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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
4.錯綜にざわめく葉擦れの音-3
 昼夜を知らぬ、ルイフォンの仕事部屋。

 窓はなく、機械類にとって常に最適な温度に保たれた密室は、外界とは切り離された異空間である。その中で、ルイフォンは車座に配置された機器の間を飛び回るようにして、あちらこちらでキーボードを打ち鳴らし、あるいはモニタ画面に目を走らせていた。

 リュイセンを解放するために、ミンウェイが『母親』のクローンである確たる証拠を手に入れる。――そのために、〈七つの大罪〉のデータベースへの侵入クラッキングを試みているのだった。

「……っ!」

 ルイフォンは舌打ちをした。

 癖の強い前髪を掻き上げ、頭皮にがりがりと爪を立てる。

 作業は難航していた。そもそも、取っ掛かりすら分からない状態だった。

 そして――。

「……あ」

 はたと思い出し、彼は携帯端末を取り出した。

 案の定、メイシアからのメッセージが届いていた。

 ヘイシャオの研究室での証拠探しはどうなったのか。こちらは、夕食までは誰も部屋に来ないから連絡してほしい、という内容が、彼女らしい遠慮がちな文章で綴られていた。

「あー……」

 端末の隅に表示されている時刻を目にして、ルイフォンはしまった、と思う。

 既に、夕方だった。

 ヘイシャオの研究室が空振りに終わり、取って返して屋敷に戻ったあと、彼は仕事部屋に引き籠もった。

 そのときは、すぐにもメイシアに連絡をしたいと思っていた。だが、まだ午前中の早い時間で、彼女は〈ムスカ〉の地下研究室にいると知っていたために後回しにしたのだ。

 メッセージを入れておく、という発想はない。面倒臭い。

 それよりも、彼女がいる時間に、直接、電話をかけたほうが、声も聞けて一石二鳥だと考えた。敵が情報機器に詳しくない〈ムスカ〉だと分かっている以上、音声通話の傍受を警戒する必要はないのだ。また、『彼女がひとりのとき以外は、端末の電源は切っておく』と取り決めてあるから、不用意に呼び出し音を鳴らしてしまう心配もない。

 そんなわけで、彼女が昼食を終えたころに電話をしようと思っていた……のだが、気づいたらこの時間だ。メイシアは、さぞ気をもんでいることだろう。

 周りを見渡せば、車座に並べられた机のひとつに、サンドイッチが載っていたと思しき皿が置いてあった。……そういえば、昼にミンウェイが持ってきてくれたような気がする。

 頭が異次元に行っていた彼は、無意識のうちに食事を摂りながら作業をしていたらしい。完全に記憶が飛んでいるが、よくあることだ。

 幸い、メイシアの夕食の時間までには、余裕があった。今なら、まだ大丈夫だろう。

 ルイフォンは、携帯端末に指を走らせる。

 今朝、出発前に電話をしたときは、随分と大見得を切った。……しかし、空振りに終わってしまった。

 勿論、〈ムスカ〉が先に資料を持ち出していたのはルイフォンのせいではない。だが、そのあと何時間も掛けているのに〈七つの大罪〉のデータベースの糸口すら掴めていないのは、クラッカーとしてあまりにも面目が立たないだろう。

「……」

 滅多にないことだが……、メイシアと話すのが気が重かった。





「ル、ルイフォン!?」

 電話に出た瞬間のメイシアは、焦ったような様子だった。

 かといって、まずいことが起きているふうでもない。どちらかというと嬉しそうな、弾んだ声だ。

 ……囚われの身の彼女に、どんな良いことがあったというのだ?

 気になる。

 しかし今は、先に重要な報告をすべきだろう。状況は、極めて芳しくないのだ。

 彼女の話はあとで教えてもらうことにして、ルイフォンは、まずは連絡が遅れたことを詫び、現状について説明をした。相槌を打つ彼女の声は、すぐにいつも通りに戻り――否、真剣な、ややもすれば『沈んだ』響きになり、ルイフォンの胸が傷む。

「……――というわけで、今、全力で〈七つの大罪〉のデータベースに侵入クラッキングをかけようとしている」

『ごめんなさい。私が、ヘイシャオさんの研究室には資料がたくさんあった、なんて言ったから……』

「なんで、お前が謝るんだよ?」

 なんでもかんでも自分に非があるように捉えるのは、彼女のよくない癖だ。

『私が太鼓判を押したから、ルイフォンも期待していたと思うの……』

「何、言ってんだよ。お前の持つホンシュアの記憶よりもあとに〈ムスカ〉が資料を持って行っちまったんだから、仕方ないだろ?」

『うん……、でも……』

「それよりさ……」

 ルイフォンは、変に責任を感じて落ち込んでいる彼女に、明るく声を掛ける。気の重い報告はもう終えたことだし、先ほど気になった件を訊く、ちょうどよいタイミングだと思った。

「お前のほうは何があったんだ? ――いいことが、あったんだろ?」

『えっ!? あ、あああ……、あのっ!』

 メイシアの声が急に上ずった。

「?」

 随分とおかしな反応だな、と首をかしげながら、ルイフォンは促す。

「教えてほしい。お前にいいことがあったなら、俺も嬉しいからさ」

『ええと……、ええと、ね。……ちゃんと、ルイフォンに言おうと思っていたんだけどね……』

 あからさまに不審である。

 そして、妙な態度ではあるが、彼女は機嫌がいいように思えた。

 ルイフォンは、面白くないと感じた。

 理由は単純だ。

 ――俺以外の奴がメイシアを喜ばせるなんて、許せん!

 心の中で叫んでから、さすがにそれは狭量だと思い直す。

 しかし……、釈然としなかった。侵入クラッキングがうまくいかなくて、気が立っていたというのもあるだろう。

「何があったんだ?」

 棘のあるテノールが、口をついて出た。

 言ってから、感じが悪かったなと反省する。もっとも、ルイフォンにとっては幸運なことに、電話口の向こうで密かに百面相をしていたメイシアは、彼の口調の変化に気づいていなかった。

『……あ、あのね。スーリンさんから、メッセージをいただいたの』

「……は? スーリン?」

 メイシアの携帯端末の受け渡し場所として、シャオリエの娼館の世話になった都合上、スーリンもメイシアが囚われていることを知っている。だから、心配してくれたのだろう。

『ご迷惑をおかけしたのに、私のことを励ましてくれたの。凄く嬉しかった』

「あ……、ああ……」

 メイシアとスーリンの仲が良いという、不可思議な現実に対しては複雑な思いがあるため、ルイフォンとしてはどうしても歯切れが悪くなる。

 だが、メイシアがスーリンのメッセージに喜んでいるというのなら、納得のいく話だ。

 素直に、良かったなと思う。ささくれだっていた感情が、すっと落ち着いていく。

 その間にも、メイシアの言葉は続いていた。

『それで、スーリンさんがね。是非、私に見せたいという写真を添付してくれたの』

「写真? なんの写真だ?」

 普段の彼だったら、ここですぐにピンときたはずだった。しかし彼の頭は、難航する侵入クラッキング作業のおかげで疲れ切っていた。

『ええと……、あの、ね』

 メイシアが口ごもる。

 だが、ルイフォンに隠しごとをしないと誓いを立てている彼女は、素直に告白する。

 少し、遠慮がちに。

 けれど、とても嬉しそうに。薔薇色に頬を染めた声で――。

『『ルイリン』さんの写真……』

「――――――!」

 刹那。

 ルイフォンの全身の血の気が引いた。

「消せ! 今すぐ消去しろ!」

 鋭いテノールが発せられる。

 だが、そこには迫力の欠片かけらもなく、代わりに、彼がとうの昔に無くしたはずの羞恥心らしきものが、ちょこんと可愛らしく載っていた。

「……ったく、スーリンの奴!」

 くしゃくしゃと前髪を掻き上げると、頭の中に昨日の悪夢が蘇る。

『ルイリン』とは、ルイフォンの女装姿につけられた名前である。

 携帯端末を受け取りに来たタオロンが『馴染みの女』に逢いにきたという設定だったので、調子に乗ったシャオリエとスーリンが、ルイフォンを『ルイリン』にしたのだ。

 そしてそのとき、ルイフォンは不覚にもスーリンに写真を撮られてしまったのである。

 ――『あれ』をメイシアに見られた……。

 先ほど引いた血の気が、にわかに戻ってきて、今度は彼の顔を真っ赤に染める。

 もしも、今の通話が画像付きのものであったら、メイシアは『ルイリン』以上に貴重なものを見ることができたのかもしれない。しかし、画像は通信負荷を増やし、音質を著しく落としてしまうため、残念ながら音声のみの通話であった。

『……やっぱり……、消さなきゃ駄目、よね……?』

 今まで弾んでいたメイシアの声が、急にしぼんだ。

『……ごめんなさい。ルイフォンは嫌だったのよね。私の作戦のせいで無理矢理に、だもの……。ごめんなさい。……写真に浮かれていて……ごめんなさい』

「え……?」

 スーリンからとんでもないものが送られてきて、メイシアは困惑しているのだとルイフォンは考えていた。彼女は、彼に隠しごとをするのはいけないことだと思っている。だから、きちんと報告をしているだけだと――。

「メイシア……、お前……。……もしかして、その写真――」

 考えたくない。実に、考えたくない。

 だが、しかし――。

 彼女が申し訳なさそうに我儘を言うときの、少し恥ずかしそうな上目遣いの顔が脳裏に浮かぶ。それは、つまり、彼女はその写真を……。

「――ひょっとして、気に入っている……?」

『うん! 凄く、素敵』

 しおれていた花が生気を取り戻し、柔らかにほころんでいくかのように、彼女の声が華やいだ。

 思わず聞き惚れてしまいそうな心地の良い声。しかし、ルイフォンは反論せずにはいられない。

「どこがだよ!?」

『ルイフォンは格好いいだけじゃなくて、綺麗でもあったんだなぁ、って』

「はぁ?」

 不気味なだけだろ! と、続けて叫ぼうとした彼を遮り、彼女はうっとりと呟く。

『そんな人が私のそばにいてくれるなんて、嬉しいというか、誇らしいというか……、凄く幸せだと思ったの。――あ、あのっ、ごめんなさい。勿論、外見だけじゃなくて、中身が好きだからこそで……』

 メイシアは慌てふためくが、どこか的外れだった。

 しかも、いつもなら絶対に口にしないような言葉をぽろぽろと漏らしている。電話だけのやり取りになってから、彼女は少し大胆だ。

 ルイフォンの心がじわりと温かくなり、先ほどとは別の、薄く淡い色合いで頬が染まった。

「……っ」

 自分が照れているのだと気づき、彼は驚く。

 自信過剰な彼は、得意げに胸を張ることはあっても、胸を高鳴らせながら赤面するなどという経験は今までなかった。

 信じられないが、新鮮で……悪い気分ではない。

 メイシアが上機嫌なのは『ルイリン』――ルイフォンが原因。

 それはどう考えても、彼女が彼にべた惚れであるが故の、恋は盲目というやつだ。

 ――嬉しいじゃねぇか。

 自分でも単純な気がするが、喜びに打ち震える。――心の片隅にだけは、どこか釈然としない思いを残しながらも……。

「……消さなくていい」

『ええっ!?』

「お前が、俺の写真を気に入ったというのなら、それは持っていていい」

 メイシアが喜んでいるのなら、それはよいことなのだ。

「――けど! 他の奴には、絶対に見せるなよ!」

『いいの!? 嬉しい! ありがとう!』

 鈴を振るような声が高らかに響き渡ると、ルイフォンの耳が幸せに包まれた。

 何か間違っているような気がしないでもないが、侵入クラッキングがうまくいかずに苛立っていたルイフォンは、満たされた気持ちになって通話を終えたのだった。





 無情なる時は、瞬く間に流れていき、やがて夜が訪れる。

 鷹刀一族がルイフォンに言い渡した時間は、三日間。

 三日のうちに、リュイセンを解放するための、確たる証拠を手に入れなければならない。

 そのうちの一日が、終わろうとしていた。

 ルイフォンは、〈七つの大罪〉のデータベースへの侵入クラッキングに効果的な方策を見いだせないまま、仕事部屋で崩れ落ちるように眠りに落ちた。

 メイシアは、ルイフォンの作業の邪魔にならないよう、彼への直接の連絡を避け、ミンウェイに電話で夜食と毛布を頼んだ。





 そして、リュイセンは……。





 夜になり、〈ムスカ〉は自室と決めた、王の部屋で睡眠を取るために研究室を出た。

 扉を開けた瞬間、地下通路の闇が迫る。

 光に慣れていた目は暗がりの負荷にされるが、彼の鋭敏な感覚は闇に溶け込む人の気配を見逃したりなどしなかった。

「どうしましたか? ――リュイセン」

 唇に薄笑いを載せて、低く問う。

 その声に応えるように気配はゆっくりと近づいてきて、研究室内から漏れ出す光がかろうじて届くという位置で止まった。

 高い鼻梁と頬が白く照らし出され、他の部分は黒く沈む。黄金比の美貌は、若いころのエルファンにそっくりだ。初めて出会ったころのリュイセンは、図体ばかりが大きな、甘っちょろい若造といったていであったが、今は抜き身の刀のような凄みをまとっている。

 あからさまな敵意を向けられても、どこか愛しく感じるのは、遥か昔に捨てた一族そのものの姿を彼が有しているからだろう。どうやら〈ムスカ〉は、思っていた以上に、かの血を持つ者に郷愁の念をいだいているらしい。無論、かえることなどできはしないが。

「……そういえば、お前に文句を言い忘れていたな、と思ってな」

 威嚇するように、リュイセンが顎を上げると、肩でそろえた髪が後ろに流れ、背後の闇と同化する。

「文句ですか」

ムスカ〉は、ほんの少し口の端を上げた。

 心当たりがありすぎて、苦笑するしかない。

「何が可笑おかしい?」

「いえ。なんでもありませんよ」

 瞳に険を載せたリュイセンの苛立ちを、〈ムスカ〉は軽い吐息と共にさっと払う。

 リュイセンは、むっと眉を吊り上げ、しかし、追求はしなかった。不毛な言い争いになれば、口が達者ではない彼が不利になることが明白だったからだ。

 故に、話が横道にそれないうちにと、リュイセンは単刀直入に口火を切った。

「お前――、『メイシアは、いずれセレイエに乗っ取られて消えてしまう』と言っていたが、嘘だってな」

「あの小娘から聞いたのですか」

「ああ」

「ふむ……」

 別に、どうということはない。

 リュイセンを世話係にすれば、そのくらいの話はするだろう。あのおめでたい小娘は、リュイセンが裏切ったとは考えていないのだから。

 彼女は、一緒に逃げようと持ちかけたはずだ。

 しかし、リュイセンは決して応じない。〈ベラドンナ〉のために〈ムスカ〉に従う。

 初めは希望を持っていた彼女も、やがて絶望に染まっていく。それは、さぞ愉快なことだろうと思ったからこそ、リュイセンをそばに置いたのだが、あの貴族シャトーアの娘は存外しぶとく、いまだに諦めていないようだった。

 王族フェイラの血を濃く引く、小娘――。

 神話の時代から、鷹刀一族を支配してきた王家に連なる者。

 まったく忌々いまいましい……。

「俺を騙したな」

 リュイセンの低いうなり声に、〈ムスカ〉は思考を呼び戻された。

「さて? 〈天使〉やら記憶やらについては私は門外漢ですので、あなたを誤解させるような言い方をしてしまったのかもしれませんね」

「はん! わざとだろ? お前は『生をけた以上、生をまっとうする』と言っていた。そのためにメイシアを利用してやるんだと。――だから、俺を騙してメイシアをさらわせた」

 噛み付くような口ぶりも、〈ムスカ〉から見れば負け犬の遠吠え。憐れみの眼差しを向けるだけで、特に言い返す気にもならない。

「お前は、自分が生き残るためには手段を選ばない。――卑劣だ」

「ええ。否定しませんよ」

 柔らかな声色で、〈ムスカ〉は口角を上げる。過ぎたことに固執するリュイセンが滑稽でならなかった。

 世話係として、常にあの小娘と顔を合わせなければならないのが相当こたえているのだろう。リュイセンは、〈ムスカ〉をなじらなければ気がすまないのだ。

「そんなに『死』が怖いのかよ? 死んだら何もかもなくなると、恐れているのか?」

 リュイセンは嘲るように言う。

 けれど、その声には引きつったような響きが含まれており、逆らうべきではない相手を揶揄することへの恐怖を必死に隠そうと、虚勢を張っているように聞こえた。

「死んだあとのことなど、どうでもよいことですよ。考える価値もありません。大切なのは、生きていることなのですから」

ムスカ〉は、できの悪い子供を嘆くように溜め息をつく。

 そのとき、演技じみた仕草で肩をすくめ、視線を下げた〈ムスカ〉は気づかなかった。

 ほんの一瞬。

 瞬きをするよりも、ごくわずかな刹那、リュイセンの美貌が凍りつき、その瞳が大きく見開かれたことに――。

「無駄話は、このくらいでよろしいですか? もう、夜も更けています。私は休みたいのですよ」

ムスカ〉は、論ずるに足りぬ戯言たわごとを好まない。

 だから、この中身のない会話を打ち切りたかった。

 そして、『目的を果たした』リュイセンもまた、不快感しか感じられない〈ムスカ〉と顔を突き合わせている意味を終えた。

「邪魔をしたな」

 リュイセンは愛想なくそう言い、足早に立ち去る。

 高鳴る鼓動を〈ムスカ〉に悟られないよう、一刻も早く、ひとりになる必要があった。

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