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作者: 古今いずこ
残酷な描写あり
第13回 敵が笑う 友が呼ぶ:1-1
戦闘シーン(暴力描写)、負傷への言及、流血が含まれます。苦手な方はご注意ください。
 右の手が助けを求めるように空をき、こぶしを握り、ほどけた。

 トシュはしばらくいてから、楽しむように開いてゆがんだ青獅子の口に、目力で押しとどめようとでもするかのようにぎらつく視線を刺した。もし、この牙がのど笛に噛みつこうとしてきたら。

 両腕は左右にまっすぐ伸ばされ、腕に見合うだけ開かされた両足も、同じくぴんと伸ばされて膝を曲げる余地がない。朱塗りの棒は手から離れて、しかし目を向ければ見えそうなところに、転がっていた。獅子が拾い直した宝刀を右小手に突き出してきたとき、とっに六本目の指にでも変えてしまえば、取り落とさずに済んだものを。

 自分で裂いた二の腕からはだらだらと血が流れ続けている。ともかくも狙い通り毒は流れ出たようで、視界がかすむことはなくなったけれども、自然に止まってくれそうにはないし、痛みのせいで集中しづらい。焦って深く切りつけすぎただろうか。

 腕はともかく手は動かせると気がついて、ぐいと左手を曲げて獅子の足首をつかむ。自分の上に倒れ込めとばかり力を入れたものの、獅子は前足をずるりと滑らせてその手をがし、そのまま手首を踏みつけた。

「く、……」

「見苦しいぞ。往生際の悪いやつめ」

 それからもしばらく抵抗の様子を見せていた青年は、しかしついに足掻くのをやめた。

「それで、どうする」

 強気に言った、そこには、だが、自棄やけっぱちな響きもあっただろうか。

「どうせ〈錦鶏〉の王座には戻れねえぞ」

 本物の国王はもう戻ってきて、偽物が偽物であることはもう知らしめられたのだ。今から告発者がどうなったところで、それは取り消せない。

「大体、あの山の近所であんまりふざけた真似をしちゃあ、あの山の虎将軍の気に障るんじゃないかね」

 これは口だけだ。互いに不可侵の約束をしたと聞いたことを忘れてはいない。そうした約束をことさら交わしに行ったのだから、裏を返せば恐れているのではないかと考えたのだ。あの虎を、または熊と野牛も合わせた三人を。

「時間を稼いだところで、仲間の助けは期待できんぞ。運よく生きていたとしてもな」

 獅子は全く動じなかった。

「おまえ自身が手出しを禁じた」

 あたかも初めて気づいたかのように、青年は目を細めた。無論、そうだ。そうでなくとも、事が片づくまでは現れない。〈錦鶏集う国〉を守っているのだから。

「手を出すなと言ったのは決着がつくまでだ。終われば、あいつは気づく。おまえを野放しにはしねえ」

 自分が敗れた後の話を始めたことにか、獅子は満足げであった。

「そうか、そうか。試してみるか」

 トシュが殺された後で、ジョイドがどう出るかを。

 顔色を変えて、また身を揺する。もっとも、先ほどより弱々しかった。敵わないと悟った後の、無駄だと本当はわかっているときのように。

「この、……くっ……」

「一つ、安心させてやろう。あの国からは手を引いても構わん。おまえの望み通りな」

 猫で声がした。

「あの王よりも貴様に化ける方がおもしろそうだ。おまえの仲間は見抜けるかな?」

 かっとトシュは目を見開いた。にたりと、獅子は笑う。

ものだ」

 言うが早いか右の前脚を振り上げ、トシュの左腕の傷を目がけて振り下ろした。頭か喉に来ることを反射的に警戒したトシュは、想定と違った殴打をまともに受けた。

「がっ……!!」

 前脚がえぐるように傷を踏みにじる。これに流石さすがに悶絶した手足が、意図しない強さで勝手に暴れ、——右脚に体重をかけた分だけ、力が緩んだのかもしれない左脚の下から、右手が抜け出した瞬間をトシュは逃さなかった。

 青獅子の目を盗みながらゆっくりと順々に右手で結んできた、〈神前送り〉の印の残り全部を、今だとばかり超高速で終わらせたのである。

 右手の動きに獅子が気づいて、しかし止めるよりも逃げるよりも、トシュの方が早かった。雷が落ちたような激しい光が獅子を包み、雷が逆流するように地から天を突き刺した——のは真下にいるトシュには視認できなかったが、獅子は一瞬にして掻き消えた。天から巨大な手が下りてきて、鷲づかみにして持ち去ったかのように。

 急に開けた視界の彼方、憎らしいほど澄まし返った青く高い空を眺めながら、はあ、と大きく、長く息を吐き出す。勝った。

 はりつけから逃れる手段がなかったわけではない。小人になるための呪文は一言で済むし、狼の姿に戻るのだってやはり一瞬で済む。何なら、その気になれば単純に、力で押し退けられただろうとも思っている。が、獅子の油断を利用しない手もないだろう。こういうときのために時折芝居を打っては自分を慣らしているのだし、勝利を確信させたまま引きつけておく方が、きっとずっと楽だった。とどめを刺そうと牙なり爪なり炎なりを振るわれたら、そうも言ってはいられなかっただろうけれども。

 ……退治するつもり、殺すつもりなら、我が身を燃え立たせて焼き尽くしてやることもできたのだ。向こうも炎の術を使うのだし、水の術を心得ていたかもわからないけれど、一撃、試みる価値はあっただろう。それもこれも〈慈愛天女〉に気を遣ったせいだと、青年は自らの信仰対象を胸の内で罵倒した。声に出さずに罵倒しようが声に出して罵倒しようが、どうせ罰は当たらない。まずは悲しむだけ、酷くてもたしなめるだけ、いよいよとなっても見放すだけだ。慈悲深い、優しい、甘い、あの女神に、——心をつかまれてさえ、いなければ。

 天の神々の中で、唯一〈慈愛天女〉だけが〈世界狼〉をかばった——と、一説に云う。たけだけしく荒々しく大地にあだなす狼に、寛大な心で慈悲を垂れ給うたと。畜生め。

 左腕が意識を縫い留めるように、飛び上がりたくなる痛みを伝え続けている。止血しておくべきだろうなとは思いつつも、どっと疲れが襲ってきて、青年はそのまま横たわっていた。当分、縦になりたくない。
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