R-15
第7話 ペダリングでこんなに変わるの?
「まず、サドルだけフィッティングさせてください」
「お、おう」
ルリがサドルを上げていく。身長差があるせいか、ずいぶん大胆な調整だ。
「アキラ様、身長高いですよね?」
「そうか? まあ、そうかもな……って、そこまでサドル上げんのかよ。さすがに足がつかなくなるぞ」
いくら何でも上げ過ぎだという話。ハンドルの高さを超えて、ルリのみぞおち程まで上がってくる。しかし、
「いいんです。ローラー台に車体が固定されていますので、転ぶことはありません。それにスポーツバイクにとって、この調整は珍しいものではありません。アキラ様もこれからクロスバイクに乗るのなら、慣れてください」
「そうなのか?」
日本の小学校では『サドルに跨った時に、地面に両足が付くように』と指導されている。補助輪が取れたばかりの子供や、不注意による緊急時に対応できるようにだ。
一方、ある程度慣れてきた大人なら、その高さはお勧めしない。踵でペダルを踏んだ時に、脚が伸び切る程度の高さ。あるいはつま先でペダルを踏んだ時に、軽く膝が曲がる程度の高さが適正だ。あくまで街を走るオンロードマシンに限定した話だが。
「これでいかがでしょう?アキラ様」
「ずいぶん高いな」
「大人向けならこのような設定が良いと思います。そのままペダルを下ろしてみてください。あ、丁度ですね」
自分が何もしないで自転車に跨り、ルリがいそいそと周囲の調整を行う。これじゃまるで子供みたいだな、とアキラは思った。
「なんか懐かしいな。自転車の乗り方を教えてもらうなんて、小学校ぶりだ。もう十年くらい前の、交通安全教室で教わったのが最後だな」
「事実、大人になってからの自転車講習を受けることは稀だと思います。だからこそ、小学生スタイルを貫いて乗っている大人が多いのだと思います」
「そっか。ルリから見たら俺は、小学生みたいな乗り方に見えたのか……」
何やら恥ずかしいが、それ以上に楽しい。自分の知らないことを教えてもらって、少し怖いけど頑張ってみて、そして……
「今のアキラ様は、とてもかっこいいですよ」
こうして褒められる。それこそ小学校以来だ。普段の日常にない感覚。新しい世界に踏み込むのが、楽しい。
「でも、これで速く走れるのか?立ち漕ぎの方が速い気がするんだが?」
「確かに、立ち漕ぎは速くて便利です。ですが、それにもコツがいるんですよ。まずは座ったまま、練習していきましょう」
ルリの手が、正面からアキラの腰を掴む。軽く触れるような掴み方だが、アキラとしては凄く気になる。何せ相手が女子だからな。
「腰はこの位置で固定したまま、揺らしたりせずに、ペダルを漕いでください。足首のスナップを意識して、踏むのではなく、回すイメージです。どうぞ」
「こうか……?」
回すイメージ。上から下へとペダルを踏みこみ、そこで足首を伸ばす。そのままペダルを後ろに蹴るように動かし、程よく回ったところで足を上げる。それから足首を曲げて、ペダルに沿わせるように前に押し出す。
「自転車の音を聞いてください。ぎゅん、ぎゅん、ぎゅん、ぎゅん……聞こえますよね?これが、途切れることなく聞こえたら正解です。ぎゅううん……って」
「お前が擬音語を使うと、変な感じだな」
「はい。私も基本的に、クールでミステリアスを売りにしているので、不本意ではあります」
「キャラ作ってんのかよ! つーか自分で自分をクールとか言うな。台無しじゃないか」
「ペダリングを続けてください」
音に集中。アキラはなるべくパワーを均一にするように、意識を持っていく。
「いいですね。まあ、完全に均一にはならないものです。大事なのはそれに近づけること。最初に言った通り、意識の持ちようです」
正解が分かっていれば、それを目指すだけで上達する。つまり、練習すればするほど上手になる。
もちろん独学で上達する場合もあるが、それは稀だ。基礎を知らないまま練習を繰り返しても、間違ったフォームが癖になるだけ。やればやるほど下手になる。素人にはありがちだ。
アキラは今、素人から初心者になった。
ギィィィイイイン!
アキラがさらに速度を上げる。もう腰を離してもよさそうだ。ルリはそっと、手を離した。
そして、変速ギアに指を伸ばす。
「アキラ様。そのままペダリングを続けてください。体力的には辛くない速度を維持して、楽な姿勢で走ってください」
「わ、解った」
そのまま、ルリが変速ギアを上げる。後ろだけで8段もあるギアは、少しずづ重さを上げていく。
(いくら何でも、上達が早い。アキラ様の才能か、それとも大学生ならではの理解力でしょうか……?)
ルリが考える。もっとも自分が初めてロードバイクに乗った時の事を、ルリはあまりよく覚えていない。どこからがロードバイクと呼べるのかも含めて、意外と分からないことだらけだ。
ただ、これだけは言える。
「アキラ様。すでに30km/hオーバー。もうすぐ私との賭けに勝てます」
「マジか?」
喜び勇んだアキラが、ペダルに力を籠める。そのせいで今までのフォームが崩れた。
「ああ、ダメです。腰を意識して、先ほどのペースを取り戻してください。焦れば功を失います」
「おっと、そうだったな」
アキラは原チャリの法定速度を超えた嬉しさから、つい乱暴なペダリングになってしまった。もっと冷静にならないといけない。ルリの言葉を借りるなら、クールなキャラを作る。だろうか。
「そうです。その調子から、立ち漕ぎをしてみてください」
「え?座ってなくていいのか?」
「はい。ただし、腰を意識したまま、ペダルを回す感覚を忘れないでください。空中に見えないサドルがあることをイメージして」
ルリの教え通り、空気椅子による立ち漕ぎをしてみる。サドルが高かったせいか、立ってもあまり姿勢が変わらない。
「腕に力を入れ過ぎです。もっと足に重心を乗せて、それでも腰は動かないように」
「そんな難しい事、いっぺんに出来るかよ」
「では、リラックスしてください。体重を全体に分散して、身体を宙に浮かせるんです。実際に浮くことはありませんが、イメージは出来るでしょう。腕で支えるのではなく、脚で空を飛ぶイメージです」
「空を飛ぶ?」
「はい。アキラ様の足は、地面につきません。そうなるように、私がサドルを上げました。今のアキラ様の脚は、飛ぶための翼。自転車は飛行機。ハンドルは操縦桿」
これが飛行機とはお笑いだ。プロペラも翼も、ジェットエンジンもついていない。それでもルリは、自転車は空を飛ぶという。あくまでイメージだが、
「とあるアニメ映画を思い出してください。目の前にプロペラがあって、ペダルと繋がっている。後ろには飛べなくなった魔女子さんが乗っていて、目の前から大きな車が迫ってくる……そんなイメージ」
懐かしい話だが、今アキラの目の前にあるのはプロペラではなく、むしろ女の子のほうだ。それは後ろに乗ってなきゃいけないんじゃないか?
「頑張ってください。アキラ様」
小さく呟いたルリの声が、チェーンとタイヤの音にかき消されていく。変速ギアが、ガチャリと音を立てて切り替わった。
(おいおい、どうなってんだよ。今日は……)
アキラはペダリングをしながら、思う。
自転車が壊れたと思ったら、バカ高い値段の車体に惚れこんで、気付いたら5万もの金をかけて勝負している。当然、真剣なギャンブルだ。
なのに、その相手から自転車の乗り方を教わって、しかも応援までされている状況。こんな奇妙な事が他にあるかっての。
ああ、これはきっと夢だ。
さっきから、脚に負担がない。まるでペダルが勝手に回っているかのようだ。そういえば、腕にも力が入ってない。例えるなら、何かに寄りかかっているときに似ている。どこに体重がかかっているのか、自分でも分からなくなる。
目の前では、ルリが複雑な表情を浮かべている。少しだけだが、笑ったり、不機嫌になったり、また微笑んだり……
なんだそれ?百面相か?いつものルリらしくないな。まあ、学校でもそんなに仲のいい相手じゃないんだけど、それでもやっぱり、普段のルリらしくない。
やっぱこれ、夢だわ。でも、どこから?
自転車店で寝ているんだとしたら、ルリにも店にも迷惑だろうな。そろそろ起きないとな……
(どうして……こんな数値が……)
ルリは画面に表示される速度を見て、少し驚いていた。思ったよりも速いのだ。
初心者が最初に突き当たるという『30キロの壁』がある。ロードやクロスに乗り始めたばかりの人は、まず時速30キロを出すことが難しく、そこで伸び悩む。
しばらく乗っているうちに自然と突破するので、単なる登竜門。もしくは初心者あるあるとして語られる内容なのだが、アキラはそれを軽く超えてきた。
30km/h丁度なら、まぐれの可能性はある。たとえ40km/hを超えても、屋外なら風のせいだと思うことも出来ただろう。しかし、ここは室内で、使っているのはローラー台。その中で35km/h出されれば、それを偶然とは言い難い。
(私が、負ける?)
正直言えば、今回の対決はハンデ込みで勝算があった。そうでもなければ、自分のバイト代1か月分に相当する掛け金を、特に親しくもないアキラに賭けることはない。
(アイちゃん……リアだけでも11速にしようと思ってたのですが……)
愛車の改造に使う予定で貯めていたお小遣い。それが今、賭けで消える。しかも自転車勝負で、素人に負けてしまう。そんなのは嫌だ。
嫌だ。なのに……
(何故でしょう。アキラ様に頑張ってもらいたい。私は今、負けることを望んでいる……?)
頬が緩む。口元が歪む。今は笑うときじゃないはずなのに。
しばらく笑顔を作らないように、仏頂面を心掛けてきたせいだろうか。どんな時に笑顔になればいいのか、忘れてしまったのだろうか。
違う。きっと――
(ああ、私は、このまま負けたいんだ。アキラ様に、自転車を買ってあげたいんだ――)
自分の中で、答えが出てしまった。
「頑張ってください。アキラ様」
「おう。ま、か、せ、ろぉぉおお!」
一度は減速したアキラが、再びペダルの回転数を上げる。ルリはとっさにギアを2段落とし、アキラの回転をサポートする。
「もう少し、もう少しです。私に勝てます」
ルリが一段ずつ、ギアを上げる操作をする。その手が、ハンドルを持つアキラの手と触れる。
アキラは本能的に、ハンドルとの距離を縮めていた。苦しくなったからではない。車体を安定させるために、前に体重を預けた方が良い事に気づいたからだ。
ギアを操作するルリと、目が合う。いつの間に、こんなに近づいたんだろう。ルリの短い髪が揺れる。アキラの吐息のせいだ。
「――ぶはっ」
それに気づいたアキラは、恥ずかしさから集中力を欠いた。身体にため込んだエネルギー全てを吐き出すように、口から息が飛び出す。
断言しよう。間違っても、ルリに息を吐きかけたかった訳ではない。ましてその顔に唾を飛ばそうとしてやったことではない。不可抗力だ。
「す、すまん。ルリ」
汗を車体に落としながら、アキラが謝罪する。頭は下げようがない。というより、もう下がっている。
ルリはその謝罪には応えず、特に飛ばされた唾にも気を留めず、拭いもせずに言った。
「現在の最高時速、38.9キロ……」
勝敗は、お互いの望む形で着いた。
「それじゃあ、お会計は半額が現金で、あとはカード払いだね」
「はい。お願いします。店長」
ルリが半額を現金で支払い、残った半分はアキラがカードで払う。
「24回で」
「ずいぶん刻むね」
店長が笑う。
「アキラ様。20回なら手数料が抑えられるかと」
「じゃあ20回で」
「まあ、どっちでもいいけどね」
カードを通して、暗証番号を入力。来月からの支払いになるようだ。
「そういえば、ルリが勝ったら何を願うつもりだったんだ?」
アキラはふと、疑問に思ったことを聞いた。ぽんと現金で5万円を賭ける程の願い。それは……
「教えません。負けた側の、せめてもの反抗です」
本当は、大したことを願うつもりはなかった。勝つのが前提だったから、余計にしょうもない願いだ。
(……まさかそれが、『せっかくクロスバイクに興味を持ったなら、諦めないでください』なんて願いだとは、思わないでしょうね)
クロスバイクの値段は、安くても5万前後からが相場だ。もちろん、もっと安く買う手段はなくもないが。
ルリの中では、釣り合った要求だったと言えるだろう。ほぼ押し売りに近い願いなのだから。
ルリは店の裏のスタッフ駐輪場に回り、自分の愛車を取ってくる。まだ少しだけ、アキラに負けたことが納得できない。
(まあ、ハンデが大きかったとはいえ、事実は事実ですね。受け入れましょう)
自分に言い聞かせながら、愛車であるアイローネに跨る。店の前に戻ってくる頃には、アキラも自転車を持って出てきていた。
「よう、ルリ。急に出ていくからビックリしたぜ」
「ああ、すみません。それにしても……ずいぶん早かったのですね」
ルリは驚いた。普通、初めてクロスバイクを購入する客に対しては、いろんな説明が必要になる。それだけでも10分や20分はかかるものと思っていたので、ものの5分足らずで出てくるのは想定外だった。
「いや、それがさ。店長が『細かい使い方はルリちゃんに聞いてね』とか言うもんだからさ」
「え?それでは、何の説明も受けていないんですか?変速ギアの操作も?クイックリリースの使い方も?防犯登録も?」
「いや、防犯登録だけはしてもらった。ほら、控え」
その書類だけでも、店側が書く欄は多いはずだ。車体のシリアルナンバー、色、その他もろもろ……
(さては、あの店長。私が負けると思って事前に書いていましたね……)
ローラー台に細工はされていなかったはず。だとしたら店長は、ルリが実力で負けると予想していた事になる。侮れない人だと思っていたけど、ここまでとは……
「で、この自転車の使い方、特殊なんだろう?教えてくれよ」
アキラが言うので、ルリはため息を吐いてみせた。
「私は既にバイトの時間を終えています。今は勤務時間外なのですがね」
わざとらしく、不機嫌そうな声を出す。表情は崩さないまま、何の感情もない冷たい視線を演じる。
「そっか……じゃあ、また今度来るよ。今日はゴメンな」
アキラががっかりした様子で、そのまま帰ろうとする。もちろん、買ったばかりのローマを引きずりながら、だ。
「お待ちください。別に、教えないとは言ってませんよ」
ルリが言うと、アキラは振り返った。その嬉しそうな表情を見るだけで、何故かルリは満足する。
「それでは、自転車の乗り方を説明しましょう。
難しいことなどありません。自転車というのは、ペダルを漕げば前に進む。それだけです。簡単でしょう?
細かいテクニックは、乗りながら鍛えてください。私が教えるのは、あくまで基礎だけ。言葉で説明できる範囲に、自転車の魅力などありません。
さあ、まずは先ほど教えた方法で、自転車に跨ってください。普段より少し高い視点から見下ろす景色が、あなたに与えられる最初の楽しみ方です」
「お、おう」
ルリがサドルを上げていく。身長差があるせいか、ずいぶん大胆な調整だ。
「アキラ様、身長高いですよね?」
「そうか? まあ、そうかもな……って、そこまでサドル上げんのかよ。さすがに足がつかなくなるぞ」
いくら何でも上げ過ぎだという話。ハンドルの高さを超えて、ルリのみぞおち程まで上がってくる。しかし、
「いいんです。ローラー台に車体が固定されていますので、転ぶことはありません。それにスポーツバイクにとって、この調整は珍しいものではありません。アキラ様もこれからクロスバイクに乗るのなら、慣れてください」
「そうなのか?」
日本の小学校では『サドルに跨った時に、地面に両足が付くように』と指導されている。補助輪が取れたばかりの子供や、不注意による緊急時に対応できるようにだ。
一方、ある程度慣れてきた大人なら、その高さはお勧めしない。踵でペダルを踏んだ時に、脚が伸び切る程度の高さ。あるいはつま先でペダルを踏んだ時に、軽く膝が曲がる程度の高さが適正だ。あくまで街を走るオンロードマシンに限定した話だが。
「これでいかがでしょう?アキラ様」
「ずいぶん高いな」
「大人向けならこのような設定が良いと思います。そのままペダルを下ろしてみてください。あ、丁度ですね」
自分が何もしないで自転車に跨り、ルリがいそいそと周囲の調整を行う。これじゃまるで子供みたいだな、とアキラは思った。
「なんか懐かしいな。自転車の乗り方を教えてもらうなんて、小学校ぶりだ。もう十年くらい前の、交通安全教室で教わったのが最後だな」
「事実、大人になってからの自転車講習を受けることは稀だと思います。だからこそ、小学生スタイルを貫いて乗っている大人が多いのだと思います」
「そっか。ルリから見たら俺は、小学生みたいな乗り方に見えたのか……」
何やら恥ずかしいが、それ以上に楽しい。自分の知らないことを教えてもらって、少し怖いけど頑張ってみて、そして……
「今のアキラ様は、とてもかっこいいですよ」
こうして褒められる。それこそ小学校以来だ。普段の日常にない感覚。新しい世界に踏み込むのが、楽しい。
「でも、これで速く走れるのか?立ち漕ぎの方が速い気がするんだが?」
「確かに、立ち漕ぎは速くて便利です。ですが、それにもコツがいるんですよ。まずは座ったまま、練習していきましょう」
ルリの手が、正面からアキラの腰を掴む。軽く触れるような掴み方だが、アキラとしては凄く気になる。何せ相手が女子だからな。
「腰はこの位置で固定したまま、揺らしたりせずに、ペダルを漕いでください。足首のスナップを意識して、踏むのではなく、回すイメージです。どうぞ」
「こうか……?」
回すイメージ。上から下へとペダルを踏みこみ、そこで足首を伸ばす。そのままペダルを後ろに蹴るように動かし、程よく回ったところで足を上げる。それから足首を曲げて、ペダルに沿わせるように前に押し出す。
「自転車の音を聞いてください。ぎゅん、ぎゅん、ぎゅん、ぎゅん……聞こえますよね?これが、途切れることなく聞こえたら正解です。ぎゅううん……って」
「お前が擬音語を使うと、変な感じだな」
「はい。私も基本的に、クールでミステリアスを売りにしているので、不本意ではあります」
「キャラ作ってんのかよ! つーか自分で自分をクールとか言うな。台無しじゃないか」
「ペダリングを続けてください」
音に集中。アキラはなるべくパワーを均一にするように、意識を持っていく。
「いいですね。まあ、完全に均一にはならないものです。大事なのはそれに近づけること。最初に言った通り、意識の持ちようです」
正解が分かっていれば、それを目指すだけで上達する。つまり、練習すればするほど上手になる。
もちろん独学で上達する場合もあるが、それは稀だ。基礎を知らないまま練習を繰り返しても、間違ったフォームが癖になるだけ。やればやるほど下手になる。素人にはありがちだ。
アキラは今、素人から初心者になった。
ギィィィイイイン!
アキラがさらに速度を上げる。もう腰を離してもよさそうだ。ルリはそっと、手を離した。
そして、変速ギアに指を伸ばす。
「アキラ様。そのままペダリングを続けてください。体力的には辛くない速度を維持して、楽な姿勢で走ってください」
「わ、解った」
そのまま、ルリが変速ギアを上げる。後ろだけで8段もあるギアは、少しずづ重さを上げていく。
(いくら何でも、上達が早い。アキラ様の才能か、それとも大学生ならではの理解力でしょうか……?)
ルリが考える。もっとも自分が初めてロードバイクに乗った時の事を、ルリはあまりよく覚えていない。どこからがロードバイクと呼べるのかも含めて、意外と分からないことだらけだ。
ただ、これだけは言える。
「アキラ様。すでに30km/hオーバー。もうすぐ私との賭けに勝てます」
「マジか?」
喜び勇んだアキラが、ペダルに力を籠める。そのせいで今までのフォームが崩れた。
「ああ、ダメです。腰を意識して、先ほどのペースを取り戻してください。焦れば功を失います」
「おっと、そうだったな」
アキラは原チャリの法定速度を超えた嬉しさから、つい乱暴なペダリングになってしまった。もっと冷静にならないといけない。ルリの言葉を借りるなら、クールなキャラを作る。だろうか。
「そうです。その調子から、立ち漕ぎをしてみてください」
「え?座ってなくていいのか?」
「はい。ただし、腰を意識したまま、ペダルを回す感覚を忘れないでください。空中に見えないサドルがあることをイメージして」
ルリの教え通り、空気椅子による立ち漕ぎをしてみる。サドルが高かったせいか、立ってもあまり姿勢が変わらない。
「腕に力を入れ過ぎです。もっと足に重心を乗せて、それでも腰は動かないように」
「そんな難しい事、いっぺんに出来るかよ」
「では、リラックスしてください。体重を全体に分散して、身体を宙に浮かせるんです。実際に浮くことはありませんが、イメージは出来るでしょう。腕で支えるのではなく、脚で空を飛ぶイメージです」
「空を飛ぶ?」
「はい。アキラ様の足は、地面につきません。そうなるように、私がサドルを上げました。今のアキラ様の脚は、飛ぶための翼。自転車は飛行機。ハンドルは操縦桿」
これが飛行機とはお笑いだ。プロペラも翼も、ジェットエンジンもついていない。それでもルリは、自転車は空を飛ぶという。あくまでイメージだが、
「とあるアニメ映画を思い出してください。目の前にプロペラがあって、ペダルと繋がっている。後ろには飛べなくなった魔女子さんが乗っていて、目の前から大きな車が迫ってくる……そんなイメージ」
懐かしい話だが、今アキラの目の前にあるのはプロペラではなく、むしろ女の子のほうだ。それは後ろに乗ってなきゃいけないんじゃないか?
「頑張ってください。アキラ様」
小さく呟いたルリの声が、チェーンとタイヤの音にかき消されていく。変速ギアが、ガチャリと音を立てて切り替わった。
(おいおい、どうなってんだよ。今日は……)
アキラはペダリングをしながら、思う。
自転車が壊れたと思ったら、バカ高い値段の車体に惚れこんで、気付いたら5万もの金をかけて勝負している。当然、真剣なギャンブルだ。
なのに、その相手から自転車の乗り方を教わって、しかも応援までされている状況。こんな奇妙な事が他にあるかっての。
ああ、これはきっと夢だ。
さっきから、脚に負担がない。まるでペダルが勝手に回っているかのようだ。そういえば、腕にも力が入ってない。例えるなら、何かに寄りかかっているときに似ている。どこに体重がかかっているのか、自分でも分からなくなる。
目の前では、ルリが複雑な表情を浮かべている。少しだけだが、笑ったり、不機嫌になったり、また微笑んだり……
なんだそれ?百面相か?いつものルリらしくないな。まあ、学校でもそんなに仲のいい相手じゃないんだけど、それでもやっぱり、普段のルリらしくない。
やっぱこれ、夢だわ。でも、どこから?
自転車店で寝ているんだとしたら、ルリにも店にも迷惑だろうな。そろそろ起きないとな……
(どうして……こんな数値が……)
ルリは画面に表示される速度を見て、少し驚いていた。思ったよりも速いのだ。
初心者が最初に突き当たるという『30キロの壁』がある。ロードやクロスに乗り始めたばかりの人は、まず時速30キロを出すことが難しく、そこで伸び悩む。
しばらく乗っているうちに自然と突破するので、単なる登竜門。もしくは初心者あるあるとして語られる内容なのだが、アキラはそれを軽く超えてきた。
30km/h丁度なら、まぐれの可能性はある。たとえ40km/hを超えても、屋外なら風のせいだと思うことも出来ただろう。しかし、ここは室内で、使っているのはローラー台。その中で35km/h出されれば、それを偶然とは言い難い。
(私が、負ける?)
正直言えば、今回の対決はハンデ込みで勝算があった。そうでもなければ、自分のバイト代1か月分に相当する掛け金を、特に親しくもないアキラに賭けることはない。
(アイちゃん……リアだけでも11速にしようと思ってたのですが……)
愛車の改造に使う予定で貯めていたお小遣い。それが今、賭けで消える。しかも自転車勝負で、素人に負けてしまう。そんなのは嫌だ。
嫌だ。なのに……
(何故でしょう。アキラ様に頑張ってもらいたい。私は今、負けることを望んでいる……?)
頬が緩む。口元が歪む。今は笑うときじゃないはずなのに。
しばらく笑顔を作らないように、仏頂面を心掛けてきたせいだろうか。どんな時に笑顔になればいいのか、忘れてしまったのだろうか。
違う。きっと――
(ああ、私は、このまま負けたいんだ。アキラ様に、自転車を買ってあげたいんだ――)
自分の中で、答えが出てしまった。
「頑張ってください。アキラ様」
「おう。ま、か、せ、ろぉぉおお!」
一度は減速したアキラが、再びペダルの回転数を上げる。ルリはとっさにギアを2段落とし、アキラの回転をサポートする。
「もう少し、もう少しです。私に勝てます」
ルリが一段ずつ、ギアを上げる操作をする。その手が、ハンドルを持つアキラの手と触れる。
アキラは本能的に、ハンドルとの距離を縮めていた。苦しくなったからではない。車体を安定させるために、前に体重を預けた方が良い事に気づいたからだ。
ギアを操作するルリと、目が合う。いつの間に、こんなに近づいたんだろう。ルリの短い髪が揺れる。アキラの吐息のせいだ。
「――ぶはっ」
それに気づいたアキラは、恥ずかしさから集中力を欠いた。身体にため込んだエネルギー全てを吐き出すように、口から息が飛び出す。
断言しよう。間違っても、ルリに息を吐きかけたかった訳ではない。ましてその顔に唾を飛ばそうとしてやったことではない。不可抗力だ。
「す、すまん。ルリ」
汗を車体に落としながら、アキラが謝罪する。頭は下げようがない。というより、もう下がっている。
ルリはその謝罪には応えず、特に飛ばされた唾にも気を留めず、拭いもせずに言った。
「現在の最高時速、38.9キロ……」
勝敗は、お互いの望む形で着いた。
「それじゃあ、お会計は半額が現金で、あとはカード払いだね」
「はい。お願いします。店長」
ルリが半額を現金で支払い、残った半分はアキラがカードで払う。
「24回で」
「ずいぶん刻むね」
店長が笑う。
「アキラ様。20回なら手数料が抑えられるかと」
「じゃあ20回で」
「まあ、どっちでもいいけどね」
カードを通して、暗証番号を入力。来月からの支払いになるようだ。
「そういえば、ルリが勝ったら何を願うつもりだったんだ?」
アキラはふと、疑問に思ったことを聞いた。ぽんと現金で5万円を賭ける程の願い。それは……
「教えません。負けた側の、せめてもの反抗です」
本当は、大したことを願うつもりはなかった。勝つのが前提だったから、余計にしょうもない願いだ。
(……まさかそれが、『せっかくクロスバイクに興味を持ったなら、諦めないでください』なんて願いだとは、思わないでしょうね)
クロスバイクの値段は、安くても5万前後からが相場だ。もちろん、もっと安く買う手段はなくもないが。
ルリの中では、釣り合った要求だったと言えるだろう。ほぼ押し売りに近い願いなのだから。
ルリは店の裏のスタッフ駐輪場に回り、自分の愛車を取ってくる。まだ少しだけ、アキラに負けたことが納得できない。
(まあ、ハンデが大きかったとはいえ、事実は事実ですね。受け入れましょう)
自分に言い聞かせながら、愛車であるアイローネに跨る。店の前に戻ってくる頃には、アキラも自転車を持って出てきていた。
「よう、ルリ。急に出ていくからビックリしたぜ」
「ああ、すみません。それにしても……ずいぶん早かったのですね」
ルリは驚いた。普通、初めてクロスバイクを購入する客に対しては、いろんな説明が必要になる。それだけでも10分や20分はかかるものと思っていたので、ものの5分足らずで出てくるのは想定外だった。
「いや、それがさ。店長が『細かい使い方はルリちゃんに聞いてね』とか言うもんだからさ」
「え?それでは、何の説明も受けていないんですか?変速ギアの操作も?クイックリリースの使い方も?防犯登録も?」
「いや、防犯登録だけはしてもらった。ほら、控え」
その書類だけでも、店側が書く欄は多いはずだ。車体のシリアルナンバー、色、その他もろもろ……
(さては、あの店長。私が負けると思って事前に書いていましたね……)
ローラー台に細工はされていなかったはず。だとしたら店長は、ルリが実力で負けると予想していた事になる。侮れない人だと思っていたけど、ここまでとは……
「で、この自転車の使い方、特殊なんだろう?教えてくれよ」
アキラが言うので、ルリはため息を吐いてみせた。
「私は既にバイトの時間を終えています。今は勤務時間外なのですがね」
わざとらしく、不機嫌そうな声を出す。表情は崩さないまま、何の感情もない冷たい視線を演じる。
「そっか……じゃあ、また今度来るよ。今日はゴメンな」
アキラががっかりした様子で、そのまま帰ろうとする。もちろん、買ったばかりのローマを引きずりながら、だ。
「お待ちください。別に、教えないとは言ってませんよ」
ルリが言うと、アキラは振り返った。その嬉しそうな表情を見るだけで、何故かルリは満足する。
「それでは、自転車の乗り方を説明しましょう。
難しいことなどありません。自転車というのは、ペダルを漕げば前に進む。それだけです。簡単でしょう?
細かいテクニックは、乗りながら鍛えてください。私が教えるのは、あくまで基礎だけ。言葉で説明できる範囲に、自転車の魅力などありません。
さあ、まずは先ほど教えた方法で、自転車に跨ってください。普段より少し高い視点から見下ろす景色が、あなたに与えられる最初の楽しみ方です」