残酷な描写あり
3.菖蒲の館で叶う抱擁-4
「では、さっそく、俺を呼び出した理由――『最高の終幕』とやらの話をしてもらいたいところだが……」
〈蝿〉に向かって語り始めたルイフォンの視線がすっと動き、ミンウェイを捕らえた。
「ミンウェイ。まずは、お前が〈蝿〉と話をするのが順当だろう」
それは、落ち着かない様子のミンウェイを気遣ってのことだ。ずっと胸に緊張を抱えたままでは辛いだろうから、先に話を、と言ってくれているのだ。
「え、ええ……」
頷きながら、ミンウェイは反射的にルイフォンから目をそらした。切れ長の瞳を縁取る、長い睫毛が揺れる。
この部屋に入る前に、ミンウェイは『逃げない』と決めたはずだった。そして、『彼』――〈蝿〉が知りたがっている、オリジナルの『死』の理由を告げて、彼の心を救うのだと。
けれど、いざ〈蝿〉と言葉を交わしてみると、彼はとても穏やかな印象だった。メイシアから報告されていた昨日までの彼は、ミンウェイの知る父そのものだったのに、たった一晩で魔法のように別人に変わってしまった。
彼自身が言った通り、リュイセンによって、彼の『時』が流れ始めたからだろう。
……そんな彼に、かつてミンウェイが自殺未遂をはかったことなど、告げる必要があるのだろうか? 今更、そんな話は無粋なのではないだろうか?
彼は、彼女が無事に成長したことを喜んでくれた。良かったと、言ってくれたのだ……。
ミンウェイの心が惑い、瞳がさまよう。
痛いくらいに、鼓動が高鳴る。
ここで彼女が黙ってしまったら、皆が困るというのに。そんな焦りが、更に心拍数を上げていく。
そのときだった。
「ヘイシャオ」
ミンウェイへと注目する皆の意識を妨げたのは、玲瓏とした愛想のない低音。なのに不思議と温かな響きに、ミンウェイは、びくりと肩を震わせた。
彼女が驚いたのは、声色の不均衡さのためではない。その声を発したのが、伯父のエルファンであったからだ。
エルファンは、この庭園への同行の意思を示したとき、『干渉するつもりはない』と宣言した。そして、その言葉を遵守するかのように、ソファーの端で腕を組むという、一歩、離れた姿勢で皆を見守っていた。
……〈蝿〉が、オリジナルの親友である彼のことを、それとなく気にしている様子であるのに、無表情を貫いていた。
「……エルファン」
声を詰まらせながら、〈蝿〉が呟く。当惑に息が乱れ、こめかみの血管が神経質な脈を打つ。小さな呼びかけに対し、過剰ともいえる反応だった。
「ヘイシャオ、私は招かれざる客――だろう?」
問いかけの内容とは裏腹に、優しく語りかけるような声が響く。
エルファンとも思えぬ口調に、ミンウェイは耳を疑う。顔を見れば、エルファンの瞳は、まっすぐに〈蝿〉を見つめており、変化に乏しい美貌が、それでも、笑んだのだと認識できるくらいに緩やかにほころんでいた。
「……そんなことはない」
〈蝿〉の返答は、一瞬、遅れた。――迷いがあったのだ。それを誤魔化すように、彼は口早に続ける。
「確かに、次期総帥の立場にある君が、わざわざ来てくれるとは思わなかった。けれど、会えて嬉しいよ」
感情を呑み込んだ柔らかな顔で、〈蝿〉は微笑む。しかし、その態度は、エルファンにとって不服だったのだろう。一変して眉間に皺を寄せ、氷の眼差しで睨めつけた。
「嘘をつくな。お前のことだ、私や父上に合わせる顔がないと考えたのだろう? だから、鷹刀の屋敷に来るのを拒み、立場のある私たちが来ないことを前提に、ルイフォンやミンウェイを自分の城に招いた」
冷たい暴露に〈蝿〉の表情が凍る。
「――参ったな……、君にはお見通しか」
〈蝿〉は苦笑し、けれど、やがてそれは清々しさを含んだ純粋な笑みに変わっていく。
「ああ。私は、罪人となった私の姿を、君やお義父さんに見られたくなかった。……けれど今、君に会えて嬉しいと思っていることは本当だ。情けない姿を晒しているというのにな」
気弱に漏らした〈蝿〉を、エルファンは「ふん」と軽く笑い飛ばす。気にすることはないのだと。
「お前にだって見栄くらいあるだろう。だから私は、土足で上がり込むような真似をするからには、せめて邪魔はしない。お前のやることに口出しはせず、見守るつもりだった。だが――」
そこで、エルファンは真顔になり、〈蝿〉を見据える。
「ミンウェイのために、お前に訊くべきだと思い直した」
唐突に名前を出され、ミンウェイは息を呑んだ。何を、と問おうにも声がでない。
そんな彼女の代わりに、〈蝿〉が「エルファン?」と狼狽に声を揺らす。彼だけでなく、その場にいた誰もが困惑を示す。
「オリジナルのヘイシャオが、ミンウェイを連れて私の前に現れた日。私は、何も訊かずにヘイシャオを斬った。〈影〉のお前に、その記憶はないだろうが、ミンウェイは覚えているだろう?」
「え……、ええ……」
エルファンの問いかけに、ミンウェイは戸惑いながらも頷く。
あの日。
ミンウェイは、初めて見たエルファンが、あまりにも父にそっくりであることに驚いた。
――けれど。それよりも、思いつめた顔をしていた父が、エルファンを見た瞬間に、安らぎの表情に変わったことに衝撃を受けた。この人は、父にとって特別な人なのだと直感した。
ふたりは真剣な顔で、ミンウェイには分からない話をしていた。
そして――。
『理由を訊かないのか?』
『お前から言わない以上、言いたくないんだろう?』
『だったら訊かないでいてやるさ。――あいつの死を、ひとりで背負ったお前の頼みだ。後悔しようが構わない。引き受けてやるよ』
『ありがとう……』
ミンウェイの記憶の中で、銀光が煌めく。
――父の最期だ。
無意識に胸元を押さえたミンウェイの耳に、淡々としたエルファンの声が流れ込んでくる。
「私はあのとき、理由を訊こうなどとは微塵にも思わなかった。『ヘイシャオが私の前に現れた』――私にとっては、それだけで充分であったし、ヘイシャオも私が応えると信じていた。だから、私たちにとっては、それでよかった」
エルファンは唇を歪め、「そうだ、私たちにとっては――だ」と低く繰り返し、沈痛な面持ちで〈蝿〉を見つめる。
「あのとき、私たちは、不安に脅えるミンウェイを蔑ろにしたんだ」
ミンウェイは短く息を呑んだ。
そんなことはない。
父を斬ったエルファンは全身をわななかせ、ミンウェイを抱きしめながらこう言った。
『お前の父は、私が殺した』
『お前は私を恨め。誰かを恨んでなければ、やっていられないだろう』
エルファンの刃を受けた父は、とても満足そうな幸せそうな顔で眠っていた。
だから、エルファンは正しいことをしたのだと、ミンウェイは思った。
エルファンを恨む気持ちなど、まるで起こらなかった。
「ミンウェイのことを考えれば、私はヘイシャオに訊くべきだった」
訴えるように張り上げられた、エルファンの清冽な声が、天空の間に吸い込まれていく。
ふと……。
ミンウェイの目には、純白で埋め尽くされたこの部屋が、まるで天国であるかのように思えてきた。白衣姿の〈蝿〉が、死者の白装束をまとった亡き父に見える。
そして、此岸のエルファンが、彼岸の親友に向かって、あのときのことは『ふたりの罪』だと告げている――。
勿論、これはミンウェイの錯覚であるし、彼女は誰のことも悪く思っていない。ただ、あのときのことは何もかもが突然すぎて、いまだにどう捉えたらよいのか分からないだけだ……。
「ヘイシャオは何故、『死』を望んだのか。――その理由を、私はあいつの口から聞いておくべきだった」
静かに響く、低い声。
刹那、〈蝿〉が純白のソファーから腰を浮かせた。
「ちょっと待ってくれ、エルファン!」
動転に跳ねる声と共に、〈蝿〉が立ち上がる。
「話がおかしい! オリジナルの『死』の理由は、ミンウェイが知っているのだろう!? それを教えてくれると約束を……。私が、妻との誓いを破るほどの何かがあったはずなんだ!」
今までずっと穏やかな調子であった〈蝿〉の口調に、責めるような色合いが混じる。
「落ち着け、ヘイシャオ。ミンウェイが知っているのは客観的な事実だけだ。主観的な――父が何を考えていたかなど、分かるわけもない」
そう言いながら、エルファンの視線が、すっとミンウェイへと動いた。
――ほら、〈蝿〉はこんなにも、オリジナルの『死』について知りたがっているだろう?
口角を上げた顔はどことなく得意げにも見え、氷のように澄んだ瞳がミンウェイの背中を押す。
――だから、ためらわずに話せ。そして、私が訊くべきであったことを訊くんだ。
ミンウェイは無言の声に呼応し、鮮やかな紅の唇を開いた。
「ここからは、私がお話します」
ぐっと胸をそらし、緋色の衣服を閃かせる。長い髪が緩やかに波打ち、草の香が広がっていく。
「私は、お父様が亡くなる前に、どんな出来ごとがあったのかを知っています。それがお父様の『死』の原因であると考えて間違いないと思います」
〈蝿〉の体が、びくりと震えた。激しい緊張とともに、ずっと心にのしかかっていた疑問が氷解するという安堵が見えた。
「……ですが、私はお父様ではありません。『死』の原因となった事件を知っていても、エルファン伯父様のおっしゃる通り、お父様が何を考えて『死』を望んだのか――その気持ちは分かりません」
落ち着いた、艷やかな美声。
ミンウェイはもう、父の亡骸を前に、泣きじゃくっていただけの少女ではない。
「お父様のことを理解できるのは、お父様と同じ記憶を――心を持つ『あなた』だけです。……だから、教えて下さい。お父様の心を、私に伝えてください」
「ミンウェイ……」
〈蝿〉が、ごくりと唾を呑んだ。
「分かった。何があったのか、教えてくれ」
取り乱して立ち上がった自分を恥じるように、彼は目線を下げながら、そっとソファーに戻る。
腰を下ろした〈蝿〉の目の高さは、ミンウェイよりも少し上。同じ――ではないけれど、それでも、昔の父との距離よりも、ずっとずっと近い。
そして、彼女は明朗な声で告白する。
「お父様が亡くなる前、私は服毒自殺をはかろうとしました」
「――!」
〈蝿〉の眉が跳ね上がった。わなわなと震える唇が色を失う。
呼吸を整えようと不自然に肩が上下し、見開かれた瞳がもっと詳しくと求めていた。
「毒に慣らしてあった私の体には、なんの後遺症もなく、未遂に終わりました。けれど、その日から、お父様は変わりました。私を、お母様と見なさなくなり、私なんか初めから存在しなかったかのように、研究室に籠もるようになりました」
「どうして……、君は毒を飲んだんだい……?」
「それは……」
ためらいがちに答えようとしたミンウェイを、他ならぬ、問うたはずの〈蝿〉が、激しく首を振ることで遮った。
言わなくていいよ――と。
訊いた私が愚かだった――と。
「私のせいだね。私が君を苦しめていたから。君を妻の代わりにしていたから。君と妻の区別がついていなかったから……」
「……」
その通りだ。それは正しい。
けれど、ここで肯定したら、父が嫌でたまらなくて、父から逃げるために服毒したように〈蝿〉は感じるだろう。
それは違うのだ。
もう、今となっては、ミンウェイ自身にもそのときの感情をはっきりと思い出すことはできないけれど、父が嫌いだったわけではないのだ。目を背けたかったのは――抜け出したかったのは、そのときの現実からだ。
「ああ……、なるほど。私が『死』を望むわけだ……」
〈蝿〉は天を仰ぎながら、深い息を吐き出した。
その顔は安らぎに満ち、ミンウェイには微笑んでいるように思えた。
「納得したよ。確かに、私が『死』を望むのに、これ以上の理由はないだろう。――これ以外の理由があるわけもない……」
低い声が優しく響く。
「ど……、どういうことですか!」
髪を振り乱し、喰らいつくようにミンウェイは尋ねた。
彼女にはまるで分からない、
どうして父は、彼女を置いていってしまったのか。
〈蝿〉が切望したように、ミンウェイだって、父の『死』の理由を渇望していた。
「必死に生きようとしたお母様と、自ら死のうとした私では、たとえ遺伝子的に同一人物であったとしても、まったくの別人であると認識されたからですか!? だから、私では代わりにならないと。だから、お母様のところに行こうと……」
「ああ、そうだね。私も、少しくらいは、そんなことも考えたかもしれないね」
「『少しくらいは』? ――じゃあ、お父様は、いったい……?」
一緒に暮らしていながらも、一緒に生きていなかった父。ミンウェイは、彼のことをこれっぽっちも理解していない。
だから、分からない。だから、彼が何を考えていたのか――知りたい。
正面から向き合ったミンウェイに、〈蝿〉は口元をほころばせた。
わずかに体をかがめ、彼女と同じ目線で告げる。
「君に生きていてほしいから」
豊かに響く魅惑の声は、まるで祈りだった。
「私がいるから、君が『死』を望んだ。だから、君が生きていけるように、私は自分が消えることにしたんだ」
「そんな……!」
ミンウェイは、短く息を吸い込む。
「『私』とオリジナルは別人だが、同一人物でもある。だから、私の言うことに間違いはない」
「…………」
「私は、君のことをどう捉えればよいのか分からなかったかもしれない。けれど、君が無事に成長し、老いていき、人としての当たり前の一生を終えることを望んでいた。――それだけは自信を持って言える」
「――!」
それは、母が願ったこと。
父が叶えたかったこと。
……だから、その夢を『娘』に託した。
「お父……様!」
ミンウェイは無我夢中で〈蝿〉へと駆け寄った。
驚愕に目を見張る〈蝿〉に構わずに、彼の胸に飛び込む。
「お父様、ごめんなさい。ごめんなさい……!」
彼の白衣からは、懐かしい薬品の匂いがした。自らも医者となった彼女にとっては、身近な匂いであるはずなのに、長いこと忘れていた匂いだった。
ミンウェイは〈蝿〉にしがみつき、小さな子供のように泣きじゃくる。
「君が謝ることは何もない。私が悪かったんだ」
〈蝿〉もまた、潤んだ声で呟く。
そして彼は、ぎこちない手つきで、ミンウェイの背中に手を回し、抱きしめた。
「……生きていてくれて、ありがとう」
しゃくりあげるミンウェイの黒髪が、緩やかな波を打つ。その艷やかな動きに、〈蝿〉は潮騒を聞いた気がした。妻の墓のある、あの海辺の別荘の音だ。
よかった――と彼は思った。
娘に会えて、よかった。
まさか、こんなに安らかな最期を迎えられるとは、思ってもいなかった……。
ミンウェイを抱きしめながら、〈蝿〉はルイフォンに視線を向けた。現状に戸惑いつつも、決して悪くない顔をしていた彼が敏感に気づき、鋭い眼差しを返してくる。
「ルイフォン」
「なんだ?」
意識してのことか、無意識なのか。ルイフォンは、ほんの少し、メイシアを庇うように身を動かした。そんな仕草に、〈蝿〉は笑みを漏らす。
「あなたの大切なメイシア――〈蛇〉の記憶を受け取った彼女は、『私に救いを』と言ってくれたと聞きました。私に、散々な目に遭わされたにも関わらず……ね」
「あ、ああ……」
「ですから、今度は、私が彼女を救いましょう」
「どういうことだ?」
警戒もあらわなテノールが、探るように尋ねる。
「これから私は、〈悪魔〉の〈蝿〉として、あなたに王族の『秘密』を教えます」
ルイフォンの顔が狼狽に揺れた。予想通りの反応に、〈蝿〉の口角が上がる。
「そうすることで、記憶と共に、〈蛇〉に掛けられていた『呪い』も受け取ってしまったメイシアを解放します。――これが私の『最高の終幕』です」
〈蝿〉に向かって語り始めたルイフォンの視線がすっと動き、ミンウェイを捕らえた。
「ミンウェイ。まずは、お前が〈蝿〉と話をするのが順当だろう」
それは、落ち着かない様子のミンウェイを気遣ってのことだ。ずっと胸に緊張を抱えたままでは辛いだろうから、先に話を、と言ってくれているのだ。
「え、ええ……」
頷きながら、ミンウェイは反射的にルイフォンから目をそらした。切れ長の瞳を縁取る、長い睫毛が揺れる。
この部屋に入る前に、ミンウェイは『逃げない』と決めたはずだった。そして、『彼』――〈蝿〉が知りたがっている、オリジナルの『死』の理由を告げて、彼の心を救うのだと。
けれど、いざ〈蝿〉と言葉を交わしてみると、彼はとても穏やかな印象だった。メイシアから報告されていた昨日までの彼は、ミンウェイの知る父そのものだったのに、たった一晩で魔法のように別人に変わってしまった。
彼自身が言った通り、リュイセンによって、彼の『時』が流れ始めたからだろう。
……そんな彼に、かつてミンウェイが自殺未遂をはかったことなど、告げる必要があるのだろうか? 今更、そんな話は無粋なのではないだろうか?
彼は、彼女が無事に成長したことを喜んでくれた。良かったと、言ってくれたのだ……。
ミンウェイの心が惑い、瞳がさまよう。
痛いくらいに、鼓動が高鳴る。
ここで彼女が黙ってしまったら、皆が困るというのに。そんな焦りが、更に心拍数を上げていく。
そのときだった。
「ヘイシャオ」
ミンウェイへと注目する皆の意識を妨げたのは、玲瓏とした愛想のない低音。なのに不思議と温かな響きに、ミンウェイは、びくりと肩を震わせた。
彼女が驚いたのは、声色の不均衡さのためではない。その声を発したのが、伯父のエルファンであったからだ。
エルファンは、この庭園への同行の意思を示したとき、『干渉するつもりはない』と宣言した。そして、その言葉を遵守するかのように、ソファーの端で腕を組むという、一歩、離れた姿勢で皆を見守っていた。
……〈蝿〉が、オリジナルの親友である彼のことを、それとなく気にしている様子であるのに、無表情を貫いていた。
「……エルファン」
声を詰まらせながら、〈蝿〉が呟く。当惑に息が乱れ、こめかみの血管が神経質な脈を打つ。小さな呼びかけに対し、過剰ともいえる反応だった。
「ヘイシャオ、私は招かれざる客――だろう?」
問いかけの内容とは裏腹に、優しく語りかけるような声が響く。
エルファンとも思えぬ口調に、ミンウェイは耳を疑う。顔を見れば、エルファンの瞳は、まっすぐに〈蝿〉を見つめており、変化に乏しい美貌が、それでも、笑んだのだと認識できるくらいに緩やかにほころんでいた。
「……そんなことはない」
〈蝿〉の返答は、一瞬、遅れた。――迷いがあったのだ。それを誤魔化すように、彼は口早に続ける。
「確かに、次期総帥の立場にある君が、わざわざ来てくれるとは思わなかった。けれど、会えて嬉しいよ」
感情を呑み込んだ柔らかな顔で、〈蝿〉は微笑む。しかし、その態度は、エルファンにとって不服だったのだろう。一変して眉間に皺を寄せ、氷の眼差しで睨めつけた。
「嘘をつくな。お前のことだ、私や父上に合わせる顔がないと考えたのだろう? だから、鷹刀の屋敷に来るのを拒み、立場のある私たちが来ないことを前提に、ルイフォンやミンウェイを自分の城に招いた」
冷たい暴露に〈蝿〉の表情が凍る。
「――参ったな……、君にはお見通しか」
〈蝿〉は苦笑し、けれど、やがてそれは清々しさを含んだ純粋な笑みに変わっていく。
「ああ。私は、罪人となった私の姿を、君やお義父さんに見られたくなかった。……けれど今、君に会えて嬉しいと思っていることは本当だ。情けない姿を晒しているというのにな」
気弱に漏らした〈蝿〉を、エルファンは「ふん」と軽く笑い飛ばす。気にすることはないのだと。
「お前にだって見栄くらいあるだろう。だから私は、土足で上がり込むような真似をするからには、せめて邪魔はしない。お前のやることに口出しはせず、見守るつもりだった。だが――」
そこで、エルファンは真顔になり、〈蝿〉を見据える。
「ミンウェイのために、お前に訊くべきだと思い直した」
唐突に名前を出され、ミンウェイは息を呑んだ。何を、と問おうにも声がでない。
そんな彼女の代わりに、〈蝿〉が「エルファン?」と狼狽に声を揺らす。彼だけでなく、その場にいた誰もが困惑を示す。
「オリジナルのヘイシャオが、ミンウェイを連れて私の前に現れた日。私は、何も訊かずにヘイシャオを斬った。〈影〉のお前に、その記憶はないだろうが、ミンウェイは覚えているだろう?」
「え……、ええ……」
エルファンの問いかけに、ミンウェイは戸惑いながらも頷く。
あの日。
ミンウェイは、初めて見たエルファンが、あまりにも父にそっくりであることに驚いた。
――けれど。それよりも、思いつめた顔をしていた父が、エルファンを見た瞬間に、安らぎの表情に変わったことに衝撃を受けた。この人は、父にとって特別な人なのだと直感した。
ふたりは真剣な顔で、ミンウェイには分からない話をしていた。
そして――。
『理由を訊かないのか?』
『お前から言わない以上、言いたくないんだろう?』
『だったら訊かないでいてやるさ。――あいつの死を、ひとりで背負ったお前の頼みだ。後悔しようが構わない。引き受けてやるよ』
『ありがとう……』
ミンウェイの記憶の中で、銀光が煌めく。
――父の最期だ。
無意識に胸元を押さえたミンウェイの耳に、淡々としたエルファンの声が流れ込んでくる。
「私はあのとき、理由を訊こうなどとは微塵にも思わなかった。『ヘイシャオが私の前に現れた』――私にとっては、それだけで充分であったし、ヘイシャオも私が応えると信じていた。だから、私たちにとっては、それでよかった」
エルファンは唇を歪め、「そうだ、私たちにとっては――だ」と低く繰り返し、沈痛な面持ちで〈蝿〉を見つめる。
「あのとき、私たちは、不安に脅えるミンウェイを蔑ろにしたんだ」
ミンウェイは短く息を呑んだ。
そんなことはない。
父を斬ったエルファンは全身をわななかせ、ミンウェイを抱きしめながらこう言った。
『お前の父は、私が殺した』
『お前は私を恨め。誰かを恨んでなければ、やっていられないだろう』
エルファンの刃を受けた父は、とても満足そうな幸せそうな顔で眠っていた。
だから、エルファンは正しいことをしたのだと、ミンウェイは思った。
エルファンを恨む気持ちなど、まるで起こらなかった。
「ミンウェイのことを考えれば、私はヘイシャオに訊くべきだった」
訴えるように張り上げられた、エルファンの清冽な声が、天空の間に吸い込まれていく。
ふと……。
ミンウェイの目には、純白で埋め尽くされたこの部屋が、まるで天国であるかのように思えてきた。白衣姿の〈蝿〉が、死者の白装束をまとった亡き父に見える。
そして、此岸のエルファンが、彼岸の親友に向かって、あのときのことは『ふたりの罪』だと告げている――。
勿論、これはミンウェイの錯覚であるし、彼女は誰のことも悪く思っていない。ただ、あのときのことは何もかもが突然すぎて、いまだにどう捉えたらよいのか分からないだけだ……。
「ヘイシャオは何故、『死』を望んだのか。――その理由を、私はあいつの口から聞いておくべきだった」
静かに響く、低い声。
刹那、〈蝿〉が純白のソファーから腰を浮かせた。
「ちょっと待ってくれ、エルファン!」
動転に跳ねる声と共に、〈蝿〉が立ち上がる。
「話がおかしい! オリジナルの『死』の理由は、ミンウェイが知っているのだろう!? それを教えてくれると約束を……。私が、妻との誓いを破るほどの何かがあったはずなんだ!」
今までずっと穏やかな調子であった〈蝿〉の口調に、責めるような色合いが混じる。
「落ち着け、ヘイシャオ。ミンウェイが知っているのは客観的な事実だけだ。主観的な――父が何を考えていたかなど、分かるわけもない」
そう言いながら、エルファンの視線が、すっとミンウェイへと動いた。
――ほら、〈蝿〉はこんなにも、オリジナルの『死』について知りたがっているだろう?
口角を上げた顔はどことなく得意げにも見え、氷のように澄んだ瞳がミンウェイの背中を押す。
――だから、ためらわずに話せ。そして、私が訊くべきであったことを訊くんだ。
ミンウェイは無言の声に呼応し、鮮やかな紅の唇を開いた。
「ここからは、私がお話します」
ぐっと胸をそらし、緋色の衣服を閃かせる。長い髪が緩やかに波打ち、草の香が広がっていく。
「私は、お父様が亡くなる前に、どんな出来ごとがあったのかを知っています。それがお父様の『死』の原因であると考えて間違いないと思います」
〈蝿〉の体が、びくりと震えた。激しい緊張とともに、ずっと心にのしかかっていた疑問が氷解するという安堵が見えた。
「……ですが、私はお父様ではありません。『死』の原因となった事件を知っていても、エルファン伯父様のおっしゃる通り、お父様が何を考えて『死』を望んだのか――その気持ちは分かりません」
落ち着いた、艷やかな美声。
ミンウェイはもう、父の亡骸を前に、泣きじゃくっていただけの少女ではない。
「お父様のことを理解できるのは、お父様と同じ記憶を――心を持つ『あなた』だけです。……だから、教えて下さい。お父様の心を、私に伝えてください」
「ミンウェイ……」
〈蝿〉が、ごくりと唾を呑んだ。
「分かった。何があったのか、教えてくれ」
取り乱して立ち上がった自分を恥じるように、彼は目線を下げながら、そっとソファーに戻る。
腰を下ろした〈蝿〉の目の高さは、ミンウェイよりも少し上。同じ――ではないけれど、それでも、昔の父との距離よりも、ずっとずっと近い。
そして、彼女は明朗な声で告白する。
「お父様が亡くなる前、私は服毒自殺をはかろうとしました」
「――!」
〈蝿〉の眉が跳ね上がった。わなわなと震える唇が色を失う。
呼吸を整えようと不自然に肩が上下し、見開かれた瞳がもっと詳しくと求めていた。
「毒に慣らしてあった私の体には、なんの後遺症もなく、未遂に終わりました。けれど、その日から、お父様は変わりました。私を、お母様と見なさなくなり、私なんか初めから存在しなかったかのように、研究室に籠もるようになりました」
「どうして……、君は毒を飲んだんだい……?」
「それは……」
ためらいがちに答えようとしたミンウェイを、他ならぬ、問うたはずの〈蝿〉が、激しく首を振ることで遮った。
言わなくていいよ――と。
訊いた私が愚かだった――と。
「私のせいだね。私が君を苦しめていたから。君を妻の代わりにしていたから。君と妻の区別がついていなかったから……」
「……」
その通りだ。それは正しい。
けれど、ここで肯定したら、父が嫌でたまらなくて、父から逃げるために服毒したように〈蝿〉は感じるだろう。
それは違うのだ。
もう、今となっては、ミンウェイ自身にもそのときの感情をはっきりと思い出すことはできないけれど、父が嫌いだったわけではないのだ。目を背けたかったのは――抜け出したかったのは、そのときの現実からだ。
「ああ……、なるほど。私が『死』を望むわけだ……」
〈蝿〉は天を仰ぎながら、深い息を吐き出した。
その顔は安らぎに満ち、ミンウェイには微笑んでいるように思えた。
「納得したよ。確かに、私が『死』を望むのに、これ以上の理由はないだろう。――これ以外の理由があるわけもない……」
低い声が優しく響く。
「ど……、どういうことですか!」
髪を振り乱し、喰らいつくようにミンウェイは尋ねた。
彼女にはまるで分からない、
どうして父は、彼女を置いていってしまったのか。
〈蝿〉が切望したように、ミンウェイだって、父の『死』の理由を渇望していた。
「必死に生きようとしたお母様と、自ら死のうとした私では、たとえ遺伝子的に同一人物であったとしても、まったくの別人であると認識されたからですか!? だから、私では代わりにならないと。だから、お母様のところに行こうと……」
「ああ、そうだね。私も、少しくらいは、そんなことも考えたかもしれないね」
「『少しくらいは』? ――じゃあ、お父様は、いったい……?」
一緒に暮らしていながらも、一緒に生きていなかった父。ミンウェイは、彼のことをこれっぽっちも理解していない。
だから、分からない。だから、彼が何を考えていたのか――知りたい。
正面から向き合ったミンウェイに、〈蝿〉は口元をほころばせた。
わずかに体をかがめ、彼女と同じ目線で告げる。
「君に生きていてほしいから」
豊かに響く魅惑の声は、まるで祈りだった。
「私がいるから、君が『死』を望んだ。だから、君が生きていけるように、私は自分が消えることにしたんだ」
「そんな……!」
ミンウェイは、短く息を吸い込む。
「『私』とオリジナルは別人だが、同一人物でもある。だから、私の言うことに間違いはない」
「…………」
「私は、君のことをどう捉えればよいのか分からなかったかもしれない。けれど、君が無事に成長し、老いていき、人としての当たり前の一生を終えることを望んでいた。――それだけは自信を持って言える」
「――!」
それは、母が願ったこと。
父が叶えたかったこと。
……だから、その夢を『娘』に託した。
「お父……様!」
ミンウェイは無我夢中で〈蝿〉へと駆け寄った。
驚愕に目を見張る〈蝿〉に構わずに、彼の胸に飛び込む。
「お父様、ごめんなさい。ごめんなさい……!」
彼の白衣からは、懐かしい薬品の匂いがした。自らも医者となった彼女にとっては、身近な匂いであるはずなのに、長いこと忘れていた匂いだった。
ミンウェイは〈蝿〉にしがみつき、小さな子供のように泣きじゃくる。
「君が謝ることは何もない。私が悪かったんだ」
〈蝿〉もまた、潤んだ声で呟く。
そして彼は、ぎこちない手つきで、ミンウェイの背中に手を回し、抱きしめた。
「……生きていてくれて、ありがとう」
しゃくりあげるミンウェイの黒髪が、緩やかな波を打つ。その艷やかな動きに、〈蝿〉は潮騒を聞いた気がした。妻の墓のある、あの海辺の別荘の音だ。
よかった――と彼は思った。
娘に会えて、よかった。
まさか、こんなに安らかな最期を迎えられるとは、思ってもいなかった……。
ミンウェイを抱きしめながら、〈蝿〉はルイフォンに視線を向けた。現状に戸惑いつつも、決して悪くない顔をしていた彼が敏感に気づき、鋭い眼差しを返してくる。
「ルイフォン」
「なんだ?」
意識してのことか、無意識なのか。ルイフォンは、ほんの少し、メイシアを庇うように身を動かした。そんな仕草に、〈蝿〉は笑みを漏らす。
「あなたの大切なメイシア――〈蛇〉の記憶を受け取った彼女は、『私に救いを』と言ってくれたと聞きました。私に、散々な目に遭わされたにも関わらず……ね」
「あ、ああ……」
「ですから、今度は、私が彼女を救いましょう」
「どういうことだ?」
警戒もあらわなテノールが、探るように尋ねる。
「これから私は、〈悪魔〉の〈蝿〉として、あなたに王族の『秘密』を教えます」
ルイフォンの顔が狼狽に揺れた。予想通りの反応に、〈蝿〉の口角が上がる。
「そうすることで、記憶と共に、〈蛇〉に掛けられていた『呪い』も受け取ってしまったメイシアを解放します。――これが私の『最高の終幕』です」