残酷な描写あり
R-15
アウェイクニング・フロム・ディスイリュージョニング・ナイトメア その1
毎日執筆チャレンジ、開始──
空と海の青さは違う。しかし、水平線の向こうではその違いが曖昧になって、一つに溶けている。本当はどうしようもなくずれているはずなのに、その「ずれ」を目にすることはできない。少年・ルシウスは同年代の男女数名とともに、大海原を望む崖の上に立っていた。そう、ぼくはずれている。ルシウスは思う。幼年の頃から一人の男が死ぬ瞬間の夢を何回も見せられて、ずれないわけがない。周りの少年たちが海ならば、ぼくは空……あるいはその逆か。しかし、今この瞬間においてはどうでもいい。ルシウスは麻のシャツとズボンを脱いだ。布を腰と局部に巻いただけの簡素な下着姿の少年が、暴力的なまでの陽光のもとに晒される。彼のひときわ白い肌はよく日光を反射して、まるで自ずから輝いているようですらあった。ルシウスはチラリと周囲の人間を見る。皆が日に焼けた浅黒い肌をしていて、中には鮫めいた尾を持つ少女や、犬めいた姿を持つ少年もいた。
大陸北西の端に位置するこのアンヘレス荘において、十三歳になる少年少女は崖から海に飛び込むのだ。傍から見れば自殺まがいの行為ではあるが、彼らの間では一つの儀式として連綿と受け継がれている。ほんの少しの勇気を示すことで、彼らは大人への第一歩を示すのだ。アンヘレス荘も大陸の人口分布の例に漏れず、「普通の人類種」が五割、「何らかの特徴を持つ人類種」が四割、その他長命種や死霊等が一割といった具合である。特産は柑橘類やぶどうをはじめとした果物や米と麦に、それらを原料とした酒である。近くの山脈から流れ出る水のおかげで、農業がかなり盛んなのだ。
気がつけば、鮫めいた尾を持つ少女がきれいな姿でまっすぐ宙へと躍り出て、頭から海へと落ちていく。なるほど、そうやって飛び込めばこの高さからでも痛くないのか。ルシウスは納得した。
「ヒュウ! さすがは鮫肌のティブローナだぜ」「ルシウスも男見せろよ!」「頑張って、兄さん!」少年少女の野次を背中に受けながら、ルシウスは崖際まで進む。ビュウと風が吹いて、彼のブラウンの癖っ毛を巻き上げた。この崖の高さはざっとルシウスの身の丈の五倍といったところだろうか。恐れがないわけではないが、この程度の恐怖は夢の中で何回も感じている。海に飛び込む瞬間はおそらく痛いであろうが、己の腹を掻っ捌いて内臓を引きちぎる痛みに比べたらマシだろう。ルシウスは下着に隠されていない部分の尻を叩いて気合を入れる。彼は鮫の少女──ティブローナのマネをして、体を一直線に伸ばす。心を決めた彼は、崖際を蹴った。
「行ったぞ!」「続けー!」「キャー!」などの悲鳴混じりの声が間延びして聞こえる。この瞬間だけは「ずれ」を気にしないで済む。危険なことをやっているという自覚から、頭の中がパチパチ弾けて、それどころではなくなるのだ。風を指先と頭で受け、暫く目を閉じていると、全身が冷たいもので包まれる。音がなくなって、肌の向こうから水が圧してくるのを感じる。ルシウスは目を開けないまま、水の中で丸くなって、流されるままでいた。僅かな波の音が脳裏をくすぐるなか、海という絶対的な力がこの身に語りかけてくる。
不意に、肩に手が置かれる。目を開けてそちらを見ると、ティブローナがそこにはいた。海の中でも平気そうな彼女は、実際のところ鰓呼吸と肺呼吸を使い分けているそうだ。その証拠に、彼女のあばら骨あたりにあるスリットが閉じたり開いたりしていて、中から赤いものがちらちら見えている。ティブローナが背中を向けると、ルシウスは彼女の尾の付け根のあたりに手を置いた。彼女の肌は鮫肌なので、軽く触れておくだけで手に吸い付いてくれるのだ。後ろの方で続々と水に人が落ちる音が聞こえるが、二人はそれを気にしない。
そのままティブローナは鮫の尾を動かして、海の中を進んでゆく。ぼやけた視界の中、色とりどりの魚に混じって二人の人類種が泳ぐ。実態はティブローナにルシウスが引っ張って貰っているという形になるが、いまの二人にとってそういった細かいことはどうでもよかった。数十秒、一分、二分。小魚の群れに突入したりして遊んでいると、さすがに息が苦しくなってくる。ルシウスは開いている方の手でティブローナの尻尾を少し引っ張った。後ろを向いた彼女に対し、ルシウスはまず首元に手を当てて、それから上を指さす。彼の意志を汲み取ったティブローナは、一息に水面へと向かって飛び出す。
軽く海面を跳ねたあと、ルシウスはティブローナの方へと向き直った。口に小魚を咥えていた彼女は、それをバリボリと噛み砕き、飲み込む。
「それ、ぼくにも貰える?」
「ん、いいよ」
「ありがとう、ティブローナ!」
笑顔で感謝することも忘れない。そうやって差し出された小魚の背びれを千切り、背中に噛みつく。小骨を避けて味わうその身は淡白ながらも滋味に溢れている。ルシウスは生の魚を食って虫に当たったこともあるが、最近はよく噛めば問題ないと学んだ。頭と内臓を残して食べ終わると、ルシウスはかつて魚だったものを海中に放った。ただの人間の身で食べきれない部分は、自然に任せて分解してもらえばいい。結局、人も自然の円環の中で生きているにすぎないのだ。
ふと、波音に混じって、何かが軋むような音が耳に届いた。水に浮きながらあたりを見回すと、水平線のあたりに黒く平らな影がある。おそらくは船だろう。それも、難破船だ。この場所はそれなりに海岸に近いとはいえ、離岸流などで流されたら大変だ。
「ヤバいだろ、あれ……! ティブローナ、みんなを呼んできてくれないか。ぼくはあの船を軽く調べてみる」
「一緒に行かせてほしい。一人じゃ危ない」
「それもそうだな。じゃあ、ひとまずは行ってみるぞ」
二人は海に潜り、ルシウスはティブローナの尾の付け根に手を添える。水圧の暴威に負けぬよう、体を一直線に保ちながら、二人は水平線へと泳ぎ出していった。
◆◆◆
当時、ルシウスの育った地であるアンヘレス荘(現・アンゲルス市)を含む大陸西部は、数多くの軍閥による統治が行われていた。荘はそれら軍閥が派遣している代官によって統治されていたが、ときに利害の対立する複数の軍閥が一つの荘に代官を送ることで、荘を舞台にした代理戦争が行われる場合もあった。
『後帝国史記 第二巻(1976年出版)』より抜粋
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大陸北西の端に位置するこのアンヘレス荘において、十三歳になる少年少女は崖から海に飛び込むのだ。傍から見れば自殺まがいの行為ではあるが、彼らの間では一つの儀式として連綿と受け継がれている。ほんの少しの勇気を示すことで、彼らは大人への第一歩を示すのだ。アンヘレス荘も大陸の人口分布の例に漏れず、「普通の人類種」が五割、「何らかの特徴を持つ人類種」が四割、その他長命種や死霊等が一割といった具合である。特産は柑橘類やぶどうをはじめとした果物や米と麦に、それらを原料とした酒である。近くの山脈から流れ出る水のおかげで、農業がかなり盛んなのだ。
気がつけば、鮫めいた尾を持つ少女がきれいな姿でまっすぐ宙へと躍り出て、頭から海へと落ちていく。なるほど、そうやって飛び込めばこの高さからでも痛くないのか。ルシウスは納得した。
「ヒュウ! さすがは鮫肌のティブローナだぜ」「ルシウスも男見せろよ!」「頑張って、兄さん!」少年少女の野次を背中に受けながら、ルシウスは崖際まで進む。ビュウと風が吹いて、彼のブラウンの癖っ毛を巻き上げた。この崖の高さはざっとルシウスの身の丈の五倍といったところだろうか。恐れがないわけではないが、この程度の恐怖は夢の中で何回も感じている。海に飛び込む瞬間はおそらく痛いであろうが、己の腹を掻っ捌いて内臓を引きちぎる痛みに比べたらマシだろう。ルシウスは下着に隠されていない部分の尻を叩いて気合を入れる。彼は鮫の少女──ティブローナのマネをして、体を一直線に伸ばす。心を決めた彼は、崖際を蹴った。
「行ったぞ!」「続けー!」「キャー!」などの悲鳴混じりの声が間延びして聞こえる。この瞬間だけは「ずれ」を気にしないで済む。危険なことをやっているという自覚から、頭の中がパチパチ弾けて、それどころではなくなるのだ。風を指先と頭で受け、暫く目を閉じていると、全身が冷たいもので包まれる。音がなくなって、肌の向こうから水が圧してくるのを感じる。ルシウスは目を開けないまま、水の中で丸くなって、流されるままでいた。僅かな波の音が脳裏をくすぐるなか、海という絶対的な力がこの身に語りかけてくる。
不意に、肩に手が置かれる。目を開けてそちらを見ると、ティブローナがそこにはいた。海の中でも平気そうな彼女は、実際のところ鰓呼吸と肺呼吸を使い分けているそうだ。その証拠に、彼女のあばら骨あたりにあるスリットが閉じたり開いたりしていて、中から赤いものがちらちら見えている。ティブローナが背中を向けると、ルシウスは彼女の尾の付け根のあたりに手を置いた。彼女の肌は鮫肌なので、軽く触れておくだけで手に吸い付いてくれるのだ。後ろの方で続々と水に人が落ちる音が聞こえるが、二人はそれを気にしない。
そのままティブローナは鮫の尾を動かして、海の中を進んでゆく。ぼやけた視界の中、色とりどりの魚に混じって二人の人類種が泳ぐ。実態はティブローナにルシウスが引っ張って貰っているという形になるが、いまの二人にとってそういった細かいことはどうでもよかった。数十秒、一分、二分。小魚の群れに突入したりして遊んでいると、さすがに息が苦しくなってくる。ルシウスは開いている方の手でティブローナの尻尾を少し引っ張った。後ろを向いた彼女に対し、ルシウスはまず首元に手を当てて、それから上を指さす。彼の意志を汲み取ったティブローナは、一息に水面へと向かって飛び出す。
軽く海面を跳ねたあと、ルシウスはティブローナの方へと向き直った。口に小魚を咥えていた彼女は、それをバリボリと噛み砕き、飲み込む。
「それ、ぼくにも貰える?」
「ん、いいよ」
「ありがとう、ティブローナ!」
笑顔で感謝することも忘れない。そうやって差し出された小魚の背びれを千切り、背中に噛みつく。小骨を避けて味わうその身は淡白ながらも滋味に溢れている。ルシウスは生の魚を食って虫に当たったこともあるが、最近はよく噛めば問題ないと学んだ。頭と内臓を残して食べ終わると、ルシウスはかつて魚だったものを海中に放った。ただの人間の身で食べきれない部分は、自然に任せて分解してもらえばいい。結局、人も自然の円環の中で生きているにすぎないのだ。
ふと、波音に混じって、何かが軋むような音が耳に届いた。水に浮きながらあたりを見回すと、水平線のあたりに黒く平らな影がある。おそらくは船だろう。それも、難破船だ。この場所はそれなりに海岸に近いとはいえ、離岸流などで流されたら大変だ。
「ヤバいだろ、あれ……! ティブローナ、みんなを呼んできてくれないか。ぼくはあの船を軽く調べてみる」
「一緒に行かせてほしい。一人じゃ危ない」
「それもそうだな。じゃあ、ひとまずは行ってみるぞ」
二人は海に潜り、ルシウスはティブローナの尾の付け根に手を添える。水圧の暴威に負けぬよう、体を一直線に保ちながら、二人は水平線へと泳ぎ出していった。
◆◆◆
当時、ルシウスの育った地であるアンヘレス荘(現・アンゲルス市)を含む大陸西部は、数多くの軍閥による統治が行われていた。荘はそれら軍閥が派遣している代官によって統治されていたが、ときに利害の対立する複数の軍閥が一つの荘に代官を送ることで、荘を舞台にした代理戦争が行われる場合もあった。
『後帝国史記 第二巻(1976年出版)』より抜粋
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