残酷な描写あり
2.残像の軌跡-3
王妃の部屋に設置されていた監視カメラは、電源を落とされるその瞬間まで、あらゆる『時』を絶え間なく映し続けていた。
ルイフォンの知らない、彼が逃げ出した『あと』の時間も、音もなく静かに、ずっと……。
ルイフォンは――情報屋〈猫〉は、その録画記録を手に入れた。
「映像を再生します」
傍らのレイウェンにそう告げ、彼は震える指先で携帯端末に触れた。
リュイセンの肩から胸へと、〈蝿〉の凶刃が冷酷に流れゆき、一瞬の間をおいて血しぶきが上がった。
「ルイフォン、行け――!」
彼は、倒れながらも〈蝿〉に足を掛け、組み合うようにして床を転がる。
「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」
兄貴分の必死の叫びに、ルイフォンが決意の顔で、くるりと背を向けた。
一本に編んだ髪が大きく弧を描く。彼は言葉にならない雄叫びを上げ、壁の姿見をナイフで粉々に砕きながら走り出した。
控室と衣装部屋を区切るカーテンが、勢いよく薙ぎ払われる。
そして、ルイフォンの髪先を飾る金の鈴が、吸い込まれるように向こうの空間へと消えていった。
あとに残されたのは、〈蝿〉とリュイセン、タオロン。そして、硝子ケースの中で眠る美女『ミンウェイ』――。
「タ……、タオロン……!」
リュイセンに引きずり倒された〈蝿〉が、床から絞り出すような声を上げた。
瀕死であるはずのリュイセンの、いったいどこに、そんな力が残されていたのだろうか。激しい揉み合いの末、リュイセンは全身を使って〈蝿〉を押さえ込み、自分の肩先で〈蝿〉の喉仏を押し潰すようにして締め上げていた。その執念に、〈蝿〉は驚きを禁じ得ない。
「タオロン、鷹刀の子猫を……」
追え――と、言い掛けて〈蝿〉は言葉を止めた。リュイセンが意識を失っていることに気づいたのだ。
失血による気絶だ。なのに彼の両腕は〈蝿〉にがっちりと喰らいついたまま、びくとも動かない。
〈蝿〉は、わずかな逡巡を見せたが、すぐに「タオロン」と再び呼びかけた。
「エルファンの小倅……リュイセンを、私からどかせてください。急いで地下研究室に運びます。このままだと、彼は死にます」
「なっ……!」
タオロンの太い眉が跳ね、即座にリュイセンを〈蝿〉から引きはがした。
呼吸が楽になった〈蝿〉は、ふうと息を吐いたあと、『ミンウェイ』へと歩を進める。そして、訝しがるタオロンを振り返り、近くに来るようにと命じた。
「リュイセンを、『ミンウェイ』のストレッチャーに載せて移動します。硝子ケースを下ろすのを手伝ってください」
「……っ!?」
タオロンは戸惑いの顔を見せた。
〈蝿〉は、『ミンウェイ』を一刻も早く、埃まみれの部屋から連れ戻したいと言って、この部屋に来たのだ。それが、埃どころか血の穢れに彩られた絨毯の上に、彼女の硝子ケースを置こうとしている――。
「何故……だ?」
「『何故』? 今は時間との勝負ですよ? あなたがリュイセンを担いで研究室に運ぶより、ストレッチャーを使ったほうが早いでしょう?」
こめかみに、うっすらと血管を浮かべ、〈蝿〉は叱りつけるように早口で言い放った。
〈蝿〉の顔色も、決して良いとはいえなかった。毒刃を受け、自らえぐった腕の傷は、リュイセンとの乱闘で更に激しく出血している。包帯代わりに巻いた白衣の切れ端は真っ赤に染まり、もはや用を成していない。
「ルイフォンは……?」
追わなくてよいのかと――素朴な疑問がこぼれかけ、タオロンは慌てて口をつぐむ。〈蝿〉がリュイセンの救命を優先しているのだ。余計なことを言う必要はないだろう。
そのまま無言で指示に従おうとしたとき、〈蝿〉がふんと鼻を鳴らした。
「鷹刀の子猫なら、そのへんに隠れていて当分、出てこないでしょう」
〈蝿〉は、ルイフォンが出ていった仕切りのカーテンを見やり、溜め息をつく。
「ならば、リュイセンを囚えておくのが得策です。あなたの娘より、よほど確実な人質になりますからね。そのためには、彼に死なれては困るのですよ」
「ああ……。なんだ、そういうことか……」
タオロンは得心する。〈蝿〉を見直しかけた自分は愚かだったと、彼の顔には書いてあった……。
「……リュイセンは……死んでなかった……」
ルイフォンは脱力し、全身をソファーに投げ出した。
今までの疲れが、どっと出たらしい。彼の体は、ずるずると背もたれを滑り落ち、ぱたりと横になった。とても、他人の家でする行儀ではないが、家主のレイウェンは柔らかに微笑んでいる。隣で寝転がるルイフォンの顔を覗き込み、「お疲れ様」と労ってくれた。
あ、まずい。
ルイフォンはそう思い、慌てて右肘を目の上に載せた。浮き上がってきた涙ごと顔を隠し、拭い取る。こんなのは情けなくて恥ずかしいだろと、自分を叱咤しながら……。
そんな彼の心を察してくれたのだろう。レイウェンが、そっと視線を外した。
なんともいえない沈黙が流れる。……けれど決して、不快なものではなかった。
ルイフォンは、先ほどの映像を反芻する。
リュイセンは重傷だが、天才医師〈蝿〉が、血相を変えて治療にあたると言っていた。ならば、ひとまず安心といっていいだろう。
「けど、これで『助かった』と、断定できるわけじゃねぇか……」
唐突に冷静さを取り戻し、ルイフォンはおもむろに体を起こす。
いくら〈蝿〉でも、あれだけの深手を負ったリュイセンを回復させるのは、並大抵のことではないはずだ。やはり、万一の可能性は残っている。
癖のある前髪をくしゃりと掻き上げ、ルイフォンが思案の海に沈み込もうとしたときだった。
「リュイセンは生きているよ」
隣から、レイウェンが断言した。
「え?」
「見た目に派手な出血をしていたけど、リュイセンは、ちゃんと直撃を避けていた。致命傷は受けていないよ。大丈夫だ」
力強い低音が、ルイフォンの鼓膜を震わせる。緩やかな振動は耳の中から徐々に波紋を広げ、じわじわと心にまで響いてきた。
「本当、か……?」
現実のあの瞬間と、録画記録と。ルイフォンは二度も、リュイセンが〈蝿〉の凶刃をその身に受ける姿を目にしている。どう見ても、致命傷だった。
同意しかねるとの思いを、はっきりと顔に載せてレイウェンを見つめる。半信半疑……というよりも、あからさまな不信――『そんな馬鹿な』だ。
すると、レイウェンはくすりと笑った。そして、まっすぐに、愛おしげな眼差しをルイフォンに注ぐ。
「俺の育てた弟を信じろ。――もうひとりの、俺の異母弟」
ぞくりとするほど甘やかな、低い声。
言葉遣いさえ微妙に変わった、不可思議な言葉。
「レイウェン……? 今、なんて……」
ルイフォンは、細いはずの猫目をいっぱいに見開き、レイウェンを凝視した。
「君は、キリファさんと、私の父上――鷹刀エルファンの息子だよ。だから、私の異母弟になる」
「……は?」
……なんで? 冗談だろ。そんな言葉が頭の中を巡るが、声にならない。
「確かめたわけではないけどね。少なくとも私は、君が生まれたときから、ずっとそう思っているよ」
異母兄を名乗った彼は、包み込むような心地の良い声で、そう告げた。そして、ルイフォンとはまったく似ていない、鷹刀一族特有の美貌を煌めかせながら続ける。
「実はね、『リュイセンが死んだかもしれない』と伝えられたとき、私はたいして心配していなかったんだよ。弟ならば大丈夫だと信じていた。――それよりも、君のことが心配だった。私の大切な異母弟が傷ついていたからね」
レイウェンの中では、ルイフォンは完全に異母弟になっているらしい。
「待てよ、レイウェン! どうして、俺がエルファンの子なんだ!?」
「だって、私はキリファさんを知っているからね。彼女が、父上以外の男の子供を産むなんてあり得ないよ」
「俺だって、母さんを知っているぞ! あの母さんなら、なんでもありだろ!」
破天荒で常識はずれ。他人に予測できない言動など、日常茶飯事。レイウェンの弁は、単なる思い込みだ。くだらない与太話に過ぎない。
しかし、レイウェンに引き下がる気配はなかった。やんわりと詰め寄ってくる。何があっても、ルイフォンを異母弟にしたいらしい。
「君は『父上と一緒にいるときのキリファさん』を知らないだろう?」
「それは……そうだけど……」
「キリファさんは、凄く、可愛らしい人だったよ。意地っ張りで、素直じゃなくて。いつも、思っていることとは逆のことばかり父上に言っていた」
「……そんな女、可愛くねぇだろ」
「父上も父上で、朴念仁で気が利かなくて。キリファさんが涙ぐんでいるのを見て、初めて彼女の本心に気づくような不甲斐なさだった」
「……エルファンも情けねぇな。……ああ、いや、あの母さんは泣かないだろ」
「父上もキリファさんも、不器用で、言葉が足りなかった。でも……いや、だからこそ、強く惹かれ合い、そっと寄り添うように背中を預け、支え合っていたんだよ」
「…………っ」
ルイフォンは、反射的に何か返そうとしたが、なんの言葉も出なかった。
母とエルファンが仲睦まじくしている姿など想像できないのだが、現実としてふたりは好い仲だった。そして、別れたあとも、本当はずっと想い合っていたらしいことは、母の親友ともいえる人工知能〈ケル〉の様子から、ルイフォンも察している。
しかし、だからといって、いきなり自分の父親がエルファンだと言われて、納得できるわけもない。
「……なんでレイウェンは、俺を異母弟にしたがるんだよ。――というか、単に『血縁』でも、『叔父と甥』でも、なんでもいいじゃねぇか。今まで疎遠にしておいて言うのもなんだけど、俺はレイウェンのことを信頼しているぜ? どんな間柄でも、それは変わらない」
関係を示す言葉など、別にどうでもいい。
レイウェンは想像していたよりも、ずっといい奴だった。これからも付き合っていきたいと思う。だがそれは、血族だからではなく、レイウェンだからだ。
「ありがとう。……そうだね、君なら、そう言うだろうね」
彼は、優しく甘やかな美貌をルイフォンに向けたまま、瞳はどこか遠くを見つめていた。その眼差しに、憂いの影が混じる。
「ごめんね。これは私の感傷だよ」
「レイウェン……?」
「私は、ほら、鷹刀の直系だろう? 血を濃く煮詰めすぎた『鷹刀』だ。――私は運良く健康に生まれたけれど、私の上には育たなかった兄弟が何人もいるし、私とシャンリーは、生まれたばかりの弟が、ほんの数時間で息を引き取ったのをこの目で見ている」
「あ……」
一族には子供が生まれない、育たないと聞かされているが、ルイフォンは濃い血の血族の死を目の当たりにしたことはない。だから、実感がなかった。
頭では理解しているつもりだったが、それは一族が〈七つの大罪〉に支配されていた古い時代の話で、遠い世界のことのように捉えていた。
「だからね、私にとって、兄弟というのは特別なんだよ」
穏やかであるのに、強い声。その裏に見えるのは、ルイフォンへの深い愛情だ。
思い込みにせよ、ルイフォンが生まれたときから、気に掛けてくれていたことは本当なのだろう。……むず痒いけど、悪くはない。
「ま、いいか。エルファンが俺の父親というのは納得できねぇけど、レイウェンが兄っていうのなら歓迎だ」
「…………え?」
想定外の発言であったのか、レイウェンの美麗な顔が、一瞬、呆けたように崩れた。
「それで、いいだろ?」
ルイフォンは念を押すような口調で言ってから、抜けるような青空のような笑顔を浮かべる。
「……ああ、そうだね。ありがとう」
『兄』もまた、麗しの美貌を輝かせて微笑んだ。
ふと。
ルイフォンは、自分の心が極めて平静であることに気づいた。明鏡止水とまではいかないが、これから為すべきことが、きちんと見えている。
彼は猫の目を鋭く光らせ、隣のレイウェンに向き合った。背中の金の鈴が、道を切り拓くように空を薙ぐ。
「レイウェン、ありがとな。――リュイセンは必ず俺が助ける」
「頼んだ。『俺の異母弟』になら、安心して任せられるよ」
この約束が、暇乞いの挨拶だ。
どちらからともなくソファーから立ち上がり、握手を交わす。
問題は山積みだ。けれど、負ける気はしない。
「あ、そうだ。シャンリーに『スープ、美味かったです。ご馳走様でした』と伝えてほしい」
「ああ、彼女の料理は世界一だからね」
とろけるような甘やかさで、レイウェンが破顔する。
「……」
惚気の入った『兄』に苦笑し、ルイフォンは草薙家をあとにした。
ルイフォンの知らない、彼が逃げ出した『あと』の時間も、音もなく静かに、ずっと……。
ルイフォンは――情報屋〈猫〉は、その録画記録を手に入れた。
「映像を再生します」
傍らのレイウェンにそう告げ、彼は震える指先で携帯端末に触れた。
リュイセンの肩から胸へと、〈蝿〉の凶刃が冷酷に流れゆき、一瞬の間をおいて血しぶきが上がった。
「ルイフォン、行け――!」
彼は、倒れながらも〈蝿〉に足を掛け、組み合うようにして床を転がる。
「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」
兄貴分の必死の叫びに、ルイフォンが決意の顔で、くるりと背を向けた。
一本に編んだ髪が大きく弧を描く。彼は言葉にならない雄叫びを上げ、壁の姿見をナイフで粉々に砕きながら走り出した。
控室と衣装部屋を区切るカーテンが、勢いよく薙ぎ払われる。
そして、ルイフォンの髪先を飾る金の鈴が、吸い込まれるように向こうの空間へと消えていった。
あとに残されたのは、〈蝿〉とリュイセン、タオロン。そして、硝子ケースの中で眠る美女『ミンウェイ』――。
「タ……、タオロン……!」
リュイセンに引きずり倒された〈蝿〉が、床から絞り出すような声を上げた。
瀕死であるはずのリュイセンの、いったいどこに、そんな力が残されていたのだろうか。激しい揉み合いの末、リュイセンは全身を使って〈蝿〉を押さえ込み、自分の肩先で〈蝿〉の喉仏を押し潰すようにして締め上げていた。その執念に、〈蝿〉は驚きを禁じ得ない。
「タオロン、鷹刀の子猫を……」
追え――と、言い掛けて〈蝿〉は言葉を止めた。リュイセンが意識を失っていることに気づいたのだ。
失血による気絶だ。なのに彼の両腕は〈蝿〉にがっちりと喰らいついたまま、びくとも動かない。
〈蝿〉は、わずかな逡巡を見せたが、すぐに「タオロン」と再び呼びかけた。
「エルファンの小倅……リュイセンを、私からどかせてください。急いで地下研究室に運びます。このままだと、彼は死にます」
「なっ……!」
タオロンの太い眉が跳ね、即座にリュイセンを〈蝿〉から引きはがした。
呼吸が楽になった〈蝿〉は、ふうと息を吐いたあと、『ミンウェイ』へと歩を進める。そして、訝しがるタオロンを振り返り、近くに来るようにと命じた。
「リュイセンを、『ミンウェイ』のストレッチャーに載せて移動します。硝子ケースを下ろすのを手伝ってください」
「……っ!?」
タオロンは戸惑いの顔を見せた。
〈蝿〉は、『ミンウェイ』を一刻も早く、埃まみれの部屋から連れ戻したいと言って、この部屋に来たのだ。それが、埃どころか血の穢れに彩られた絨毯の上に、彼女の硝子ケースを置こうとしている――。
「何故……だ?」
「『何故』? 今は時間との勝負ですよ? あなたがリュイセンを担いで研究室に運ぶより、ストレッチャーを使ったほうが早いでしょう?」
こめかみに、うっすらと血管を浮かべ、〈蝿〉は叱りつけるように早口で言い放った。
〈蝿〉の顔色も、決して良いとはいえなかった。毒刃を受け、自らえぐった腕の傷は、リュイセンとの乱闘で更に激しく出血している。包帯代わりに巻いた白衣の切れ端は真っ赤に染まり、もはや用を成していない。
「ルイフォンは……?」
追わなくてよいのかと――素朴な疑問がこぼれかけ、タオロンは慌てて口をつぐむ。〈蝿〉がリュイセンの救命を優先しているのだ。余計なことを言う必要はないだろう。
そのまま無言で指示に従おうとしたとき、〈蝿〉がふんと鼻を鳴らした。
「鷹刀の子猫なら、そのへんに隠れていて当分、出てこないでしょう」
〈蝿〉は、ルイフォンが出ていった仕切りのカーテンを見やり、溜め息をつく。
「ならば、リュイセンを囚えておくのが得策です。あなたの娘より、よほど確実な人質になりますからね。そのためには、彼に死なれては困るのですよ」
「ああ……。なんだ、そういうことか……」
タオロンは得心する。〈蝿〉を見直しかけた自分は愚かだったと、彼の顔には書いてあった……。
「……リュイセンは……死んでなかった……」
ルイフォンは脱力し、全身をソファーに投げ出した。
今までの疲れが、どっと出たらしい。彼の体は、ずるずると背もたれを滑り落ち、ぱたりと横になった。とても、他人の家でする行儀ではないが、家主のレイウェンは柔らかに微笑んでいる。隣で寝転がるルイフォンの顔を覗き込み、「お疲れ様」と労ってくれた。
あ、まずい。
ルイフォンはそう思い、慌てて右肘を目の上に載せた。浮き上がってきた涙ごと顔を隠し、拭い取る。こんなのは情けなくて恥ずかしいだろと、自分を叱咤しながら……。
そんな彼の心を察してくれたのだろう。レイウェンが、そっと視線を外した。
なんともいえない沈黙が流れる。……けれど決して、不快なものではなかった。
ルイフォンは、先ほどの映像を反芻する。
リュイセンは重傷だが、天才医師〈蝿〉が、血相を変えて治療にあたると言っていた。ならば、ひとまず安心といっていいだろう。
「けど、これで『助かった』と、断定できるわけじゃねぇか……」
唐突に冷静さを取り戻し、ルイフォンはおもむろに体を起こす。
いくら〈蝿〉でも、あれだけの深手を負ったリュイセンを回復させるのは、並大抵のことではないはずだ。やはり、万一の可能性は残っている。
癖のある前髪をくしゃりと掻き上げ、ルイフォンが思案の海に沈み込もうとしたときだった。
「リュイセンは生きているよ」
隣から、レイウェンが断言した。
「え?」
「見た目に派手な出血をしていたけど、リュイセンは、ちゃんと直撃を避けていた。致命傷は受けていないよ。大丈夫だ」
力強い低音が、ルイフォンの鼓膜を震わせる。緩やかな振動は耳の中から徐々に波紋を広げ、じわじわと心にまで響いてきた。
「本当、か……?」
現実のあの瞬間と、録画記録と。ルイフォンは二度も、リュイセンが〈蝿〉の凶刃をその身に受ける姿を目にしている。どう見ても、致命傷だった。
同意しかねるとの思いを、はっきりと顔に載せてレイウェンを見つめる。半信半疑……というよりも、あからさまな不信――『そんな馬鹿な』だ。
すると、レイウェンはくすりと笑った。そして、まっすぐに、愛おしげな眼差しをルイフォンに注ぐ。
「俺の育てた弟を信じろ。――もうひとりの、俺の異母弟」
ぞくりとするほど甘やかな、低い声。
言葉遣いさえ微妙に変わった、不可思議な言葉。
「レイウェン……? 今、なんて……」
ルイフォンは、細いはずの猫目をいっぱいに見開き、レイウェンを凝視した。
「君は、キリファさんと、私の父上――鷹刀エルファンの息子だよ。だから、私の異母弟になる」
「……は?」
……なんで? 冗談だろ。そんな言葉が頭の中を巡るが、声にならない。
「確かめたわけではないけどね。少なくとも私は、君が生まれたときから、ずっとそう思っているよ」
異母兄を名乗った彼は、包み込むような心地の良い声で、そう告げた。そして、ルイフォンとはまったく似ていない、鷹刀一族特有の美貌を煌めかせながら続ける。
「実はね、『リュイセンが死んだかもしれない』と伝えられたとき、私はたいして心配していなかったんだよ。弟ならば大丈夫だと信じていた。――それよりも、君のことが心配だった。私の大切な異母弟が傷ついていたからね」
レイウェンの中では、ルイフォンは完全に異母弟になっているらしい。
「待てよ、レイウェン! どうして、俺がエルファンの子なんだ!?」
「だって、私はキリファさんを知っているからね。彼女が、父上以外の男の子供を産むなんてあり得ないよ」
「俺だって、母さんを知っているぞ! あの母さんなら、なんでもありだろ!」
破天荒で常識はずれ。他人に予測できない言動など、日常茶飯事。レイウェンの弁は、単なる思い込みだ。くだらない与太話に過ぎない。
しかし、レイウェンに引き下がる気配はなかった。やんわりと詰め寄ってくる。何があっても、ルイフォンを異母弟にしたいらしい。
「君は『父上と一緒にいるときのキリファさん』を知らないだろう?」
「それは……そうだけど……」
「キリファさんは、凄く、可愛らしい人だったよ。意地っ張りで、素直じゃなくて。いつも、思っていることとは逆のことばかり父上に言っていた」
「……そんな女、可愛くねぇだろ」
「父上も父上で、朴念仁で気が利かなくて。キリファさんが涙ぐんでいるのを見て、初めて彼女の本心に気づくような不甲斐なさだった」
「……エルファンも情けねぇな。……ああ、いや、あの母さんは泣かないだろ」
「父上もキリファさんも、不器用で、言葉が足りなかった。でも……いや、だからこそ、強く惹かれ合い、そっと寄り添うように背中を預け、支え合っていたんだよ」
「…………っ」
ルイフォンは、反射的に何か返そうとしたが、なんの言葉も出なかった。
母とエルファンが仲睦まじくしている姿など想像できないのだが、現実としてふたりは好い仲だった。そして、別れたあとも、本当はずっと想い合っていたらしいことは、母の親友ともいえる人工知能〈ケル〉の様子から、ルイフォンも察している。
しかし、だからといって、いきなり自分の父親がエルファンだと言われて、納得できるわけもない。
「……なんでレイウェンは、俺を異母弟にしたがるんだよ。――というか、単に『血縁』でも、『叔父と甥』でも、なんでもいいじゃねぇか。今まで疎遠にしておいて言うのもなんだけど、俺はレイウェンのことを信頼しているぜ? どんな間柄でも、それは変わらない」
関係を示す言葉など、別にどうでもいい。
レイウェンは想像していたよりも、ずっといい奴だった。これからも付き合っていきたいと思う。だがそれは、血族だからではなく、レイウェンだからだ。
「ありがとう。……そうだね、君なら、そう言うだろうね」
彼は、優しく甘やかな美貌をルイフォンに向けたまま、瞳はどこか遠くを見つめていた。その眼差しに、憂いの影が混じる。
「ごめんね。これは私の感傷だよ」
「レイウェン……?」
「私は、ほら、鷹刀の直系だろう? 血を濃く煮詰めすぎた『鷹刀』だ。――私は運良く健康に生まれたけれど、私の上には育たなかった兄弟が何人もいるし、私とシャンリーは、生まれたばかりの弟が、ほんの数時間で息を引き取ったのをこの目で見ている」
「あ……」
一族には子供が生まれない、育たないと聞かされているが、ルイフォンは濃い血の血族の死を目の当たりにしたことはない。だから、実感がなかった。
頭では理解しているつもりだったが、それは一族が〈七つの大罪〉に支配されていた古い時代の話で、遠い世界のことのように捉えていた。
「だからね、私にとって、兄弟というのは特別なんだよ」
穏やかであるのに、強い声。その裏に見えるのは、ルイフォンへの深い愛情だ。
思い込みにせよ、ルイフォンが生まれたときから、気に掛けてくれていたことは本当なのだろう。……むず痒いけど、悪くはない。
「ま、いいか。エルファンが俺の父親というのは納得できねぇけど、レイウェンが兄っていうのなら歓迎だ」
「…………え?」
想定外の発言であったのか、レイウェンの美麗な顔が、一瞬、呆けたように崩れた。
「それで、いいだろ?」
ルイフォンは念を押すような口調で言ってから、抜けるような青空のような笑顔を浮かべる。
「……ああ、そうだね。ありがとう」
『兄』もまた、麗しの美貌を輝かせて微笑んだ。
ふと。
ルイフォンは、自分の心が極めて平静であることに気づいた。明鏡止水とまではいかないが、これから為すべきことが、きちんと見えている。
彼は猫の目を鋭く光らせ、隣のレイウェンに向き合った。背中の金の鈴が、道を切り拓くように空を薙ぐ。
「レイウェン、ありがとな。――リュイセンは必ず俺が助ける」
「頼んだ。『俺の異母弟』になら、安心して任せられるよ」
この約束が、暇乞いの挨拶だ。
どちらからともなくソファーから立ち上がり、握手を交わす。
問題は山積みだ。けれど、負ける気はしない。
「あ、そうだ。シャンリーに『スープ、美味かったです。ご馳走様でした』と伝えてほしい」
「ああ、彼女の料理は世界一だからね」
とろけるような甘やかさで、レイウェンが破顔する。
「……」
惚気の入った『兄』に苦笑し、ルイフォンは草薙家をあとにした。