残酷な描写あり
R-15
42話『契約──テウルギア』
────世界が、切り替わる。
気が付いた時には、彼は聖堂の街とはどう見ても違う場所に立っていた。
それは、アウラ……否、雨宮海斗という人間にとって、絶対に忘れる事のない場所。異世界で生きる事を言い渡された異界だった。
雲が漂う蒼天と、それら全てを反射する水面。
見渡す限りの水平線は、正に幻想的の一言に尽きる。
「……「境界」、だよな。ここ」
記憶の中に刻まれた名前を、彼は思わず零した。
地上世界と天上世界の境界に位置する領域。しかし奇妙な事に、彼を送り出した自称天使──アインの姿は何処にもなかった。
「でも、アイツの姿は無いか」
キョロキョロと周囲を見渡す。
この異界から下界を観測し続けている以上、いない筈はないのだが。
「……あれ、顔が……それに服も」
足元に視線を移し、水面に映る自分の姿に驚愕した。
腹部の傷は綺麗さっぱり無くなっており、装いも現代の物。かつてここに来た時と同じ、パーカーにジーパンを着ていた。
当然、その顔も元の物。見慣れた、黒髪をした日本人の物に戻っていた。
「さて、俺がここにいるって事は……ヴォグに殺されたのか。いや、冷静に考えれば、寧ろあれだけの傷で動けた方が奇跡か……」
アウラは顎に手を当て、そう納得する。
辛うじて首は繋がっているが、腹部を貫かれて深手を負っていた事には変わりない。
アウラという人間は、あの地で死を迎えた。雨宮海斗としては、二度目の死だ。人生で二回も死を迎えるのは、寧ろ貴重な体験だろう。
覆らない現実。それを受け入れるしかないが。
「結局、何も出来なかったな。情けない」
暗い表情で、拳を強く握った。
鍛錬は積んだ。授けられた武器を最大限使いこなそうともした。カレンやクロノ達の力になれるように尽力したが、それも無意味だった。
彼の後悔は、ただそれだけだった。
人々を助ける為に、司教であるヴォグと交戦した。ただ、彼は敗北したのだ。
正真正銘の「怪物」。ただ神の武器を携えただけのアウラよりも、遥かに格上の存在。
しかし、悔し気に俯く彼に語り掛けるように──その空間に、声が響き渡る。
「いや、君はよく立ち向かった方だよ、少年」
「!? って、また後ろから声が……デジャブか」
アインが現れた時も、彼女はアウラの背後に立っていた。
同じように、ゆっくと振り向くと、そこには一人の「騎士」が立っていた。
全身を白銀の鎧のような物で覆い、兜を被っている為、その素顔は分からない。
「鎧を着ている訳じゃない。そういう身体なのか……?」
「ああ。私は創造主にこうデザインされたからね。私たちに食事や排泄といった概念は存在しないから、そこまで不便に感じた事は無いよ」
厳かな男声で親し気に語る、謎の騎士。
その身体は堅牢な鎧のようでいて、重々しさを感じさせない。寧ろ、洗練されたスマートな印象を抱かせる物だった。
彼とアウラの間には、手にしていた筈のヴァジュラがフワフワと浮いている。
「それにしても、ヴァジュラを以てしても貫けぬ翼とは。……尤も、古き神の権能であればそのような事もあるか」
(この姿……エドムで見た夢と同じだ)
見つめながら、アウラは頭の片隅にある記憶と照らし合わせる。
ナーガを討伐し、帰還する際にエドム王国に宿泊した日の夜。己が「誰か」に乗り移り、視点を共有し、巨大な竜と戦うという夢。
眼前の騎士の姿は、その時に見た物に限りなく近かったのだ。
「全く、あの神擬きめ……余計な事をしてくれる」
眼前の騎士が、呆れたように額あたりに手を当てて俯く。
この場にいない「誰か」に向けた愚痴を零すと、アウラは
「あの、あなたは」
恐る恐る、騎士に向かって問いかける。
目の前にいる者が誰なのか。その正体に、殆ど彼は気付いている。その答え合わせをするかのように、アウラは言葉を絞り出したのだ。
少しの間を置いて、その騎士は答える。
「あぁ……私はインドラ。────人に重荷を背負わせた、愚かな神の一柱だよ」
その一言に、アウラはゴクリを息を呑む。
太古の時代。まだ地上の支配権が人間ではなく神にあった時代に君臨した、高次の存在。
そして、彼に授けられたヴァジュラの本来の持ち主と、邂逅を果たしたのだった。
「インドラ……いやでも、神々は既に天上世界に至ったって……」
「君の言う通り、我々は地上を去り、魂だけとなって天上界に存在している。今こうして話している私はその断片……分霊のような物だ。正確には、ヴァジュラに宿っていた私の残滓か」
「つまり、今の貴方はインドラであってインドラではない、と。……でも、どうして俺と貴方はここにいるんですか。死んだ俺ならまだしも、神様まで出て来る理由なんて──」
「あぁ、その事なんだが、君はまだ死んだ訳ではないよ。俗に言う仮死状態……意識を失っている僅かな時間を使って、この場を用意させて貰ったんだ」
「仮死状態って……え?」
驚きを隠せない様子のアウラ。今は喜ぶべきタイミングなのだろうが、今は驚愕が勝っていた。
そんな彼に構う事なく、インドラは話を続ける。
「幾つか、君には話しておかねばならない事があってね。以前、ヴァジュラの異能を解放した事があっただろう」
「……はい。一度だけ」
静かに、彼は肯定する。
クロノと共に赴いた洞窟の最深部でナーガを交戦した際、アウラはヴァジュラの異能を断片的に行使した。
巨大な蛇、神々の時代を生きた種でさえ跡形もなく粉砕する程の威力を見せたのは、今でも鮮明に覚えている。
「恐らくその際にヴァジュラを介して、天上にいる本体と接続してしまったようでね。君には申し訳ないが──私と契約して、権能を宿す「偽神」になって貰いたい」
「偽神……アイツも言ってたけど、一体何なんですか」
「文字通り、偽りの神だよ。人でありながら、神の力を振るう者──アヴァターラとも呼ばれる事もある特異な存在だ。神の力を手繰る器として未完成な君には負担を掛けてしまうだろうが……」
インドラは語尾を濁す。
彼の言う通り、ヴァジュラの力の一端を行使しただけで、アウラは動けなくなる。反動で激しい動悸と吐き気に襲われ、暫くは簡単な魔術の行使すらままならなくなる始末だ。
偽神になれば、力を振るっても更なる苦痛に見舞われる。
故に、インドラの言葉は申し訳無さを含んでいた。
「一つだけ、聞いても良いですか」
「何だね」
「貴方と契約して偽神になれば──俺は、アイツに勝てるんですか」
真剣な眼差しで、アウラは問うた。
まだ死んでいないのであれば、まだ希望──司教であるヴォグに肉薄出来るのではないかと思っての事だった。
インドラは数秒の沈黙の後、答える。
「確実だという保証は無い。今も言ったが、君は神の因子を宿す器としては不完全だ。……ヴァジュラの行使すらままならない者が、本体の権能を行使するとなると、どんな反動が返ってくるか分からない」
それは、神から人間への忠告だった。
あまりにも行き過ぎた力。矮小な人間が、古代の神々の異能を宿して振るったとしても、無事で済む筈はない。
アウラは、真っすぐな目で彼の話を聞いている。
「私の推測が正しければ、あの影は、あらゆるモノを殺す呪いだ。恐らく、神期に存在した悪神と接続しているのだろう。目には目をではないが、同じ偽神となれば、先ほどよりは互角に渡り合えるだろうな」
「────なら、契約します」
「……良いのか? もう君はただの人間ではなくなるし、今まで以上に死のリスクが上がるんだぞ?」
「大丈夫です。死なんてのは一度経験済みですし、ヴァジュラを持ち歩いてる事自体、常に爆弾を抱えてるようなもんですよ」
やや表情を緩め、アウラは躊躇いなくインドラに告げた。
「それに、俺はこの世界に来てから、特に目的は無かったんです。カレンに助けられて、成り行きで魔術師になったけど、使命なんて物は何一つとしてありませんでした」
視線を少し下に向けながら、彼は語り出した。
己が異世界に来てからの事。多くの人々と出会って来たが、彼はただ流れに身を任せていただけに過ぎなかったのだ。
「言ってしまえば自己満足かもしれないけど、俺はあの時、俺が後悔しない為にヴァジュラの力を使ったんです。死んだって構わない、あの時一緒に居たクロノだけでも助けられるようにって」
「だから……君は何も後悔はしていないと」
「あぁ。使命とかがある訳じゃないけど、俺に出来る事があるんだったら、全霊を以ってそれを為すだけです。──だから、神様が謝る必要は無いですよ」
欠陥があるが故に、己に出来る事に全力で縋り付く。それがアウラという人間の根底にある思考だ。
出来ない事を求め続けるのではなく──自分に残る数少ない手段で、為すべき事を見定めなければならない。
「何も為せないって足踏みするだけじゃ何も変わらない。だから……自分に使える物がまだあるなら、片っ端から手を伸ばすしかない。──それが例え、身を滅ぼす神の権能でも」
決意を込めた瞳で、アウラは言い切った。
その言葉に、インドラは少しの間黙っていた。彼の気迫に気圧されたのか、それとも呆れたのかは定かではない。
ただ、
「く──はははははは!!」
唐突に、天を仰ぎ、顔に手を当てて笑い出した。
憤るでもなく、悲しむでもなく、アウラはその様を見つめている。
かつて、あらゆる魔を屠った雷神はひとしきり笑った後、何処か嬉しそうな声色で、
「心配など最初から不要だったな。神の力すら己が腕で捻じ伏せんとするその気概、一周回って気に入ったぞ」
インドラがそう言った後、彼らの間に浮遊していたヴァジュラが、アウラの手に渡る。
白銀の刀身は僅かに青白く光り輝き、普段とは違う神聖さを帯びていた。
雷神はアウラの方へと手を翳し、
「良いだろう。此処に契約は交わされた……神々の王の名において、汝に我が権能の一部を託そう」
荘厳な声色で、アウラに宣言する。
この瞬間を以て、アウラはインドラの神性を宿す偽神となり──人という規格から僅かに逸脱する。
「我が名を唱え、我が力を振るう事を許す。汝の体が許す限り、存分に使い潰すと良い」
言祝ぐように、インドラが言った。
足元から光が生じていき、かつて異世界へ送り出された時と同じように、アウラの姿は「境界」から消失した。
※※※※
「────それ程の傷を負って尚、まだ足掻くのか。偽神」
冷たく、重い声が響いた。
「彼ら」がいるのは、月夜に照らされた街の中だった。しかし街といっても、そこに人々の活気など無い。家屋の壁には鮮血が迸り、所々が崩落している。より簡潔に言うのであれば、「戦場」と言えよう。
人々が寝静まる時間帯の夜。そこにあったのは、二人の男の影。
一人はフードのついた黒衣を身に纏い、対するもう一人は頭や脇腹、腕から血を流した銀髪の青年だった。
後ろは壁。
血塗れの青年に、最早逃げるという手段は残されていない。
息は荒く、真っすぐ立つ事は困難な程の深手を負っている。寧ろ、常人であれば既に倒れていても可笑しくはないが──それでも尚、その双眸は眼前に立つ男を睨みつけていた。
銀髪の青年は、己の全てを投げうってでも、この男の命を刈り取る。ただその「執念」だけを支えに立っていた。
一瞬でも気を抜けば飛びかねない意識を根性だけで繋ぎ止めながら、青年は言葉を絞り出す。
「当たり前……だろうが……」
口元の血を拭いながら、精一杯の力を振り絞って言葉を返す。
何故、まだ戦意を持ち続けるのか。
それは彼にとって、答えるのは至極簡単な問題だ。
──後悔したくないから。
その身が朽ち果て、命の灯火が消えるその瞬間まで、己が誇れるような人間でいる為だ。
では、楽にはなりたくないのか。
──どうせ死ぬのなら、最後の一秒まで足掻け。何も為せないまま死ぬ事を許容するな。
「楽になりたい」などという理由で自ら死を選ぶなど、今なお奮闘している仲間。そして、自分自身への裏切りに他ならなかった。
ただそれだけの、簡単な理由。
こちら側に来てから、青年には特に目的などは無かった。
与えられた祝福は代償ありき。戦う為にも欠陥は多くあるが、どれ程劣っていようと、彼には戦う力が備わっていた。
あらゆる危険から逃れる術はあったろうに、彼は茨の道を選択したのだ。
「……俺だけ簡単にリタイアして良い理由なんて何処にも無い、んだよ……」
フラフラになりながら、己の唯一の武器を握り締める。
敵意と決意を秘めた瞳で、立ち向かうべき敵に挑む。
「戦う手段が残されているのなら、出し惜しんで死ぬなんて真似……できないだろ。たとえ──」
──たとえ、それが「命」を代償にする禁忌であっても。
命に代えても、最期まで己が決めたルールを貫き通す。
彼の言葉を聞いても、眼前に立つ男の表情は何一つ変わらない。道の傍らにある生物の亡骸を見るような、死に対して何の関心も持ち合わせていない、人外の眼。
命を奪う事になんの躊躇いも持ち合わせていない、人殺しの眼をしていた。
「つまらないな。時間の無駄だった」
男がそう吐き捨てると同時に、背後に黒い翼のようなものが展開する。
背後から月光が輝くさまはいっそ「美しい」とすら感じさせるが、神聖な天使には程遠い。寧ろ、人の命を奪う鬼神や死神という例えが、その男にはどこまでも相応しかった。
その翼は鞭のように変化し、常人の瞳では捉えられない程の速度で彼に迫る。
狙うは首。青年の息の根を完全に止める、絶命に至る最短距離を突っ切った。
瞬き一つの間に、彼の首は宙を舞う。
回避する事は不可能。約束された死を待つことだけが、彼に許された唯一の慈悲だったが────彼は、
「……テウルギア・ヴァジュラパーニ──!」
そう、力の籠った声で呟いた。
直後、何かが切り裂かれるような音が、夜の聖都を駆け抜けた。
気が付いた時には、彼は聖堂の街とはどう見ても違う場所に立っていた。
それは、アウラ……否、雨宮海斗という人間にとって、絶対に忘れる事のない場所。異世界で生きる事を言い渡された異界だった。
雲が漂う蒼天と、それら全てを反射する水面。
見渡す限りの水平線は、正に幻想的の一言に尽きる。
「……「境界」、だよな。ここ」
記憶の中に刻まれた名前を、彼は思わず零した。
地上世界と天上世界の境界に位置する領域。しかし奇妙な事に、彼を送り出した自称天使──アインの姿は何処にもなかった。
「でも、アイツの姿は無いか」
キョロキョロと周囲を見渡す。
この異界から下界を観測し続けている以上、いない筈はないのだが。
「……あれ、顔が……それに服も」
足元に視線を移し、水面に映る自分の姿に驚愕した。
腹部の傷は綺麗さっぱり無くなっており、装いも現代の物。かつてここに来た時と同じ、パーカーにジーパンを着ていた。
当然、その顔も元の物。見慣れた、黒髪をした日本人の物に戻っていた。
「さて、俺がここにいるって事は……ヴォグに殺されたのか。いや、冷静に考えれば、寧ろあれだけの傷で動けた方が奇跡か……」
アウラは顎に手を当て、そう納得する。
辛うじて首は繋がっているが、腹部を貫かれて深手を負っていた事には変わりない。
アウラという人間は、あの地で死を迎えた。雨宮海斗としては、二度目の死だ。人生で二回も死を迎えるのは、寧ろ貴重な体験だろう。
覆らない現実。それを受け入れるしかないが。
「結局、何も出来なかったな。情けない」
暗い表情で、拳を強く握った。
鍛錬は積んだ。授けられた武器を最大限使いこなそうともした。カレンやクロノ達の力になれるように尽力したが、それも無意味だった。
彼の後悔は、ただそれだけだった。
人々を助ける為に、司教であるヴォグと交戦した。ただ、彼は敗北したのだ。
正真正銘の「怪物」。ただ神の武器を携えただけのアウラよりも、遥かに格上の存在。
しかし、悔し気に俯く彼に語り掛けるように──その空間に、声が響き渡る。
「いや、君はよく立ち向かった方だよ、少年」
「!? って、また後ろから声が……デジャブか」
アインが現れた時も、彼女はアウラの背後に立っていた。
同じように、ゆっくと振り向くと、そこには一人の「騎士」が立っていた。
全身を白銀の鎧のような物で覆い、兜を被っている為、その素顔は分からない。
「鎧を着ている訳じゃない。そういう身体なのか……?」
「ああ。私は創造主にこうデザインされたからね。私たちに食事や排泄といった概念は存在しないから、そこまで不便に感じた事は無いよ」
厳かな男声で親し気に語る、謎の騎士。
その身体は堅牢な鎧のようでいて、重々しさを感じさせない。寧ろ、洗練されたスマートな印象を抱かせる物だった。
彼とアウラの間には、手にしていた筈のヴァジュラがフワフワと浮いている。
「それにしても、ヴァジュラを以てしても貫けぬ翼とは。……尤も、古き神の権能であればそのような事もあるか」
(この姿……エドムで見た夢と同じだ)
見つめながら、アウラは頭の片隅にある記憶と照らし合わせる。
ナーガを討伐し、帰還する際にエドム王国に宿泊した日の夜。己が「誰か」に乗り移り、視点を共有し、巨大な竜と戦うという夢。
眼前の騎士の姿は、その時に見た物に限りなく近かったのだ。
「全く、あの神擬きめ……余計な事をしてくれる」
眼前の騎士が、呆れたように額あたりに手を当てて俯く。
この場にいない「誰か」に向けた愚痴を零すと、アウラは
「あの、あなたは」
恐る恐る、騎士に向かって問いかける。
目の前にいる者が誰なのか。その正体に、殆ど彼は気付いている。その答え合わせをするかのように、アウラは言葉を絞り出したのだ。
少しの間を置いて、その騎士は答える。
「あぁ……私はインドラ。────人に重荷を背負わせた、愚かな神の一柱だよ」
その一言に、アウラはゴクリを息を呑む。
太古の時代。まだ地上の支配権が人間ではなく神にあった時代に君臨した、高次の存在。
そして、彼に授けられたヴァジュラの本来の持ち主と、邂逅を果たしたのだった。
「インドラ……いやでも、神々は既に天上世界に至ったって……」
「君の言う通り、我々は地上を去り、魂だけとなって天上界に存在している。今こうして話している私はその断片……分霊のような物だ。正確には、ヴァジュラに宿っていた私の残滓か」
「つまり、今の貴方はインドラであってインドラではない、と。……でも、どうして俺と貴方はここにいるんですか。死んだ俺ならまだしも、神様まで出て来る理由なんて──」
「あぁ、その事なんだが、君はまだ死んだ訳ではないよ。俗に言う仮死状態……意識を失っている僅かな時間を使って、この場を用意させて貰ったんだ」
「仮死状態って……え?」
驚きを隠せない様子のアウラ。今は喜ぶべきタイミングなのだろうが、今は驚愕が勝っていた。
そんな彼に構う事なく、インドラは話を続ける。
「幾つか、君には話しておかねばならない事があってね。以前、ヴァジュラの異能を解放した事があっただろう」
「……はい。一度だけ」
静かに、彼は肯定する。
クロノと共に赴いた洞窟の最深部でナーガを交戦した際、アウラはヴァジュラの異能を断片的に行使した。
巨大な蛇、神々の時代を生きた種でさえ跡形もなく粉砕する程の威力を見せたのは、今でも鮮明に覚えている。
「恐らくその際にヴァジュラを介して、天上にいる本体と接続してしまったようでね。君には申し訳ないが──私と契約して、権能を宿す「偽神」になって貰いたい」
「偽神……アイツも言ってたけど、一体何なんですか」
「文字通り、偽りの神だよ。人でありながら、神の力を振るう者──アヴァターラとも呼ばれる事もある特異な存在だ。神の力を手繰る器として未完成な君には負担を掛けてしまうだろうが……」
インドラは語尾を濁す。
彼の言う通り、ヴァジュラの力の一端を行使しただけで、アウラは動けなくなる。反動で激しい動悸と吐き気に襲われ、暫くは簡単な魔術の行使すらままならなくなる始末だ。
偽神になれば、力を振るっても更なる苦痛に見舞われる。
故に、インドラの言葉は申し訳無さを含んでいた。
「一つだけ、聞いても良いですか」
「何だね」
「貴方と契約して偽神になれば──俺は、アイツに勝てるんですか」
真剣な眼差しで、アウラは問うた。
まだ死んでいないのであれば、まだ希望──司教であるヴォグに肉薄出来るのではないかと思っての事だった。
インドラは数秒の沈黙の後、答える。
「確実だという保証は無い。今も言ったが、君は神の因子を宿す器としては不完全だ。……ヴァジュラの行使すらままならない者が、本体の権能を行使するとなると、どんな反動が返ってくるか分からない」
それは、神から人間への忠告だった。
あまりにも行き過ぎた力。矮小な人間が、古代の神々の異能を宿して振るったとしても、無事で済む筈はない。
アウラは、真っすぐな目で彼の話を聞いている。
「私の推測が正しければ、あの影は、あらゆるモノを殺す呪いだ。恐らく、神期に存在した悪神と接続しているのだろう。目には目をではないが、同じ偽神となれば、先ほどよりは互角に渡り合えるだろうな」
「────なら、契約します」
「……良いのか? もう君はただの人間ではなくなるし、今まで以上に死のリスクが上がるんだぞ?」
「大丈夫です。死なんてのは一度経験済みですし、ヴァジュラを持ち歩いてる事自体、常に爆弾を抱えてるようなもんですよ」
やや表情を緩め、アウラは躊躇いなくインドラに告げた。
「それに、俺はこの世界に来てから、特に目的は無かったんです。カレンに助けられて、成り行きで魔術師になったけど、使命なんて物は何一つとしてありませんでした」
視線を少し下に向けながら、彼は語り出した。
己が異世界に来てからの事。多くの人々と出会って来たが、彼はただ流れに身を任せていただけに過ぎなかったのだ。
「言ってしまえば自己満足かもしれないけど、俺はあの時、俺が後悔しない為にヴァジュラの力を使ったんです。死んだって構わない、あの時一緒に居たクロノだけでも助けられるようにって」
「だから……君は何も後悔はしていないと」
「あぁ。使命とかがある訳じゃないけど、俺に出来る事があるんだったら、全霊を以ってそれを為すだけです。──だから、神様が謝る必要は無いですよ」
欠陥があるが故に、己に出来る事に全力で縋り付く。それがアウラという人間の根底にある思考だ。
出来ない事を求め続けるのではなく──自分に残る数少ない手段で、為すべき事を見定めなければならない。
「何も為せないって足踏みするだけじゃ何も変わらない。だから……自分に使える物がまだあるなら、片っ端から手を伸ばすしかない。──それが例え、身を滅ぼす神の権能でも」
決意を込めた瞳で、アウラは言い切った。
その言葉に、インドラは少しの間黙っていた。彼の気迫に気圧されたのか、それとも呆れたのかは定かではない。
ただ、
「く──はははははは!!」
唐突に、天を仰ぎ、顔に手を当てて笑い出した。
憤るでもなく、悲しむでもなく、アウラはその様を見つめている。
かつて、あらゆる魔を屠った雷神はひとしきり笑った後、何処か嬉しそうな声色で、
「心配など最初から不要だったな。神の力すら己が腕で捻じ伏せんとするその気概、一周回って気に入ったぞ」
インドラがそう言った後、彼らの間に浮遊していたヴァジュラが、アウラの手に渡る。
白銀の刀身は僅かに青白く光り輝き、普段とは違う神聖さを帯びていた。
雷神はアウラの方へと手を翳し、
「良いだろう。此処に契約は交わされた……神々の王の名において、汝に我が権能の一部を託そう」
荘厳な声色で、アウラに宣言する。
この瞬間を以て、アウラはインドラの神性を宿す偽神となり──人という規格から僅かに逸脱する。
「我が名を唱え、我が力を振るう事を許す。汝の体が許す限り、存分に使い潰すと良い」
言祝ぐように、インドラが言った。
足元から光が生じていき、かつて異世界へ送り出された時と同じように、アウラの姿は「境界」から消失した。
※※※※
「────それ程の傷を負って尚、まだ足掻くのか。偽神」
冷たく、重い声が響いた。
「彼ら」がいるのは、月夜に照らされた街の中だった。しかし街といっても、そこに人々の活気など無い。家屋の壁には鮮血が迸り、所々が崩落している。より簡潔に言うのであれば、「戦場」と言えよう。
人々が寝静まる時間帯の夜。そこにあったのは、二人の男の影。
一人はフードのついた黒衣を身に纏い、対するもう一人は頭や脇腹、腕から血を流した銀髪の青年だった。
後ろは壁。
血塗れの青年に、最早逃げるという手段は残されていない。
息は荒く、真っすぐ立つ事は困難な程の深手を負っている。寧ろ、常人であれば既に倒れていても可笑しくはないが──それでも尚、その双眸は眼前に立つ男を睨みつけていた。
銀髪の青年は、己の全てを投げうってでも、この男の命を刈り取る。ただその「執念」だけを支えに立っていた。
一瞬でも気を抜けば飛びかねない意識を根性だけで繋ぎ止めながら、青年は言葉を絞り出す。
「当たり前……だろうが……」
口元の血を拭いながら、精一杯の力を振り絞って言葉を返す。
何故、まだ戦意を持ち続けるのか。
それは彼にとって、答えるのは至極簡単な問題だ。
──後悔したくないから。
その身が朽ち果て、命の灯火が消えるその瞬間まで、己が誇れるような人間でいる為だ。
では、楽にはなりたくないのか。
──どうせ死ぬのなら、最後の一秒まで足掻け。何も為せないまま死ぬ事を許容するな。
「楽になりたい」などという理由で自ら死を選ぶなど、今なお奮闘している仲間。そして、自分自身への裏切りに他ならなかった。
ただそれだけの、簡単な理由。
こちら側に来てから、青年には特に目的などは無かった。
与えられた祝福は代償ありき。戦う為にも欠陥は多くあるが、どれ程劣っていようと、彼には戦う力が備わっていた。
あらゆる危険から逃れる術はあったろうに、彼は茨の道を選択したのだ。
「……俺だけ簡単にリタイアして良い理由なんて何処にも無い、んだよ……」
フラフラになりながら、己の唯一の武器を握り締める。
敵意と決意を秘めた瞳で、立ち向かうべき敵に挑む。
「戦う手段が残されているのなら、出し惜しんで死ぬなんて真似……できないだろ。たとえ──」
──たとえ、それが「命」を代償にする禁忌であっても。
命に代えても、最期まで己が決めたルールを貫き通す。
彼の言葉を聞いても、眼前に立つ男の表情は何一つ変わらない。道の傍らにある生物の亡骸を見るような、死に対して何の関心も持ち合わせていない、人外の眼。
命を奪う事になんの躊躇いも持ち合わせていない、人殺しの眼をしていた。
「つまらないな。時間の無駄だった」
男がそう吐き捨てると同時に、背後に黒い翼のようなものが展開する。
背後から月光が輝くさまはいっそ「美しい」とすら感じさせるが、神聖な天使には程遠い。寧ろ、人の命を奪う鬼神や死神という例えが、その男にはどこまでも相応しかった。
その翼は鞭のように変化し、常人の瞳では捉えられない程の速度で彼に迫る。
狙うは首。青年の息の根を完全に止める、絶命に至る最短距離を突っ切った。
瞬き一つの間に、彼の首は宙を舞う。
回避する事は不可能。約束された死を待つことだけが、彼に許された唯一の慈悲だったが────彼は、
「……テウルギア・ヴァジュラパーニ──!」
そう、力の籠った声で呟いた。
直後、何かが切り裂かれるような音が、夜の聖都を駆け抜けた。