残酷な描写あり
4.神話に秘められし真実-1
『これから私は、〈悪魔〉の〈蝿〉として、あなたに王族の『秘密』を教えます』
『これが私の『最高の終幕』です』
〈蝿〉の穏やかな低い声が、耳朶を打った。柔らかな口調であるにも関わらず、ルイフォンは激しい衝撃に見舞われる。
「……それは……つまり……」
彼の明晰な頭脳は、〈蝿〉の意図を解していた。けれど、心がついていかない。
だから、問いかけの言葉は、かすれたまま途中で絶ち切れた。誇らしげに微笑む〈蝿〉に対して、明らかに情けなく、引けを取る。負け惜しみのように、慌てて台詞を続けようとするも、とっさに何も浮かばない。
そこに、リュイセンが「おい、待ってくれ」と口を挟んだ。
「王族の『秘密』を教える、って……。そんなことをしたら、ヘイシャオは――〈悪魔〉は、苦しみぬいた末に、死ぬ……んだろう……?」
勢い込んで声を上げたにも関わらず、リュイセンの語尾は自信なさげに揺れていた。日頃、思慮が足りぬと叱責されることが多いためにか、自分の解釈が正しいのか不安であるらしい。
「何故、そんなことを言い出すんだ? 俺は、お前に死を宣告はしたが、苦しむようなことは望んでいない……」
ためらうような静かな声で、彼はそう付け加える。
リュイセンは、ルイフォンに代わって会話を続けようとしたわけではなく、純粋に疑問を口にしただけだろう。けれど、ルイフォンとしては助かった。いつもの会議のように、兄貴分が都合のよい質問を投げかけてくれたことで、本来の調子が戻ってくる。
「リュイセン。さっき〈蝿〉が『セレイエの記憶と共に『呪い』も受け取ってしまったメイシアを救う』と言っていたのを、ちゃんと聞いていたか?」
「そういえば、そんなことも言っていたような……? ――それって、どういう意味だ?」
リュイセンがばつが悪そうに尋ねると、それまで自分の発言に対する周りの反応を、愉悦の顔で見守っていた〈蝿〉が大仰な溜め息をついた。
「やれやれ、リュイセンは、私の終幕の素晴らしさを理解できていなかったのですか」
「すまん……」
大柄な体を縮こめ、リュイセンは素直に謝る。
「すぐさま、王族の『秘密』という本題に移りたかったのですが、せっかくの私の終幕の意義を理解されずに話を進めるのは、画竜点睛を欠くというものです。仕方がありませんね。ご説明いたしましょう」
〈蝿〉は呆れたように肩をすくめていたが、本当は、あれだけの言葉でリュイセンに伝わるとは思っていなかったのだろう。機嫌を悪くした様子もなく、むしろ自分の晴れ舞台について余すことなく語れると、嬉々として身を乗り出したように見えた。
「メイシアが、鷹刀セレイエの記憶を受け取ったことは、ご存知ですか?」
〈蝿〉は顎をしゃくり、リュイセンに問う。
「あ、ああ。王族の血を濃く引くメイシアは、脳の容量が大きいとかで、自分の記憶と同時にセレイエの記憶も保持している――って話だよな?」
「ええ、そうです。脳の中の普段、使われていない部分にセレイエの記憶が書き込まれているため、メイシアは〈影〉にはなりません。けれど、セレイエの――すなわち、『〈悪魔〉の〈蛇〉』の記憶が、脳に刻まれていることに変わりはないのです」
「ええ……と」
理解が追いつかず、戸惑うリュイセンに、〈蝿〉は少し言い換える。
「今のメイシアは、メイシアでありながら、『〈悪魔〉の〈蛇〉』でもあります。――いいですか? 彼女は〈悪魔〉なので、王族の『秘密』を知っています。そして、〈悪魔〉である以上、彼女は『秘密』を口にしたら死ぬという『契約』に支配されているのです」
「そんな……、嘘だろ……」
リュイセンがそう呟いたのは、単に反射的なものであろう。しかし、〈蝿〉の弁を裏付けようと、メイシアが遠慮がちに「本当です」と口を添えた。
「ルイフォンとの電話の途中で『契約』に抵触してしまい、苦しんだことがあります」
「おやおや、もう既に、あの激痛を味わっていたのですか」
揶揄するような口調であったが、〈蝿〉の顔は同情するようにしかめられており、メイシアは恐縮しながら頷く。
そのやり取りに、リュイセンが短く息を吸い、「分かった!」と顔を輝かせた。
「今のメイシアは『秘密』を口にすると『呪い』にやられちまう。――けど、〈悪魔〉の『契約』は、王族の『秘密』を『知らない者に、漏らしたら』、『呪い』が発動するという仕組みだ。だから、ヘイシャオが先回りして、皆に『秘密』をバラしておけば、メイシアは安全、ってわけだ」
そうだろう? と、得意げなリュイセンに〈蝿〉は苦笑する。リュイセンが納得できるようにと説明していたのだから、理解できて当然でしょう、と言わんばかりに。
〈蝿〉は、命と引き換えに、王族の『秘密』をルイフォンたちに語る。
ルイフォンたちは、メイシアの周りの人々に――必要と思われるすべての人々に、その『秘密』を伝える。
そのことによって、メイシアは、この先、何を言おうとも、『呪い』に苦しむこともなければ、『呪い』に命を奪われることもない。
彼女の中から、完全に『契約』が消えるわけではない。けれど、事実上の『契約』からの解放となる――。
「――〈蝿〉!」
リュイセンとの話が終わるのを待っていたルイフォンは、今まで溜めていた思いを吐き出すかのように叫んだ。
「お前の申し出は、本当にありがたい……! 感謝する」
〈蝿〉を――鷹刀一族の血統を示す、美麗な面持ちの『彼』を、真正面から見据えた。
彼とは、何度も、こうして対峙してきた。
敵として、いがみ合い、刃を交え、殺し合うために向き合ってきた。
けれど、今は――。
ルイフォンが立ち上がると、メイシアがすっと、あとに続いた。
そして、ふたり揃って、深く頭を垂れる。
ルイフォンの編まれた髪が背中から流れ落ち、『彼』と絆を結ぶかのように、毛先を飾る金の鈴が何度も彼我を行き来した。
「何を、そんな改まって……」
頭上から聞こえた〈蝿〉の驚きの声は、明らかに演技めいていた。それを、照れ隠しだと感じたのは、ルイフォンだけではないだろう。
「ただの恩返しですよ」
〈蝿〉は素っ気なく言い放つ。
さっさと顔を上げて、もとの場所に座れ、話しにくいだろう――と、言外に言っていた。
「メイシアにとって、私は親の仇です。なのに彼女は、作られた『私』という存在を憂い、救いをと願ってくれました」
促されてソファーに戻ったルイフォンとメイシアに、〈蝿〉は穏やかな声で告げる。
「『娘』に、いろいろと『私』のことを話してくれたのでしょう? そうでなければ、娘と私の対面など、あり得なかったでしょうからね」
メイシアに向かって、彼は微笑む。
「借りた恩は、きちんと返す。それがケジメです」
断言する、低い声。
〈蝿〉の瞳には、強い意志があった。
そうでなければ、自ら『呪い』に立ち向かうような選択などしないのだ。
「それに、私は、物ごとは合理的であるべきだと考えます」
言いながら、彼は、すっとリュイセンへと視線を移した。
「私は、リュイセンに下りました。――一騎打ちを挑まれ、どちらかが滅びるのだと言われたとき、過去の遺物でしかない私が、彼の作る未来に道を譲るのが筋であると考えたためです。何しろ、私の求めるものは、この世に存在しないのですからね」
遠い目をする〈蝿〉に誰もが呼吸を乱し、けれど、誰も何も言うことができない。
〈蝿〉には当然、周りの感情が読めていたであろう。けれど、彼は調子を変えずに続けた。
「ですが、ふと、メイシアが〈悪魔〉になっていることを思い出しましてね。ならば、この身は、無為に首を刎ねられて散らすより、王族の『秘密』を口にして果てたほうが、よほど役に立つと考えた次第です」
〈蝿〉は皆の顔を見渡し、問いかける。
「そのほうが、リュイセンの作る『誇り高き鷹刀』の人間らしいでしょう?」
謳うように。
唱えるように。
「最高に〈悪魔〉らしく、最高に『鷹刀』らしく。そして、最高に『私』らしい……」
〈蝿〉の――『彼』の口元が、穏やかにほころぶ。魅了の力を持った、魔性の微笑みだ。
「私の息の根を止めるのは〈悪魔〉に掛けられた『呪い』です。私は自ら命を絶つわけではないので、妻との約束も守られます。――最高の終幕です」
そのとき、不意に〈蝿〉の視線がミンウェイに向けられたように、ルイフォンには思えた。先ほどまで、彼の腕の中で幼子のように泣きじゃくっていた『娘』を見つめ、愛おしげに切なげに目を細めている。
「……っ」
ルイフォンは息を呑んだ。顔色が変わりそうになるのを必死に抑える。
〈蝿〉が念を押すように最後に付け加えた言葉の中に、〈蝿〉が口にしなかった、もうひとつの意図に――もうひとつの『最高』に気づいてしまったのだ。
〈蝿〉が鷹刀一族の裁きを受けるということは、一族の誰かが彼を殺すということだ。それが誰であっても、ミンウェイの心に影を落とすことになるであろう。そして、今までの経緯からすれば、その役目はリュイセンに委ねられる可能性が極めて高い。
――このままでは、ミンウェイとリュイセンの間に、しこりが残る。
だから〈蝿〉は、〈悪魔〉に掛けられた『呪い』に殺されることにしたのだ。
勿論、メイシアへの贖罪の気持ちは本物だろう。けれど、自分の死に、メイシアを救うという大義ができること、それを隠れ蓑に、ミンウェイの未来を守ることの意義は大きいに違いないから……。
「……最高の終幕だ」
思わず、言葉が口を衝いて出た。
憎々しい敵であったけれど、今だって許したわけではないけれど、それでも敬意と称賛を込めて、ルイフォンは口の端を上げ、晴れやかに笑う。
その顔を〈蝿〉がどう捉えたのかは分からない。彼は一瞬、戸惑いに瞳を揺らし、それから、ミンウェイに向けるのと同じ、愛しみの表情を浮かべた。――未来を託すと告げるように。
「それでは――」
〈蝿〉は居住まいを正した。
「できる限り、この私の口からお話ししたいのですが、ほんのひとこと、ふたこと話しただけで、すぐに私の心臓は止まってしまうかもしれません。今も、『秘密』を漏らす意思を持っただけで、私の内部で『呪い』がもたげたのを感じていますからね」
〈蝿〉は白衣の胸を押さえ、自嘲めいた笑みを浮かべる。節くれ立った指には強い力が込められているのだろう。血流の悪くなった白い甲に、青く血管が浮き立っていた。
「ですから、これを……」
言いながら〈蝿〉は、胸にあてた手をポケットへと滑らせ、小さな記憶媒体を取り出す。
「私が途中で、こと切れた場合の保険です。――ここに、王族の『秘密』のすべてが記されています」
額にうっすらと冷や汗を浮かべた〈蝿〉は、しかし、しっかりとした足取りでルイフォンへと歩み寄り、恭しく片膝を付いて記憶媒体を捧げた。
「〈蝿〉、顔色が……」
ルイフォンの隣で、メイシアが悲鳴のような細い声を上げる。
「なんて顔をしているんですか。〈悪魔〉がここまですれば、当然の帰結。あなたも〈悪魔〉の記憶があるのなら、ご存知でしょう?」
「〈蝿〉……」
「けれど、記憶媒体を渡した程度で、くたばる私ではありませんよ。まだ中身を読まれたわけではないですしね」
小馬鹿にしたような口調は相変わらずで、なのに、どこか優しい。
〈蝿〉は労りの言葉など望んでいないのだ。だからルイフォンは、小さくて重い〈蝿〉の命そのものの記憶媒体を握りしめ、畏敬を込めて彼に応える。
「確かに、受け取った」
〈蝿〉の顔が安堵に緩んだ。
そして、彼は席に戻り、朗々たる声を響かせる。
「まずは、王の持つ、異色の外見について、お話ししましょう」
天空の間に、沈黙が落ちた。
誰もが固唾を呑み、身じろぎひとつしない。
「輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、この国の王。黒髪黒目の国民の中で、何故、王は異色をまとっているのか。――創世神話では、天空神の姿を写しただのと謳われていますが、まさか、そんな与太話を信じているわけではありませんよね?」
皮肉げな口調で尋ねる〈蝿〉に、ルイフォンはすかさず、「当然だ」と答える。
「何かの偶然か、異国の血が混じっているのか、ともかく『あの外見』の者が生まれる一族があった。そいつらが国を取る野心を抱き、円滑な支配のために自分たちを神格化する神話を作った。――そんなところだろ?」
「ほぅ、鋭いですね」
〈蝿〉は嬉しそうに感嘆の声を上げた。打てば響くような返事は、彼の好むところなのだ。
「だいたい合っていますよ」
「だいたい?」
「ええ。王の持つ異色は、きちんと医学的に証明できるものです。おそらく、あなただってご存知のことでしょう」
「え……? 俺も、知っている……?」
首をかしげたルイフォンに、〈蝿〉は虐げられた者がまとう、昏い炎を揺らめかせる。
「あなたに限らず、ある程度の知識階級の者なら知っています。なのに、宗教国家として、王を神の代理人として崇めるこの国では、民は無意識の内に『その可能性』に目をつぶってしまっているのですよ」
不意に、〈蝿〉の手が白衣の胸を強く掴んだ。美貌が苦痛に歪み、凄みのある美を作り出す。
「王の異色――あれは、先天性白皮症に依るものです」
告げた瞬間、彼は体をふたつに折り曲げた。脂汗がだらだらと流れ、顔色が蒼白になる。
「〈蝿〉!」
「まだまだ、話はこれからです。――創世神話の真実を、これから、きっちり暴いて差し上げますよ」
禍々しくも美しく、〈神〉に反旗を翻した〈悪魔〉が傲然と言い放つ。
額に張りつく前髪を鬱陶しげに払いのけ、〈蝿〉は実に嬉しそうに哄笑を上げた。
『これが私の『最高の終幕』です』
〈蝿〉の穏やかな低い声が、耳朶を打った。柔らかな口調であるにも関わらず、ルイフォンは激しい衝撃に見舞われる。
「……それは……つまり……」
彼の明晰な頭脳は、〈蝿〉の意図を解していた。けれど、心がついていかない。
だから、問いかけの言葉は、かすれたまま途中で絶ち切れた。誇らしげに微笑む〈蝿〉に対して、明らかに情けなく、引けを取る。負け惜しみのように、慌てて台詞を続けようとするも、とっさに何も浮かばない。
そこに、リュイセンが「おい、待ってくれ」と口を挟んだ。
「王族の『秘密』を教える、って……。そんなことをしたら、ヘイシャオは――〈悪魔〉は、苦しみぬいた末に、死ぬ……んだろう……?」
勢い込んで声を上げたにも関わらず、リュイセンの語尾は自信なさげに揺れていた。日頃、思慮が足りぬと叱責されることが多いためにか、自分の解釈が正しいのか不安であるらしい。
「何故、そんなことを言い出すんだ? 俺は、お前に死を宣告はしたが、苦しむようなことは望んでいない……」
ためらうような静かな声で、彼はそう付け加える。
リュイセンは、ルイフォンに代わって会話を続けようとしたわけではなく、純粋に疑問を口にしただけだろう。けれど、ルイフォンとしては助かった。いつもの会議のように、兄貴分が都合のよい質問を投げかけてくれたことで、本来の調子が戻ってくる。
「リュイセン。さっき〈蝿〉が『セレイエの記憶と共に『呪い』も受け取ってしまったメイシアを救う』と言っていたのを、ちゃんと聞いていたか?」
「そういえば、そんなことも言っていたような……? ――それって、どういう意味だ?」
リュイセンがばつが悪そうに尋ねると、それまで自分の発言に対する周りの反応を、愉悦の顔で見守っていた〈蝿〉が大仰な溜め息をついた。
「やれやれ、リュイセンは、私の終幕の素晴らしさを理解できていなかったのですか」
「すまん……」
大柄な体を縮こめ、リュイセンは素直に謝る。
「すぐさま、王族の『秘密』という本題に移りたかったのですが、せっかくの私の終幕の意義を理解されずに話を進めるのは、画竜点睛を欠くというものです。仕方がありませんね。ご説明いたしましょう」
〈蝿〉は呆れたように肩をすくめていたが、本当は、あれだけの言葉でリュイセンに伝わるとは思っていなかったのだろう。機嫌を悪くした様子もなく、むしろ自分の晴れ舞台について余すことなく語れると、嬉々として身を乗り出したように見えた。
「メイシアが、鷹刀セレイエの記憶を受け取ったことは、ご存知ですか?」
〈蝿〉は顎をしゃくり、リュイセンに問う。
「あ、ああ。王族の血を濃く引くメイシアは、脳の容量が大きいとかで、自分の記憶と同時にセレイエの記憶も保持している――って話だよな?」
「ええ、そうです。脳の中の普段、使われていない部分にセレイエの記憶が書き込まれているため、メイシアは〈影〉にはなりません。けれど、セレイエの――すなわち、『〈悪魔〉の〈蛇〉』の記憶が、脳に刻まれていることに変わりはないのです」
「ええ……と」
理解が追いつかず、戸惑うリュイセンに、〈蝿〉は少し言い換える。
「今のメイシアは、メイシアでありながら、『〈悪魔〉の〈蛇〉』でもあります。――いいですか? 彼女は〈悪魔〉なので、王族の『秘密』を知っています。そして、〈悪魔〉である以上、彼女は『秘密』を口にしたら死ぬという『契約』に支配されているのです」
「そんな……、嘘だろ……」
リュイセンがそう呟いたのは、単に反射的なものであろう。しかし、〈蝿〉の弁を裏付けようと、メイシアが遠慮がちに「本当です」と口を添えた。
「ルイフォンとの電話の途中で『契約』に抵触してしまい、苦しんだことがあります」
「おやおや、もう既に、あの激痛を味わっていたのですか」
揶揄するような口調であったが、〈蝿〉の顔は同情するようにしかめられており、メイシアは恐縮しながら頷く。
そのやり取りに、リュイセンが短く息を吸い、「分かった!」と顔を輝かせた。
「今のメイシアは『秘密』を口にすると『呪い』にやられちまう。――けど、〈悪魔〉の『契約』は、王族の『秘密』を『知らない者に、漏らしたら』、『呪い』が発動するという仕組みだ。だから、ヘイシャオが先回りして、皆に『秘密』をバラしておけば、メイシアは安全、ってわけだ」
そうだろう? と、得意げなリュイセンに〈蝿〉は苦笑する。リュイセンが納得できるようにと説明していたのだから、理解できて当然でしょう、と言わんばかりに。
〈蝿〉は、命と引き換えに、王族の『秘密』をルイフォンたちに語る。
ルイフォンたちは、メイシアの周りの人々に――必要と思われるすべての人々に、その『秘密』を伝える。
そのことによって、メイシアは、この先、何を言おうとも、『呪い』に苦しむこともなければ、『呪い』に命を奪われることもない。
彼女の中から、完全に『契約』が消えるわけではない。けれど、事実上の『契約』からの解放となる――。
「――〈蝿〉!」
リュイセンとの話が終わるのを待っていたルイフォンは、今まで溜めていた思いを吐き出すかのように叫んだ。
「お前の申し出は、本当にありがたい……! 感謝する」
〈蝿〉を――鷹刀一族の血統を示す、美麗な面持ちの『彼』を、真正面から見据えた。
彼とは、何度も、こうして対峙してきた。
敵として、いがみ合い、刃を交え、殺し合うために向き合ってきた。
けれど、今は――。
ルイフォンが立ち上がると、メイシアがすっと、あとに続いた。
そして、ふたり揃って、深く頭を垂れる。
ルイフォンの編まれた髪が背中から流れ落ち、『彼』と絆を結ぶかのように、毛先を飾る金の鈴が何度も彼我を行き来した。
「何を、そんな改まって……」
頭上から聞こえた〈蝿〉の驚きの声は、明らかに演技めいていた。それを、照れ隠しだと感じたのは、ルイフォンだけではないだろう。
「ただの恩返しですよ」
〈蝿〉は素っ気なく言い放つ。
さっさと顔を上げて、もとの場所に座れ、話しにくいだろう――と、言外に言っていた。
「メイシアにとって、私は親の仇です。なのに彼女は、作られた『私』という存在を憂い、救いをと願ってくれました」
促されてソファーに戻ったルイフォンとメイシアに、〈蝿〉は穏やかな声で告げる。
「『娘』に、いろいろと『私』のことを話してくれたのでしょう? そうでなければ、娘と私の対面など、あり得なかったでしょうからね」
メイシアに向かって、彼は微笑む。
「借りた恩は、きちんと返す。それがケジメです」
断言する、低い声。
〈蝿〉の瞳には、強い意志があった。
そうでなければ、自ら『呪い』に立ち向かうような選択などしないのだ。
「それに、私は、物ごとは合理的であるべきだと考えます」
言いながら、彼は、すっとリュイセンへと視線を移した。
「私は、リュイセンに下りました。――一騎打ちを挑まれ、どちらかが滅びるのだと言われたとき、過去の遺物でしかない私が、彼の作る未来に道を譲るのが筋であると考えたためです。何しろ、私の求めるものは、この世に存在しないのですからね」
遠い目をする〈蝿〉に誰もが呼吸を乱し、けれど、誰も何も言うことができない。
〈蝿〉には当然、周りの感情が読めていたであろう。けれど、彼は調子を変えずに続けた。
「ですが、ふと、メイシアが〈悪魔〉になっていることを思い出しましてね。ならば、この身は、無為に首を刎ねられて散らすより、王族の『秘密』を口にして果てたほうが、よほど役に立つと考えた次第です」
〈蝿〉は皆の顔を見渡し、問いかける。
「そのほうが、リュイセンの作る『誇り高き鷹刀』の人間らしいでしょう?」
謳うように。
唱えるように。
「最高に〈悪魔〉らしく、最高に『鷹刀』らしく。そして、最高に『私』らしい……」
〈蝿〉の――『彼』の口元が、穏やかにほころぶ。魅了の力を持った、魔性の微笑みだ。
「私の息の根を止めるのは〈悪魔〉に掛けられた『呪い』です。私は自ら命を絶つわけではないので、妻との約束も守られます。――最高の終幕です」
そのとき、不意に〈蝿〉の視線がミンウェイに向けられたように、ルイフォンには思えた。先ほどまで、彼の腕の中で幼子のように泣きじゃくっていた『娘』を見つめ、愛おしげに切なげに目を細めている。
「……っ」
ルイフォンは息を呑んだ。顔色が変わりそうになるのを必死に抑える。
〈蝿〉が念を押すように最後に付け加えた言葉の中に、〈蝿〉が口にしなかった、もうひとつの意図に――もうひとつの『最高』に気づいてしまったのだ。
〈蝿〉が鷹刀一族の裁きを受けるということは、一族の誰かが彼を殺すということだ。それが誰であっても、ミンウェイの心に影を落とすことになるであろう。そして、今までの経緯からすれば、その役目はリュイセンに委ねられる可能性が極めて高い。
――このままでは、ミンウェイとリュイセンの間に、しこりが残る。
だから〈蝿〉は、〈悪魔〉に掛けられた『呪い』に殺されることにしたのだ。
勿論、メイシアへの贖罪の気持ちは本物だろう。けれど、自分の死に、メイシアを救うという大義ができること、それを隠れ蓑に、ミンウェイの未来を守ることの意義は大きいに違いないから……。
「……最高の終幕だ」
思わず、言葉が口を衝いて出た。
憎々しい敵であったけれど、今だって許したわけではないけれど、それでも敬意と称賛を込めて、ルイフォンは口の端を上げ、晴れやかに笑う。
その顔を〈蝿〉がどう捉えたのかは分からない。彼は一瞬、戸惑いに瞳を揺らし、それから、ミンウェイに向けるのと同じ、愛しみの表情を浮かべた。――未来を託すと告げるように。
「それでは――」
〈蝿〉は居住まいを正した。
「できる限り、この私の口からお話ししたいのですが、ほんのひとこと、ふたこと話しただけで、すぐに私の心臓は止まってしまうかもしれません。今も、『秘密』を漏らす意思を持っただけで、私の内部で『呪い』がもたげたのを感じていますからね」
〈蝿〉は白衣の胸を押さえ、自嘲めいた笑みを浮かべる。節くれ立った指には強い力が込められているのだろう。血流の悪くなった白い甲に、青く血管が浮き立っていた。
「ですから、これを……」
言いながら〈蝿〉は、胸にあてた手をポケットへと滑らせ、小さな記憶媒体を取り出す。
「私が途中で、こと切れた場合の保険です。――ここに、王族の『秘密』のすべてが記されています」
額にうっすらと冷や汗を浮かべた〈蝿〉は、しかし、しっかりとした足取りでルイフォンへと歩み寄り、恭しく片膝を付いて記憶媒体を捧げた。
「〈蝿〉、顔色が……」
ルイフォンの隣で、メイシアが悲鳴のような細い声を上げる。
「なんて顔をしているんですか。〈悪魔〉がここまですれば、当然の帰結。あなたも〈悪魔〉の記憶があるのなら、ご存知でしょう?」
「〈蝿〉……」
「けれど、記憶媒体を渡した程度で、くたばる私ではありませんよ。まだ中身を読まれたわけではないですしね」
小馬鹿にしたような口調は相変わらずで、なのに、どこか優しい。
〈蝿〉は労りの言葉など望んでいないのだ。だからルイフォンは、小さくて重い〈蝿〉の命そのものの記憶媒体を握りしめ、畏敬を込めて彼に応える。
「確かに、受け取った」
〈蝿〉の顔が安堵に緩んだ。
そして、彼は席に戻り、朗々たる声を響かせる。
「まずは、王の持つ、異色の外見について、お話ししましょう」
天空の間に、沈黙が落ちた。
誰もが固唾を呑み、身じろぎひとつしない。
「輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、この国の王。黒髪黒目の国民の中で、何故、王は異色をまとっているのか。――創世神話では、天空神の姿を写しただのと謳われていますが、まさか、そんな与太話を信じているわけではありませんよね?」
皮肉げな口調で尋ねる〈蝿〉に、ルイフォンはすかさず、「当然だ」と答える。
「何かの偶然か、異国の血が混じっているのか、ともかく『あの外見』の者が生まれる一族があった。そいつらが国を取る野心を抱き、円滑な支配のために自分たちを神格化する神話を作った。――そんなところだろ?」
「ほぅ、鋭いですね」
〈蝿〉は嬉しそうに感嘆の声を上げた。打てば響くような返事は、彼の好むところなのだ。
「だいたい合っていますよ」
「だいたい?」
「ええ。王の持つ異色は、きちんと医学的に証明できるものです。おそらく、あなただってご存知のことでしょう」
「え……? 俺も、知っている……?」
首をかしげたルイフォンに、〈蝿〉は虐げられた者がまとう、昏い炎を揺らめかせる。
「あなたに限らず、ある程度の知識階級の者なら知っています。なのに、宗教国家として、王を神の代理人として崇めるこの国では、民は無意識の内に『その可能性』に目をつぶってしまっているのですよ」
不意に、〈蝿〉の手が白衣の胸を強く掴んだ。美貌が苦痛に歪み、凄みのある美を作り出す。
「王の異色――あれは、先天性白皮症に依るものです」
告げた瞬間、彼は体をふたつに折り曲げた。脂汗がだらだらと流れ、顔色が蒼白になる。
「〈蝿〉!」
「まだまだ、話はこれからです。――創世神話の真実を、これから、きっちり暴いて差し上げますよ」
禍々しくも美しく、〈神〉に反旗を翻した〈悪魔〉が傲然と言い放つ。
額に張りつく前髪を鬱陶しげに払いのけ、〈蝿〉は実に嬉しそうに哄笑を上げた。