残酷な描写あり
4.囚われの姫君-3
『〈神の御子〉の『ライシェン』。――彼は、鷹刀セレイエの子供のクローンです』
『彼女は、殺された息子を『次代の王』として誕生させようとしているのですよ』
それが――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』。
研究室の空気が、冷たく沈み込んだ。
メイシアも、〈蝿〉も押し黙り、地下の空間は重たい静寂に包まれる。ふたりとも、時が止まったかのように動かず、機械類の鈍い振動だけが、現実との繋がりを示していた。
どのくらい、そうしていただろうか。
不意に、〈蝿〉が勝ち誇ったかのように口角を上げた。期待通りのメイシアの反応に、愉悦の笑みをこらえきれなくなったのだ。
〈蝿〉の低い嗤いが広がる。
それでもメイシアは、凍りついたように瞬きひとつできない。
ひとしきり冷笑を響かせると、彼は満足したのだろう。彼女の驚愕は充分に堪能したとばかりの上機嫌な様子で、付け足すように言う。
「鷹刀セレイエは、大切に保管されていたはずの『過去の王の遺伝子』をすべて廃棄しました。つまり、〈神の御子〉のクローンが欲しければ『ライシェン』を作るしかない、という状況を作り上げたわけですよ」
「――!」
メイシアが掌で口元を押さえると、手枷の鎖が音を立てた。
〈蝿〉は嬉しそうに、喉の奥を鳴らす。
「彼女は、女王と婚約者が『異母兄妹』だということも知っていたのでしょう。だから、まず間違いなく、女王は自分で〈神の御子〉を産もうなどとは考えない。結婚が決まれば、すぐにクローンに頼る。――そう踏んだわけです。まったく、たいした策士ですね」
〈蝿〉は、肩をすくめて称賛した。
けれど――。
彼は、セレイエを自分の『同類』と言っていた。憎みながら、恨みながら、それだけではない感情を抱いている。
軽く目を伏せた美貌は、意地の悪い微笑。自分の子を蘇らせようと必死にあがくセレイエに対し、嘲っているようであり――、憐れんでいるようにも……見えてしまった。
メイシアは、目線を落とし、〈蝿〉を視界から外す。間違っても、彼に同情などしたくなかった。
綺麗に磨かれた床を見ながら、彼女は、ふと思い出す。
『女王の婚約を開始条件に、『デヴァイン・シンフォニア計画』は動き出す』
ルイフォンは、ずっとそう言っていた。
本当に、その通りだったのだ。
ぴたりと合った符丁に、震えが止まらない……。
「さて。余興は、このくらいでよいでしょう」
不意を衝くような低音に、メイシアは、はっとした。
そうであった。
〈蝿〉にとっては、『デヴァイン・シンフォニア計画』の目的を語ることは、余興に過ぎない。この男はただ、彼女が驚く様を見たかっただけだ。
彼は、おもむろに立ち上がった。くるりと白衣の背を見せ、そのまま部屋の奥へと歩き出す。
行く手に衝立が見えた。
明らかに不自然に置かれたそれは、その向こう側にあるものを隠すためだろう。
「!」
メイシアは悟り、顔色を変える。
――『ライシェン』と『ミンウェイ』だ。
衝立の向こうには、硝子ケースに入った『彼ら』がいる。
そうとしか考えられない。
さらわれ、囚われてしまったという、自分の状況にばかり目が行ってしまい、周りを探ることを忘れていた。
何故もっと早く、『彼ら』の姿が見えないことに気づかなかったのであろう。この研究室は『彼ら』のための場所といっても過言ではないのに。
そう思った瞬間、ぞくりと悪寒が走った。
本能的な恐怖だった。
〈蝿〉は、メイシアと『ライシェン』を対面させる気なのだ。そして、彼女の中の『セレイエ』に揺さぶりをかけ、目覚めさせようとしている。
『ライシェン』を目にすれば、『セレイエ』は必ず出てくる。理屈は分からないが、確信めいた予感がした。
「待ってください!」
鋭い声に、〈蝿〉が何ごとかと立ち止まる。彼の足元で、長い白衣の裾が慣性に舞い上がった。
「『セレイエさん』が出てきたら、私は〈天使〉になるのですか?」
刹那、〈蝿〉の哄笑が響き渡る。
「なるほど。そういうことですか。それを恐れて、頑なに『鷹刀セレイエ』を拒んでいたのですね」
「いえ、そういうわけでは……」
「安心なさい。〈天使〉化には、外科的手術のような手続きが必要だと聞いています。――いつの間にか背中に羽が生えているなんてことはありませんし、専門外の私では、あなたを〈天使〉にすることはできませんよ」
メイシアは、あからさまに安堵する。その表情が〈蝿〉の失笑を買ったが、気づきもしなかった。
「第一、あなたが〈天使〉になったら、あなたは私のことを殺すでしょう? 〈天使〉化すれば、あなたは無敵の化け物になるのですからね」
粘性を帯びた、不快な視線が彼女を舐めた。
「――!」
〈天使〉とは、人の脳に記憶や命令を書き込むクラッカー。
『死』を招く命令を刻めば、人の死すらも操れる――。
メイシアは総毛立った。
人知を超えた力は、〈蝿〉の言う通り『化け物』といえるだろう。
自分が、自分でなくなる。別のものになってしまう。
それが今ではないとしても、セレイエが『最強の〈天使〉』を望んでいるのなら、いずれは……。
「大丈夫ですよ。私にとっては、あなたは、あくまでも鷹刀セレイエとの取り引き材料であり、情報源ですよ」
薄く嗤って、彼は再び身を翻す。
「待っ……」
引き止めようと伸ばした手から、じゃらりという冷たい鎖の音が響いた。
「……!」
囚われの彼女には、自由な意思はない。〈蝿〉が『ライシェン』を見せたいと思えば、それは実行されるのだ。
がたがたと震える体をメイシアは掻き抱いた。
わめき散らしたい心を抑え、涙を堪えるために、黒曜石の瞳を必死に見開く。薄紅の唇を噛み締め、血の赤が混じっても嗚咽ひとつ漏らさない。
それが、せめてもの矜持だ。
そして――。
〈蝿〉は、黒い布で上からすっぽりと覆われたワゴンを押してきた。
メイシアは、びくりと身をすくませ、慌てて、睨みつけるような強い眼差しを彼に向ける。その滑稽な不調和に、〈蝿〉は抑えた嗤いで肩を揺らした。
「これがなんだか、分かってらっしゃるようですね。さすが、察しの良いことで」
「……っ」
「しかし、何故そんなに脅えているのか、私にはちっとも理解できません。あなたは、何ひとつ失うことなく、『鷹刀セレイエ』という天才的な策士の頭脳を手に入れられるのですよ?」
〈蝿〉の言いたいことは分かる。
労せずして、セレイエの持つあらゆる知識と情報を手に入れられるのだ。メイシアを翻弄し続けた『デヴァイン・シンフォニア計画』の全貌だって知ることもできる。
損得でいえば、『得』だ。
それでも、本能的な拒絶が湧き上がる。
「私は、私自身しか必要としていません……!」
細い声が、メイシアの口から絞り出された。
〈七つの大罪〉の技術は、禁忌に触れる。人の世の理から外れたもの。
「私は、『悪魔』ではないから……! 私は、無力なただの『人』だから……!」
〈蝿〉は、やれやれとばかりに首を振った。お互い、相容れないことだけは分かち合いましたね、とでも言いたいのだろう、大儀そうに溜め息をついた。
それから彼は、まるで単純な作業でもするかように、無表情な美貌でメイシアに右手を伸ばした。手枷の鎖を無造作に掴み、彼女が逃げられないように引き寄せる。
「――!」
メイシアは、声にならない悲鳴を上げた。
次の瞬間、〈蝿〉の左手が、ワゴンに掛けられた黒い布を取り払った。
培養液に満たされた硝子ケースの中。
ゆらりゆらりと、揺り籠でまどろむように漂い、瞬きをする、ひとりの赤子。
陽光を溶かし込んだような、白金の髪。
蒼天を写し取ったような、澄んだ青灰色の瞳……。
『ライシェン』を目にした瞬間、メイシアの世界は暗転した――。
メイシア……。
お願い。『ライシェン』を守って……。
〈蝿〉の言ったことは、『デヴァイン・シンフォニア計画』の真実の半分だけ。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、『ライシェン』に幸せを贈るための計画。
ライシェンに。
叶えられなかった幸せを――。
与えられなかった未来を――。
『最強の〈天使〉』の力は、そのためだけのものだから……。
『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』――『神』として生まれたライシェンに捧げる交響曲であり、『命に対する冒涜』。
ルイフォンとふたりで、『ライシェン』を守って……。
メイシアは、腕の中に温かな重みを感じた。
不思議に思って目線を下げれば、白金の産毛が浅い呼吸と共に踊っていた。甘いミルクの香りを漂わせ、小さな赤子が彼女に抱かれて眠っている。
――ライシェン!?
驚きに心臓が跳ね、彼を取り落しそうになった――と思って、焦る。
しかし、彼女の腕は、変わらずにライシェンを優しく包んでいた。
安心しきった様子の彼は、彼女の胸に、ことんと頭を預ける。彼の体温を感じた箇所から、幸せが広がっていく。
……メイシアは理解した。これは、セレイエの記憶だ。
生まれて間もないライシェンの、柔らかな感触。彼を見つめるセレイエから、狂おしいほどの愛情が伝わってくる。
ふと、ライシェンが目を開けた。
ぱっちりと開かれた瞳は、透き通るような青灰色。彼もまた、嬉しそうに、セレイエを見つめ返しているように感じる。
小さな手が伸びてきて、セレイエの胸元を飾っていたものを握った。
それが何かに気づき、メイシアは息を呑む。
――『お守り』のペンダントだ……。
セレイエによって、メイシアが『お守り』だと思い込まされたそれを見つけ、ライシェンはご機嫌のようだった。
「口に入れたりしないかな?」
少し心配そうな男性の声が聞こえた。
「気をつけてあげないとね」
セレイエは指先でそっとライシェンをあやし、ペンダントを返してもらった。
それから彼女は顔を上げ、先ほどの男性を瞳に映す。その顔を見た瞬間、メイシアは驚愕に震えた。
――ヤンイェン殿下……!
先王の甥であり、現女王の婚約者、ヤンイェン。
セレイエとライシェンを優しく見守る彼は、どう考えても彼らの『家族』だった。
――つまり、ライシェンの父親は、ヤンイェン殿下だ。
セレイエが貴族と駆け落ちしたと伝えられていたのは、王族と言うのがはばかられたからだろう。
しかし、どうしてセレイエとヤンイェンが……?
メイシアがそう思った瞬間、セレイエの中にあるヤンイェンに関する記憶が、あふれ出てきた。
「君が新しく加わった〈悪魔〉? 私はヤンイェン。〈七つの大罪〉の運営を一任されている。よろしく」
「〈神の御子〉……? 私の血のせいだ……」
「殺された――! ライシェンが! 王に――!」
「セレイエ!」
勢いよく開かれた扉の音が、セレイエの耳朶を打った。いつもとは違う悲痛な声に、彼女の心臓が警鐘を鳴らす。
流れ込んできた風の中に、鉄の匂いが混じっていた。
不吉な予感に振り向くと、胸元を紅に染めたヤンイェンが、よろよろと部屋に倒れ込んでくる。
「ヤンイェン!?」
「心配は要らない」
血相を変えて駆け寄るセレイエを、押し止めるようにヤンイェンは言った。
「これは、返り血だ」
彼は低く呟き、真っ赤な飛沫を浴びた両手を見せる。
皮膚にこびりついた罪の色は、まだ新しく鮮やかで――しかし、既に起きてしまったことを示すように、彼の指先は震えていた。
「許せなかった……。王を――父を……」
「ごめん、セレイエ……」
「私は王を殺した。じきに捕まるだろう。――だから、君は逃げるんだ」
セレイエが血の穢れに染まらぬようにと、ヤンイェンは彼女の腕を拒んだ。
けれど構わず、彼女は無我夢中で彼を抱きしめた。
血を吸い上げた彼の上着は、上質な布地であることを忘れ、重くごわついていた。
体を離そうとする彼に、むしろ体を擦り寄せ、分かち合う。
彼と熱を合わせ、罪を共にする。
そして――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まる……。
『彼女は、殺された息子を『次代の王』として誕生させようとしているのですよ』
それが――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』。
研究室の空気が、冷たく沈み込んだ。
メイシアも、〈蝿〉も押し黙り、地下の空間は重たい静寂に包まれる。ふたりとも、時が止まったかのように動かず、機械類の鈍い振動だけが、現実との繋がりを示していた。
どのくらい、そうしていただろうか。
不意に、〈蝿〉が勝ち誇ったかのように口角を上げた。期待通りのメイシアの反応に、愉悦の笑みをこらえきれなくなったのだ。
〈蝿〉の低い嗤いが広がる。
それでもメイシアは、凍りついたように瞬きひとつできない。
ひとしきり冷笑を響かせると、彼は満足したのだろう。彼女の驚愕は充分に堪能したとばかりの上機嫌な様子で、付け足すように言う。
「鷹刀セレイエは、大切に保管されていたはずの『過去の王の遺伝子』をすべて廃棄しました。つまり、〈神の御子〉のクローンが欲しければ『ライシェン』を作るしかない、という状況を作り上げたわけですよ」
「――!」
メイシアが掌で口元を押さえると、手枷の鎖が音を立てた。
〈蝿〉は嬉しそうに、喉の奥を鳴らす。
「彼女は、女王と婚約者が『異母兄妹』だということも知っていたのでしょう。だから、まず間違いなく、女王は自分で〈神の御子〉を産もうなどとは考えない。結婚が決まれば、すぐにクローンに頼る。――そう踏んだわけです。まったく、たいした策士ですね」
〈蝿〉は、肩をすくめて称賛した。
けれど――。
彼は、セレイエを自分の『同類』と言っていた。憎みながら、恨みながら、それだけではない感情を抱いている。
軽く目を伏せた美貌は、意地の悪い微笑。自分の子を蘇らせようと必死にあがくセレイエに対し、嘲っているようであり――、憐れんでいるようにも……見えてしまった。
メイシアは、目線を落とし、〈蝿〉を視界から外す。間違っても、彼に同情などしたくなかった。
綺麗に磨かれた床を見ながら、彼女は、ふと思い出す。
『女王の婚約を開始条件に、『デヴァイン・シンフォニア計画』は動き出す』
ルイフォンは、ずっとそう言っていた。
本当に、その通りだったのだ。
ぴたりと合った符丁に、震えが止まらない……。
「さて。余興は、このくらいでよいでしょう」
不意を衝くような低音に、メイシアは、はっとした。
そうであった。
〈蝿〉にとっては、『デヴァイン・シンフォニア計画』の目的を語ることは、余興に過ぎない。この男はただ、彼女が驚く様を見たかっただけだ。
彼は、おもむろに立ち上がった。くるりと白衣の背を見せ、そのまま部屋の奥へと歩き出す。
行く手に衝立が見えた。
明らかに不自然に置かれたそれは、その向こう側にあるものを隠すためだろう。
「!」
メイシアは悟り、顔色を変える。
――『ライシェン』と『ミンウェイ』だ。
衝立の向こうには、硝子ケースに入った『彼ら』がいる。
そうとしか考えられない。
さらわれ、囚われてしまったという、自分の状況にばかり目が行ってしまい、周りを探ることを忘れていた。
何故もっと早く、『彼ら』の姿が見えないことに気づかなかったのであろう。この研究室は『彼ら』のための場所といっても過言ではないのに。
そう思った瞬間、ぞくりと悪寒が走った。
本能的な恐怖だった。
〈蝿〉は、メイシアと『ライシェン』を対面させる気なのだ。そして、彼女の中の『セレイエ』に揺さぶりをかけ、目覚めさせようとしている。
『ライシェン』を目にすれば、『セレイエ』は必ず出てくる。理屈は分からないが、確信めいた予感がした。
「待ってください!」
鋭い声に、〈蝿〉が何ごとかと立ち止まる。彼の足元で、長い白衣の裾が慣性に舞い上がった。
「『セレイエさん』が出てきたら、私は〈天使〉になるのですか?」
刹那、〈蝿〉の哄笑が響き渡る。
「なるほど。そういうことですか。それを恐れて、頑なに『鷹刀セレイエ』を拒んでいたのですね」
「いえ、そういうわけでは……」
「安心なさい。〈天使〉化には、外科的手術のような手続きが必要だと聞いています。――いつの間にか背中に羽が生えているなんてことはありませんし、専門外の私では、あなたを〈天使〉にすることはできませんよ」
メイシアは、あからさまに安堵する。その表情が〈蝿〉の失笑を買ったが、気づきもしなかった。
「第一、あなたが〈天使〉になったら、あなたは私のことを殺すでしょう? 〈天使〉化すれば、あなたは無敵の化け物になるのですからね」
粘性を帯びた、不快な視線が彼女を舐めた。
「――!」
〈天使〉とは、人の脳に記憶や命令を書き込むクラッカー。
『死』を招く命令を刻めば、人の死すらも操れる――。
メイシアは総毛立った。
人知を超えた力は、〈蝿〉の言う通り『化け物』といえるだろう。
自分が、自分でなくなる。別のものになってしまう。
それが今ではないとしても、セレイエが『最強の〈天使〉』を望んでいるのなら、いずれは……。
「大丈夫ですよ。私にとっては、あなたは、あくまでも鷹刀セレイエとの取り引き材料であり、情報源ですよ」
薄く嗤って、彼は再び身を翻す。
「待っ……」
引き止めようと伸ばした手から、じゃらりという冷たい鎖の音が響いた。
「……!」
囚われの彼女には、自由な意思はない。〈蝿〉が『ライシェン』を見せたいと思えば、それは実行されるのだ。
がたがたと震える体をメイシアは掻き抱いた。
わめき散らしたい心を抑え、涙を堪えるために、黒曜石の瞳を必死に見開く。薄紅の唇を噛み締め、血の赤が混じっても嗚咽ひとつ漏らさない。
それが、せめてもの矜持だ。
そして――。
〈蝿〉は、黒い布で上からすっぽりと覆われたワゴンを押してきた。
メイシアは、びくりと身をすくませ、慌てて、睨みつけるような強い眼差しを彼に向ける。その滑稽な不調和に、〈蝿〉は抑えた嗤いで肩を揺らした。
「これがなんだか、分かってらっしゃるようですね。さすが、察しの良いことで」
「……っ」
「しかし、何故そんなに脅えているのか、私にはちっとも理解できません。あなたは、何ひとつ失うことなく、『鷹刀セレイエ』という天才的な策士の頭脳を手に入れられるのですよ?」
〈蝿〉の言いたいことは分かる。
労せずして、セレイエの持つあらゆる知識と情報を手に入れられるのだ。メイシアを翻弄し続けた『デヴァイン・シンフォニア計画』の全貌だって知ることもできる。
損得でいえば、『得』だ。
それでも、本能的な拒絶が湧き上がる。
「私は、私自身しか必要としていません……!」
細い声が、メイシアの口から絞り出された。
〈七つの大罪〉の技術は、禁忌に触れる。人の世の理から外れたもの。
「私は、『悪魔』ではないから……! 私は、無力なただの『人』だから……!」
〈蝿〉は、やれやれとばかりに首を振った。お互い、相容れないことだけは分かち合いましたね、とでも言いたいのだろう、大儀そうに溜め息をついた。
それから彼は、まるで単純な作業でもするかように、無表情な美貌でメイシアに右手を伸ばした。手枷の鎖を無造作に掴み、彼女が逃げられないように引き寄せる。
「――!」
メイシアは、声にならない悲鳴を上げた。
次の瞬間、〈蝿〉の左手が、ワゴンに掛けられた黒い布を取り払った。
培養液に満たされた硝子ケースの中。
ゆらりゆらりと、揺り籠でまどろむように漂い、瞬きをする、ひとりの赤子。
陽光を溶かし込んだような、白金の髪。
蒼天を写し取ったような、澄んだ青灰色の瞳……。
『ライシェン』を目にした瞬間、メイシアの世界は暗転した――。
メイシア……。
お願い。『ライシェン』を守って……。
〈蝿〉の言ったことは、『デヴァイン・シンフォニア計画』の真実の半分だけ。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、『ライシェン』に幸せを贈るための計画。
ライシェンに。
叶えられなかった幸せを――。
与えられなかった未来を――。
『最強の〈天使〉』の力は、そのためだけのものだから……。
『デヴァイン・シンフォニア』は、『di;vine+sin;fonia』――『神』として生まれたライシェンに捧げる交響曲であり、『命に対する冒涜』。
ルイフォンとふたりで、『ライシェン』を守って……。
メイシアは、腕の中に温かな重みを感じた。
不思議に思って目線を下げれば、白金の産毛が浅い呼吸と共に踊っていた。甘いミルクの香りを漂わせ、小さな赤子が彼女に抱かれて眠っている。
――ライシェン!?
驚きに心臓が跳ね、彼を取り落しそうになった――と思って、焦る。
しかし、彼女の腕は、変わらずにライシェンを優しく包んでいた。
安心しきった様子の彼は、彼女の胸に、ことんと頭を預ける。彼の体温を感じた箇所から、幸せが広がっていく。
……メイシアは理解した。これは、セレイエの記憶だ。
生まれて間もないライシェンの、柔らかな感触。彼を見つめるセレイエから、狂おしいほどの愛情が伝わってくる。
ふと、ライシェンが目を開けた。
ぱっちりと開かれた瞳は、透き通るような青灰色。彼もまた、嬉しそうに、セレイエを見つめ返しているように感じる。
小さな手が伸びてきて、セレイエの胸元を飾っていたものを握った。
それが何かに気づき、メイシアは息を呑む。
――『お守り』のペンダントだ……。
セレイエによって、メイシアが『お守り』だと思い込まされたそれを見つけ、ライシェンはご機嫌のようだった。
「口に入れたりしないかな?」
少し心配そうな男性の声が聞こえた。
「気をつけてあげないとね」
セレイエは指先でそっとライシェンをあやし、ペンダントを返してもらった。
それから彼女は顔を上げ、先ほどの男性を瞳に映す。その顔を見た瞬間、メイシアは驚愕に震えた。
――ヤンイェン殿下……!
先王の甥であり、現女王の婚約者、ヤンイェン。
セレイエとライシェンを優しく見守る彼は、どう考えても彼らの『家族』だった。
――つまり、ライシェンの父親は、ヤンイェン殿下だ。
セレイエが貴族と駆け落ちしたと伝えられていたのは、王族と言うのがはばかられたからだろう。
しかし、どうしてセレイエとヤンイェンが……?
メイシアがそう思った瞬間、セレイエの中にあるヤンイェンに関する記憶が、あふれ出てきた。
「君が新しく加わった〈悪魔〉? 私はヤンイェン。〈七つの大罪〉の運営を一任されている。よろしく」
「〈神の御子〉……? 私の血のせいだ……」
「殺された――! ライシェンが! 王に――!」
「セレイエ!」
勢いよく開かれた扉の音が、セレイエの耳朶を打った。いつもとは違う悲痛な声に、彼女の心臓が警鐘を鳴らす。
流れ込んできた風の中に、鉄の匂いが混じっていた。
不吉な予感に振り向くと、胸元を紅に染めたヤンイェンが、よろよろと部屋に倒れ込んでくる。
「ヤンイェン!?」
「心配は要らない」
血相を変えて駆け寄るセレイエを、押し止めるようにヤンイェンは言った。
「これは、返り血だ」
彼は低く呟き、真っ赤な飛沫を浴びた両手を見せる。
皮膚にこびりついた罪の色は、まだ新しく鮮やかで――しかし、既に起きてしまったことを示すように、彼の指先は震えていた。
「許せなかった……。王を――父を……」
「ごめん、セレイエ……」
「私は王を殺した。じきに捕まるだろう。――だから、君は逃げるんだ」
セレイエが血の穢れに染まらぬようにと、ヤンイェンは彼女の腕を拒んだ。
けれど構わず、彼女は無我夢中で彼を抱きしめた。
血を吸い上げた彼の上着は、上質な布地であることを忘れ、重くごわついていた。
体を離そうとする彼に、むしろ体を擦り寄せ、分かち合う。
彼と熱を合わせ、罪を共にする。
そして――。
『デヴァイン・シンフォニア計画』が始まる……。