残酷な描写あり
3.昏迷のささやき
それは、リュイセンが〈蝿〉との勝負に敗れて大怪我を負い、不本意にも〈蝿〉に輸血されて一命をとりとめた日から数日後のことだった。
リュイセンの部屋を訪れた〈蝿〉は、傷の診察をしたのちに、こう言った。
「そろそろ、約束の〈ベラドンナ〉の話をして差し上げましょう」
〈蝿〉は、ミンウェイのことを〈ベラドンナ〉と呼ぶ。毒使いの暗殺者としてのミンウェイの名前である。
娘を〈ベラドンナ〉と呼ぶことで、妻のミンウェイと呼び分けているのであるが、『ミンウェイ』という名前は、妻だけのものだと言わんばかりの態度に、リュイセンは不快げに眉を寄せる。あとになってから、毒花などという呼び名をつけるくらいなら、生まれたときに、きちんと彼女だけの名前を贈ればよかったのだ。
嫌悪感もあらわなリュイセンには構わず、〈蝿〉は話を続けた。
「あなたが目を覚ましたときに言ったでしょう? あなたも私も回復したら、改めて〈ベラドンナ〉のことを話しましょう、と」
そんなことを言っていたような気もするが、それは〈蝿〉の一方的な言い分だ。リュイセンの側には聞く義務はない。それどころか、ミンウェイを虐待していた悪魔が彼女を語るなど、考えただけでも反吐が出る。
「断る。俺は、お前の話などに興味はない」
武器を取り上げられ、傷も癒えていない。そんな状況で〈蝿〉に反抗するのは愚かしいかもしれない。しかし、リュイセンの矜持が断固とした姿勢を取らせた。
剣呑な目つきの彼を前に、〈蝿〉は、ふっと嗤った。彼がそう返してくることは、とっくにお見通しだとばかりに。
「聞かなくていいのですか? 〈ベラドンナ〉の健康に関することですよ?」
「ミンウェイの健康?」
罠だ――と、本能では悟った。
けれど、リュイセンは心の隙を突かれた。――彼が抗えるような話題ではなかった。
「ミンウェイは――私の妻は、二十歳にもならずに亡くなりました。病弱に生まれついた鷹刀の血族は、皆そうです。……ですが、〈ベラドンナ〉は見たところ、既に二十歳を超えていますね」
「だから、なんだというんだ?」
「どうやら、私の施した処置が功を奏したようです。あの子は間違いなく健康体です」
思わせぶりに、〈蝿〉がにやりと嗤う。
「……!?」
リュイセンは、何を言われたのか分からなかった。そんな彼の耳元に、そっと囁くように〈蝿〉が告げる。
「病弱な私の妻から生まれた〈ベラドンナ〉が、自然のままで健康であるわけがないでしょう?」
「!」
息を呑んだリュイセンに、〈蝿〉は畳み掛ける。低く美声を放つ唇が、笑みの形を描く。
「ああ、『私の妻から生まれた』という言い方は正しくないですね。……いえ、ある意味、実に的確な表現かもしれませんが」
「どういう意味だ……?」
リュイセンの胸に警鐘が鳴り響く。しかし、彼は問い返さずにはいられない。まるで悪魔に魅入られたかのように。
「あなたは〈ベラドンナ〉のことを、本当に私の妻が産んだ娘だと信じているのですか?」
「!?」
「冷静に考えてご覧なさい。妊娠は母体に多大な負荷をかけます。病弱な彼女の寿命を縮めるような真似を、この私が――オリジナルのヘイシャオが、許すはずないでしょう?」
〈蝿〉が溜め息を落とす。だがそれは、多分に演技じみた仕草だった。
「……つまり、ミンウェイは……、お前――ヘイシャオ叔父と、……叔母上から人工的に作られた子供だと……?」
信じたくはないが、あり得る話だ。
病弱な叔母の遺伝子から病気の因子を取り除いたあと、健康な受精卵を作る。そして、研究室で見た『ライシェン』のように硝子ケースの中で育て、誕生させる。技術的なことはよく分からないが、〈蝿〉ならきっとできるだろう。
――叔母のことを『ミンウェイ叔母上』とは呼べなかった。リュイセンが『ミンウェイ』と呼ぶ相手は、ただひとりだからだ。
リュイセンは、複雑な思いで〈蝿〉を見やる。
遺伝子操作などという、得体の知れないものによってミンウェイの体ができているというのは、正直なところ嫌である。しかし、そうでもしなければ、ミンウェイもまた母親のように二十歳を迎えることなく亡くなったのかと思うと受け入れざるを得ない。
そんなリュイセンの視線の先で、〈蝿〉は……。
――悲しげに……微笑んでいた。
白髪混じりの髪が、はらりと頬に掛かり、すぅっと流れた銀色の光が一瞬だけ……涙に見えた。
「ミンウェイが、ただ病弱なだけだったら……、……そんなことも考えたかも知れませんね」
「〈蝿〉……!?」
「ですが、そんなことを考える余裕など、なかったのですよ。死相を浮かべたミンウェイは、明日を生きるどころか、今日を生き抜くことで精いっぱいだった。私たちの子供など……夢でしかなかった」
「!?」
「もしもミンウェイが子供を望んだら、それは彼女が生きて育てたいからではなく、死んでいく自分の代わりを遺すために過ぎません。……それが分かっていたから、私たちはあえて子供の話を口にしなかった。――私たちは、ミンウェイが生き抜くことを決して諦めなかったのですから……!」
〈蝿〉は拳を握りしめ、血を吐くように低い声を震わせる。
リュイセンは、瞬きひとつできなかった。
……目の前の状況に呑まれていた。先ほどまでの〈蝿〉は確かに演技めいていたのに、今の言葉は本心なのだと本能的に察してしまった。
「……じゃあ、ミンウェイは……?」
訊くべきではない。
なのに、気づけば、リュイセンは尋ねていた。
〈蝿〉が嗤う。それは彼が誘導した質問であり、彼としては思惑通りの展開であるにも関わらず、どこか自嘲めいた笑みだった。
「鷹刀イーレオから、聞いているのでしょう? 私がミンウェイの記憶を保存し、新しい肉体に移すことで、彼女を生き存えさせようとしていたことを」
「……ああ」
「結局、最期まで、ミンウェイは記憶の保存に同意してくれませんでした」
「……」
「ですが、肉体のほうはできていたのですよ。ミンウェイの遺伝子をもとに、病の因子を排除した健康な新しい肉体が――」
「――!?」
〈蝿〉の声はちゃんと聞こえている。それが、どういう意味なのか、本当は分かっている。
しかし、謎解きが得意でないリュイセンの心は、理解を拒否した。ただ頭が割れるように痛む。
「死を目前にしたミンウェイは、私に言いました」
〈蝿〉が静かに口を開く。
『あなたは、私のあとを追うつもりなのでしょう? 駄目。許さない』
『生きて』
『それが、どんなに尊いことか。私たちは知っているのだから』
「彼女は、自分のために作られた健康な肉体があることを知っていました。そして、その肉体もまた、ひとつの『命』だと言いました」
『……あなたを独りにしない。私の……私たちの『娘』がいる』
『だから、お願い……。ヘイシャオ、生きて……』
「そうして『誕生』し、育てた『娘』が、〈ベラドンナ〉――あなたのいう『ミンウェイ』です」
疲れ果てたようでありながら、〈蝿〉は幸せそうに微笑む。
「〈ベラドンナ〉は、ミンウェイなのですよ。健康に生まれた、ミンウェイ。私とミンウェイの『願い』の結晶……」
「……」
「あなたの頭で理解しやすいように言えば、『私の妻から、病気の因子を取り除いたクローン』――かもしれませんがね」
そこで急に、〈蝿〉の顔が禍々しい闇に染まった。
亡き妻を想う愛妻家の慟哭は吸い込まれ、残酷な微笑を浮かべた悪魔の美貌だけが残る。
「〈ベラドンナ〉は知りませんよ。彼女は、自分が生まれるのと引き換えに、母親は亡くなったのだと信じています。だから『父親』は、自分に母を重ねるのだ、と」
――その通りだ。
ミンウェイを両親の墓参に連れて行ったとき、彼女はこう言った。
『私はお母様から名前を貰ったのだと知ったわ。いいえ、お母様がくれたのは名前だけじゃない。この命も――。お母様は、私を産んだことで亡くなったのだと理解した。だから、私はお母様の代わりをすべきだと思った』
『私、頑張ってお母様になろうとした……。でもね、やっぱり辛かった……』
「……っ」
リュイセンは、奥歯を噛みしめる。
「『ヘイシャオ』にとって、〈ベラドンナ〉は『娘』などではありません。健康を手に入れ、長く共に生きるはずだった『妻』です。――なのに妻の心は亡くなり、肉体だけが生き残っている。その事実は、時に『ヘイシャオ』を狂わせ、〈ベラドンナ〉に対して苛立ちと、そして、憎悪を抱かせました」
「――?」
「『妻であるはずの肉体に、別の精神が宿っている』『そいつが妻を奪ったのだ』という、錯覚を起こしていたんですよ」
まるで他人ごとのように語る〈蝿〉の口ぶりに、リュイセンの目の前が、かっと赤くなった。それまで言葉を失っていたのが嘘のように、弾かれたように彼は叫ぶ。
「ふざけるな! お前自身のことだろう!?」
「『私』ではありませんよ。オリジナルの『ヘイシャオ』のことです」
素知らぬ顔で言ってのける〈蝿〉は、まさに冷酷な悪魔そのもの。黒く艶めく瞳が捕食者の眼光を放ち、リュイセンを捕らえる。
「前にも申し上げたでしょう? 『私』自身は〈ベラドンナ〉に会ったこともないのですよ?」
「――けどよ!」
「まぁ、落ち着きなさい。私のことはどうでもよいのです。――問題は〈ベラドンナ〉がどう思うか、ですよ」
「……何を言いたい?」
リュイセンの背に、嫌な緊張が走った。気持ちの悪い汗が体中から吹き出る。
「もしも〈ベラドンナ〉が、この事実を知ったら、彼女はどんな気持ちになるのでしょうね?」
「……え?」
「自分は『娘』ではなく『母親のクローン』。『作り物』で『紛い物』。『母親』の記憶を持たない『偽物』。……『憎しみの対象』。――そう教えて差し上げたら、今まで信じていたものが足元から崩されることでしょう」
『私……。昔……、まだ父が生きていたころ、……自殺しようとしたんです』
リュイセンの耳に、ミンウェイの声が蘇る。
ミンウェイに会いに行った緋扇シュアンを監視するため、彼のあとを追って温室に入ったときのことだ。結果として、ミンウェイの告白を盗み聞きしてしまった。
『本当は……、父の、関心を引きたかっただけなのかもしれない……! 母ではなくて、私自身を見てもらうために……!』
『暗殺者になったのも、病弱だった母にはできなかったことをして、父に認めてもらいたかったからなのかも……。だって、暗殺者として〈ベラドンナ〉という名を与えられたとき、私は嬉しかった。それは、私だけの名前だから……!』
ミンウェイの努力は、すべて無駄だったというのか? それではミンウェイは、なんのために生きてきたのだろう……?
リュイセンは怒りを覚え、ぎらつく双眸で〈蝿〉を睨みつけた。
しかし、〈蝿〉は少しもひるむことなく、薄笑いを浮かべる。その思わせぶりな表情に、リュイセンは、はっと顔色を変えた。
〈蝿〉は、『もしも〈ベラドンナ〉が、この事実を知ったら』と口にした。
つまり、これは脅迫なのだ。
そう……、〈蝿〉はリュイセンに『協力してほしい』と言っていた。――その話の続きだ……!
リュイセンは自分の頭の回転の遅さに歯噛みして、それから改めて考える。
――もしも、ミンウェイが知ったら……?
リュイセンの全身から血の気が失せた。まるで、奈落の底に引きずり込まれていくような感覚だった。
ミンウェイの心は、いまだ、死んだ父親に囚われている。
十数年もの時を経るうちに、少しずつ気持ちが薄れていったのは間違いないが、〈蝿〉の登場によって、彼女は今、再び揺れている。
彼女はまだ、父親を忘れていない。――心の底で愛している。
彼女が不安定であることが、何よりの証拠だ。
そんな彼女が、真実を知ったら……。
今度こそ、本当に自ら命を絶ってしまうかも知れない……。
「リュイセン」
〈蝿〉が珍しく、彼を名前で呼んだ。
「取り引きをしましょう」
やめろ、と。リュイセンは叫んだ……叫んだつもりだった。しかし、喉からは、ひゅうひゅうとした息が漏れただけだった。
「リュイセン、私の駒になりなさい。さもなくば、〈ベラドンナ〉に、この『秘密』を伝えます」
とろけるような甘い響きでもって、悪魔は低く囁いた――。
リュイセンの部屋を訪れた〈蝿〉は、傷の診察をしたのちに、こう言った。
「そろそろ、約束の〈ベラドンナ〉の話をして差し上げましょう」
〈蝿〉は、ミンウェイのことを〈ベラドンナ〉と呼ぶ。毒使いの暗殺者としてのミンウェイの名前である。
娘を〈ベラドンナ〉と呼ぶことで、妻のミンウェイと呼び分けているのであるが、『ミンウェイ』という名前は、妻だけのものだと言わんばかりの態度に、リュイセンは不快げに眉を寄せる。あとになってから、毒花などという呼び名をつけるくらいなら、生まれたときに、きちんと彼女だけの名前を贈ればよかったのだ。
嫌悪感もあらわなリュイセンには構わず、〈蝿〉は話を続けた。
「あなたが目を覚ましたときに言ったでしょう? あなたも私も回復したら、改めて〈ベラドンナ〉のことを話しましょう、と」
そんなことを言っていたような気もするが、それは〈蝿〉の一方的な言い分だ。リュイセンの側には聞く義務はない。それどころか、ミンウェイを虐待していた悪魔が彼女を語るなど、考えただけでも反吐が出る。
「断る。俺は、お前の話などに興味はない」
武器を取り上げられ、傷も癒えていない。そんな状況で〈蝿〉に反抗するのは愚かしいかもしれない。しかし、リュイセンの矜持が断固とした姿勢を取らせた。
剣呑な目つきの彼を前に、〈蝿〉は、ふっと嗤った。彼がそう返してくることは、とっくにお見通しだとばかりに。
「聞かなくていいのですか? 〈ベラドンナ〉の健康に関することですよ?」
「ミンウェイの健康?」
罠だ――と、本能では悟った。
けれど、リュイセンは心の隙を突かれた。――彼が抗えるような話題ではなかった。
「ミンウェイは――私の妻は、二十歳にもならずに亡くなりました。病弱に生まれついた鷹刀の血族は、皆そうです。……ですが、〈ベラドンナ〉は見たところ、既に二十歳を超えていますね」
「だから、なんだというんだ?」
「どうやら、私の施した処置が功を奏したようです。あの子は間違いなく健康体です」
思わせぶりに、〈蝿〉がにやりと嗤う。
「……!?」
リュイセンは、何を言われたのか分からなかった。そんな彼の耳元に、そっと囁くように〈蝿〉が告げる。
「病弱な私の妻から生まれた〈ベラドンナ〉が、自然のままで健康であるわけがないでしょう?」
「!」
息を呑んだリュイセンに、〈蝿〉は畳み掛ける。低く美声を放つ唇が、笑みの形を描く。
「ああ、『私の妻から生まれた』という言い方は正しくないですね。……いえ、ある意味、実に的確な表現かもしれませんが」
「どういう意味だ……?」
リュイセンの胸に警鐘が鳴り響く。しかし、彼は問い返さずにはいられない。まるで悪魔に魅入られたかのように。
「あなたは〈ベラドンナ〉のことを、本当に私の妻が産んだ娘だと信じているのですか?」
「!?」
「冷静に考えてご覧なさい。妊娠は母体に多大な負荷をかけます。病弱な彼女の寿命を縮めるような真似を、この私が――オリジナルのヘイシャオが、許すはずないでしょう?」
〈蝿〉が溜め息を落とす。だがそれは、多分に演技じみた仕草だった。
「……つまり、ミンウェイは……、お前――ヘイシャオ叔父と、……叔母上から人工的に作られた子供だと……?」
信じたくはないが、あり得る話だ。
病弱な叔母の遺伝子から病気の因子を取り除いたあと、健康な受精卵を作る。そして、研究室で見た『ライシェン』のように硝子ケースの中で育て、誕生させる。技術的なことはよく分からないが、〈蝿〉ならきっとできるだろう。
――叔母のことを『ミンウェイ叔母上』とは呼べなかった。リュイセンが『ミンウェイ』と呼ぶ相手は、ただひとりだからだ。
リュイセンは、複雑な思いで〈蝿〉を見やる。
遺伝子操作などという、得体の知れないものによってミンウェイの体ができているというのは、正直なところ嫌である。しかし、そうでもしなければ、ミンウェイもまた母親のように二十歳を迎えることなく亡くなったのかと思うと受け入れざるを得ない。
そんなリュイセンの視線の先で、〈蝿〉は……。
――悲しげに……微笑んでいた。
白髪混じりの髪が、はらりと頬に掛かり、すぅっと流れた銀色の光が一瞬だけ……涙に見えた。
「ミンウェイが、ただ病弱なだけだったら……、……そんなことも考えたかも知れませんね」
「〈蝿〉……!?」
「ですが、そんなことを考える余裕など、なかったのですよ。死相を浮かべたミンウェイは、明日を生きるどころか、今日を生き抜くことで精いっぱいだった。私たちの子供など……夢でしかなかった」
「!?」
「もしもミンウェイが子供を望んだら、それは彼女が生きて育てたいからではなく、死んでいく自分の代わりを遺すために過ぎません。……それが分かっていたから、私たちはあえて子供の話を口にしなかった。――私たちは、ミンウェイが生き抜くことを決して諦めなかったのですから……!」
〈蝿〉は拳を握りしめ、血を吐くように低い声を震わせる。
リュイセンは、瞬きひとつできなかった。
……目の前の状況に呑まれていた。先ほどまでの〈蝿〉は確かに演技めいていたのに、今の言葉は本心なのだと本能的に察してしまった。
「……じゃあ、ミンウェイは……?」
訊くべきではない。
なのに、気づけば、リュイセンは尋ねていた。
〈蝿〉が嗤う。それは彼が誘導した質問であり、彼としては思惑通りの展開であるにも関わらず、どこか自嘲めいた笑みだった。
「鷹刀イーレオから、聞いているのでしょう? 私がミンウェイの記憶を保存し、新しい肉体に移すことで、彼女を生き存えさせようとしていたことを」
「……ああ」
「結局、最期まで、ミンウェイは記憶の保存に同意してくれませんでした」
「……」
「ですが、肉体のほうはできていたのですよ。ミンウェイの遺伝子をもとに、病の因子を排除した健康な新しい肉体が――」
「――!?」
〈蝿〉の声はちゃんと聞こえている。それが、どういう意味なのか、本当は分かっている。
しかし、謎解きが得意でないリュイセンの心は、理解を拒否した。ただ頭が割れるように痛む。
「死を目前にしたミンウェイは、私に言いました」
〈蝿〉が静かに口を開く。
『あなたは、私のあとを追うつもりなのでしょう? 駄目。許さない』
『生きて』
『それが、どんなに尊いことか。私たちは知っているのだから』
「彼女は、自分のために作られた健康な肉体があることを知っていました。そして、その肉体もまた、ひとつの『命』だと言いました」
『……あなたを独りにしない。私の……私たちの『娘』がいる』
『だから、お願い……。ヘイシャオ、生きて……』
「そうして『誕生』し、育てた『娘』が、〈ベラドンナ〉――あなたのいう『ミンウェイ』です」
疲れ果てたようでありながら、〈蝿〉は幸せそうに微笑む。
「〈ベラドンナ〉は、ミンウェイなのですよ。健康に生まれた、ミンウェイ。私とミンウェイの『願い』の結晶……」
「……」
「あなたの頭で理解しやすいように言えば、『私の妻から、病気の因子を取り除いたクローン』――かもしれませんがね」
そこで急に、〈蝿〉の顔が禍々しい闇に染まった。
亡き妻を想う愛妻家の慟哭は吸い込まれ、残酷な微笑を浮かべた悪魔の美貌だけが残る。
「〈ベラドンナ〉は知りませんよ。彼女は、自分が生まれるのと引き換えに、母親は亡くなったのだと信じています。だから『父親』は、自分に母を重ねるのだ、と」
――その通りだ。
ミンウェイを両親の墓参に連れて行ったとき、彼女はこう言った。
『私はお母様から名前を貰ったのだと知ったわ。いいえ、お母様がくれたのは名前だけじゃない。この命も――。お母様は、私を産んだことで亡くなったのだと理解した。だから、私はお母様の代わりをすべきだと思った』
『私、頑張ってお母様になろうとした……。でもね、やっぱり辛かった……』
「……っ」
リュイセンは、奥歯を噛みしめる。
「『ヘイシャオ』にとって、〈ベラドンナ〉は『娘』などではありません。健康を手に入れ、長く共に生きるはずだった『妻』です。――なのに妻の心は亡くなり、肉体だけが生き残っている。その事実は、時に『ヘイシャオ』を狂わせ、〈ベラドンナ〉に対して苛立ちと、そして、憎悪を抱かせました」
「――?」
「『妻であるはずの肉体に、別の精神が宿っている』『そいつが妻を奪ったのだ』という、錯覚を起こしていたんですよ」
まるで他人ごとのように語る〈蝿〉の口ぶりに、リュイセンの目の前が、かっと赤くなった。それまで言葉を失っていたのが嘘のように、弾かれたように彼は叫ぶ。
「ふざけるな! お前自身のことだろう!?」
「『私』ではありませんよ。オリジナルの『ヘイシャオ』のことです」
素知らぬ顔で言ってのける〈蝿〉は、まさに冷酷な悪魔そのもの。黒く艶めく瞳が捕食者の眼光を放ち、リュイセンを捕らえる。
「前にも申し上げたでしょう? 『私』自身は〈ベラドンナ〉に会ったこともないのですよ?」
「――けどよ!」
「まぁ、落ち着きなさい。私のことはどうでもよいのです。――問題は〈ベラドンナ〉がどう思うか、ですよ」
「……何を言いたい?」
リュイセンの背に、嫌な緊張が走った。気持ちの悪い汗が体中から吹き出る。
「もしも〈ベラドンナ〉が、この事実を知ったら、彼女はどんな気持ちになるのでしょうね?」
「……え?」
「自分は『娘』ではなく『母親のクローン』。『作り物』で『紛い物』。『母親』の記憶を持たない『偽物』。……『憎しみの対象』。――そう教えて差し上げたら、今まで信じていたものが足元から崩されることでしょう」
『私……。昔……、まだ父が生きていたころ、……自殺しようとしたんです』
リュイセンの耳に、ミンウェイの声が蘇る。
ミンウェイに会いに行った緋扇シュアンを監視するため、彼のあとを追って温室に入ったときのことだ。結果として、ミンウェイの告白を盗み聞きしてしまった。
『本当は……、父の、関心を引きたかっただけなのかもしれない……! 母ではなくて、私自身を見てもらうために……!』
『暗殺者になったのも、病弱だった母にはできなかったことをして、父に認めてもらいたかったからなのかも……。だって、暗殺者として〈ベラドンナ〉という名を与えられたとき、私は嬉しかった。それは、私だけの名前だから……!』
ミンウェイの努力は、すべて無駄だったというのか? それではミンウェイは、なんのために生きてきたのだろう……?
リュイセンは怒りを覚え、ぎらつく双眸で〈蝿〉を睨みつけた。
しかし、〈蝿〉は少しもひるむことなく、薄笑いを浮かべる。その思わせぶりな表情に、リュイセンは、はっと顔色を変えた。
〈蝿〉は、『もしも〈ベラドンナ〉が、この事実を知ったら』と口にした。
つまり、これは脅迫なのだ。
そう……、〈蝿〉はリュイセンに『協力してほしい』と言っていた。――その話の続きだ……!
リュイセンは自分の頭の回転の遅さに歯噛みして、それから改めて考える。
――もしも、ミンウェイが知ったら……?
リュイセンの全身から血の気が失せた。まるで、奈落の底に引きずり込まれていくような感覚だった。
ミンウェイの心は、いまだ、死んだ父親に囚われている。
十数年もの時を経るうちに、少しずつ気持ちが薄れていったのは間違いないが、〈蝿〉の登場によって、彼女は今、再び揺れている。
彼女はまだ、父親を忘れていない。――心の底で愛している。
彼女が不安定であることが、何よりの証拠だ。
そんな彼女が、真実を知ったら……。
今度こそ、本当に自ら命を絶ってしまうかも知れない……。
「リュイセン」
〈蝿〉が珍しく、彼を名前で呼んだ。
「取り引きをしましょう」
やめろ、と。リュイセンは叫んだ……叫んだつもりだった。しかし、喉からは、ひゅうひゅうとした息が漏れただけだった。
「リュイセン、私の駒になりなさい。さもなくば、〈ベラドンナ〉に、この『秘密』を伝えます」
とろけるような甘い響きでもって、悪魔は低く囁いた――。