残酷な描写あり
R-15
9話『格の違い』
無事に「強化」の魔術を成功させたアウラ。
だが魔術は彼女の蹴りを受け止めた直ぐに効力を失い、形容し難い感覚に包まれていたその右腕は只の腕に戻っていた。
次に控えているのは実践形式の演習なので、彼は入念な準備運動に勤しんでいた。
身体を動かす事で緊張を解す意味も兼ねている。
「──っし、ざっとこんなもんか」
膝の屈伸、伸脚、準備運動のセオリーを一通り終えた所で、再びカレンの方を見る。
用意が出来た事の意志表示であった。
「今度は全身を強化した上で魔術を行使して貰うから、さっきの感覚は忘れないでおいてね」
カレンの方も特に支障がある様子には見えない。身体を慣らさずとも、即興での魔術行使も大して彼女にとって難しい事ではないのだ。
魔術師である彼女にとって、魔術を行使するというのは日常的に行っている行為に等しい。
「それよりどうだった? 初めての魔術の感想は」
率直な質問。
仮にも魔術を手解きする師と弟子という関係上、弟子が最初に魔術を成功させた心持ちというのは幾分気になるものであったらしい。
その疑問をぶつけられたアウラは腕を組んで「ん~」と黙考した後
「……殆どぶっつけ本番で成功したって安心感はあったけど、やっぱ如何せんキツかったよ。特に強化する部位の熱が徐々に上がっていく感じがね」
「遅く感じた?」
「実際は数秒だろうけど、詠唱の瞬間までの体感時間は割と長かったよ」
人間、誰しも苦しい時間ほど長く感じる。
当然、アウラのあの感覚は一度体験すればそう忘れられないだろうし、詠唱を以て魔術を成功させるまでの間はとにかく違和感が凄まじかった。
「身体の一部だけを強化するなら、その一点にオドを集中させる必要がある。だから若干時間が掛かるし、それに、まだ覚えたてだしね」
「そういや森で助けてくれた時、カレン、一瞬で魔術を行使してたな……オドの操作の問題なのか……?」
剣を携えて、文言を唱えた次の瞬間には魔獣を一体仕留めており、先程のアウラが魔術の行使までに要していた時間がカレンには殆ど無いように見えていた。
言うなれば彼女の場合、オドの操作から術式の発動までのタイムラグが限りなく0に近い。
「あぁそれは簡単よ、ただ全身を強化してるだけだもの」
「全身……えっ全身……?」
復唱するアウラに構うことなく彼女は続ける。
「そっちの方が、身体の一部を限定的に強化するより手っ取り早いわ。わざわざ先に一部分から強化させたのは、流れるオドの感覚を体験して貰おうって理由だったの」
「つまり全身を強化する場合、既に行き渡ってるオドを使って強化するから、わざわざ一点にオドを集める手間が省けるのか」
「ご名答。それなら詠唱するだけで済むし。それに、辛い思いは先にしておいた方が良いでしょうしね」
オドは人間の身体の中で生成される魔力。
その流れを操って一部位を限定的に強化するより確かに楽に思える。
腕を組んで心の底から感心と同時に納得する。
そんな他愛もない話をしていた二人だったが、カレンはふと
「身体の調子はどう? 色々と駄弁っちゃってけど、そろそろ本題に移りたいところなんだけど」
と問う。
彼女の言う「本題」とは実戦形式の事を指している。
カレンがアウラに強化の魔術を説いたのは、最も習得が簡易であるという事に加え、彼が並み居る冒険者に並び立つためにも必要なピースだからだ。
そしてこれから始まる実戦において、カレンと渡り合う為にも欠かす事は出来ない。
「だいぶ楽にはなって来たよ。多分これなら滞りなくいけると思う」
一度術を行使してから特に異常は見られず、カレンの蹴りを受け止めた時の痛みが残っている訳でも無い。
もう一度あの熱を感じなければならないというのは少し躊躇いこそ感じるが、慣れなければ何も始まらない。
これからはひたすらカレンと刃を交える実践形式。まだ人間相手に剣を向ける怖さなどの不安はある。
「……なら、始めましょうか」
カレンのその一言を境に、周囲の空気感が一気に張り詰め、塗り替えられる。
普段の会話のトーンではなく、もう一段階低い声。
彼女の方もスイッチを入れた合図。普段の会話の中にある気安さが排除された声色に切り替わる。
「ひたすらにやり合うだけじゃ長くは保たないから、一応、この砂時計の中の砂が落ち切るまでを制限時間って事にする」
懐から木とガラスで出来た砂時計を取り出し、アウラが先程まで座っていた切り株へと向かいながら説明をする。
そしてゆっくりと置き、内部の砂が重力に従い、くびれを通って落ち始める。
開始の合図。
「それと一つ言っておくけど、手加減はいらないから。──殺すつもりで来て」
視線をアウラへと向けたカレンは続けざまに告げた。
一瞬にして目つきが豹変し、彼女が虚空に右手を翳した刹那。僅かに空間に歪みが生じる。
(アレは──)
顕現したのは塗り潰されたような黒色のシルエット。
靄の状態だったソレは徐々に形を成していき、やがて柄と刀身を形成した。
数多の魔獣の命を刈り取った、魔剣が如き一刀。
アウラの背筋に悪寒が走る。
心臓を握り潰されるかのような、強烈な緊張感が彼を支配すると同時に──彼の生存本能は、全力で危険信号を鳴らしていた。
文字通り、死ぬ気で臨まねば殺されると。
「────」
無言のまま身を低くし、臨戦態勢に入るカレン。
右手に携えた剣は以前目にした時と同じく、禍々しい雰囲気を放つ。
本気は出さないと言っていたが、前髪の隙間から覗くその眼差しは獲物を狩る獣のソレに等しい。
ほんの数秒、その空間に静寂が満ちる。
どちらが先に動き出すのか。それは問うまでもない。
「────アグラ」
「強化」を齎す文言と共に、自らの足に溜め込まれた膂力を解き放ったカレンだった。
それは、跳躍では無く「爆発」。
アウラとカレンの間にあった距離を一歩で詰めるには十分。衝撃で地は抉れ、瞬間移動のようにすら錯覚させる。
正に一瞬。彼女は携えた黒剣を振りかぶり、右方から左方へ薙いだ。
初撃だが、その一撃を以て仕留めんとする。
「アグラ……っ!」
直前、詠唱を以て「強化」の魔術を行使する。今度は腕だけではく全身。
素の状態の身体能力でカレンの一撃を受け止めるなど到底無理。強化を行使した上ですら速さに追い付けるか定かでは無い。
それでも、反応する事は辛うじてできるだろうと、そう踏んでいた。
カレンに倣ったぶっつけ本番での行使だが、幸い滞り無く成功。僅かに全身が熱を帯びるのを感じ、感覚がより明確に、研ぎ澄まされて行く感覚に包まれる。
「────ッ!」
間際のところで刃が交差するが、押されるのみ。これは純粋な膂力の問題だった。
魔物を容易く両断する程の一刀、それを付け焼刃の魔術を行使した程度で拮抗できるなど、思い上がりも甚だしい。
踏み留まりはしたものの、間髪入れずに二撃目が見舞われた。
(……上!)
アウラの真上から振り下ろされる刃。
動作から動作への移り変わりが早い為に一瞬の隙すら無く、反撃を狙うのは相当に困難。真正面から打ち合っては勝ち目はゼロだ。
経験も技量も、二人の間には計り知れない程の差が存在している。それは決して埋めようがないモノだ。
格下も良いところの彼が遥か格上の彼女に、こと戦いにおいて食らい付く為には何をすべきか。
答えは一つ。
力が無いなら、足りない分を頭で補う他無い。
「だったら……っ!」
カレンの剣が振り降ろされる寸前、姿勢を低くし地を蹴って大きく飛び退く。
一撃一撃を躱し、受け止めるだけでは防戦一方で一矢報いる事は出来ない。距離を取るが、それは最低限。
後退した反動を堪え、カレンの剣が下がり切ったタイミングを見逃さずに前方で跳躍し、再び接近して斬りかかる。
彼女の剣は降りたまま。
アウラには一見隙に見えたのだろう。身を低くした彼の勢いは止まらぬまま、一撃を見舞おうとする。
だが、その程度の策に彼女が対応できない道理はない。
「────ッ!」
顔を上げ、カレンはアウラの一撃に備える。
彼女にとって、その隙を付いてくる事すら想定の範疇。剣の握り方を変え、アウラの一閃に下から対応する事など造作も無い事。
仮に予想していないとしても、向けられる敵意に咄嗟に反応する事は極めて容易だ。
刃と刃が再び交差するが、鍔迫り合いになる事は無かった。
その直後、自分の身体が強く押し上げられる感覚を最後に。
「────んん!?」
アウラの天と地が、反転する。
平衡感覚が消え、本来足が接しているべき地面は遠い。
重力が消えたかのように、アウラは彼女の後方へと打ち上げられた。
前へと進む彼の勢いを利用して受け流し、自分が直接手を下すまでも無く相手を制した。
頭が下で足が上という上下反対の状態のまま近くに生えていた木に叩きつけられられる形になり、背中に鈍痛が走る。
「っ痛ぇ~……っ」
逆さのまま、幹からずるずると根本まで落ちた彼の下まで歩いていくカレン。
彼女が彼に手を差し伸べると同時に、砂時計の砂は落ち切ったのであった。
「吹っ飛ばされても、すぐに体勢を立て直してもう一撃見舞うぐらいできれば尚良しね」
笑みを浮かべながらアウラにリクエストする彼女に対し、アウラは
「いやいやカレンさんや、最初っからそんなハイレベルな芸当は出来ませんて……」
と、苦虫を噛み潰したような表情で答える。
まだまだ初日。実力の差と、聳え立つ壁の高さを痛感させられたアウラだった。
一撃を見事にいなされ、その勢いのまま自爆した後もカレンとの仕合は続いた。
魔術の行使に関しては特筆して問題は無く成功しているのが唯一のプラス点だが、未だカレンに一撃を当てる事すら出来ない。
躱してから反撃を試みるも悉くが見切られ、返しの一撃で終わる。時には武器を用いずに徒手空拳でノックアウトされる事もあった。
速さも力も経験も劣っているのは否定しようのない事実だが、ここまで手も足も出ないとなると悔しさも滲む。
「……いやー、しんどいな、色々と」
仰向けになって呟くアウラ。
その顔、肢体には目に見えて傷が増えている。
「まだまだ最初はこんなもんよ。ほら、次行くわよ」
立ち上がるよう促す。そう言う彼女は全くピンピンしている。節々に痛みを感じながらも素直に立ち上がるアウラ。
呼吸を整え、「アグラ」と唱えて同様に強化の魔術を行使する。
五感がより明瞭になっていくのを合図に、再び仕合いが幕を開ける。
※※※※
閑静な森に響き渡る剣戟の声。
既に数十合に渡り打ち合っているが未だに一太刀浴びせる事は適わず、彼女に追い付く事で精一杯だった。
絶え間なく襲い来る斬撃。時に徒手空拳も織り交ぜ、アウラの視覚外から一撃を叩き込み、注意を向けさせる事で牽制している。間合いに入られても、持ち前の並外れた身体能力が素手で強引に捩じ伏せる事すら可能にする。
正に鬼に金棒という言葉を体現しているようにも思えるのが彼女だ。
半ばクラウチングのような状態から仕掛けたのはアウラだった。
一撃や二撃見舞ったところで、見切られる事を想定した上で挑まねば結果は同じ。小手先の技術など通用しない。
「──ッ!」
踏み込みと同時に斬り掛かるも、紙一重の所でカレンは躱していく。
アウラの斬り下ろしから続く薙ぎ払いを刃で受け止めた所で、彼女は視線を刀身から外さぬまま、がら空きのアウラの足を刈って体勢を崩させようとする。
(来た……!)
カレンの足の甲を、アウラの足が上から押さえつける。視界の片隅で僅かに動いたのを見逃さず、自らの隙を生むのを防いだ。
足を刈るのが失敗に終わったのを察し、彼女は後方に大きく退いた。
「流石に、ちょっとはバレて来た……って事ね」
十分な距離を取り、小さく零す。
いなす事が容易である事には変わりない。
しかし、彼の注意を剣以外に向けさせようとも、多少の慣れが生じて来ている。視覚外からの攻撃を前提として仕掛けて来ていたのだ。
警戒された以上、同じ手段を講じても効果は薄まる。
(……なら、少し調子を上げても問題無いか)
アウラを見据えながら、剣の柄を一層強く握り締めた。
彼女も彼と同様強化の術は行使しているが、それでもまだ本気には程遠い。
今の彼を相手取るにはその程度で十分だったが、この時、彼女は彼女自身が抱いた単純な好奇心──アウラが自分と何処まで渡り合えるかという一点を優先した。
深呼吸し、意識を深層へと落とし込む。
余計な思考を放棄し、この一瞬だけは内に秘めた殺意を剥き出しにし、ソレに身体を従わせる。
「……動かなくなった……?」
怪訝そうに見詰めるアウラも、いつ仕掛けられても良いように更にアンテナを敏感にする。
そのお陰で先程は対応出来たという事もあるが、その心配は最早必要なくなってしまった。
ゆっくりと前傾し、カレンが仕掛ける。
それを視認したアウラも身構えるが、
「消え────」
一度の瞬きの間。
眼前に在った筈の彼女の姿が、忽然と姿を消していた。なんらかの魔術を行使したのかと勘ぐったが、それは違うと即座に確信させる。
(いや、違……!)
慌てて振り返る。
彼をそうさせたのは他でも無い、肌がピリ付く程にぶつけられた敵意だった。カレンは距離を詰めるどころか、瞬く間にアウラの背後を取ったのだ。
見逃す事の無いよう常に意識を向けていたが、魔術で高められた動体視力を以てしても捉える事は出来なかった。
自分を見据えていたのは、紫の髪から覗く二つの眼光。鮮血にも似た真紅の双眸から感じ取れるものは唯一つ。
実直な殺意。
コンマ数秒の遅れ。
今の彼女は、アウラが森で見た時と同じモノだった。
一切の加減を捨て、獲物の生命を掠め取らんと蹂躙する殲滅者。
その一撃を受け止める事は出来なかった。
鍔迫り合いになるまでも無く、背後に回り込まれた時点で勝敗は決している。
アウラが防御をしようとする前に、彼の目の前に刃の切っ先が突き付けられる。
「気付くまでは良かったけど、もう少し反応が速かったら防げたかもしれなかったわね」
刹那に見せた殺意は鳴りを潜め、普段通りの調子で言葉を贈る。
「決まった」とでも言うかのように、何処か自信に満ちた表情でもあった。
「……いや、アドバイスは有難いんだけどカレン……」
一瞬で背後を取られたという事実を前にして、アウラは確かに動揺を隠せないでいた。
しかし彼は賛美の言葉を口にするでも驚きに腰を抜かすでもなくただ一つだけ、「何か」に耐えて口にする。
「? どしたの?」
「刃先、掠ってるんだけど」
彼女が突き付けた剣を降ろすと、アウラの額からツーと、血が流れていた。横幅にしておよそ4センチ程。
災難な事に、勢い余って僅かに刃先が彼の肌に触れてしまったのだ。魔獣の身体を容易に両断する程の切れ味を誇る彼女の剣ならばそれは当然。
「……あ、ゴメン」
「ごめんじゃなぁいッ!! めっちゃカッコつけてたけど台無しだよ!! ああああ痛ってぇぇぇぇぇぇぇ!!」
謝罪するカレンに若干キレつつ涙目でツッコむアウラ。
その絶叫は森中を駆け巡り、驚いた鳥達が一斉に飛び立つ。
最後の最後で余計な傷を一つ増やしてしまったが何はともあれ、初日の鍛錬は終わりを迎えた。
※※※※※
カレンとアウラの一対一の鍛錬は休み無く続く。
晴れの日も雨の日も風の日も変わらず、決まって日が暮れるまで街の北東で剣を交わし、その中で強化の魔術の安定と、実戦における戦い方を洗練させていく。
日を追う毎にその傷は増え、治ったと思えば新たに傷が出来る。その様な日々の繰り返し。
まだ彼女の領域に迫る事は出来ないが、無理をせずともカレンの不規則な挙動に対応できるようになっているのを感じていた。
夜、ベッドの上で目を瞑れば、その日の記憶が鮮明に蘇る。
何度も怪我を負いはしたが、不思議とそれから逃げようという気持ちにはならなかった。冒険者としてやっていく為には乗り越えねばならない期間である上、命の恩人である彼女に、恩を仇で返すような真似は出来なかった。
刹那に過ぎる日々の一秒すらも無駄にする訳にはいかない。その為にも、今はひたすら彼女に食らい付き、身体の芯まで戦う術を刻み付ける。
だが魔術は彼女の蹴りを受け止めた直ぐに効力を失い、形容し難い感覚に包まれていたその右腕は只の腕に戻っていた。
次に控えているのは実践形式の演習なので、彼は入念な準備運動に勤しんでいた。
身体を動かす事で緊張を解す意味も兼ねている。
「──っし、ざっとこんなもんか」
膝の屈伸、伸脚、準備運動のセオリーを一通り終えた所で、再びカレンの方を見る。
用意が出来た事の意志表示であった。
「今度は全身を強化した上で魔術を行使して貰うから、さっきの感覚は忘れないでおいてね」
カレンの方も特に支障がある様子には見えない。身体を慣らさずとも、即興での魔術行使も大して彼女にとって難しい事ではないのだ。
魔術師である彼女にとって、魔術を行使するというのは日常的に行っている行為に等しい。
「それよりどうだった? 初めての魔術の感想は」
率直な質問。
仮にも魔術を手解きする師と弟子という関係上、弟子が最初に魔術を成功させた心持ちというのは幾分気になるものであったらしい。
その疑問をぶつけられたアウラは腕を組んで「ん~」と黙考した後
「……殆どぶっつけ本番で成功したって安心感はあったけど、やっぱ如何せんキツかったよ。特に強化する部位の熱が徐々に上がっていく感じがね」
「遅く感じた?」
「実際は数秒だろうけど、詠唱の瞬間までの体感時間は割と長かったよ」
人間、誰しも苦しい時間ほど長く感じる。
当然、アウラのあの感覚は一度体験すればそう忘れられないだろうし、詠唱を以て魔術を成功させるまでの間はとにかく違和感が凄まじかった。
「身体の一部だけを強化するなら、その一点にオドを集中させる必要がある。だから若干時間が掛かるし、それに、まだ覚えたてだしね」
「そういや森で助けてくれた時、カレン、一瞬で魔術を行使してたな……オドの操作の問題なのか……?」
剣を携えて、文言を唱えた次の瞬間には魔獣を一体仕留めており、先程のアウラが魔術の行使までに要していた時間がカレンには殆ど無いように見えていた。
言うなれば彼女の場合、オドの操作から術式の発動までのタイムラグが限りなく0に近い。
「あぁそれは簡単よ、ただ全身を強化してるだけだもの」
「全身……えっ全身……?」
復唱するアウラに構うことなく彼女は続ける。
「そっちの方が、身体の一部を限定的に強化するより手っ取り早いわ。わざわざ先に一部分から強化させたのは、流れるオドの感覚を体験して貰おうって理由だったの」
「つまり全身を強化する場合、既に行き渡ってるオドを使って強化するから、わざわざ一点にオドを集める手間が省けるのか」
「ご名答。それなら詠唱するだけで済むし。それに、辛い思いは先にしておいた方が良いでしょうしね」
オドは人間の身体の中で生成される魔力。
その流れを操って一部位を限定的に強化するより確かに楽に思える。
腕を組んで心の底から感心と同時に納得する。
そんな他愛もない話をしていた二人だったが、カレンはふと
「身体の調子はどう? 色々と駄弁っちゃってけど、そろそろ本題に移りたいところなんだけど」
と問う。
彼女の言う「本題」とは実戦形式の事を指している。
カレンがアウラに強化の魔術を説いたのは、最も習得が簡易であるという事に加え、彼が並み居る冒険者に並び立つためにも必要なピースだからだ。
そしてこれから始まる実戦において、カレンと渡り合う為にも欠かす事は出来ない。
「だいぶ楽にはなって来たよ。多分これなら滞りなくいけると思う」
一度術を行使してから特に異常は見られず、カレンの蹴りを受け止めた時の痛みが残っている訳でも無い。
もう一度あの熱を感じなければならないというのは少し躊躇いこそ感じるが、慣れなければ何も始まらない。
これからはひたすらカレンと刃を交える実践形式。まだ人間相手に剣を向ける怖さなどの不安はある。
「……なら、始めましょうか」
カレンのその一言を境に、周囲の空気感が一気に張り詰め、塗り替えられる。
普段の会話のトーンではなく、もう一段階低い声。
彼女の方もスイッチを入れた合図。普段の会話の中にある気安さが排除された声色に切り替わる。
「ひたすらにやり合うだけじゃ長くは保たないから、一応、この砂時計の中の砂が落ち切るまでを制限時間って事にする」
懐から木とガラスで出来た砂時計を取り出し、アウラが先程まで座っていた切り株へと向かいながら説明をする。
そしてゆっくりと置き、内部の砂が重力に従い、くびれを通って落ち始める。
開始の合図。
「それと一つ言っておくけど、手加減はいらないから。──殺すつもりで来て」
視線をアウラへと向けたカレンは続けざまに告げた。
一瞬にして目つきが豹変し、彼女が虚空に右手を翳した刹那。僅かに空間に歪みが生じる。
(アレは──)
顕現したのは塗り潰されたような黒色のシルエット。
靄の状態だったソレは徐々に形を成していき、やがて柄と刀身を形成した。
数多の魔獣の命を刈り取った、魔剣が如き一刀。
アウラの背筋に悪寒が走る。
心臓を握り潰されるかのような、強烈な緊張感が彼を支配すると同時に──彼の生存本能は、全力で危険信号を鳴らしていた。
文字通り、死ぬ気で臨まねば殺されると。
「────」
無言のまま身を低くし、臨戦態勢に入るカレン。
右手に携えた剣は以前目にした時と同じく、禍々しい雰囲気を放つ。
本気は出さないと言っていたが、前髪の隙間から覗くその眼差しは獲物を狩る獣のソレに等しい。
ほんの数秒、その空間に静寂が満ちる。
どちらが先に動き出すのか。それは問うまでもない。
「────アグラ」
「強化」を齎す文言と共に、自らの足に溜め込まれた膂力を解き放ったカレンだった。
それは、跳躍では無く「爆発」。
アウラとカレンの間にあった距離を一歩で詰めるには十分。衝撃で地は抉れ、瞬間移動のようにすら錯覚させる。
正に一瞬。彼女は携えた黒剣を振りかぶり、右方から左方へ薙いだ。
初撃だが、その一撃を以て仕留めんとする。
「アグラ……っ!」
直前、詠唱を以て「強化」の魔術を行使する。今度は腕だけではく全身。
素の状態の身体能力でカレンの一撃を受け止めるなど到底無理。強化を行使した上ですら速さに追い付けるか定かでは無い。
それでも、反応する事は辛うじてできるだろうと、そう踏んでいた。
カレンに倣ったぶっつけ本番での行使だが、幸い滞り無く成功。僅かに全身が熱を帯びるのを感じ、感覚がより明確に、研ぎ澄まされて行く感覚に包まれる。
「────ッ!」
間際のところで刃が交差するが、押されるのみ。これは純粋な膂力の問題だった。
魔物を容易く両断する程の一刀、それを付け焼刃の魔術を行使した程度で拮抗できるなど、思い上がりも甚だしい。
踏み留まりはしたものの、間髪入れずに二撃目が見舞われた。
(……上!)
アウラの真上から振り下ろされる刃。
動作から動作への移り変わりが早い為に一瞬の隙すら無く、反撃を狙うのは相当に困難。真正面から打ち合っては勝ち目はゼロだ。
経験も技量も、二人の間には計り知れない程の差が存在している。それは決して埋めようがないモノだ。
格下も良いところの彼が遥か格上の彼女に、こと戦いにおいて食らい付く為には何をすべきか。
答えは一つ。
力が無いなら、足りない分を頭で補う他無い。
「だったら……っ!」
カレンの剣が振り降ろされる寸前、姿勢を低くし地を蹴って大きく飛び退く。
一撃一撃を躱し、受け止めるだけでは防戦一方で一矢報いる事は出来ない。距離を取るが、それは最低限。
後退した反動を堪え、カレンの剣が下がり切ったタイミングを見逃さずに前方で跳躍し、再び接近して斬りかかる。
彼女の剣は降りたまま。
アウラには一見隙に見えたのだろう。身を低くした彼の勢いは止まらぬまま、一撃を見舞おうとする。
だが、その程度の策に彼女が対応できない道理はない。
「────ッ!」
顔を上げ、カレンはアウラの一撃に備える。
彼女にとって、その隙を付いてくる事すら想定の範疇。剣の握り方を変え、アウラの一閃に下から対応する事など造作も無い事。
仮に予想していないとしても、向けられる敵意に咄嗟に反応する事は極めて容易だ。
刃と刃が再び交差するが、鍔迫り合いになる事は無かった。
その直後、自分の身体が強く押し上げられる感覚を最後に。
「────んん!?」
アウラの天と地が、反転する。
平衡感覚が消え、本来足が接しているべき地面は遠い。
重力が消えたかのように、アウラは彼女の後方へと打ち上げられた。
前へと進む彼の勢いを利用して受け流し、自分が直接手を下すまでも無く相手を制した。
頭が下で足が上という上下反対の状態のまま近くに生えていた木に叩きつけられられる形になり、背中に鈍痛が走る。
「っ痛ぇ~……っ」
逆さのまま、幹からずるずると根本まで落ちた彼の下まで歩いていくカレン。
彼女が彼に手を差し伸べると同時に、砂時計の砂は落ち切ったのであった。
「吹っ飛ばされても、すぐに体勢を立て直してもう一撃見舞うぐらいできれば尚良しね」
笑みを浮かべながらアウラにリクエストする彼女に対し、アウラは
「いやいやカレンさんや、最初っからそんなハイレベルな芸当は出来ませんて……」
と、苦虫を噛み潰したような表情で答える。
まだまだ初日。実力の差と、聳え立つ壁の高さを痛感させられたアウラだった。
一撃を見事にいなされ、その勢いのまま自爆した後もカレンとの仕合は続いた。
魔術の行使に関しては特筆して問題は無く成功しているのが唯一のプラス点だが、未だカレンに一撃を当てる事すら出来ない。
躱してから反撃を試みるも悉くが見切られ、返しの一撃で終わる。時には武器を用いずに徒手空拳でノックアウトされる事もあった。
速さも力も経験も劣っているのは否定しようのない事実だが、ここまで手も足も出ないとなると悔しさも滲む。
「……いやー、しんどいな、色々と」
仰向けになって呟くアウラ。
その顔、肢体には目に見えて傷が増えている。
「まだまだ最初はこんなもんよ。ほら、次行くわよ」
立ち上がるよう促す。そう言う彼女は全くピンピンしている。節々に痛みを感じながらも素直に立ち上がるアウラ。
呼吸を整え、「アグラ」と唱えて同様に強化の魔術を行使する。
五感がより明瞭になっていくのを合図に、再び仕合いが幕を開ける。
※※※※
閑静な森に響き渡る剣戟の声。
既に数十合に渡り打ち合っているが未だに一太刀浴びせる事は適わず、彼女に追い付く事で精一杯だった。
絶え間なく襲い来る斬撃。時に徒手空拳も織り交ぜ、アウラの視覚外から一撃を叩き込み、注意を向けさせる事で牽制している。間合いに入られても、持ち前の並外れた身体能力が素手で強引に捩じ伏せる事すら可能にする。
正に鬼に金棒という言葉を体現しているようにも思えるのが彼女だ。
半ばクラウチングのような状態から仕掛けたのはアウラだった。
一撃や二撃見舞ったところで、見切られる事を想定した上で挑まねば結果は同じ。小手先の技術など通用しない。
「──ッ!」
踏み込みと同時に斬り掛かるも、紙一重の所でカレンは躱していく。
アウラの斬り下ろしから続く薙ぎ払いを刃で受け止めた所で、彼女は視線を刀身から外さぬまま、がら空きのアウラの足を刈って体勢を崩させようとする。
(来た……!)
カレンの足の甲を、アウラの足が上から押さえつける。視界の片隅で僅かに動いたのを見逃さず、自らの隙を生むのを防いだ。
足を刈るのが失敗に終わったのを察し、彼女は後方に大きく退いた。
「流石に、ちょっとはバレて来た……って事ね」
十分な距離を取り、小さく零す。
いなす事が容易である事には変わりない。
しかし、彼の注意を剣以外に向けさせようとも、多少の慣れが生じて来ている。視覚外からの攻撃を前提として仕掛けて来ていたのだ。
警戒された以上、同じ手段を講じても効果は薄まる。
(……なら、少し調子を上げても問題無いか)
アウラを見据えながら、剣の柄を一層強く握り締めた。
彼女も彼と同様強化の術は行使しているが、それでもまだ本気には程遠い。
今の彼を相手取るにはその程度で十分だったが、この時、彼女は彼女自身が抱いた単純な好奇心──アウラが自分と何処まで渡り合えるかという一点を優先した。
深呼吸し、意識を深層へと落とし込む。
余計な思考を放棄し、この一瞬だけは内に秘めた殺意を剥き出しにし、ソレに身体を従わせる。
「……動かなくなった……?」
怪訝そうに見詰めるアウラも、いつ仕掛けられても良いように更にアンテナを敏感にする。
そのお陰で先程は対応出来たという事もあるが、その心配は最早必要なくなってしまった。
ゆっくりと前傾し、カレンが仕掛ける。
それを視認したアウラも身構えるが、
「消え────」
一度の瞬きの間。
眼前に在った筈の彼女の姿が、忽然と姿を消していた。なんらかの魔術を行使したのかと勘ぐったが、それは違うと即座に確信させる。
(いや、違……!)
慌てて振り返る。
彼をそうさせたのは他でも無い、肌がピリ付く程にぶつけられた敵意だった。カレンは距離を詰めるどころか、瞬く間にアウラの背後を取ったのだ。
見逃す事の無いよう常に意識を向けていたが、魔術で高められた動体視力を以てしても捉える事は出来なかった。
自分を見据えていたのは、紫の髪から覗く二つの眼光。鮮血にも似た真紅の双眸から感じ取れるものは唯一つ。
実直な殺意。
コンマ数秒の遅れ。
今の彼女は、アウラが森で見た時と同じモノだった。
一切の加減を捨て、獲物の生命を掠め取らんと蹂躙する殲滅者。
その一撃を受け止める事は出来なかった。
鍔迫り合いになるまでも無く、背後に回り込まれた時点で勝敗は決している。
アウラが防御をしようとする前に、彼の目の前に刃の切っ先が突き付けられる。
「気付くまでは良かったけど、もう少し反応が速かったら防げたかもしれなかったわね」
刹那に見せた殺意は鳴りを潜め、普段通りの調子で言葉を贈る。
「決まった」とでも言うかのように、何処か自信に満ちた表情でもあった。
「……いや、アドバイスは有難いんだけどカレン……」
一瞬で背後を取られたという事実を前にして、アウラは確かに動揺を隠せないでいた。
しかし彼は賛美の言葉を口にするでも驚きに腰を抜かすでもなくただ一つだけ、「何か」に耐えて口にする。
「? どしたの?」
「刃先、掠ってるんだけど」
彼女が突き付けた剣を降ろすと、アウラの額からツーと、血が流れていた。横幅にしておよそ4センチ程。
災難な事に、勢い余って僅かに刃先が彼の肌に触れてしまったのだ。魔獣の身体を容易に両断する程の切れ味を誇る彼女の剣ならばそれは当然。
「……あ、ゴメン」
「ごめんじゃなぁいッ!! めっちゃカッコつけてたけど台無しだよ!! ああああ痛ってぇぇぇぇぇぇぇ!!」
謝罪するカレンに若干キレつつ涙目でツッコむアウラ。
その絶叫は森中を駆け巡り、驚いた鳥達が一斉に飛び立つ。
最後の最後で余計な傷を一つ増やしてしまったが何はともあれ、初日の鍛錬は終わりを迎えた。
※※※※※
カレンとアウラの一対一の鍛錬は休み無く続く。
晴れの日も雨の日も風の日も変わらず、決まって日が暮れるまで街の北東で剣を交わし、その中で強化の魔術の安定と、実戦における戦い方を洗練させていく。
日を追う毎にその傷は増え、治ったと思えば新たに傷が出来る。その様な日々の繰り返し。
まだ彼女の領域に迫る事は出来ないが、無理をせずともカレンの不規則な挙動に対応できるようになっているのを感じていた。
夜、ベッドの上で目を瞑れば、その日の記憶が鮮明に蘇る。
何度も怪我を負いはしたが、不思議とそれから逃げようという気持ちにはならなかった。冒険者としてやっていく為には乗り越えねばならない期間である上、命の恩人である彼女に、恩を仇で返すような真似は出来なかった。
刹那に過ぎる日々の一秒すらも無駄にする訳にはいかない。その為にも、今はひたすら彼女に食らい付き、身体の芯まで戦う術を刻み付ける。