(完)【エピローグ】(5)
存在を確認した僕は目を見開き、窓をどうにかする余裕もなく、そのままの勢いで玄関から外へ飛び出した。ぐるりと庭へと回り込む。
僕を確認した彼女は、片側のみ口角をあげた。その表情は初めて見たその外見と実に合っていた。
それだけで分かった。
姿形は違うのに、暗がりでもはっきりと見えるその表情はあの時と変わらない。
僕の人生で一番可愛くて魅力的だと感じた女性が、そこにいた。
僕は彼女に駆け寄った。
走って出た結果、少しだけ息が荒くなった僕に対し、彼女はやれやれと肩をすくめ、軽い調子で話し始めた。
「夜に窓から連れ出して助け出すというのを一度やってみたかったんだけど、現実ではなかなか無理なようだね。防犯上そんなに飛び出しやすい窓でもないし、当たり前か」
「いや、意味分からないから。ここ実家だから、別に捕らえられていないから。そもそも、いい大人がやることじゃないから!」
再会しての記念すべき会話。
もっと格好良いことを言いたかった。言いたいことはこんなことじゃない。
何が本心なのか分からない。ふわふわした高めの声の割に、淡々とした喋り口で話を混ぜっ返す。
彼女は軽くため息をついた。
「この前トリオさんに説教されたんだよね」
「はぁ? トリオ?」
「あの人、ギャーギャーうるさいんだよ。ユウが囚われの身だ。責任取ってワレがどうにかしてこいって」
「はあ?」
あの元バカ鳥、何言ってるんだよ。
状況が理解できなくて、同じ相槌しか繰り返せない。構わずに彼女は続ける。
「まあ、でもさ、囚われなんて聞いた日には、やっぱりこうド定番の救出方法ってやつをやってみようかなと思って来てみたよ」
言いながら、彼女は何かを持つ真似をして、右手首をくいっと曲げた。
「ほら、囚われのお姫様助け出すときこうでしょ?」
「あのさ、それ、絶対意味分かって言ってるよね?」
彼女は何も答えない。
囚われの僕は息を一つ吐き、気付く。
「……っていうか、この前トリオが?」
僕よりも前にトリオは彼女に会っている?
その疑問に彼女はすぐに答えてくれた。
「最初は一ヶ月位前かな? やっと終わったから来れたと連絡したら、早速マチルダとお子さん二人の計四人で会いに来たよ。お子さん二人とも親に似て可愛いし、あの夫婦も結婚十年目に入るのかな? 二人共元々冒険者ってガラではないから落ち着いて良かったね」
「一ヶ月位前……?」
「ああ、説教されたのはおととい 。トリオさんは研修で来たらしいよ。久々に一緒に飲んだけどさ、あの人、おっさんになっても顔は相変わらずいいけど、面倒臭さは悪化したね」
姿は変われど、そこは変わらないピンク色の頬で、にこにこと彼女は言った。
変わらぬ笑顔に胸は変わらなかったけど、その話の内容にはっと思い出す。
僕が転職した直後、マチルダさんは休む予定があると仕事を詰め込んで、トリオは色あせていたはず。
当たり前だけど、今は肩にとまっている訳では無い人間のトリオが普段どこに行ってるかなんて知らない。でも、一昨日研究室に行ったときマチルダさんは「と、トリオがいないから、わたし担当なの!」とやたら主張してきた記憶はある。
いや、そんなことよりも、聞きたいことしかない!
「どこに、どこに住んでいるの? 何で僕だけ知らないんだよ!」
「今はとりあえずワシスにいるよ」
「ワシス? ……あの一家、行ってたな」
僕が勤め始めて数日後、居間にワシスで最近はやっているお菓子の詰め合わせが置いてあった。母がマチルダさんからお土産に貰ったと言っていた。
あれ美味しかったな!
「人が多くて紛れやすいし。アルバートのお孫さんの一人が住んでるから、アルバート経由で頼った」
何番目の孫が少し前にワシスで働くようになったから、飛んでワシスに行こうと思うと、アルバートさんからの手紙に書いてあったような気はする。その時アルバートさんには会ったけど、その孫とは顔を合わせていないから、それ以上のことは覚えてない。
で、そうじゃなくて。
「どんな関係だよ! こっちを頼れよ!」
「どんなって、だから、アルバート経由の関係だよ! アルバートは探さなくても出口のすぐ側にいるんだよ。そっちまず頼るでしょ」
「でもさ!」
「ユウは転職直後で落ち着いていないんじゃないかい? 人の面倒みる余裕あるの?」
抗議する僕に、言い返すアリア。
違う。言いたいことはそういうことじゃない。
「落ち着いてないとか、そんなのどうでもいいよ! 一ヶ月前に連絡してくれたっていいじゃないか!」
そこまでは勢いのまま言った僕は、大きく息を吸い、言った。
「僕はずっと君に会いたかったんだ」
好きな子の心を惹きつけるような格好良いことは言えないけど、それが僕の一番の気持ちだ。
彼女の茶色の切れ長の目が一瞬大きくなり、僕のそれと合った。その後、彼女は俯く。顎の辺りまでの長さの黒髪が、彼女の顔を不均等に隠す。
かなり癖っ毛なんだ。
今まで女性の髪型なんて長いか短いか、よく分からない髪型か位しか認識したことがないのに、唐突にそう気付いた。
下を向いたまま、彼女は小さく言う。
「……本当は会いに行く気はなかった」
「何でだよ!」
「待つなと伝言は残したのは私だ。ユウが今どういう状況でも何も言う権利はないし、だから聞きたくなかった。あと……もう……」
その後、何かもごもごと言ってたけど、それは聞き取れない。
言い終わった後、アリアはこちらを見る。
「マチルダとはやっぱり会いたかったから、結果的には転職したって話だけ耳に入ってしまったけどね。私のことは、ユウには言わないで欲しいと、最初に連絡したときから伝えていた。マチルダは納得してなかったけど」
僕が勤め始めてから今に至るまでのこの一ヶ月弱、ずっと妙な距離感で接してきたマチルダさんを思い出す。つまり、あれは仕事モードということではなかったのか。
元々距離感のおかしい人だから気が付かなかった。
「確かに、トリオもマチルダさんも、君がこっちに戻ってきたなんて一言も口には出していないよ。マチルダさんの距離感はいつもよりおかしくて、トリオは酔っ払って絡んできた。それだけだ」
トリオがこの前くだ巻いていた時に妙に突っかかってきたのも、これだろう。
彼はあの時、僕の気持ちを確認していたのか。
僕は大きく息を吐いた。気がついたら握りしめていた手が少し緩む。
彼の姿は人間の方が遥かに見慣れているのに、突然あの黄緑色の姿を思い出した。短槍を振り回しているマチルダさんと、今とは違う人形の様な彼女。
十年前の旅の途中は、確かに僕と彼女をちゃかしていた。
でも、彼女が僕たちの前から姿を消してから、トリオが僕に対して彼女への気持ちを確認しようとしたことは一切なかった。
むしろ、僕の前で彼が自ら彼女の話題に触れた事自体が、十年の間でこの前の一回きりだった。
あのお節介元バカ鳥おっさんがとは思うけど、それでも今回は物凄くありがたい。
「待つなと言われたから、待ってるつもりはなかった。でも、結果的にはずっと待ってたみたいだ。自覚はなかったけど」
彼女は唇を噛んで、目線と顔を下に向けた。
ここで引いたら一生手が届かない。それだけは分かる。全く格好良いことなんて出来ないけど、なりふり構わず、今の気持ちを伝えることにした。
「十年前、たった数週間しか一緒にいなかったのに、十年間、僕は君のことしか見えたことがないし、君のことしか考えられなかった」
それに対する返事はなかったけど、消し忘れた部屋から漏れる明かりで、俯いて、僕とは目を合わそうとはしない彼女の首筋が赤いことは分かった。
いつも嘘ばかり。ふざけた言葉で本心を言わない胡散臭い彼女。
今ここに彼女の本心があるのだろうか。
周りに人が歩いていないことと、庭の周りの木で隠れるだろうということはしっかりと確認してから、意を決して、僕は彼女の背中に手を回した。
一瞬びくりとしていたけど、思いのほか、彼女は素直に身体を預けてくれた。
自分とは違う、ふんわりとした感触が腕の中にいる。こつんと、僕の肩に顔が当たり、ふわりと甘くて柔らかい香りが鼻に届いた。
僕は、十年前よりは少し背が伸びた。当時と身長はあまり変わらないとは思う彼女だが、腕の中でとても小さく可愛らしく感じる。
「……もう、セアラの姿じゃない」
震えるような声でどうでもいいことを彼女は呟く。僕は答えた。
「世界で一番君が可愛い」
とんでもなく恥ずかしい言葉なんだけど、何でかサラリと言えた。
もう少しだけ彼女に近づきたくなる。僕のものか彼女のものか分からない心臓の音が、胸の辺りでやたら速く響く。彼女は潤んだ茶色の瞳でこちらを見上げてきた。長めのまつ毛が切れ長の目を縁取っている。
目が合うと、打ち合わせなんてしていないのに、もう少しだけ顔を上げて、だらんと下ろしていた腕を僕の背中に伸ばしてくれた。
彼女を引き寄せ、一番近づいたその瞬間、風の音も、あんなにうるさかった心臓の音すらも聞こえなくなった。
やがて音が聞こえるようになった頃、僕らは少し距離を戻し、彼女は閉じていた目を再び開けた。口元に手を添え、いつもピンクの頬は真っ赤になっている。
自分からしたことだけど、今体験した初めての感触に様々な感情が溢れ出ていた僕は、恥ずかし紛れに軽い口調で言った。
「囚われた責任、取ってほしいんだけど」
彼女は僕の肩に頭を寄せて、僕への返事をそのまま呟いた。
「……責任は取りに来たんだけど、この勢いのままに夜に男の人の部屋へ行くのは、それはちょっと股がゆる過ぎる気がして抵抗が」
「それは僕もちょっと」
ここ、実家だし。
親が不在とは言え、居候中の夜の実家に女性を引き入れることへの罪悪感が凄い。十代ならノリでいけるのかもしれないけど、僕は二十五歳の独り立ちした成人だ。
家探しもロクにしないで、部屋中箱だらけにして居座っている一人息子がやることではない。
……一人暮らしだったら、考えるけど。
……サツキ村のあの家の時に来てくれていたら、考えたけど。
場所が場所なら多少はいっちゃってもいいんじゃないかと思うこちらとしては、もう何ヶ月か早く来てくれても良かったんじゃないかと、ちらりと思う。
「……でも、もうちょっと一緒にいていい?」
肩からそんな魅力的な言葉が聞こえてくる。
かわいい。可愛すぎる。
しかし、この湧き上がる気持ちを表すための語彙が足りない。学生時代、好きな科目以外はおざなりだった過去を後悔しながら、僕は腕の力を強めた。
「僕はずっと一緒にいたい」
「……押すね」
「自分でもめちゃくちゃ驚いてるけど、ここで逃したら一生後悔する」
僕は腕を緩めて、彼女の手を取った。
小さくて、柔らかくて、愛しい。
「もう遅いけど、帰りの時間は大丈夫?」
「うん。ウヅキ村に宿をとってるから問題ないよ」
「良かった。これからご飯食べに行こうよ」
ハヅの惣菜屋の前で話したことをふと思い出した。
あの時は「今度」二人でお茶しようと約束したかった。
今の僕は「これから」彼女を食事に誘うことにした。
この世界で、彼女が僕の特別な存在になることが、僕にとってありふれた物語になることを願いながら。
「僕は君のそばにいたい。君のことが好きなんだ」
僕の言葉に彼女は目を見開いた。
そして。
僕が人生で一番可愛いと思う女性であるアリアは、真っ赤な頬をしながら、繋いだ手はそのままで頷いてくれたのだった。
僕を確認した彼女は、片側のみ口角をあげた。その表情は初めて見たその外見と実に合っていた。
それだけで分かった。
姿形は違うのに、暗がりでもはっきりと見えるその表情はあの時と変わらない。
僕の人生で一番可愛くて魅力的だと感じた女性が、そこにいた。
僕は彼女に駆け寄った。
走って出た結果、少しだけ息が荒くなった僕に対し、彼女はやれやれと肩をすくめ、軽い調子で話し始めた。
「夜に窓から連れ出して助け出すというのを一度やってみたかったんだけど、現実ではなかなか無理なようだね。防犯上そんなに飛び出しやすい窓でもないし、当たり前か」
「いや、意味分からないから。ここ実家だから、別に捕らえられていないから。そもそも、いい大人がやることじゃないから!」
再会しての記念すべき会話。
もっと格好良いことを言いたかった。言いたいことはこんなことじゃない。
何が本心なのか分からない。ふわふわした高めの声の割に、淡々とした喋り口で話を混ぜっ返す。
彼女は軽くため息をついた。
「この前トリオさんに説教されたんだよね」
「はぁ? トリオ?」
「あの人、ギャーギャーうるさいんだよ。ユウが囚われの身だ。責任取ってワレがどうにかしてこいって」
「はあ?」
あの元バカ鳥、何言ってるんだよ。
状況が理解できなくて、同じ相槌しか繰り返せない。構わずに彼女は続ける。
「まあ、でもさ、囚われなんて聞いた日には、やっぱりこうド定番の救出方法ってやつをやってみようかなと思って来てみたよ」
言いながら、彼女は何かを持つ真似をして、右手首をくいっと曲げた。
「ほら、囚われのお姫様助け出すときこうでしょ?」
「あのさ、それ、絶対意味分かって言ってるよね?」
彼女は何も答えない。
囚われの僕は息を一つ吐き、気付く。
「……っていうか、この前トリオが?」
僕よりも前にトリオは彼女に会っている?
その疑問に彼女はすぐに答えてくれた。
「最初は一ヶ月位前かな? やっと終わったから来れたと連絡したら、早速マチルダとお子さん二人の計四人で会いに来たよ。お子さん二人とも親に似て可愛いし、あの夫婦も結婚十年目に入るのかな? 二人共元々冒険者ってガラではないから落ち着いて良かったね」
「一ヶ月位前……?」
「ああ、説教されたのはおととい 。トリオさんは研修で来たらしいよ。久々に一緒に飲んだけどさ、あの人、おっさんになっても顔は相変わらずいいけど、面倒臭さは悪化したね」
姿は変われど、そこは変わらないピンク色の頬で、にこにこと彼女は言った。
変わらぬ笑顔に胸は変わらなかったけど、その話の内容にはっと思い出す。
僕が転職した直後、マチルダさんは休む予定があると仕事を詰め込んで、トリオは色あせていたはず。
当たり前だけど、今は肩にとまっている訳では無い人間のトリオが普段どこに行ってるかなんて知らない。でも、一昨日研究室に行ったときマチルダさんは「と、トリオがいないから、わたし担当なの!」とやたら主張してきた記憶はある。
いや、そんなことよりも、聞きたいことしかない!
「どこに、どこに住んでいるの? 何で僕だけ知らないんだよ!」
「今はとりあえずワシスにいるよ」
「ワシス? ……あの一家、行ってたな」
僕が勤め始めて数日後、居間にワシスで最近はやっているお菓子の詰め合わせが置いてあった。母がマチルダさんからお土産に貰ったと言っていた。
あれ美味しかったな!
「人が多くて紛れやすいし。アルバートのお孫さんの一人が住んでるから、アルバート経由で頼った」
何番目の孫が少し前にワシスで働くようになったから、飛んでワシスに行こうと思うと、アルバートさんからの手紙に書いてあったような気はする。その時アルバートさんには会ったけど、その孫とは顔を合わせていないから、それ以上のことは覚えてない。
で、そうじゃなくて。
「どんな関係だよ! こっちを頼れよ!」
「どんなって、だから、アルバート経由の関係だよ! アルバートは探さなくても出口のすぐ側にいるんだよ。そっちまず頼るでしょ」
「でもさ!」
「ユウは転職直後で落ち着いていないんじゃないかい? 人の面倒みる余裕あるの?」
抗議する僕に、言い返すアリア。
違う。言いたいことはそういうことじゃない。
「落ち着いてないとか、そんなのどうでもいいよ! 一ヶ月前に連絡してくれたっていいじゃないか!」
そこまでは勢いのまま言った僕は、大きく息を吸い、言った。
「僕はずっと君に会いたかったんだ」
好きな子の心を惹きつけるような格好良いことは言えないけど、それが僕の一番の気持ちだ。
彼女の茶色の切れ長の目が一瞬大きくなり、僕のそれと合った。その後、彼女は俯く。顎の辺りまでの長さの黒髪が、彼女の顔を不均等に隠す。
かなり癖っ毛なんだ。
今まで女性の髪型なんて長いか短いか、よく分からない髪型か位しか認識したことがないのに、唐突にそう気付いた。
下を向いたまま、彼女は小さく言う。
「……本当は会いに行く気はなかった」
「何でだよ!」
「待つなと伝言は残したのは私だ。ユウが今どういう状況でも何も言う権利はないし、だから聞きたくなかった。あと……もう……」
その後、何かもごもごと言ってたけど、それは聞き取れない。
言い終わった後、アリアはこちらを見る。
「マチルダとはやっぱり会いたかったから、結果的には転職したって話だけ耳に入ってしまったけどね。私のことは、ユウには言わないで欲しいと、最初に連絡したときから伝えていた。マチルダは納得してなかったけど」
僕が勤め始めてから今に至るまでのこの一ヶ月弱、ずっと妙な距離感で接してきたマチルダさんを思い出す。つまり、あれは仕事モードということではなかったのか。
元々距離感のおかしい人だから気が付かなかった。
「確かに、トリオもマチルダさんも、君がこっちに戻ってきたなんて一言も口には出していないよ。マチルダさんの距離感はいつもよりおかしくて、トリオは酔っ払って絡んできた。それだけだ」
トリオがこの前くだ巻いていた時に妙に突っかかってきたのも、これだろう。
彼はあの時、僕の気持ちを確認していたのか。
僕は大きく息を吐いた。気がついたら握りしめていた手が少し緩む。
彼の姿は人間の方が遥かに見慣れているのに、突然あの黄緑色の姿を思い出した。短槍を振り回しているマチルダさんと、今とは違う人形の様な彼女。
十年前の旅の途中は、確かに僕と彼女をちゃかしていた。
でも、彼女が僕たちの前から姿を消してから、トリオが僕に対して彼女への気持ちを確認しようとしたことは一切なかった。
むしろ、僕の前で彼が自ら彼女の話題に触れた事自体が、十年の間でこの前の一回きりだった。
あのお節介元バカ鳥おっさんがとは思うけど、それでも今回は物凄くありがたい。
「待つなと言われたから、待ってるつもりはなかった。でも、結果的にはずっと待ってたみたいだ。自覚はなかったけど」
彼女は唇を噛んで、目線と顔を下に向けた。
ここで引いたら一生手が届かない。それだけは分かる。全く格好良いことなんて出来ないけど、なりふり構わず、今の気持ちを伝えることにした。
「十年前、たった数週間しか一緒にいなかったのに、十年間、僕は君のことしか見えたことがないし、君のことしか考えられなかった」
それに対する返事はなかったけど、消し忘れた部屋から漏れる明かりで、俯いて、僕とは目を合わそうとはしない彼女の首筋が赤いことは分かった。
いつも嘘ばかり。ふざけた言葉で本心を言わない胡散臭い彼女。
今ここに彼女の本心があるのだろうか。
周りに人が歩いていないことと、庭の周りの木で隠れるだろうということはしっかりと確認してから、意を決して、僕は彼女の背中に手を回した。
一瞬びくりとしていたけど、思いのほか、彼女は素直に身体を預けてくれた。
自分とは違う、ふんわりとした感触が腕の中にいる。こつんと、僕の肩に顔が当たり、ふわりと甘くて柔らかい香りが鼻に届いた。
僕は、十年前よりは少し背が伸びた。当時と身長はあまり変わらないとは思う彼女だが、腕の中でとても小さく可愛らしく感じる。
「……もう、セアラの姿じゃない」
震えるような声でどうでもいいことを彼女は呟く。僕は答えた。
「世界で一番君が可愛い」
とんでもなく恥ずかしい言葉なんだけど、何でかサラリと言えた。
もう少しだけ彼女に近づきたくなる。僕のものか彼女のものか分からない心臓の音が、胸の辺りでやたら速く響く。彼女は潤んだ茶色の瞳でこちらを見上げてきた。長めのまつ毛が切れ長の目を縁取っている。
目が合うと、打ち合わせなんてしていないのに、もう少しだけ顔を上げて、だらんと下ろしていた腕を僕の背中に伸ばしてくれた。
彼女を引き寄せ、一番近づいたその瞬間、風の音も、あんなにうるさかった心臓の音すらも聞こえなくなった。
やがて音が聞こえるようになった頃、僕らは少し距離を戻し、彼女は閉じていた目を再び開けた。口元に手を添え、いつもピンクの頬は真っ赤になっている。
自分からしたことだけど、今体験した初めての感触に様々な感情が溢れ出ていた僕は、恥ずかし紛れに軽い口調で言った。
「囚われた責任、取ってほしいんだけど」
彼女は僕の肩に頭を寄せて、僕への返事をそのまま呟いた。
「……責任は取りに来たんだけど、この勢いのままに夜に男の人の部屋へ行くのは、それはちょっと股がゆる過ぎる気がして抵抗が」
「それは僕もちょっと」
ここ、実家だし。
親が不在とは言え、居候中の夜の実家に女性を引き入れることへの罪悪感が凄い。十代ならノリでいけるのかもしれないけど、僕は二十五歳の独り立ちした成人だ。
家探しもロクにしないで、部屋中箱だらけにして居座っている一人息子がやることではない。
……一人暮らしだったら、考えるけど。
……サツキ村のあの家の時に来てくれていたら、考えたけど。
場所が場所なら多少はいっちゃってもいいんじゃないかと思うこちらとしては、もう何ヶ月か早く来てくれても良かったんじゃないかと、ちらりと思う。
「……でも、もうちょっと一緒にいていい?」
肩からそんな魅力的な言葉が聞こえてくる。
かわいい。可愛すぎる。
しかし、この湧き上がる気持ちを表すための語彙が足りない。学生時代、好きな科目以外はおざなりだった過去を後悔しながら、僕は腕の力を強めた。
「僕はずっと一緒にいたい」
「……押すね」
「自分でもめちゃくちゃ驚いてるけど、ここで逃したら一生後悔する」
僕は腕を緩めて、彼女の手を取った。
小さくて、柔らかくて、愛しい。
「もう遅いけど、帰りの時間は大丈夫?」
「うん。ウヅキ村に宿をとってるから問題ないよ」
「良かった。これからご飯食べに行こうよ」
ハヅの惣菜屋の前で話したことをふと思い出した。
あの時は「今度」二人でお茶しようと約束したかった。
今の僕は「これから」彼女を食事に誘うことにした。
この世界で、彼女が僕の特別な存在になることが、僕にとってありふれた物語になることを願いながら。
「僕は君のそばにいたい。君のことが好きなんだ」
僕の言葉に彼女は目を見開いた。
そして。
僕が人生で一番可愛いと思う女性であるアリアは、真っ赤な頬をしながら、繋いだ手はそのままで頷いてくれたのだった。
ありがとうございました。
蛇足として、既に書いている番外編二話分と、そのうちもう一つ番外編を書いて完結マークつける予定です。
蛇足として、既に書いている番外編二話分と、そのうちもう一つ番外編を書いて完結マークつける予定です。