伝わらないだろうけれど。それとも、方士にはわかるものなのだろうか。誰の祈りが、功を奏したか。
「わかったわ。……ありがとう」
「じゃ、それでいいな。それとな、セダ。もう一個」
そういう言い方をしたトシュが悪いと思う。これでは神琴の奉納の話が続いているように聞こえるではないか。
とはいえ、その先を聞けば、違う話であることはすぐにわかった。
「朝ご飯の前に一個いいかな」
立ち上がろうとしたトシュを制して、ジョイドが指を一本立てた。
「ここって〈冥府の女王〉——〈黄泉の君〉の寺院じゃない?」
「ええ」
正確に言うなら、〈黄泉の君〉を主祭神とする寺院、である。
一つの寺院に複数の神々が祀られていることはよくあるが、大抵はその中でもただ一柱が主祭神として扱われ、他は配祀神と呼ばれる一歩下がった立場に甘んじる。主祭神になりやすい神もいれば配祀神になりやすい神もおり、〈慈しみの君〉などは人気が高いものだから、主祭神とされることも多い一方で、他の神の寺院に配祀神として追加されることも多い。
冥府を統べるという〈黄泉の君〉、またの名を〈冥府の女王〉の寺院は、即ち葬送の施設でもあった。逆に言えば、墓地を有して葬儀を執り行う寺院には、主祭神でなく配祀神であったとしても大抵祀られている。〈黄泉の君〉から死者を取り上げられるのはただ独り〈天帝〉のみである——その死者を天上に迎え入れるか、地上において神に任じるという形で。
なお、この寺院の名は〈神宝多き寺〉といって、特に黄泉や葬送を思わせるものではなかった。こういう場合の「神宝」は神の恩恵や教えや、教えを伝える経典、はたまた僧侶を指すのだったはずだ。即物的な宝を所有していると思われて泥棒に入られることが間々あるので、近年では寺院の名には用いられなくなっていると聞いたことがあるけれど。
「それでね、ちょっと君に頼みたいことがあるんだけど。死者の平安を祈って、神琴の演奏を奉納することがあるのは知ってる?」
「〈慰霊の楽〉なら、一応、弾けるわ。譜面は見たいけど」
元より、神琴は本来、そうした用途の楽器であった。山を越える役には立たないけれども、寺院では本領を発揮する。
「長居することになりそうだからさ。ついでにって言ったらあれだけど、身内の供養をお願いしようかと思ってるんだ。よかったら神琴を弾いてくれないかな」
ジョイドの言葉に、セディカよりもトシュの方が目を瞠った。それから参ったなと言わんばかりに頭を掻く。
「身内の供養とか目の前で言われちゃ、俺は別にいいわってスルーするわけにもいかねえんだが」
「俺らは普段、碌に墓参りにも行かないからね。いい機会じゃない」
自動的にと言おうか強制的にと言おうか、トシュも連帯することになったらしい。
人前で弾くのはハードルが高いようなら、勿論無理にとは言わないけど、とジョイドは言い添えた。何が「勿論」なのか、と山中でのことを少々恨めしく思い出しながら、しかし、セディカは戸惑う。
「それは……その……わたしが弾いて、意味があるの? 本人じゃないなら、本職の人に頼むものじゃない?」
本来は奉納する本人、または代表者が弾くものだろう。本職の弾き手に代行を依頼することも珍しくはないが、本人が弾かないという無礼を、本職の高い技術で埋め合わせるという意味があったはずだ。
「それはおまえが本人側に回ればいいだろ。お母様とお祖母様も合同で供養すりゃいい」
暑ければ服を脱げばよいだろうとでもいうような、事もなげな調子でトシュが言った。
セディカはしばし沈黙した。
「……い、幾ら、かかるの?」
寺院を通して奉納する。つまりは寺院で儀式を行ってもらうわけだから、本堂の使用料や、神への仲介料が必要になるのだ。弾き手そのものをセディカが務めたとしても。
もしも寺院がそうした名目で料金を取るのは筋違いだと思うなら、そもそも寺院を巻き込まず、自宅で神への祈りを胸に弾けばよいのである。寺院という神聖な場や、僧侶という修行を積んだ人物や、正式な儀式という形式に、俗世や一般人や気持ち単体とは異なる価値を見出すなら、有償であることに文句をつけるものではない。行き倒れの死者を無償で弔うような慈善とは別の話だ。
だが、あるべき論を振りかざしたところで、今のセディカでは一銭も払いようがない。〈金烏〉の親戚の元に辿り着けたとしても、母や祖母の、それも葬儀ではなく何年も経ってからの供養に、セディカに代わって費用を出してくれるとは限らない。今さらと言えば今さらだけれども——食事を始めとする日常生活を助けてもらうのとは、それこそ、別の話だろう。
「それは俺らが出すよ。神琴の弾き手をやってもらうわけだし」
簡単に言われた。意見を聞かれもしなかったトシュも、眉一つ寄せるでもなく当たり前の顔をしている。
が、セディカは浮かない表情をしていたのだろう。
「じゃあ——十年ぐらい、ううん、十五年かな。それぐらい経ったら、俺らのために〈慈愛神〉への祈祷を頼んでよ。俺らの無事を祈ってさ」
やはりあっさりとした提案に、少女は目を瞬いた。今一人の青年が納得したような苦笑を浮かべる。
「十五年後に、俺らを気にする人間が何人いるかわかんねえもんな。まだどこかに腰を据えてもいねえだろうし」
「俺らが一緒にいるとも限らないしねえ。一人になってるかもしれない。そういうところに、神の加護を祈ってもらえると——多分、すごく助かる」
「……十五年後」
言い換えれば、大人になったら、である。祈祷料を自分で用意できるようになった頃。
それは確かに妥当な交換であるかもしれず、遠い未来に行うことこそが重要なのかもしれなかった。約束を覚えているとも限らないし、約束を果たしても破っても伝わらないだろうけれど。それとも、方士にはわかるものなのだろうか。誰の祈りが、功を奏したか。
「わかったわ。……ありがとう」
「じゃ、それでいいな。それとな、セダ。もう一個」
そういう言い方をしたトシュが悪いと思う。これでは神琴の奉納の話が続いているように聞こえるではないか。
とはいえ、その先を聞けば、違う話であることはすぐにわかった。
「主祭神」「配祀神」は神社の祭神に対して使われる言葉を借用しています。