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作者: 霜月かつろう
懐かしい景色 その2
 スケートリンクの上に立つ。それだけで感情が高ぶるのが分かる。それがどの感情なのかを言葉にするのは苦手だった。喜びなのか、悲しみなのか、怒りなのか、それが自分でもよく分からなかった。言うならすべてが混ざり合って、ぐちゃぐちゃなのに、それでも規則正しく配列されて、心臓を定期的に叩き鳴らしているように思えた。

 それくらい特別な場所。世界でひとりきりになった気がするのに。世界から注目されている気分にさせてくれる場所。

 私はこの場所が好きだったのだろうか。

 琥珀はそのことを悩み続けていたが、それも優太がお腹の中にいると知るときまでの話だ。そんなことを考える余裕もなくなったというのもある。しかし、フィギュアスケート以上に大切なものをやっと手に入れたんだとそう思えたからだ。

 それなのに。なんで私はまたスケートリンクの上に立つことになったんだっけか。
「立花さん。大丈夫ですか?」

 そんな声が聞こえて、重たいまぶたを必死になって開ける。そこにはこちらを覗き込むようにしている瞳がすぐそばにあって。それが優太の優しそうな瞳によく似ていた。でも、優太の瞳はこんなに大きくない。いつもどこか眠たそうなのだ。このまま大きくなったらどうしようなんて思う。

「あっ。起きましたね。頭は大丈夫ですか?」

 どう言う事だろう。バカにされているのか。頭がいいわけじゃないけれど、特段悪いつもりもない。ひとりで優太を育てられるくらいにはちゃんとしているつもりだ。

「えっと。誰?」
「頭強く打ち過ぎました? 僕です。コーチの上里です」

 コーチ? 上里さん? 頭の中で整理が追い付かなくて上里さんの顔をまじまじと見入ってしまった。縦長の細顔に髪はペタッと頭に張り付くようになっており、帽子でもかぶり続けていたのかと思うほどだ。優しそうな瞳は優太に似ている。鼻は日本人にしては少し高めで唇は薄い。

 全体を通してのっぺりとしてるその顔立ちは整っているので、イケメンと言えなくはない。

 そんな上里さんがコーチ。はて? 頭を打った衝撃で記憶が飛んでしまったのか。

「ママぁ」

 優太の声がしてその方向を見ると布団に横たわっていた琥珀にしがみつくようにして座ったまま寝てしまっているようだ。そしてそのまま視線を動かして辺りを見渡す。設備が整った場所ではない。はっきり言ってしまえば汚いと言うか、手が行き届いていない。滅多に使わない部屋なのかもしれない。あちこちに物は放置されているし、部屋の角にはほこりが溜まっていたりもする。

 それでも琥珀はこの部屋に見覚えがあった。スケートリンクのスタッフたちが詰め寄る部屋。その隣になる休憩室だ。

 そこでようやっと自分が置かれた状況を思い出した。

「ああ。私、リンクの上で転んだんだ」

 数年ぶりだと言うのに氷の上で油断した自分が悪い。優太にかっこいいところを見せようとしたせいだ。

 いや、そもそも慣れない貸出用のスケート靴で氷の上に乗ってしまったことにまで原因はさかのぼれるだろう。

「そうです。それも頭から。おでこ大丈夫ですか?」

 上里さんが心配そうにおでこを見てくる。そんなにじろじろ見られたことがないから思わず両手で覆ってしまった。すると、確かにちょっとこぶが出来ているようにも思える。少し膨らんでいる様な気がするのだ。

「だ、大丈夫です。そ、それよりごめんなさい。いきなり転んだりして」
「大丈夫ならいいんです。僕たちも急に無理させて申し訳ありませんでした。経験者とはいえブランクも長いんですものね。こちらの期待に応えようとしてくれた結果なので、謝るのはこちらです」

 だんだん思い出してきた。そうそう。お願いされた時にあんな期待された眼で見られたら断るに断れなくなったのは事実だ。

「こんな私ですけどお役に立てるのでしょうか」

 初日どころかお試しの始めでこの失態だ。呆れられたも仕方がないことだと思う。

「ああ。それは大丈夫です。チラッと見ただけでしたけどスケーティングはきれいでしたから」

 きれいと言われてドキッとしてしまった。自分の事は自分の事でもスケートのことだ。決して容姿を褒められたわけではない。

「ん。ママぁ?」
「あ。優太。ごめんね。心配かけて」
「ママ!」

 起きている琥珀を見て嬉しそうに飛びついてくる優太に自然と表情が緩むのが分かる。そうだ。この子のためにも私は頑張らなくちゃいけないんだ。こんな失敗のひとつやふたつでくじけてられないのだ。

「じゃあ。これからよろしくお願いします」

 勢いよく、頭を下げる。上里さんはそれを見て嬉しそうに笑顔を見せてくれて、その笑顔があまりに優しくてドキッとしてしまう。

「はい。よろしくお願いします。早速ですが明日は朝六時からなのでよろしくお願いしますね」
「はい?」

 そんなに早いのは聞いていないよ。優太をどうすればいいのかも見当もつかない。もしかしたら早速、問題は山積しているのかも知れなかった。
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