残酷な描写あり
4.錯綜にざわめく葉擦れの音-2
時は、少し遡る――。
まだ陽射しが本領を発揮する前の、爽やかな朝の時刻。今日ばかりはと早起きをしたルイフォンは、ミンウェイに案内され、ヘイシャオの研究室に向かっていた。
ふたりの乗る車を運転しているのは――エルファン。
勿論、ルイフォンは一度、断った。何も、次期総帥自らが調査に出向かなくてもよいだろう、と。
しかしエルファンは、まだ傷の癒えていないルイフォンが途中で倒れたら、彼を担ぐための男手が必要であること。そもそも見知らぬ場所に赴くにあたり、充分な戦力を有した者を伴わないのは不用心であることを挙げてきた。
その説明の中に、同行者が次期総帥である必要性はまったく入っていない。けれど、ルイフォンは「助かる」と言って、素直に頭を下げた。
エルファンは、ヘイシャオの住んでいた場所を見たいのだろう。
双子のように育った従弟であり、親友でもあるヘイシャオが、一族を抜けたあと、どのように暮らしていたのか。
そして、叶うことなら知りたいのだろう。
ヘイシャオは何故、妻の死後、十数年も経ってから、今更のように『死』を求めてエルファンの前に現れたのか……。
「ここです」
緊張を帯びたミンウェイの声で、車は止まった。
周りに他の建物のない、郊外の一軒家だった。錆びついた鉄格子の門を押し開けると、ぎぎいと大きな音が鳴る。
アプローチの先には、古びた家。
邸宅と呼んでも支障なさそうな立派な家構えであるが、壁という壁を蔦が這い、見るからに廃屋だった。しかし、大掛かりな研究装置を収める建物だけに、頑丈な造りであるのだろう。十数年も手入れをしていないにも関わらず、崩れ落ちるような気配はない。
ミンウェイは、音もなくアプローチに踏み出した。
すらりと背筋を伸ばした足運びには一片の迷いもなく、颯爽と滑るように進んでいく。やがて、玄関扉にたどり着くと、彼女は凪いだ瞳で家全体を見渡した。
――しばらく、ミンウェイをひとりにしておくべきなのだろうか?
ルイフォンは戸惑う。
ここは、彼女の過去が詰まった場所だ。彼女の古い思い出も、これから暴こうとしている、彼女の生まれる前の真実も……。
ちらりと、隣を見やれば、エルファンが無表情にミンウェイの背中を見つめていた。彼の顔から感情を読み解くのは難しいが、おそらく彼も、思い惑っているのだろう。
そのとき。
「早く、行きましょう?」
波打つ黒髪を豪奢になびかせ、ミンウェイが振り返った。光沢のある緋色の衣服が朝日を跳ね返し、きらりと輝く。
彼女は、足を止めたままのルイフォンたちのもとへ、軽やかに戻ってきた。その歩みと共に、ふわりとした優しい草の香りが漂う。
「私なら、心配要らないわよ?」
ルイフォンはきっと、呆けた顔をしていたのだろう。くすくすとした笑いながら、ミンウェイの拳が彼の額を小突いた。
「痛っ!」
見た目よりもずっと骨に響いた一撃に、ルイフォンは思わず声を上げる。
「……本当はね、ここに来るまでは不安だったわ」
恨みがましい目で額を押さえるルイフォンを横目に、ミンウェイは綺麗に紅の引かれた唇をすっと上げる。
「でも、実際に来てみると、ああ、もう、こんなに何もかもが古ぼけちゃうくらい、昔のことだったんだなぁって……思った」
絶世の美貌が、緩やかに大輪の華を咲かせた。
その身にすべてを受け止め、あらゆるものを吸い込んで養分としたかのように、彼女は深みのある色彩で笑う。
「勿論、忘れたわけじゃないわ。いろんなことを、ちゃんと覚えている。私の中には相変わらず、卑屈でいじけた女の子がいるのも分かっている」
「……」
「でも、そんな意気地なしには、リュイセンを救えないでしょ? だったら私は、全部、抱えたままで前に進むわ。――別に気にすることも、今更、傷つく必要もないでしょ? だって、この家にあるのは、とっくの昔の過去だもの」
蔦に覆われた、かつての我が家を再び振り返り、彼女は小さく微笑む。
「――そう……思えてきたわ……」
「ミンウェイ……」
ルイフォンは、なんと言ったらよいか分からず、ただ彼女の名を呼んだ。
「……少し前にね、リュイセンが、お父様とお母様のお墓参りに連れて行ってくれたの。――あのときは、まだ気持ちがぐちゃぐちゃで、リュイセンに悪いことしちゃった。彼は、お父様を過去のものにしようとしてくれていたのにね。今、やっと分かったわ……」
そしてミンウェイは、ルイフォンに一歩、近づく。
「ルイフォン、私はリュイセンに会いたい。――だから、お願い。リュイセンを助けて」
切れ長の瞳がルイフォンを捕らえる。
ルイフォンは猫の目をにやりと歪め、好戦的に口角を上げた。
「当たり前だろ。俺だって、あいつに会いたい。あいつに会って、メイシアをさらった落とし前として、きっちり殴り倒してやる」
彼の返答に、ミンウェイもまた口元をほころばせた。
そんなふたりの様子を見守っていたエルファンが、おもむろに口を開く。
「ミンウェイ、家の鍵は持っているのか?」
「え? ああ! すみません! 持っていません! ……あの日は、お父様が鍵を掛けましたし、……まさか、もう二度と戻ってこないとは思いませんでしたから、私は何も持たずにそのままで……」
ここに来て生じた大問題に、ミンウェイは口ごもる。しかしエルファンは、さも当然とばかりに「だろうな」と呟いただけだった。
「庭に回っていいか?」
そう尋ねながらも、既にエルファンは歩き出している。
小走りになって追いかけながら、ルイフォンは思う。
セレイエは――正確には、セレイエの〈影〉であったホンシュアは、この家の中に入ったはずだ。メイシアが受け取った記憶が、それを証明している。
きっと彼女は、そつなく鍵を入手していたのだろう。そんな気がする。……なんか悔しい。
裏手に回ると、家と同じく、庭も荒れ放題だった。
鬱蒼とした木々が、ざわざわと葉擦れの音を鳴らす。広く張った太い根に、時折、足を取られそうになるのに気をつけながら、ルイフォンは奥へと進んだ。
高く伸びた雑草に埋もれるようにたたずむ、枯れ果てた温室を見つけると、やはりここはミンウェイの育った家なのだと、なんともいえない感慨を覚える。
「ここがいいか」
唐突に、エルファンが立ち止まった。彼は庭に背を向け、家と向き合う。
呼吸をするような、ごく自然な鞘走りの音――。
エルファンの両手から、銀光が流れ出す。
その軌跡を、ルイフォンは目で追うことはできなかった。気づいたときには、家を覆っていた蔓の一部がばらばらになって地面に落ちていた。そして、今まで蔦の這っていた場所には、大きな窓が現れる。
『神速の双刀使い』
その二つ名は次男リュイセンに譲って久しいが、いまだエルファンの両腕には神技が宿っていた。
彼は両手に持った双刀を一度、鞘に戻し、それから改めて今度は鞘ごと腰から外す。手の中で転がすようにして感触を確かめたかと思うと、神速の御業でもって窓硝子を貫いた。
――!
ルイフォンもミンウェイも、声ひとつ発せぬうちに、硝子の飛沫が奏でる旋律を聞いた。
勢いよく穿たれた穴は、さして大きくはなかったが、エルファンが手を入れる程度には充分で、彼はこともなげにクレセント錠を外し、窓を開けた。
「私が同行してよかっただろう?」
口の端だけをわずかに上げ、エルファンが告げる。
得意げに笑っている……のだろうか?
「……いや、まぁ、それくらいしか方法がないのは分かるけどさ……」
警報でも鳴ったら面倒だと、つい考えてしまうのは、ルイフォンの性質だ。
勿論、こんな古びた家にセキュリティも何もないだろう。場合によれば、電気すら通っていない可能性もある。
そう考え、ルイフォンは眉を寄せた。
通電してない場合は、少々、厄介だ。埃まみれのコンピュータが果たして使えるのか否か試せない。――いや。ここは医者でもあったヘイシャオの研究施設だ。自家発電の設備がどこかにあるはず……。
そんなことを考えながら窓から家に侵入し、ミンウェイに先導されてしばらく歩いていると、不意にエルファンが呟いた。
「……嫌な予感がする」
「え?」
「足元を見ろ。埃の上に、何かを運んだ跡が残っている」
「!」
エルファンの予感は当たっていた。
ヘイシャオの研究室には、コンピュータの類を始め、棚にいっぱいあったという研究資料が綺麗になくなっていた。古びた薬瓶だけはそのまま残されていたが、なんの役にも立たない。
「〈蝿〉だ……! 〈蝿〉が、あの菖蒲の館に運んだんだ……」
埃に残された台車のような形跡から、まず間違いない。ホンシュアに目覚めさせられ、『ライシェン』を作るように依頼された彼は、昔の資料を持って新しく用意された研究室に引っ越したのだ。
「糞っ……!」
今回ばかりは、〈蝿〉が意図してルイフォンの邪魔をしたわけではないのは分かっている。だが、腹立たしくてならない。足を踏み鳴らすと、床の埃がぶわりと舞い上がった。エルファンとミンウェイは顔をしかめたが……、何も言わなかった。
ここなら、求めている証拠があると信じていた。実際、あったはずなのだ。セレイエの――ホンシュアの記憶を持つメイシアが、そう証言していたのだから。
『報告書の内容は〈七つの大罪〉のデータベースに収められるから、もしヘイシャオさんの研究室が空振りだったら、そちらへの侵入を考えて』
メイシアのことを考えた瞬間、ルイフォンの耳の中に鈴を振るような声が蘇った。
「――!」
確か、そう言っていた。
その直後に、彼女が『契約』に触れて苦しみだしたため、それどころでなくなり、忘れかけていた。
「屋敷に戻る!」
「ルイフォン?」
急に叫んだルイフォンに、ミンウェイが不思議そうな顔をする。
「今すぐ屋敷に戻って、〈七つの大罪〉のデータベースに侵入をかける!」
〈七つの大罪〉は、もはや瓦解した組織。だが、セレイエの記憶を持つメイシアが『ある』と言った以上、データベースはまだ存在する。
しかし同時に、セキュリティもまた健在のはずだ。
「……っ!」
それはつまり、あの母キリファや、あの異父姉セレイエと同等――あるいは、まさに本人たちが組み上げたセキュリティを相手にするということだ。
「――やるしかねぇだろ……!」
緊張からくる震えを、武者震いと言い換え、ルイフォンは自分を奮い立てる。
彼は大股に一歩、足を踏み出し……、困惑したように彼を見守っていたミンウェイと目が合った。
「……ぁ」
自分のことで頭がいっぱいになっていたが、ここはミンウェイの思い出の詰まった場所だ。ある日、突然、何も持たずに出ていったままならば、きっと何か持ち帰りたいものがあるだろう。
「ミンウェイ、すまん。まずは、お前は自分の部屋で……」
「ううん」
ルイフォンの言葉を途中で遮り、ミンウェイは艶めく美声できっぱりと告げる。
「私がこの家で為すべきことは『お別れ』よ。それは、もう済ませたわ。だから、帰りましょう!」
「……すまん。……ありがとうな」
この先の困難を考えると、決して晴れやかな気分とは言い難い。しかし、華やかなミンウェイの笑顔に、この家に来たことは無駄ではなかったとルイフォンは思う。
「ミンウェイ」
それまで、ひとりでごそごそと戸棚を漁っていたエルファンが、どこからともなく古びた刀を出してきた。そして、きょとんとするミンウェイに、その鍔飾りを示す。
そこには優美に舞う蝶の姿が描かれていた。
「お前は、この鍔飾りを知っているか?」
「いいえ。――その刀は……?」
「ヘイシャオの刀だ。見覚えがある。病弱な私の妹が、蝶のように自由に羽ばたけるように、との願を掛けていた」
エルファンの妹――すなわち、ヘイシャオの妻で、ミンウェイの『母親』だ。
「え……? でも、お父様はいつも、小さな花の鍔飾りを使っていて……」
可憐な小花は、きっと母をイメージしたものなのだろうと、ミンウェイは思っていた。父は幾振りかの刀を持っていたが、それらはどれも花の鍔飾りだった。
どういうことかと彼女が首を傾げると、ルイフォンが口を挟む。
「俺も、〈蝿〉の鍔飾りを見たことがある。メイシアが鷹刀に来た翌日に、〈蝿〉に襲われたときだ。――奴には似合わないような、可愛らしい花の意匠だったから、よく覚えている」
ルイフォンが、初めて本気で死を覚悟した瞬間に見たものが、それだった。
エルファンは、ふたりの様子を交互に見やり、そしてふっと微笑んだ。……彼にしては珍しく、切なげな優しさを漂わせていた。
「ヘイシャオが『大切なもの』を仕舞い込むときの癖を思い出してな。何かあるかと探してみたら、この刀が出てきた。――『大切なもの』といっても、壊れてしまったけれど捨てられない記念の品のような、そういう使えない、使うつもりのないもの、だ」
「エルファン? どういう意味だ」
謎掛けのような言葉に、ルイフォンは尖った声で尋ねる。
しかしエルファンの低音は、それを柔らかに受け止めた。
「ヘイシャオが、ミンウェイを連れて私のもとにやってきたとき、あいつが使っていた刀の鍔飾りは花だった。小さすぎて見た目では花の種類は判別できないが、あいつの考えることなら分かる。――あれは『ベラドンナの花』だ」
ルイフォンの隣で、ミンウェイが大きく息を呑む。
「あいつは妹の死後、蝶を封じて、花と共に在ろうとしたんだな……」
そして、ルイフォンは仕事部屋に籠もる――。
まだ陽射しが本領を発揮する前の、爽やかな朝の時刻。今日ばかりはと早起きをしたルイフォンは、ミンウェイに案内され、ヘイシャオの研究室に向かっていた。
ふたりの乗る車を運転しているのは――エルファン。
勿論、ルイフォンは一度、断った。何も、次期総帥自らが調査に出向かなくてもよいだろう、と。
しかしエルファンは、まだ傷の癒えていないルイフォンが途中で倒れたら、彼を担ぐための男手が必要であること。そもそも見知らぬ場所に赴くにあたり、充分な戦力を有した者を伴わないのは不用心であることを挙げてきた。
その説明の中に、同行者が次期総帥である必要性はまったく入っていない。けれど、ルイフォンは「助かる」と言って、素直に頭を下げた。
エルファンは、ヘイシャオの住んでいた場所を見たいのだろう。
双子のように育った従弟であり、親友でもあるヘイシャオが、一族を抜けたあと、どのように暮らしていたのか。
そして、叶うことなら知りたいのだろう。
ヘイシャオは何故、妻の死後、十数年も経ってから、今更のように『死』を求めてエルファンの前に現れたのか……。
「ここです」
緊張を帯びたミンウェイの声で、車は止まった。
周りに他の建物のない、郊外の一軒家だった。錆びついた鉄格子の門を押し開けると、ぎぎいと大きな音が鳴る。
アプローチの先には、古びた家。
邸宅と呼んでも支障なさそうな立派な家構えであるが、壁という壁を蔦が這い、見るからに廃屋だった。しかし、大掛かりな研究装置を収める建物だけに、頑丈な造りであるのだろう。十数年も手入れをしていないにも関わらず、崩れ落ちるような気配はない。
ミンウェイは、音もなくアプローチに踏み出した。
すらりと背筋を伸ばした足運びには一片の迷いもなく、颯爽と滑るように進んでいく。やがて、玄関扉にたどり着くと、彼女は凪いだ瞳で家全体を見渡した。
――しばらく、ミンウェイをひとりにしておくべきなのだろうか?
ルイフォンは戸惑う。
ここは、彼女の過去が詰まった場所だ。彼女の古い思い出も、これから暴こうとしている、彼女の生まれる前の真実も……。
ちらりと、隣を見やれば、エルファンが無表情にミンウェイの背中を見つめていた。彼の顔から感情を読み解くのは難しいが、おそらく彼も、思い惑っているのだろう。
そのとき。
「早く、行きましょう?」
波打つ黒髪を豪奢になびかせ、ミンウェイが振り返った。光沢のある緋色の衣服が朝日を跳ね返し、きらりと輝く。
彼女は、足を止めたままのルイフォンたちのもとへ、軽やかに戻ってきた。その歩みと共に、ふわりとした優しい草の香りが漂う。
「私なら、心配要らないわよ?」
ルイフォンはきっと、呆けた顔をしていたのだろう。くすくすとした笑いながら、ミンウェイの拳が彼の額を小突いた。
「痛っ!」
見た目よりもずっと骨に響いた一撃に、ルイフォンは思わず声を上げる。
「……本当はね、ここに来るまでは不安だったわ」
恨みがましい目で額を押さえるルイフォンを横目に、ミンウェイは綺麗に紅の引かれた唇をすっと上げる。
「でも、実際に来てみると、ああ、もう、こんなに何もかもが古ぼけちゃうくらい、昔のことだったんだなぁって……思った」
絶世の美貌が、緩やかに大輪の華を咲かせた。
その身にすべてを受け止め、あらゆるものを吸い込んで養分としたかのように、彼女は深みのある色彩で笑う。
「勿論、忘れたわけじゃないわ。いろんなことを、ちゃんと覚えている。私の中には相変わらず、卑屈でいじけた女の子がいるのも分かっている」
「……」
「でも、そんな意気地なしには、リュイセンを救えないでしょ? だったら私は、全部、抱えたままで前に進むわ。――別に気にすることも、今更、傷つく必要もないでしょ? だって、この家にあるのは、とっくの昔の過去だもの」
蔦に覆われた、かつての我が家を再び振り返り、彼女は小さく微笑む。
「――そう……思えてきたわ……」
「ミンウェイ……」
ルイフォンは、なんと言ったらよいか分からず、ただ彼女の名を呼んだ。
「……少し前にね、リュイセンが、お父様とお母様のお墓参りに連れて行ってくれたの。――あのときは、まだ気持ちがぐちゃぐちゃで、リュイセンに悪いことしちゃった。彼は、お父様を過去のものにしようとしてくれていたのにね。今、やっと分かったわ……」
そしてミンウェイは、ルイフォンに一歩、近づく。
「ルイフォン、私はリュイセンに会いたい。――だから、お願い。リュイセンを助けて」
切れ長の瞳がルイフォンを捕らえる。
ルイフォンは猫の目をにやりと歪め、好戦的に口角を上げた。
「当たり前だろ。俺だって、あいつに会いたい。あいつに会って、メイシアをさらった落とし前として、きっちり殴り倒してやる」
彼の返答に、ミンウェイもまた口元をほころばせた。
そんなふたりの様子を見守っていたエルファンが、おもむろに口を開く。
「ミンウェイ、家の鍵は持っているのか?」
「え? ああ! すみません! 持っていません! ……あの日は、お父様が鍵を掛けましたし、……まさか、もう二度と戻ってこないとは思いませんでしたから、私は何も持たずにそのままで……」
ここに来て生じた大問題に、ミンウェイは口ごもる。しかしエルファンは、さも当然とばかりに「だろうな」と呟いただけだった。
「庭に回っていいか?」
そう尋ねながらも、既にエルファンは歩き出している。
小走りになって追いかけながら、ルイフォンは思う。
セレイエは――正確には、セレイエの〈影〉であったホンシュアは、この家の中に入ったはずだ。メイシアが受け取った記憶が、それを証明している。
きっと彼女は、そつなく鍵を入手していたのだろう。そんな気がする。……なんか悔しい。
裏手に回ると、家と同じく、庭も荒れ放題だった。
鬱蒼とした木々が、ざわざわと葉擦れの音を鳴らす。広く張った太い根に、時折、足を取られそうになるのに気をつけながら、ルイフォンは奥へと進んだ。
高く伸びた雑草に埋もれるようにたたずむ、枯れ果てた温室を見つけると、やはりここはミンウェイの育った家なのだと、なんともいえない感慨を覚える。
「ここがいいか」
唐突に、エルファンが立ち止まった。彼は庭に背を向け、家と向き合う。
呼吸をするような、ごく自然な鞘走りの音――。
エルファンの両手から、銀光が流れ出す。
その軌跡を、ルイフォンは目で追うことはできなかった。気づいたときには、家を覆っていた蔓の一部がばらばらになって地面に落ちていた。そして、今まで蔦の這っていた場所には、大きな窓が現れる。
『神速の双刀使い』
その二つ名は次男リュイセンに譲って久しいが、いまだエルファンの両腕には神技が宿っていた。
彼は両手に持った双刀を一度、鞘に戻し、それから改めて今度は鞘ごと腰から外す。手の中で転がすようにして感触を確かめたかと思うと、神速の御業でもって窓硝子を貫いた。
――!
ルイフォンもミンウェイも、声ひとつ発せぬうちに、硝子の飛沫が奏でる旋律を聞いた。
勢いよく穿たれた穴は、さして大きくはなかったが、エルファンが手を入れる程度には充分で、彼はこともなげにクレセント錠を外し、窓を開けた。
「私が同行してよかっただろう?」
口の端だけをわずかに上げ、エルファンが告げる。
得意げに笑っている……のだろうか?
「……いや、まぁ、それくらいしか方法がないのは分かるけどさ……」
警報でも鳴ったら面倒だと、つい考えてしまうのは、ルイフォンの性質だ。
勿論、こんな古びた家にセキュリティも何もないだろう。場合によれば、電気すら通っていない可能性もある。
そう考え、ルイフォンは眉を寄せた。
通電してない場合は、少々、厄介だ。埃まみれのコンピュータが果たして使えるのか否か試せない。――いや。ここは医者でもあったヘイシャオの研究施設だ。自家発電の設備がどこかにあるはず……。
そんなことを考えながら窓から家に侵入し、ミンウェイに先導されてしばらく歩いていると、不意にエルファンが呟いた。
「……嫌な予感がする」
「え?」
「足元を見ろ。埃の上に、何かを運んだ跡が残っている」
「!」
エルファンの予感は当たっていた。
ヘイシャオの研究室には、コンピュータの類を始め、棚にいっぱいあったという研究資料が綺麗になくなっていた。古びた薬瓶だけはそのまま残されていたが、なんの役にも立たない。
「〈蝿〉だ……! 〈蝿〉が、あの菖蒲の館に運んだんだ……」
埃に残された台車のような形跡から、まず間違いない。ホンシュアに目覚めさせられ、『ライシェン』を作るように依頼された彼は、昔の資料を持って新しく用意された研究室に引っ越したのだ。
「糞っ……!」
今回ばかりは、〈蝿〉が意図してルイフォンの邪魔をしたわけではないのは分かっている。だが、腹立たしくてならない。足を踏み鳴らすと、床の埃がぶわりと舞い上がった。エルファンとミンウェイは顔をしかめたが……、何も言わなかった。
ここなら、求めている証拠があると信じていた。実際、あったはずなのだ。セレイエの――ホンシュアの記憶を持つメイシアが、そう証言していたのだから。
『報告書の内容は〈七つの大罪〉のデータベースに収められるから、もしヘイシャオさんの研究室が空振りだったら、そちらへの侵入を考えて』
メイシアのことを考えた瞬間、ルイフォンの耳の中に鈴を振るような声が蘇った。
「――!」
確か、そう言っていた。
その直後に、彼女が『契約』に触れて苦しみだしたため、それどころでなくなり、忘れかけていた。
「屋敷に戻る!」
「ルイフォン?」
急に叫んだルイフォンに、ミンウェイが不思議そうな顔をする。
「今すぐ屋敷に戻って、〈七つの大罪〉のデータベースに侵入をかける!」
〈七つの大罪〉は、もはや瓦解した組織。だが、セレイエの記憶を持つメイシアが『ある』と言った以上、データベースはまだ存在する。
しかし同時に、セキュリティもまた健在のはずだ。
「……っ!」
それはつまり、あの母キリファや、あの異父姉セレイエと同等――あるいは、まさに本人たちが組み上げたセキュリティを相手にするということだ。
「――やるしかねぇだろ……!」
緊張からくる震えを、武者震いと言い換え、ルイフォンは自分を奮い立てる。
彼は大股に一歩、足を踏み出し……、困惑したように彼を見守っていたミンウェイと目が合った。
「……ぁ」
自分のことで頭がいっぱいになっていたが、ここはミンウェイの思い出の詰まった場所だ。ある日、突然、何も持たずに出ていったままならば、きっと何か持ち帰りたいものがあるだろう。
「ミンウェイ、すまん。まずは、お前は自分の部屋で……」
「ううん」
ルイフォンの言葉を途中で遮り、ミンウェイは艶めく美声できっぱりと告げる。
「私がこの家で為すべきことは『お別れ』よ。それは、もう済ませたわ。だから、帰りましょう!」
「……すまん。……ありがとうな」
この先の困難を考えると、決して晴れやかな気分とは言い難い。しかし、華やかなミンウェイの笑顔に、この家に来たことは無駄ではなかったとルイフォンは思う。
「ミンウェイ」
それまで、ひとりでごそごそと戸棚を漁っていたエルファンが、どこからともなく古びた刀を出してきた。そして、きょとんとするミンウェイに、その鍔飾りを示す。
そこには優美に舞う蝶の姿が描かれていた。
「お前は、この鍔飾りを知っているか?」
「いいえ。――その刀は……?」
「ヘイシャオの刀だ。見覚えがある。病弱な私の妹が、蝶のように自由に羽ばたけるように、との願を掛けていた」
エルファンの妹――すなわち、ヘイシャオの妻で、ミンウェイの『母親』だ。
「え……? でも、お父様はいつも、小さな花の鍔飾りを使っていて……」
可憐な小花は、きっと母をイメージしたものなのだろうと、ミンウェイは思っていた。父は幾振りかの刀を持っていたが、それらはどれも花の鍔飾りだった。
どういうことかと彼女が首を傾げると、ルイフォンが口を挟む。
「俺も、〈蝿〉の鍔飾りを見たことがある。メイシアが鷹刀に来た翌日に、〈蝿〉に襲われたときだ。――奴には似合わないような、可愛らしい花の意匠だったから、よく覚えている」
ルイフォンが、初めて本気で死を覚悟した瞬間に見たものが、それだった。
エルファンは、ふたりの様子を交互に見やり、そしてふっと微笑んだ。……彼にしては珍しく、切なげな優しさを漂わせていた。
「ヘイシャオが『大切なもの』を仕舞い込むときの癖を思い出してな。何かあるかと探してみたら、この刀が出てきた。――『大切なもの』といっても、壊れてしまったけれど捨てられない記念の品のような、そういう使えない、使うつもりのないもの、だ」
「エルファン? どういう意味だ」
謎掛けのような言葉に、ルイフォンは尖った声で尋ねる。
しかしエルファンの低音は、それを柔らかに受け止めた。
「ヘイシャオが、ミンウェイを連れて私のもとにやってきたとき、あいつが使っていた刀の鍔飾りは花だった。小さすぎて見た目では花の種類は判別できないが、あいつの考えることなら分かる。――あれは『ベラドンナの花』だ」
ルイフォンの隣で、ミンウェイが大きく息を呑む。
「あいつは妹の死後、蝶を封じて、花と共に在ろうとしたんだな……」
そして、ルイフォンは仕事部屋に籠もる――。