残酷な描写あり
4.錯綜にざわめく葉擦れの音-1
メイシアは、ミンウェイの『秘密』の証拠を探しに行ったルイフォンの首尾を気にしつつ、落ち着かない気持ちが顔に出ないように注意して、今日の『ライシェン』との対面を無事に終えた。
昼になり、地下研究室を出る際に、〈蝿〉がいつものように「今日も、なんの成果も得られなかったのですか?」と、凄みを帯びた目で睨んできても、今は逆らうべきときではないので、恐縮したように頭を下げて切り抜けた。
そして、決められた通りに迎えに来たリュイセンに連れられ、展望塔に戻り、昼食を摂る。
ルイフォンからの連絡を確認するのは、今はまだ『敵』であるリュイセンが部屋を出たあとだ。気がはやるが、もう少しの辛抱である。
リュイセンは相変わらず目を合わせてはくれず、食事のテーブルから少し離れたところで彫像のように立ち尽くしていた。
うつむき加減のその姿勢から、暗鬱な表情をしているものと思い込んでいたメイシアは、だから、彼が声を掛けてきたとき、初めは空耳だと聞き流してしまった。
「――メイシア」
「えっ?」
おそらく、既に何度か呼びかけたあとなのだろう。はっきりと聞こえてきた声には、わずかにだが苛立ちが含まれていた。
驚いて食事のテーブルから顔を上げると、リュイセンの黄金比の美貌はまっすぐにメイシアに向けられていた。久しぶりにまともに見ることのできた彼の顔には、研ぎ澄まされたような鋭さがある。
「メイシア……。俺は、なんとしてでも、お前をルイフォンのもとに帰す」
「リュイセン?」
「ハッタリか否か、見極めがついたらすぐに行動に移す。……だから、少しだけ待っていてほしい」
そう言ってリュイセンは視線を下げ、再びメイシアから顔をそらす。全面の硝子窓から入ってきた陽光が、彼の片頬の端だけを明るく照らし、顔色全体を暗く沈ませた。
言葉は少なかったが、彼の内部に渦巻く、ぎらついた焦燥を強く感じた。
彼は自分の犯した裏切りに絶望し、闇の中でたたずんでいたわけではなかったのだ。――メイシアの心が大きく震える。
「……すまんな。――ルイフォンに逢いたいだろう……?」
静かに吐き出された低音が、メイシアの胸に染み込み、溶けていく。
あっ、と思ったときには、ひと筋の涙が頬を伝っていた。下を向いてしまった彼には見られていないと思うが、彼女は慌ててナプキンで拭う。
――そう。
リュイセンは、メイシアが展望塔に囚われた初日に『何があっても、お前をルイフォンのもとに帰す』と宣言した。
彼の言葉は、ただの口約束ではない。口にしたからには、必ず実行する男だ。
彼の様子から察するに、何かの事情があって今すぐには思うように行動できないのだろう。だから、待ってほしいと言ってきたのだ。
現状を打破しようと、彼は孤軍奮闘で戦っている。息を潜めながら、牙をむくべきときを虎視眈々と狙っている……。
リュイセンは強い。
囚われたばかりのころ、ひとりきりであることに打ちひしがれていたメイシアとは雲泥の差だ。自身も辛い状態の彼に、彼女を気遣う心の余裕などないはずなのに……。
「リュイセン、ありがとう」
心を込めて、感謝を告げる。自然に口元がほころび、柔らかな笑顔となる。
その顔は、うつむいている彼には見えないだろうけれど、言葉に込めた気持ちは、きっと伝わるはずだ。
もし、ルイフォンから良い知らせが来ていれば、すぐにも彼を孤独から救える――。
一刻も早く携帯端末を確認したい、という衝動に駆られ、メイシアは不自然ではない程度に急いで食事を口に運んだ。
昼食が終わり、リュイセンがワゴンを押しながら部屋を出ていく。
エレベーターの表示が、彼が地上階まで降りたことを教えてくれるのを待ってから、メイシアは割り当てられたふたつの部屋のうちの、もうひとつへと移った。ベッドのマットの隙間に、電源を切った携帯端末が隠してあるのだ。
証拠は無事に見つかっただろうか。
早鐘を打つ心臓を押さえながら、メイシアは、ルイフォンとの会話を思い出す。
今朝早く、いつものルイフォンならぐっすりと寝ている時間に、『朝食を終えたらすぐに、ヘイシャオの研究室に向かうから、その前に』と、彼が電話をくれたのだ。
『リュイセンにさ、証拠もなく、ただ口先だけで、『ミンウェイはクローンだ』『本人だって知っている』って言ったところで、あいつは『でたらめを言うな』と否定すると思う。――いや、絶対に、そう言うんだ』
ルイフォンは、メイシアにそう告げた。
『確たる証拠がなければ、リュイセンは『憶測に過ぎない』と突っぱねる。あいつは、ミンウェイに向かって『馬鹿げたことを信じるな』と笑い飛ばすだろう。ミンウェイの心を守るために、さ……。『憶測』と『事実』の間には、大きな隔たりがあるんだ』
「うん……」
『だから俺は、ミンウェイがクローンだという決定的な証拠を手に入れて、それをリュイセンに示す。その上で、ミンウェイ自身に『事実』を受け入れたと、電話で宣言してもらう。あいつが〈蝿〉に従う理由をなくすんだ。――それが、『リュイセンを解放する』ことになる』
リュイセンはルイフォンや一族を裏切り、自分を犠牲にしてまで、ミンウェイから彼女の『秘密』を隠そうとした。
ならば、頑なまでに、その信念を貫こうとするだろう。
それを――打ち砕く。
ルイフォンの武器である『情報』でもって。
『あいつの想いを踏みにじっているのは分かっている。――けど、俺はやる』
「――ルイフォン……」
メイシアは、遠慮がちに口を開いた。
彼の言うことは正しいと思う。メイシアも、彼の策に賛同している。
……けれど。
人の心は、そんな簡単に割り切れるものではないと思うのだ。
すべてを打ち明けられたとき、リュイセンはどう感じるだろうか?
リュイセンなら、ルイフォンが彼のために奔走したということは理解してくれるだろう。
――それでも。
リュイセンの視点からすれば『余計なこと』だ。
ルイフォンがこれから手に入れようとしている証拠は、悪い言い方をすれば、『リュイセンが言い逃れをできないようにするためのもの』だ。
彼を追い詰めるもの。彼を屈服させるもの……。
そして、リュイセンが己のすべてを懸けて隠そうとしたミンウェイの『秘密』は、彼の知らないうちにミンウェイに伝えられている。――そのことに、憤りを覚えるのではないだろうか……?
「ルイフォン、私もルイフォンの作戦に賛成。それは絶対なの」
ためらいつつ、それでもメイシアは懸命に口を開く。世話係として彼女の部屋を訪れる、リュイセンの罪悪感に満ちた顔を思い出しながら。
「けど、想いを踏みにじられたリュイセンが……、その……怒ってしまう、という可能性はないの?」
これから証拠を手に入れに行くのだと、意気揚々としているルイフォンに水を差すようなことを言いたくはない。けれど、無視できない懸案事項だと思うのだ。
「あるいは……、一度、裏切ってしまったルイフォンの手を、再び取ることはできないと、拒まれてしまう可能性も……」
不安を告げただけなのだが、ルイフォンに申し訳ないことを言っている気持ちでいっぱいだった。携帯端末を握る手が緊張で強張り、心臓が激しく高鳴る。
ルイフォンは……――ふっと、笑った。
『メイシア。今、物凄く、脅えた顔をしているだろ? 俺に『悪いこと言っちゃった』って』
「え? な、なんで分かるの?」
先ほどとは別の意味で、心臓が跳ねる。
『そりゃ、お前のことだから。――そんな顔するなよ。大丈夫だ。俺だって、うまくいかない可能性は考えている。それどころか、リュイセンがへそを曲げずに、俺のシナリオ通りに動いてくれたら、それは奇跡なんじゃねぇか?』
「え? ええっ!?」
今までと言っていることが違うような気がするのだが、どういうつもりだろう?
『いいか? 俺の最大の目的は、お前を取り戻すこと。これが絶対。何があっても譲らない』
「う、うん……」
『だから、タオロンが味方になってくれた時点で、タオロンに頼んでお前を取り戻してもよかった。リュイセンのことは見捨ててさ』
「……」
『でも、俺は欲張りだから。リュイセンのことも取り戻したい。――今、足掻いているのは、そのためだ』
ふわりと優しい声がメイシアを包み込んだ。
『確かにやり方は荒っぽいかもしれない。あいつの神経を逆なでしたとしても無理はない。――けどな!』
そこで急に、ルイフォンの口調が変わる。
『先に手を出してきたのはあいつのほうだ! あいつは、俺のメイシアを奪った!』
「ル、ルイフォン……」
『お前の命が危険に晒された! 分かるか!? 俺が、どんなに苦しんだか!』
「ルイフォン……、ごめんなさい、心配かけて……」
『なんで、お前が謝るんだよ!?』
「あ……、ええと、ありがとう……」
『……あ。……すまん』
熱くなりすぎたことに気づき、ばつの悪そうにルイフォンが謝る。けれど、それはメイシアへの想いゆえだ。心が、ほわりと温かくなる。
落ち着きを取り戻したルイフォンが、再び口を開いた。
『あいつは、俺の逆鱗に触れた。それでも、俺はあいつを取り戻したいと思った。――あいつと決別するよりも、あいつと共にいたいと思ったからだ』
そこで、ほんのわずかに声が弱まる。
『――けど、あいつのほうに俺の手を取る気がないなら、それは構わない。今度こそ、本当に袂を分かつだけだ』
「……」
『俺は、お前を確実に取り戻すために、タオロンという保険を残している。抜かりはない。――冷たいかもしれないが、俺にとっては、お前が一番、大切なんだ』
彼は一度、言葉を止め、それから苦しげに吐き出す。
『リュイセンのことは、できたら取り戻したい……そういう思い――願いだ……』
わずかな沈黙。
そして、彼らしくもない弱気な呟きが漏れた。
『エゴだな……。俺の我儘で、独りよがりな空回りかもしれない。――俺は『お前が一番』と言いながら、お前を待たせて、リュイセンを救おうとしているんだよな。……悪い』
うなだれた猫背を感じた瞬間、メイシアは思わず叫んでいた。
「何を言っているの!? 私も、ルイフォンが示した道が『進むべき道』だと思った。――だから、もし我儘だというのなら、それはルイフォンだけの我儘じゃない。『私たち、ふたり』の我儘なの」
『メイシア……』
「私がこの庭園を出るときは、リュイセンも一緒なの……!」
『ありがとう』
ルイフォンの声が、穏やかに、柔らかに解けた。彼は今、澄み渡った青空のような顔をしている。その微笑みが、メイシアには見えた。
そして、彼は続ける。
『――あいつは必ず、俺の手を取る』
その言葉の裏に、不安が隠されているのは分かった。けれども力強いテノールは、メイシアの耳を――心を打った。
彼女は「うん」と頷いた。その声が涙ぐんでしまったことは、きっとルイフォンには、ばれている。けれど彼は、優しい吐息を漏らしただけだった。
そのとき、電話口の向こうから、ルイフォンを呼ぶ声がかすかに聞こえた。
ミンウェイの声だろう。艶のある美声はよく響き、元気そうだ。――本当は、辛い気持ちを無理に抑え込んでいるのだろう。それでも、彼女は前を向いている。
「ルイフォン。私も信じる。リュイセンは手を取ってくれる、って」
『ありがとう』
「……そろそろ、電話を切らないとね?」
『ああ』
ルイフォンの声を耳に、メイシアは大きく息を吸い込んだ。
そして、精いっぱいの想いで彼を送り出すために、極上の笑顔で告げた。
「いってらっしゃい」
隠してある携帯端末を取り出す前に、メイシアは、まずは全面の硝子窓にブラインドを下ろした。眺めのよい展望室は、逆にいえば外から丸見えなのだ。ファンルゥだって、泣いているメイシアを部屋から見たと証言していた。
そうでなくても、日当たりのよすぎる部屋だ。ブラインドに加えて、適度な空調をつけなければ、この初夏の陽射しでは干上がってしまうだろう。
部屋を整え、心を落ち着けて、メイシアは携帯端末の電源を入れる。
……ルイフォンからの連絡は、まだ来ていなかった。
落胆の息が漏れたが、しかし、代わりにスーリンからのメッセージが入っていた。
――メイシアへ
このメッセージを読んでいる、ってことは、携帯端末は無事にあなたの手に渡った、ってことかしら?
私も一応は関わったんだから、連絡くらい寄越しなさいよ。心配するでしょ?
「スーリンさん……!」
メイシアは一気に青ざめた。
協力してもらっておきながら、お礼を言うのをすっかり忘れていた。いくら急に事態が動き、慌ただしくなったとはいえ、昨日の晩に端末を受け取ってから今までに、時間がなかったわけではない。
なんて失礼なことをしてしまったのだろう。
メイシアは、震える手でメッセージの続きを繰る。
――どうせ、昨日の晩はルイフォンと話し込んでいて、私のことなんかすっかり忘れていたんでしょ? 怒っていないから、ちゃんと白状しなさい。
まぁ、女の友情より、男を優先するのは正しいことよ。いい傾向だわ。
それに私のほうも、夜は仕事で忙しいからね。
くるくるのポニーテールを揺らしながら、にっこりと笑う、スーリンの可憐な姿が見えた。彼女らしい優しさが、小さな端末の画面からあふれてくる。
――事情はルイフォンから、だいたい聞いたわ。本当に、驚いたわよ!
でも、まさかメイシアが私を頼ってくれるなんて思わなかった。だから、嬉しかったわ。
「え……」
こちらから、無茶なお願いをした。なのに『嬉しい』と、スーリンは言っている。
メイシアは、読み間違いではないかと瞬きを繰り返した。けれど、文面は変わらない。
「……スーリンさん、ありがとう……!」
彼女の娼婦という職業を利用した、とても失礼な作戦だった。シャオリエの店と鷹刀一族の関係から、嫌々ながらでも協力してくれると信じていたが、不快な思いをさせてしまうと覚悟していた。なのに……。
――そうそう。あなたのお使いできたタオロンさんに、『素敵なプレゼントをありがとう』と、お礼を言っておいて。
それから、『今度は是非、お客さんとしてお店に来てね』って、お願いするわ。
タオロンさん、こういうお店に慣れていないでしょ? 朴訥とした感じが新鮮だったわ。逞しくて魅力的だし、私じゃなくても、皆、彼にならサービスしたい、って思うんじゃないかしら?
「……」
いくら『仲良しの女友達』のスーリンからの伝言でも、お礼はともかく、お願いのほうを伝えるのは……。
メイシアの顔が真っ赤に染まる。
――メイシアとは、また女の子同士の秘密の話をしたいから、早く、その変な庭園から出てらっしゃい。待っているわ。
それと、あなたに是非、見せたい写真があるから添付するわね。
それじゃ、またね。
昼になり、地下研究室を出る際に、〈蝿〉がいつものように「今日も、なんの成果も得られなかったのですか?」と、凄みを帯びた目で睨んできても、今は逆らうべきときではないので、恐縮したように頭を下げて切り抜けた。
そして、決められた通りに迎えに来たリュイセンに連れられ、展望塔に戻り、昼食を摂る。
ルイフォンからの連絡を確認するのは、今はまだ『敵』であるリュイセンが部屋を出たあとだ。気がはやるが、もう少しの辛抱である。
リュイセンは相変わらず目を合わせてはくれず、食事のテーブルから少し離れたところで彫像のように立ち尽くしていた。
うつむき加減のその姿勢から、暗鬱な表情をしているものと思い込んでいたメイシアは、だから、彼が声を掛けてきたとき、初めは空耳だと聞き流してしまった。
「――メイシア」
「えっ?」
おそらく、既に何度か呼びかけたあとなのだろう。はっきりと聞こえてきた声には、わずかにだが苛立ちが含まれていた。
驚いて食事のテーブルから顔を上げると、リュイセンの黄金比の美貌はまっすぐにメイシアに向けられていた。久しぶりにまともに見ることのできた彼の顔には、研ぎ澄まされたような鋭さがある。
「メイシア……。俺は、なんとしてでも、お前をルイフォンのもとに帰す」
「リュイセン?」
「ハッタリか否か、見極めがついたらすぐに行動に移す。……だから、少しだけ待っていてほしい」
そう言ってリュイセンは視線を下げ、再びメイシアから顔をそらす。全面の硝子窓から入ってきた陽光が、彼の片頬の端だけを明るく照らし、顔色全体を暗く沈ませた。
言葉は少なかったが、彼の内部に渦巻く、ぎらついた焦燥を強く感じた。
彼は自分の犯した裏切りに絶望し、闇の中でたたずんでいたわけではなかったのだ。――メイシアの心が大きく震える。
「……すまんな。――ルイフォンに逢いたいだろう……?」
静かに吐き出された低音が、メイシアの胸に染み込み、溶けていく。
あっ、と思ったときには、ひと筋の涙が頬を伝っていた。下を向いてしまった彼には見られていないと思うが、彼女は慌ててナプキンで拭う。
――そう。
リュイセンは、メイシアが展望塔に囚われた初日に『何があっても、お前をルイフォンのもとに帰す』と宣言した。
彼の言葉は、ただの口約束ではない。口にしたからには、必ず実行する男だ。
彼の様子から察するに、何かの事情があって今すぐには思うように行動できないのだろう。だから、待ってほしいと言ってきたのだ。
現状を打破しようと、彼は孤軍奮闘で戦っている。息を潜めながら、牙をむくべきときを虎視眈々と狙っている……。
リュイセンは強い。
囚われたばかりのころ、ひとりきりであることに打ちひしがれていたメイシアとは雲泥の差だ。自身も辛い状態の彼に、彼女を気遣う心の余裕などないはずなのに……。
「リュイセン、ありがとう」
心を込めて、感謝を告げる。自然に口元がほころび、柔らかな笑顔となる。
その顔は、うつむいている彼には見えないだろうけれど、言葉に込めた気持ちは、きっと伝わるはずだ。
もし、ルイフォンから良い知らせが来ていれば、すぐにも彼を孤独から救える――。
一刻も早く携帯端末を確認したい、という衝動に駆られ、メイシアは不自然ではない程度に急いで食事を口に運んだ。
昼食が終わり、リュイセンがワゴンを押しながら部屋を出ていく。
エレベーターの表示が、彼が地上階まで降りたことを教えてくれるのを待ってから、メイシアは割り当てられたふたつの部屋のうちの、もうひとつへと移った。ベッドのマットの隙間に、電源を切った携帯端末が隠してあるのだ。
証拠は無事に見つかっただろうか。
早鐘を打つ心臓を押さえながら、メイシアは、ルイフォンとの会話を思い出す。
今朝早く、いつものルイフォンならぐっすりと寝ている時間に、『朝食を終えたらすぐに、ヘイシャオの研究室に向かうから、その前に』と、彼が電話をくれたのだ。
『リュイセンにさ、証拠もなく、ただ口先だけで、『ミンウェイはクローンだ』『本人だって知っている』って言ったところで、あいつは『でたらめを言うな』と否定すると思う。――いや、絶対に、そう言うんだ』
ルイフォンは、メイシアにそう告げた。
『確たる証拠がなければ、リュイセンは『憶測に過ぎない』と突っぱねる。あいつは、ミンウェイに向かって『馬鹿げたことを信じるな』と笑い飛ばすだろう。ミンウェイの心を守るために、さ……。『憶測』と『事実』の間には、大きな隔たりがあるんだ』
「うん……」
『だから俺は、ミンウェイがクローンだという決定的な証拠を手に入れて、それをリュイセンに示す。その上で、ミンウェイ自身に『事実』を受け入れたと、電話で宣言してもらう。あいつが〈蝿〉に従う理由をなくすんだ。――それが、『リュイセンを解放する』ことになる』
リュイセンはルイフォンや一族を裏切り、自分を犠牲にしてまで、ミンウェイから彼女の『秘密』を隠そうとした。
ならば、頑なまでに、その信念を貫こうとするだろう。
それを――打ち砕く。
ルイフォンの武器である『情報』でもって。
『あいつの想いを踏みにじっているのは分かっている。――けど、俺はやる』
「――ルイフォン……」
メイシアは、遠慮がちに口を開いた。
彼の言うことは正しいと思う。メイシアも、彼の策に賛同している。
……けれど。
人の心は、そんな簡単に割り切れるものではないと思うのだ。
すべてを打ち明けられたとき、リュイセンはどう感じるだろうか?
リュイセンなら、ルイフォンが彼のために奔走したということは理解してくれるだろう。
――それでも。
リュイセンの視点からすれば『余計なこと』だ。
ルイフォンがこれから手に入れようとしている証拠は、悪い言い方をすれば、『リュイセンが言い逃れをできないようにするためのもの』だ。
彼を追い詰めるもの。彼を屈服させるもの……。
そして、リュイセンが己のすべてを懸けて隠そうとしたミンウェイの『秘密』は、彼の知らないうちにミンウェイに伝えられている。――そのことに、憤りを覚えるのではないだろうか……?
「ルイフォン、私もルイフォンの作戦に賛成。それは絶対なの」
ためらいつつ、それでもメイシアは懸命に口を開く。世話係として彼女の部屋を訪れる、リュイセンの罪悪感に満ちた顔を思い出しながら。
「けど、想いを踏みにじられたリュイセンが……、その……怒ってしまう、という可能性はないの?」
これから証拠を手に入れに行くのだと、意気揚々としているルイフォンに水を差すようなことを言いたくはない。けれど、無視できない懸案事項だと思うのだ。
「あるいは……、一度、裏切ってしまったルイフォンの手を、再び取ることはできないと、拒まれてしまう可能性も……」
不安を告げただけなのだが、ルイフォンに申し訳ないことを言っている気持ちでいっぱいだった。携帯端末を握る手が緊張で強張り、心臓が激しく高鳴る。
ルイフォンは……――ふっと、笑った。
『メイシア。今、物凄く、脅えた顔をしているだろ? 俺に『悪いこと言っちゃった』って』
「え? な、なんで分かるの?」
先ほどとは別の意味で、心臓が跳ねる。
『そりゃ、お前のことだから。――そんな顔するなよ。大丈夫だ。俺だって、うまくいかない可能性は考えている。それどころか、リュイセンがへそを曲げずに、俺のシナリオ通りに動いてくれたら、それは奇跡なんじゃねぇか?』
「え? ええっ!?」
今までと言っていることが違うような気がするのだが、どういうつもりだろう?
『いいか? 俺の最大の目的は、お前を取り戻すこと。これが絶対。何があっても譲らない』
「う、うん……」
『だから、タオロンが味方になってくれた時点で、タオロンに頼んでお前を取り戻してもよかった。リュイセンのことは見捨ててさ』
「……」
『でも、俺は欲張りだから。リュイセンのことも取り戻したい。――今、足掻いているのは、そのためだ』
ふわりと優しい声がメイシアを包み込んだ。
『確かにやり方は荒っぽいかもしれない。あいつの神経を逆なでしたとしても無理はない。――けどな!』
そこで急に、ルイフォンの口調が変わる。
『先に手を出してきたのはあいつのほうだ! あいつは、俺のメイシアを奪った!』
「ル、ルイフォン……」
『お前の命が危険に晒された! 分かるか!? 俺が、どんなに苦しんだか!』
「ルイフォン……、ごめんなさい、心配かけて……」
『なんで、お前が謝るんだよ!?』
「あ……、ええと、ありがとう……」
『……あ。……すまん』
熱くなりすぎたことに気づき、ばつの悪そうにルイフォンが謝る。けれど、それはメイシアへの想いゆえだ。心が、ほわりと温かくなる。
落ち着きを取り戻したルイフォンが、再び口を開いた。
『あいつは、俺の逆鱗に触れた。それでも、俺はあいつを取り戻したいと思った。――あいつと決別するよりも、あいつと共にいたいと思ったからだ』
そこで、ほんのわずかに声が弱まる。
『――けど、あいつのほうに俺の手を取る気がないなら、それは構わない。今度こそ、本当に袂を分かつだけだ』
「……」
『俺は、お前を確実に取り戻すために、タオロンという保険を残している。抜かりはない。――冷たいかもしれないが、俺にとっては、お前が一番、大切なんだ』
彼は一度、言葉を止め、それから苦しげに吐き出す。
『リュイセンのことは、できたら取り戻したい……そういう思い――願いだ……』
わずかな沈黙。
そして、彼らしくもない弱気な呟きが漏れた。
『エゴだな……。俺の我儘で、独りよがりな空回りかもしれない。――俺は『お前が一番』と言いながら、お前を待たせて、リュイセンを救おうとしているんだよな。……悪い』
うなだれた猫背を感じた瞬間、メイシアは思わず叫んでいた。
「何を言っているの!? 私も、ルイフォンが示した道が『進むべき道』だと思った。――だから、もし我儘だというのなら、それはルイフォンだけの我儘じゃない。『私たち、ふたり』の我儘なの」
『メイシア……』
「私がこの庭園を出るときは、リュイセンも一緒なの……!」
『ありがとう』
ルイフォンの声が、穏やかに、柔らかに解けた。彼は今、澄み渡った青空のような顔をしている。その微笑みが、メイシアには見えた。
そして、彼は続ける。
『――あいつは必ず、俺の手を取る』
その言葉の裏に、不安が隠されているのは分かった。けれども力強いテノールは、メイシアの耳を――心を打った。
彼女は「うん」と頷いた。その声が涙ぐんでしまったことは、きっとルイフォンには、ばれている。けれど彼は、優しい吐息を漏らしただけだった。
そのとき、電話口の向こうから、ルイフォンを呼ぶ声がかすかに聞こえた。
ミンウェイの声だろう。艶のある美声はよく響き、元気そうだ。――本当は、辛い気持ちを無理に抑え込んでいるのだろう。それでも、彼女は前を向いている。
「ルイフォン。私も信じる。リュイセンは手を取ってくれる、って」
『ありがとう』
「……そろそろ、電話を切らないとね?」
『ああ』
ルイフォンの声を耳に、メイシアは大きく息を吸い込んだ。
そして、精いっぱいの想いで彼を送り出すために、極上の笑顔で告げた。
「いってらっしゃい」
隠してある携帯端末を取り出す前に、メイシアは、まずは全面の硝子窓にブラインドを下ろした。眺めのよい展望室は、逆にいえば外から丸見えなのだ。ファンルゥだって、泣いているメイシアを部屋から見たと証言していた。
そうでなくても、日当たりのよすぎる部屋だ。ブラインドに加えて、適度な空調をつけなければ、この初夏の陽射しでは干上がってしまうだろう。
部屋を整え、心を落ち着けて、メイシアは携帯端末の電源を入れる。
……ルイフォンからの連絡は、まだ来ていなかった。
落胆の息が漏れたが、しかし、代わりにスーリンからのメッセージが入っていた。
――メイシアへ
このメッセージを読んでいる、ってことは、携帯端末は無事にあなたの手に渡った、ってことかしら?
私も一応は関わったんだから、連絡くらい寄越しなさいよ。心配するでしょ?
「スーリンさん……!」
メイシアは一気に青ざめた。
協力してもらっておきながら、お礼を言うのをすっかり忘れていた。いくら急に事態が動き、慌ただしくなったとはいえ、昨日の晩に端末を受け取ってから今までに、時間がなかったわけではない。
なんて失礼なことをしてしまったのだろう。
メイシアは、震える手でメッセージの続きを繰る。
――どうせ、昨日の晩はルイフォンと話し込んでいて、私のことなんかすっかり忘れていたんでしょ? 怒っていないから、ちゃんと白状しなさい。
まぁ、女の友情より、男を優先するのは正しいことよ。いい傾向だわ。
それに私のほうも、夜は仕事で忙しいからね。
くるくるのポニーテールを揺らしながら、にっこりと笑う、スーリンの可憐な姿が見えた。彼女らしい優しさが、小さな端末の画面からあふれてくる。
――事情はルイフォンから、だいたい聞いたわ。本当に、驚いたわよ!
でも、まさかメイシアが私を頼ってくれるなんて思わなかった。だから、嬉しかったわ。
「え……」
こちらから、無茶なお願いをした。なのに『嬉しい』と、スーリンは言っている。
メイシアは、読み間違いではないかと瞬きを繰り返した。けれど、文面は変わらない。
「……スーリンさん、ありがとう……!」
彼女の娼婦という職業を利用した、とても失礼な作戦だった。シャオリエの店と鷹刀一族の関係から、嫌々ながらでも協力してくれると信じていたが、不快な思いをさせてしまうと覚悟していた。なのに……。
――そうそう。あなたのお使いできたタオロンさんに、『素敵なプレゼントをありがとう』と、お礼を言っておいて。
それから、『今度は是非、お客さんとしてお店に来てね』って、お願いするわ。
タオロンさん、こういうお店に慣れていないでしょ? 朴訥とした感じが新鮮だったわ。逞しくて魅力的だし、私じゃなくても、皆、彼にならサービスしたい、って思うんじゃないかしら?
「……」
いくら『仲良しの女友達』のスーリンからの伝言でも、お礼はともかく、お願いのほうを伝えるのは……。
メイシアの顔が真っ赤に染まる。
――メイシアとは、また女の子同士の秘密の話をしたいから、早く、その変な庭園から出てらっしゃい。待っているわ。
それと、あなたに是非、見せたい写真があるから添付するわね。
それじゃ、またね。