残酷な描写あり
終わった日常。始まる非日常
それは日常と変わらない空だった。何事もなく太陽が昇り、白い雲が自由気儘に伸びている、青空であった。
だが、突如としてそれは──────
「ハハ、ハハハッ!フハァハハハハッ!!」
──────という、まるで世界全体を嘲るような笑い声と共に、破壊されることになる。
空が割れる。まるで叩きつけられた鏡のように、先程まで何事もなかった空に亀裂が走り、広がり、そして割れていく。
次々と落ちてくる空の欠片。だがそれは地上に落下することなく、霧散し消えてしまう。
割れた空から、腕が伸びる。真っ黒で、影のような腕が無数に、這い出てくる。
そして──────その存在は現れた。
「御機嫌よう、愚かな人族ども。この『魔焉崩神』エンディニグル、厄災の予言に従い、此処に降りた」
無数に伸びる腕の中心にいたのは、男だった。人と何ら変わらない姿ではあったが、肌は黒くこちらを見下ろす瞳は闇よりも昏く、深淵よりも深い。
男──『魔焉崩神』エンディニグルは上空から地上にある街並みを睥睨し、嘆息とともに呟く。
「穢れている」
その呟きが聞こえた者は、ごく僅かだったであろう。エンディニグルはそう呟いた直後に、腕を振り上げる。すると彼の周囲の腕も同様に振り上がった。
「この世界を今一度浄化しよう。これは予言の通りだ。己が結末を受け入れるがいい、人族共よ」
言うが早いか。エンディニグルの手に小さな黒い球体が現れ、浮かび上がる。彼の周囲の腕もまた同様だった。
その球体は、言うなれば爆弾だ。それ一つですらこの街を跡形もなく吹き飛ばせる程の威力を秘めた魔力の爆弾。
それが、エンディニグルの手や周囲の腕の数だけ浮かんでいる。もしそれが一気に放たれたのなら────想像を絶する被害となるだろう。
そう思い、僕は──クラハ=ウインドアは顔を青ざめ戦慄した。
「う、嘘だろ……!」
握った得物が、震える。今すぐにでも、この場から逃げ出したかった。
だが、たとえ今逃げたとしても助かる訳がないし、そもそも僕はそれが許される立場ではないのだ。
改めて僕の周囲を見渡す。僕の周囲には、僕と同じようにそれぞれの得物を握り締め、上空に浮かぶ文字通りの終焉を睨めつける者たちが数多くいる。彼らは──冒険者だ。
冒険者たちは、その戦意こそ失ってはいなかったが、しかし誰もが絶望的な表情を浮かべていた。
無理もない。誰だって、こんな存在を目の当たりにすればこうなるだろう。
『魔焉崩神』エンディニグル──厄災の予言と呼ばれる書に、その名が刻まれている。終焉を司る、魔神。
かの魔神は、この世界に終焉を齎すために降臨した。それは予言書にも記されていた通りで、この日のために僕たち冒険者はこの街──オールティアに集められた。この魔神を、討つ為に。
だがこうして降臨されて、目の前にしてわかった。わかってしまった。無理だ。こんなの、絶対に無理だ。
次元が違う。想定していたよりも、次元が違い過ぎる。いくら選りすぐりの、僕たち冒険者が──《S》冒険者が集まったところで、こんなのどうにかできる訳がない。
──ああ、僕は今日ここで死ぬんだな。
未だに得物である長剣を落とさないのが、不思議だった。それくらい、手の震えが止まらない。
足だって地面に縫いつけられたように全く動かせない。一歩も前に踏み出せやしないし、膝だって先程からずっと笑っている。
そして、それは他の冒険者たちも同じだった。
「……ふん。装うだけ装って、抵抗の意思はないのか。流石は人族と言うべきか。まあ、いい。せめてもの慈悲だ──痛みも苦しみもなく、汝らに終焉をくれてやろう」
何の感情もなく、エンディニグルがそう言う。瞬間、大気が一斉に振動を始めた。
ゴゴゴゴ──空が、地面が、大気が、全てが揺れる。強大な地震の如く、この街全体が揺さぶられる。
「終焉の時来たれり。我が終わり、今此処に顕現せよ」
解放されたエンディニグルの魔力に反応して、小さな黒球が震え、輝き出す。
もうすぐにでも、あの黒球はエンディニグルの元から放たれるのだろう。黒球はこの街を滅ぼし、この辺り一帯の大地を蹂躙し尽くすのだろう。
そう考えて、僕は今まで歩んできた人生の記憶を、凄まじい勢いで振り返った。
──今思えば、短い人生だったよなあ……。
これが噂に聞く走馬灯らしい。そして思った。何故────今、この時、この瞬間、この場に、『あの人』はいないのか、と。
『あの人』ならば、この絶対的な魔神すらもなんとかできるんじゃあないのかと。というか多分できるだろうと。
──ああもう……早く来てくださいよ本当にもう……!
冒険者にはランクがある。《E》から《S》というランクがある。ちなみにさっきも言った通り、僕は《S》ランクであり、一応これでも最高クラスの冒険者なのだ──しかし、実はこの《S》よりもまだ、上がある。
《SS》ランク。この世界に三人しかいないと言われる、人でありながら人という範疇から外れた存在たち。
その《SS》冒険者の一人が今、この街にいる────はずなのだ。
『ああ?『魔焉崩神』?んなモン知ったこったねえな』
思い出されるその言葉。この世界の存続など、危機など知ったことかと、はっきり言い切ったその言葉。
「はは、ははは……だからって、本当に来ないことないでしょうッ!?」
固まり立ち尽くす冒険者たちをよそに、上空の魔神が宣告する。
「滅びよ」
その宣告に合わせて、小さかった黒球が徐々に大きくなる。
だいぶ大きさを増した無数の黒球が、エンディニグルの手や周囲の腕から離れ、浮遊を始める。そして、遂に──────
「【終焉ノ「どっおおりゃああぁぁぁッッッ!!!」ぐぼおあぉっ?!」
──────果たして、その光景を理解できた者が何人いたことだろう。
ありのまま。ありのまま今目の前で起こったことを、僕は話そう。
………………エンディニグルが、ぶん殴られた。
「あごお、ぐおおおおおっ!!」
殴られたエンディニグルが、落下してくる。ちなみにあの黒球はエンディニグルが殴られた瞬間全部消失して、周囲にあった無数の腕も霧散した。
そして秒も経過することなくすぐさま、それはもう凄まじい勢いでエンディニグルは僕たちの目の前に叩きつけられた。
バゴォンッ──叩きつけられたエンディニグルの周囲一帯の地面が割れ爆ぜ、砕け散る。
「……………………」
僕を含めた冒険者全員が、絶句していた。というか絶句せざるを得なかった。
いや、だって。さっきまでこの世界に終焉を齎そうとしていた魔神が、馬鹿でかいクレーターの中心でピクピク痙攣しながら倒れているのだから。
そんな中──────
ダンッッッ──突如、空から炎が降ってきた。
「…………」
炎────そう見えたのは、髪だ。燃え盛る炎のように煌めく、赤髪。
「……お前か」
ドスの効いた、低い声。
「さっき、この辺り揺らしやがったのはお前かこのクソカスゴミ野郎があああああああッ!!」
一見すれば凄まじい美貌を携えた絶世の美女────だがその声音が、その服装がそれを否定する。かの者は女と見紛う程の、美丈夫であったのだ。
そんな美貌を台無しにさせるように、噴火するような勢いで怒鳴り散らして、未だ気を失っている魔神に対し拳を振り下ろす。肉を打つ、鈍い音が、何度も何度も鳴り響く。
「お前のっ、せいでっ!俺のパフェが滅茶苦茶になったろうがッッ!!この落とし前どうつけてくれるんだ、ああ!?」
「ぐっ、ごおぉ、おごぉっ」
「お前が泣くまで──いや泣いても殴んの止めねえからなああああああッッッッ!!!!」
そう怒号を轟かせながら、その発言通り一切勢いを緩めず、突如として空から降ってきた赤髪の男は、未だ立つことのできないでいるエンディニグルを殴り続ける。が、その時。
ブゥンッ──その場から、エンディニグルの姿が消えた。それと同時に標的を失った赤髪の男の拳が地面を打ち、こちらの鼓膜を破かんばかりの轟音を鳴らし、クレーターをさらに深いものに変えた。
「あぁ!?ふざけんなどこ行ったァッ!」
そう叫び、周囲を見回す赤髪の男の背後に、姿を消したエンディニグルが現れる。その口元に黒と紫が混じったような、血らしき液体を伝わせながらも、エンディニグルは目を見開かせて叫んだ。
「死ねぇいこの塵芥がッ!!【終極砲】ッッッ!!!」
そう叫ぶと同時に、エンディニグルが手を突き出す。その手には先程見せた黒球の、それも全てを含めた上で数十倍以上の魔力が込められており、それが放たれれば────もはや想像することすらも馬鹿らしくなる被害が出ることは、明白であった。
それをエンディニグルはただの一人に。たった一人の人間相手に放とうとしている。だが先に結果を述べてしまうなら、エンディニグルは己が手のそれを赤髪の男に対して放つことは叶わなかった。
何故ならば、その前に赤髪の男が背後のエンディニグルの懐に入り込み、破壊の魔力を宿した腕を掴んで空に掲げていたのだから。エンディニグルの表情が驚愕に歪んだ刹那──魔力が空に向かって放たれる。
極太の黒紫の極光が空へ伸び、その射線上にあった雲を突き抜け一瞬にして無下に散らす。
「逃げんな」
ゾッとする程に低く、冷たい声。赤髪の男はそう言うや否や────掴んでいたままのエンディニグルの腕を握り潰して、暇を持て余していた片方の手で拳を握り、そして一切の躊躇いなくそれをエンディニグルのガラ空きとなっていた胴に打ち込んだ。
バキゴチュグブ──赤髪の男の拳がエンディニグルの胴に突き刺さり、骨を砕き肉を潰す生々しい音が周囲に響き、そして拳はそのままエンディニグルの背中を貫通する。
「ご、ばぁッ?!」
エンディニグルの口から黒紫色の液体が盛大に吐き出され、赤髪の男の身体を汚す──寸前、ジュッという音を立てて液体が蒸発し消える。それとほぼ同時に赤髪の男が言う。
「場所変えんぞ」
直後、その場から二人の姿が掻き消えた。一拍遅れて衝撃が発生し、さらにクレーターが深く抉られ、そして広げられた。さらにその余波で辛うじて無事であった周囲の石畳と建物の窓硝子を悉く破壊し尽くす。
「………」
今目の前で繰り広げられた、あまりにも非現実的な現実に周囲の冒険者たちが動揺し騒めく中、僕はただ空を見上げていた。
奇跡的にも視界に捉えることができた、青空に伸びた尾を引く赤光を眺めながら、僕は呆然と呟いた。
「やっぱり、先輩は凄いな……はは」
集まった僕らを街ごと消し去ろうとした『厄災』──『魔焉崩神』エンディニグル。だがこの場に突如乱入し、かの神を殴り飛ばし、共に消えた赤髪の男────そう、彼こそが僕の先輩である世界最強の一人。
ラグナ=アルティ=ブレイズ。そしてこの先は、後に僕が先輩から聞いた話になる──────
街──オールティアから離れた建築物等、人の手が一切加えられていない、そのままの自然が広がる遠方の荒野。動物も魔物も特におらず、昼間らしからぬ静寂が満ちるこの場に──突如として轟音が響き渡った。
荒れた大地が爆ぜたような勢いで割れ砕け、大量の砂埃を巻き上げると同時に凹み、巨大なクレーターとなってしまう。その中心には苦悶の呻き声を漏らしながら蹲る、男の姿があった。
「ぐ、ぉぉぉぉ……!」
その男は人間ではない。『魔焉崩神』エンディニグル──この世界に滅びを齎す存在、『厄災』の一柱である。
滅びを体現した、かの神の力は絶大である。戯れ程度に街を、大陸一つを滅ぼせる。まさに埒外──次元が違う。
そのエンディニグルを今、見下ろしている者がいた。
「さっさと立ちやがれ。別に動けなくなるまで大して殴ってねえぞ」
陽光に照らされ、まるで燃え盛る炎のように煌めく見事な赤髪を揺らす、その者。遠目から見れば一瞬女かと見紛う程の美丈夫。
名を、ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ。そのラグナに見下ろされて、そう言われて。蹲っていたエンディニグルが口を開く。
「良い気に、なるなよ人間風情がァァァアッ!!」
そう叫んだ瞬間、もうその場にエンディニグルは蹲ってなどいなかった。憤怒に目を不気味に血走らせ、激情のあまり全身の肌に血管らしき黒紫色の管を幾筋もを浮かばせる、無傷のエンディニグルがそこには立っていた。
「我は『魔焉崩神』エンディニグル!世界滅ぼす第一の『厄災』!その我に塵芥にも等しいお前ら下等生物の人間にィ!擦り傷一つ負わせられるとでも思ったかァッ!?フハハハハ!見ての通り、我は無傷!お前が全身全霊を込めた一撃など、無意味なのだよォォオッッッ!!!」
辺りに唾を吐き散らす勢いで咆哮を上げたエンディニグルの姿が、その場から消える。かと思えば、ラグナのすぐ目の前に現れた。直後、エンディニグルが魔力を編み、紡ぎ、そして確固たる形に────魔法へと変える。
「奴を引き千切れ!【終の魔手】!」
エンディニグルの言葉に応えるように、彼の周囲から無数の漆黒の手が沸き出し、ラグナに群がる。途中地面を這う手もあり、転がっていた岩石を容易に握り砕いたことから、その一つ一つに超常的な怪力が備わっていることが窺えた。
が、それをすぐ目の前で見たにも関わらず、ラグナは至って平然に、そして信じられないことに────その場から一歩進んでみせた。瞬間、彼に迫っていた全ての手が、まるで見えない何かに弾き飛ばされるかのようにして、残さず掻き消えた。
「は?」
己の勝利を確信し、それを決して疑わなかったエンディニグルがその光景を見せつけられ、意味不明とでも言いたげにそう声を漏らす。直後、彼は宙を飛んでいた。
凄まじい速度で流れ溶け行く景色の中、顔面全体が拉たような鈍く重い激痛を味わいながら、数秒遅れてエンディニグルは自分が殴られたのだと理解する。無論、今対峙している人間────赤髪の男、ラグナに。
その事実を理解し、だが受け入れられないまま、エンディニグルの身体が渇いた荒野の大地に激突し、突き刺さる。その際に生じた衝撃はもはや尋常ではなく、その周囲一帯の地面を割り、隆起させ、そして徹底的に元の風景から一変させてみせた。
が、すぐさまエンディニグルはまたも無傷の状態で立ち上がり、彼方に立つラグナの方に向かって両手を突き出す。
「一握りの欠片すらも残さず消し飛べェエエエッッッ!!!【終極砲・絶】ォオオオッ!!」
瞬間、エンディニグルの両手から放たれる黒紫色の極光。それは先程オールティアで放った魔法と同じものであったが、その時とは太さも威力も倍以上に違う。進路上にある全てを一瞬にして跡形もなく蒸発させ、それだけに留まらずオールティアにまで届きその全てを無に帰すことさえ容易く成し得る、まさに破滅の極光がラグナに差し迫る────が。
バシュウゥゥッ──特に慌てることもなくラグナは片手でその極光を受け止め、そして握り潰すかのように開いた手を閉じた瞬間、エンディニグルが放った黒紫色の極光は断末魔を上げるが如く全体が撓み、そして爆発するように弾けて宙に散った。
「……は、はぁッ?!」
自身が持つ攻撃手段の中でも一際強力な一撃を大したことなく目の前で無力化され、エンディニグルも流石に素っ頓狂な声を上げてしまう。だがそれでも透かさず彼は突き出していた両手をそのまま地面に衝いた。
「我が声に応えよ【眷属召喚】ッ!眼前の敵を滅ぼせぇいッ!!」
直後、地面から滲み出るように無数の黒い影が出現し、すぐさまラグナの元に向かう。その速度は獣の足を遥かに越し、一秒過ぎる頃には黒い影全員が無防備に突っ立っているラグナに襲いかかっていた。
影らしく自由に変形できるようで、各々の身体を剣だったり槍だったり、とにかく多種多様様々な武器に変えてラグナを仕留めんとする。が、刹那にも満たない時間の内────影は、エンディニグルの眷属たちは全滅させられていた。
「流石に弱過ぎんだろ」
拳を振り下ろしたまま、ラグナがそう文句を言う。だが彼の遠い視線の先には、もう誰もいない。
「馬鹿め!!そいつらは囮だッ!!!【終極砲・滅】ッッッッ!!!!」
その声にラグナが頭上を見上げると、そこには己の周囲に黒い腕を無数に展開させたエンディニグルが浮遊していた。瞬間先程よりは威力は下がったが、エンディニグルの腕からだけではなく展開している黒い腕の全てからも、あの黒紫色の極光が放たれる。
無数の極光は大地を穿ち、抉り、蹂躙していく。轟音という轟音が重なり合い、あっという間に荒野を凹凸だらけの更地へと変えていった。
一通り極光を撃ち終わり、エンディニグルは破壊の限りを尽くされた荒野を見下ろす。そして満足げに呟いた。
「ハハハッ!塵一つ残らなんだか」
バゴォンッ──そして、思い切り己が散々荒らした大地に叩きつけられた。エンディニグルの身体が地面に激突し、街一つ分のクレーターがそこに発生する。
「がばぁッ?!」
それだけで終わらず今度は宙に打ち上げられ、破れた腹の中から内臓らしき肉塊を溢れさせると同時に、口から大量のドス黒い紫色の液体を噴く。が、それらの傷は一瞬にして何もなかったかのように消え失せ────刹那、エンディニグルは全身という全身を滅茶苦茶に、無茶苦茶に、徹底的に破壊された。
「ぐげえあごぎべぇっ??!!」
骨という骨は砕かれ、肉という肉は潰され、遠目から見ればもはや吐き気を催す、実にグロテスクな塊となったエンディニグルだったが、やはり次の瞬間な無傷で健在な彼がそこにいるのだった。
「まだ死なねえのか。案外、しぶといんだな」
半ば呆れたようにそう呟きながら、宙を飛んでいたラグナが着地する。彼の両拳は黒紫色に染まって汚れていたが、彼が軽く拳を振るうとそれもまるで嘘だったかのように消える。
先程までの威勢を失くし、信じられないという顔つきで立ち尽くす他ないでいるエンディニグルにラグナは向き合う。数秒を経て正気に戻ったのか、エンディニグルは慌ててラグナに叫び散らす。
「こ、この人間の分ざ──
ドパッ──が、その途中。エンディニグルの視界からラグナの姿が消え失せたと同時に、突然彼の頭部が爆発したように弾け飛び、四方に頭蓋の破片やら肉片やらを撒き散らせた。
──……い……で」
だがしかし、刹那にも満たない時間の後、やはりそこには無傷なままのエンディニグルが立っていた。違う点を挙げるのであれば、その表情が呆然としていたものになっていることだ。
「頭潰しても死なねえのかよ」
と、呆れを通り越し、もはや何処か感心すら感じられる呟きをエンディニグルの背後で漏らすラグナ。そんな彼の方にエンディニグルはゆっくりと、恐る恐る振り返り────そして。
「……く、ククク……ハァハハハハハハッ!良い!実に良いぞ!認めよう、我は認めるぞお前。故に……今こそ見せてやろう、我が全力というものをなァ!」
箍が外れたように、嬉々としてエンディニグルはそう言うと、徐に両腕を振り上げ、大の字になってその場に突っ立つ。瞬間──彼の身体の輪郭をなぞるように、あの無数の黒い腕が出現し、そして────一斉にエンディニグルの身体に纏わりつき彼の全身を握り潰した。
否応にも生理的嫌悪を呼び起こす、肉を潰す鼓膜にこびりつくような生々しい音と共に、大量の黒紫色の液体が流れ落ち、その場に広がっていく。
一体目の前で何が起きているのか、別に動揺するでもなくラグナが眺めていた、その時。
「後悔する間も、絶望する間すらも、もはや与えん」
今し方、ラグナの見ている目の前で。己が使役する腕に潰された筈のエンディニグルの声が響く。そこに在るのはエンディニグルの液体に塗れた、人体を象った無数の腕の集合体だけであり────が、突如としてその下に広がっていた黒紫色の液体溜りが、粘つき糸を引きながら腕の集合体を飲み込んだ。
さながら、それは粘土細工のようなものだった。幾度も表面を波立たせ、周囲に異様な臭気を撒き散らしながら────変化していく。
腕らしき部分は確かな腕となり、より太く、強靭に。足らしき部分は確かな足となり、より太く、強靭に。凹凸など全くなく滑らかな胴体も瞬く間に、堅牢と表するには足りない、筋肉という筋肉を搭載し覆われた肉体へと変化していく。
もはやそこに在ったのは、腕の集合体でもなければ『魔焉崩神』エンディニグルでもない。
ラグナの背丈を優に越す黒紫肌の、先程の青年の風貌など欠片程も微塵にも面影を残していない、頭部に山羊のものにも似た角を戴く巨人の──そう、様々な伝承に残され畏怖される悪魔の姿そのものであった。
「拝謁せよ人間。刮目しろ下等生物。この姿こそが、今の我こそが真なる我。滅びの『厄災』を超越せし災い────此れ即ち『極災』。微塵の慈悲として、聞かせてやろう」
まるで深淵から響く、恐ろしく低く濁った声音で、ラグナに告げる。
「我はエンディニグル。『魔焉崩神』エンディニグル──極災形態である。宣言しよう、もはやお前に勝ち目は……なァァァいッッッ!!!」
とうとう抑えられなくなったとでも言いたげに、叫んだエンディニグルの足元から黒紫色の光が迸り、それは瞬く間に円となって、一呼吸の間も置かず広がる。ラグナの身体を突き抜け、大地を駆け抜け、ここら一帯の岩山を通り越し、荒野全体に広がっていく。
それを満足げに見届けたエンディニグルが、己の勝利を確信して疑わない声で、荒野を揺らすかの如く咆哮する。
「神域、解放ッッッッ!!!!」
瞬間────膨大という言葉では到底片付けられない、
あまりに禍々しい魔力が荒野全てを満たした。空が、大地が黒紫色に悍ましく変色し、侵される。空間すらも歪み、気がつけば──今この場を覆い尽くす程の、エンディニグルが喚び出していた黒い腕が蔓延り、そしてそれら全てが自由に、無秩序に這い回っていた。
およそ常人には理解できない、この世とは思えない、まさに異界と化した荒野。それを創り出したエンディニグルが突っ立つラグナに得意げに語る。
「止めの駄目押しというものだ。フハ、フハハハハッ!我が神域に足を踏み入れた者は、如何なる存在はありとあらゆる終焉を与えられる。本来であればその命に対して終焉を迎えさせてやっているところだが……そんなことさせん。我は許可させん。させてやるものか……やるものかァァァァァアアアアア!!!!」
動かないでいるラグナの眼前にまでエンディニグルは迫り、そして一切躊躇することなく、一切加減することなく彼に向かって巨拳を振るった。
バガンッッッ──極災形態のエンディニグルの一撃を、防御することなく無防備にも受けたラグナの身体が冗談のように吹き飛ぶ。それだけに留まらず余波で彼の周囲の地面一帯すらも総じて捲り上げられて、彼と共に吹き飛ぶ最中粉とすら化さずに大気中で一瞬にして消滅してしまう。
「ハッッッハッハッハァ!!どうだ?何もできまい!?当然だ、思考することすら強制的に終焉らせているのだからなァアッ!!」
叫びながらエンディニグルが地面を蹴りつける。それだけで彼が立っていた周囲全てが陥没し、底の見えない程の深い大穴を穿つ。そして刹那よりも短い間に宙を滑って飛んでいるラグナの頭上に先回りし、エンディニグルは両巨拳を握り合わせ、それを金槌のようにラグナの腹部に向かって思い切り振り下ろす。
エンディニグルの握り合わせられた両巨拳がラグナの腹部を打ったその瞬間、途方もなく尋常ではない衝撃が彼の身体を貫通し、その下にある地面を穿ち、荒野全体に波及する。直撃を受けてしまった地面は一瞬にして爆ぜて、割れて、砕けて──もうそこに広がっていたのは、やはり底の見えぬ巨大な深淵。
荒野全体に波及した衝撃は超振動を起こし、大地を文字通り大いに揺さぶった。それによって起きる被害は凄まじいを通り越して圧巻で、そこら中に亀裂が走り無遠慮かつ奔放に割れ目を作り上げていく。数々の岩山は下から揺らされ、為す術もなく大崩壊を起こしてしまう。
そんな被害────否、災害が凄まじい勢いで巻き起こり、広がっていく最中。ラグナの身体が空を切りながら落下する。が、
「逃がさんッ!決して、逃がさんぞォオオオッ!」
エンディニグルがそう叫ぶと同時にラグナを囲うように、彼の周りの何もない空間からエンディニグルの黒い腕が滲み出るように現れ、ラグナの手足を引っ掴み、そして上へ放り投げる。
ラグナは一瞬にしてエンディニグルの頭上にまで投げられ、対するエンディニグルは凶悪に口元を歪め、ずらりと並びびっしりと生え揃った牙を見え隠れさせながら、硬く握り締めた巨拳を振り上げた。
「死ね!死ね死ね死ね死ね死ねェエエエいッッッ!!!【魔焉崩拳】ンンンンッ!!!」
狂ったように叫び続けながら、刹那エンディニグルはラグナとの距離を詰め切り、そして振り上げた拳を彼に向かって振り下ろす。それも一撃だけでなく二撃、三撃──両の巨拳を使い、一撃で大抵の存在を跡形もなくこの世界から消滅させる程の破壊力を秘める技を、一切出し惜しまない怒涛の連撃で叩き込む。
エンディニグルの【魔焉崩拳】がラグナの身体を打つ度、彼の身体を衝撃が貫通し、その背後にある大空を打ち抜く。雲が千切れ、儚く霧散していった。
先程の状況とは全く真逆に、一方的に攻撃を加えるエンディニグル────だがそうする最中、この神にはずっと疑問が纏わり離れないでいた。
──何故だ。何故極災形態となった我の、我の【魔焉崩拳】をその身に喰らってなお、何故原型を留めていられる……?
そう、確かにエンディニグルはラグナに攻撃を加えていた。己の拳を、彼の身体に打ち込んでいた。……だがしかし、それだけだった。
やがて、エンディニグルの表情に焦りが浮かぶ。圧倒しているのはこちらのはずなのに、今有利に状況を進めているのはこちらのはずなのに────そんな焦りが彼の頭の中を一周した、その時だった。
「ッ!?」
エンディニグルは見た。見てしまった。その一瞬。刹那にも満たないその時。
ラグナが、笑っているのを。
荒々しく獰猛ながらも、まるで無邪気な子供のような笑みだった。面白い玩具を見つけたような、何処か狂気を帯びた歓喜の笑顔。それを目の当たりにしたエンディニグルの背筋に、凄まじい悪寒が一気に駆け抜ける。
それを感じたと同時に、エンディニグルが止めと言わんばかりに拳を大きく振りかぶる。すると先程と同じように何もない空間からあの無数の黒い腕が現れ、それら全てが振りかぶられたエンディニグルの拳に、腕全体に絡み纏わりつく。
エンディニグルの腕は影の如き漆黒に染まり、瞬間元の大きさから倍以上に膨張し巨大化する。その大きさはもはやラグナの背丈を大幅に越しており、冗談抜きにそのまま拳を開けば、彼を丸ごと握り潰せる程である。
だがエンディニグルはそうしようとはしなかった。今己が、極災形態となった己が放てる最大最高最強の一撃を放つ為に、彼は漆黒の拳を何処までも硬く握り締めなければならなかったのだ。
極災形態となったエンディニグルは、魔法を一切使用することができない。その代わり内に秘める魔力は爆発的に増大し、それに比例して身体能力も底上げされる。それこそ拳の一振りで、容易く面白いように地形を変えれる程に。
そして神域を解放させている今────その身体能力も際限なく高められている。おまけにラグナの意思を掌握することで、回避も防御も反撃も、一切合切を封じている。そこでさらにエンディニグルはこうするのだ。
爆発的に増大した魔力を用い、その用途を残さず全て己の右腕、右拳に集中。それにより腕力膂力全てを桁違い、埒外なまでに、徹底的に高め極めた。
そう、今こそ絶対にラグナを斃す為に。己の内で喧しく鳴り響き続ける警鐘に従って、眼前の存在を完全に滅ぼす為に。
そして、遂に──────エンディニグルはその完成された究極の一撃を、ラグナに向かって振り下ろした。
「【魔焉崩拳・壊】ッッッッッ!!!!!」
ドパンッ──まるで水を大量に含ませた風船を思い切り割ったような、巨大な破裂音。ふとエンディニグルは見やる。振り下ろした右拳が、右腕ごと吹き飛んでいた。
「……がッ、ぎぃいぃぃいッ?!」
一体何が起きたのか、一切理解できなかった。理解できぬまま、エンディニグルはただただ痛みに喘ぐ他できない。そして次の瞬間何事もなかったように右腕と右拳が元通りになると同時に気づく。自分の目の前に、誰もいないことに。
刹那──────感じたのは熱だった。
「…………な、に……?」
エンディニグルは落下する。思考が定まらない最中、彼は咄嗟に手足を動かし、もがこうとした。だが、できなかった。
当前だ。何故なら今、エンディニグルの手足は────なかったのだから。達磨となった彼は為す術もなく落下を続け、数秒も経たないで己が蹂躙し尽くし、悲惨極まる有り様の地面に激しく叩きつけられる。
それと同時にこの荒野全体を包んでいた禍々しい魔力────エンディニグルの神域が硝子のように割れて、儚く砕け散る。無尽蔵に湧き出し這いずり回っていた黒い腕も、急激に薄れ最後は塵のように消え失せて、気がつけば荒野は元の──とは決して言えないが、それでも異界の様相からは戻った。
──何が、起きた?何が起こっている?何故我の傷が逆行しない……?わからない……理解、できない……。
微かな身動き一つすら取れず、何もできず、答えの出ない疑問をエンディニグルは抱き続ける。やがてその意識が朦朧するとほぼ同時に、彼の視界も徐々に暗く、不鮮明となり始める。
「【絶火】。……チッ、こんなんで終わっちまったのかよ」
不意に背後から聞こえてきた、酷く退屈でつまらなそうな声。一体己の身に何が起きたのか最後まで理解できず、その身体を崩壊させながら──────
「弱かったな、お前」
──────その失望の一言を最後に聞いて、自分の身に一体何が起こったのか、こちらを見下すこの男が一体何をしたのか。それを延々と考えながら、『魔焉崩神』エンディニグルはその場から残滓すら残さず消滅した。
「にしてもやっぱ上手くできねえわ、手加減。結構弱めの技を選んだつもりだったんだけどなあ……」
そんなエンディニグルの最期を見届けることなく、苦い表情でそう呟きながら、頭を掻くラグナ。しかしすぐに顔を上げて、オールティアの方角に視線を向けた。
「まあ、もういいや。んじゃさっさと帰るか」
そう言った、瞬間だった。
────見つけた────
不意に、そんな誰のものともわからない声が、ラグナの頭の中で澄んで響いて聞こえた。
「あ?」
反射的に声を上げるラグナであったが、直後彼の身体が揺れる。
「なっ……ぐ……ぅ、ぁ」
何とか抗おうとしたラグナだったが、その抵抗も虚しく彼はその場に崩れ落ちるように倒れてしまう。数秒後、ラグナの口から聞こえ始めたのは────静かな寝息だった。
──────ここまでが先輩から聞かされた話である。
突如として現れ、終焉の魔神を討った赤髪の男。そう、この人こそが、この世界に三人しかいないと言われる存在、《SS》冒険者────ラグナ=アルティ=ブレイズである。
そして僕ことクラハ=ウインドアの『先輩』……なのであった。
こうして厄災の予言にあった一つ目の滅びは、《SS》冒険者のラグナ先輩によって回避され、この世界にまた一時の平穏が訪れた。
ちなみに何故あの時先輩が現れたのかというと────「パフェ食おうとしたら急に店が揺れて、パフェが倒れた。だから打ちのめした」……らしい。
「……ってことも、あったなあ」
日常と変わらない空を見上げながら、誰に言うでもなく僕はポツリと呟く。
微風が吹く。小鳥が囀る。ああ、今日も良い天気だ。
「…………」
『魔焉崩神』エンディニグル。かの魔神は、強かった。本当に強かった────のだろう。一月が過ぎて、もはや漠然としか振り返られないが、話を聞いた限りでは決して人間なんかが敵う相手ではなかった。……はずだ。うん。
だが、やはりそれでも────規格外で、埒外で、桁違いなあの人には届き得なかった。
あの人────現時点でこの世界に三人しかいないと言われる《SS》冒険者の一人、ラグナ=アルティ=ブレイズ。僕の先輩であり、僕が駆け出しの冒険者である時からずっとお世話になった。
……そう、そんな先輩だったんだ。
「えっと……大丈夫ですか?先輩」
言いながら、茂みの向こうを覗き見る──そこには、想像通りの光景が広がっている。
「……助けてぇ、くらはぁ」
…………ありのまま。ありのまま僕が見た光景を説明しよう。
「もう、無理だぁ……動けねえ……」
雑魚中の雑魚で知られる魔物スライムに。それも大量の群れに、先輩は全身に纏わりつかれ、その髪も服も何もかも、とろとろのドロドロにされてしまっていた。
……赤い長髪の女の子になった、先輩が。
一体どうしてこんなことになってしまったのかと、そう問われれば。僕はこう答えざるを得ない。
そう、あれは今から約一ヶ月。それと少し前の事だ────────
だが、突如としてそれは──────
「ハハ、ハハハッ!フハァハハハハッ!!」
──────という、まるで世界全体を嘲るような笑い声と共に、破壊されることになる。
空が割れる。まるで叩きつけられた鏡のように、先程まで何事もなかった空に亀裂が走り、広がり、そして割れていく。
次々と落ちてくる空の欠片。だがそれは地上に落下することなく、霧散し消えてしまう。
割れた空から、腕が伸びる。真っ黒で、影のような腕が無数に、這い出てくる。
そして──────その存在は現れた。
「御機嫌よう、愚かな人族ども。この『魔焉崩神』エンディニグル、厄災の予言に従い、此処に降りた」
無数に伸びる腕の中心にいたのは、男だった。人と何ら変わらない姿ではあったが、肌は黒くこちらを見下ろす瞳は闇よりも昏く、深淵よりも深い。
男──『魔焉崩神』エンディニグルは上空から地上にある街並みを睥睨し、嘆息とともに呟く。
「穢れている」
その呟きが聞こえた者は、ごく僅かだったであろう。エンディニグルはそう呟いた直後に、腕を振り上げる。すると彼の周囲の腕も同様に振り上がった。
「この世界を今一度浄化しよう。これは予言の通りだ。己が結末を受け入れるがいい、人族共よ」
言うが早いか。エンディニグルの手に小さな黒い球体が現れ、浮かび上がる。彼の周囲の腕もまた同様だった。
その球体は、言うなれば爆弾だ。それ一つですらこの街を跡形もなく吹き飛ばせる程の威力を秘めた魔力の爆弾。
それが、エンディニグルの手や周囲の腕の数だけ浮かんでいる。もしそれが一気に放たれたのなら────想像を絶する被害となるだろう。
そう思い、僕は──クラハ=ウインドアは顔を青ざめ戦慄した。
「う、嘘だろ……!」
握った得物が、震える。今すぐにでも、この場から逃げ出したかった。
だが、たとえ今逃げたとしても助かる訳がないし、そもそも僕はそれが許される立場ではないのだ。
改めて僕の周囲を見渡す。僕の周囲には、僕と同じようにそれぞれの得物を握り締め、上空に浮かぶ文字通りの終焉を睨めつける者たちが数多くいる。彼らは──冒険者だ。
冒険者たちは、その戦意こそ失ってはいなかったが、しかし誰もが絶望的な表情を浮かべていた。
無理もない。誰だって、こんな存在を目の当たりにすればこうなるだろう。
『魔焉崩神』エンディニグル──厄災の予言と呼ばれる書に、その名が刻まれている。終焉を司る、魔神。
かの魔神は、この世界に終焉を齎すために降臨した。それは予言書にも記されていた通りで、この日のために僕たち冒険者はこの街──オールティアに集められた。この魔神を、討つ為に。
だがこうして降臨されて、目の前にしてわかった。わかってしまった。無理だ。こんなの、絶対に無理だ。
次元が違う。想定していたよりも、次元が違い過ぎる。いくら選りすぐりの、僕たち冒険者が──《S》冒険者が集まったところで、こんなのどうにかできる訳がない。
──ああ、僕は今日ここで死ぬんだな。
未だに得物である長剣を落とさないのが、不思議だった。それくらい、手の震えが止まらない。
足だって地面に縫いつけられたように全く動かせない。一歩も前に踏み出せやしないし、膝だって先程からずっと笑っている。
そして、それは他の冒険者たちも同じだった。
「……ふん。装うだけ装って、抵抗の意思はないのか。流石は人族と言うべきか。まあ、いい。せめてもの慈悲だ──痛みも苦しみもなく、汝らに終焉をくれてやろう」
何の感情もなく、エンディニグルがそう言う。瞬間、大気が一斉に振動を始めた。
ゴゴゴゴ──空が、地面が、大気が、全てが揺れる。強大な地震の如く、この街全体が揺さぶられる。
「終焉の時来たれり。我が終わり、今此処に顕現せよ」
解放されたエンディニグルの魔力に反応して、小さな黒球が震え、輝き出す。
もうすぐにでも、あの黒球はエンディニグルの元から放たれるのだろう。黒球はこの街を滅ぼし、この辺り一帯の大地を蹂躙し尽くすのだろう。
そう考えて、僕は今まで歩んできた人生の記憶を、凄まじい勢いで振り返った。
──今思えば、短い人生だったよなあ……。
これが噂に聞く走馬灯らしい。そして思った。何故────今、この時、この瞬間、この場に、『あの人』はいないのか、と。
『あの人』ならば、この絶対的な魔神すらもなんとかできるんじゃあないのかと。というか多分できるだろうと。
──ああもう……早く来てくださいよ本当にもう……!
冒険者にはランクがある。《E》から《S》というランクがある。ちなみにさっきも言った通り、僕は《S》ランクであり、一応これでも最高クラスの冒険者なのだ──しかし、実はこの《S》よりもまだ、上がある。
《SS》ランク。この世界に三人しかいないと言われる、人でありながら人という範疇から外れた存在たち。
その《SS》冒険者の一人が今、この街にいる────はずなのだ。
『ああ?『魔焉崩神』?んなモン知ったこったねえな』
思い出されるその言葉。この世界の存続など、危機など知ったことかと、はっきり言い切ったその言葉。
「はは、ははは……だからって、本当に来ないことないでしょうッ!?」
固まり立ち尽くす冒険者たちをよそに、上空の魔神が宣告する。
「滅びよ」
その宣告に合わせて、小さかった黒球が徐々に大きくなる。
だいぶ大きさを増した無数の黒球が、エンディニグルの手や周囲の腕から離れ、浮遊を始める。そして、遂に──────
「【終焉ノ「どっおおりゃああぁぁぁッッッ!!!」ぐぼおあぉっ?!」
──────果たして、その光景を理解できた者が何人いたことだろう。
ありのまま。ありのまま今目の前で起こったことを、僕は話そう。
………………エンディニグルが、ぶん殴られた。
「あごお、ぐおおおおおっ!!」
殴られたエンディニグルが、落下してくる。ちなみにあの黒球はエンディニグルが殴られた瞬間全部消失して、周囲にあった無数の腕も霧散した。
そして秒も経過することなくすぐさま、それはもう凄まじい勢いでエンディニグルは僕たちの目の前に叩きつけられた。
バゴォンッ──叩きつけられたエンディニグルの周囲一帯の地面が割れ爆ぜ、砕け散る。
「……………………」
僕を含めた冒険者全員が、絶句していた。というか絶句せざるを得なかった。
いや、だって。さっきまでこの世界に終焉を齎そうとしていた魔神が、馬鹿でかいクレーターの中心でピクピク痙攣しながら倒れているのだから。
そんな中──────
ダンッッッ──突如、空から炎が降ってきた。
「…………」
炎────そう見えたのは、髪だ。燃え盛る炎のように煌めく、赤髪。
「……お前か」
ドスの効いた、低い声。
「さっき、この辺り揺らしやがったのはお前かこのクソカスゴミ野郎があああああああッ!!」
一見すれば凄まじい美貌を携えた絶世の美女────だがその声音が、その服装がそれを否定する。かの者は女と見紛う程の、美丈夫であったのだ。
そんな美貌を台無しにさせるように、噴火するような勢いで怒鳴り散らして、未だ気を失っている魔神に対し拳を振り下ろす。肉を打つ、鈍い音が、何度も何度も鳴り響く。
「お前のっ、せいでっ!俺のパフェが滅茶苦茶になったろうがッッ!!この落とし前どうつけてくれるんだ、ああ!?」
「ぐっ、ごおぉ、おごぉっ」
「お前が泣くまで──いや泣いても殴んの止めねえからなああああああッッッッ!!!!」
そう怒号を轟かせながら、その発言通り一切勢いを緩めず、突如として空から降ってきた赤髪の男は、未だ立つことのできないでいるエンディニグルを殴り続ける。が、その時。
ブゥンッ──その場から、エンディニグルの姿が消えた。それと同時に標的を失った赤髪の男の拳が地面を打ち、こちらの鼓膜を破かんばかりの轟音を鳴らし、クレーターをさらに深いものに変えた。
「あぁ!?ふざけんなどこ行ったァッ!」
そう叫び、周囲を見回す赤髪の男の背後に、姿を消したエンディニグルが現れる。その口元に黒と紫が混じったような、血らしき液体を伝わせながらも、エンディニグルは目を見開かせて叫んだ。
「死ねぇいこの塵芥がッ!!【終極砲】ッッッ!!!」
そう叫ぶと同時に、エンディニグルが手を突き出す。その手には先程見せた黒球の、それも全てを含めた上で数十倍以上の魔力が込められており、それが放たれれば────もはや想像することすらも馬鹿らしくなる被害が出ることは、明白であった。
それをエンディニグルはただの一人に。たった一人の人間相手に放とうとしている。だが先に結果を述べてしまうなら、エンディニグルは己が手のそれを赤髪の男に対して放つことは叶わなかった。
何故ならば、その前に赤髪の男が背後のエンディニグルの懐に入り込み、破壊の魔力を宿した腕を掴んで空に掲げていたのだから。エンディニグルの表情が驚愕に歪んだ刹那──魔力が空に向かって放たれる。
極太の黒紫の極光が空へ伸び、その射線上にあった雲を突き抜け一瞬にして無下に散らす。
「逃げんな」
ゾッとする程に低く、冷たい声。赤髪の男はそう言うや否や────掴んでいたままのエンディニグルの腕を握り潰して、暇を持て余していた片方の手で拳を握り、そして一切の躊躇いなくそれをエンディニグルのガラ空きとなっていた胴に打ち込んだ。
バキゴチュグブ──赤髪の男の拳がエンディニグルの胴に突き刺さり、骨を砕き肉を潰す生々しい音が周囲に響き、そして拳はそのままエンディニグルの背中を貫通する。
「ご、ばぁッ?!」
エンディニグルの口から黒紫色の液体が盛大に吐き出され、赤髪の男の身体を汚す──寸前、ジュッという音を立てて液体が蒸発し消える。それとほぼ同時に赤髪の男が言う。
「場所変えんぞ」
直後、その場から二人の姿が掻き消えた。一拍遅れて衝撃が発生し、さらにクレーターが深く抉られ、そして広げられた。さらにその余波で辛うじて無事であった周囲の石畳と建物の窓硝子を悉く破壊し尽くす。
「………」
今目の前で繰り広げられた、あまりにも非現実的な現実に周囲の冒険者たちが動揺し騒めく中、僕はただ空を見上げていた。
奇跡的にも視界に捉えることができた、青空に伸びた尾を引く赤光を眺めながら、僕は呆然と呟いた。
「やっぱり、先輩は凄いな……はは」
集まった僕らを街ごと消し去ろうとした『厄災』──『魔焉崩神』エンディニグル。だがこの場に突如乱入し、かの神を殴り飛ばし、共に消えた赤髪の男────そう、彼こそが僕の先輩である世界最強の一人。
ラグナ=アルティ=ブレイズ。そしてこの先は、後に僕が先輩から聞いた話になる──────
街──オールティアから離れた建築物等、人の手が一切加えられていない、そのままの自然が広がる遠方の荒野。動物も魔物も特におらず、昼間らしからぬ静寂が満ちるこの場に──突如として轟音が響き渡った。
荒れた大地が爆ぜたような勢いで割れ砕け、大量の砂埃を巻き上げると同時に凹み、巨大なクレーターとなってしまう。その中心には苦悶の呻き声を漏らしながら蹲る、男の姿があった。
「ぐ、ぉぉぉぉ……!」
その男は人間ではない。『魔焉崩神』エンディニグル──この世界に滅びを齎す存在、『厄災』の一柱である。
滅びを体現した、かの神の力は絶大である。戯れ程度に街を、大陸一つを滅ぼせる。まさに埒外──次元が違う。
そのエンディニグルを今、見下ろしている者がいた。
「さっさと立ちやがれ。別に動けなくなるまで大して殴ってねえぞ」
陽光に照らされ、まるで燃え盛る炎のように煌めく見事な赤髪を揺らす、その者。遠目から見れば一瞬女かと見紛う程の美丈夫。
名を、ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ。そのラグナに見下ろされて、そう言われて。蹲っていたエンディニグルが口を開く。
「良い気に、なるなよ人間風情がァァァアッ!!」
そう叫んだ瞬間、もうその場にエンディニグルは蹲ってなどいなかった。憤怒に目を不気味に血走らせ、激情のあまり全身の肌に血管らしき黒紫色の管を幾筋もを浮かばせる、無傷のエンディニグルがそこには立っていた。
「我は『魔焉崩神』エンディニグル!世界滅ぼす第一の『厄災』!その我に塵芥にも等しいお前ら下等生物の人間にィ!擦り傷一つ負わせられるとでも思ったかァッ!?フハハハハ!見ての通り、我は無傷!お前が全身全霊を込めた一撃など、無意味なのだよォォオッッッ!!!」
辺りに唾を吐き散らす勢いで咆哮を上げたエンディニグルの姿が、その場から消える。かと思えば、ラグナのすぐ目の前に現れた。直後、エンディニグルが魔力を編み、紡ぎ、そして確固たる形に────魔法へと変える。
「奴を引き千切れ!【終の魔手】!」
エンディニグルの言葉に応えるように、彼の周囲から無数の漆黒の手が沸き出し、ラグナに群がる。途中地面を這う手もあり、転がっていた岩石を容易に握り砕いたことから、その一つ一つに超常的な怪力が備わっていることが窺えた。
が、それをすぐ目の前で見たにも関わらず、ラグナは至って平然に、そして信じられないことに────その場から一歩進んでみせた。瞬間、彼に迫っていた全ての手が、まるで見えない何かに弾き飛ばされるかのようにして、残さず掻き消えた。
「は?」
己の勝利を確信し、それを決して疑わなかったエンディニグルがその光景を見せつけられ、意味不明とでも言いたげにそう声を漏らす。直後、彼は宙を飛んでいた。
凄まじい速度で流れ溶け行く景色の中、顔面全体が拉たような鈍く重い激痛を味わいながら、数秒遅れてエンディニグルは自分が殴られたのだと理解する。無論、今対峙している人間────赤髪の男、ラグナに。
その事実を理解し、だが受け入れられないまま、エンディニグルの身体が渇いた荒野の大地に激突し、突き刺さる。その際に生じた衝撃はもはや尋常ではなく、その周囲一帯の地面を割り、隆起させ、そして徹底的に元の風景から一変させてみせた。
が、すぐさまエンディニグルはまたも無傷の状態で立ち上がり、彼方に立つラグナの方に向かって両手を突き出す。
「一握りの欠片すらも残さず消し飛べェエエエッッッ!!!【終極砲・絶】ォオオオッ!!」
瞬間、エンディニグルの両手から放たれる黒紫色の極光。それは先程オールティアで放った魔法と同じものであったが、その時とは太さも威力も倍以上に違う。進路上にある全てを一瞬にして跡形もなく蒸発させ、それだけに留まらずオールティアにまで届きその全てを無に帰すことさえ容易く成し得る、まさに破滅の極光がラグナに差し迫る────が。
バシュウゥゥッ──特に慌てることもなくラグナは片手でその極光を受け止め、そして握り潰すかのように開いた手を閉じた瞬間、エンディニグルが放った黒紫色の極光は断末魔を上げるが如く全体が撓み、そして爆発するように弾けて宙に散った。
「……は、はぁッ?!」
自身が持つ攻撃手段の中でも一際強力な一撃を大したことなく目の前で無力化され、エンディニグルも流石に素っ頓狂な声を上げてしまう。だがそれでも透かさず彼は突き出していた両手をそのまま地面に衝いた。
「我が声に応えよ【眷属召喚】ッ!眼前の敵を滅ぼせぇいッ!!」
直後、地面から滲み出るように無数の黒い影が出現し、すぐさまラグナの元に向かう。その速度は獣の足を遥かに越し、一秒過ぎる頃には黒い影全員が無防備に突っ立っているラグナに襲いかかっていた。
影らしく自由に変形できるようで、各々の身体を剣だったり槍だったり、とにかく多種多様様々な武器に変えてラグナを仕留めんとする。が、刹那にも満たない時間の内────影は、エンディニグルの眷属たちは全滅させられていた。
「流石に弱過ぎんだろ」
拳を振り下ろしたまま、ラグナがそう文句を言う。だが彼の遠い視線の先には、もう誰もいない。
「馬鹿め!!そいつらは囮だッ!!!【終極砲・滅】ッッッッ!!!!」
その声にラグナが頭上を見上げると、そこには己の周囲に黒い腕を無数に展開させたエンディニグルが浮遊していた。瞬間先程よりは威力は下がったが、エンディニグルの腕からだけではなく展開している黒い腕の全てからも、あの黒紫色の極光が放たれる。
無数の極光は大地を穿ち、抉り、蹂躙していく。轟音という轟音が重なり合い、あっという間に荒野を凹凸だらけの更地へと変えていった。
一通り極光を撃ち終わり、エンディニグルは破壊の限りを尽くされた荒野を見下ろす。そして満足げに呟いた。
「ハハハッ!塵一つ残らなんだか」
バゴォンッ──そして、思い切り己が散々荒らした大地に叩きつけられた。エンディニグルの身体が地面に激突し、街一つ分のクレーターがそこに発生する。
「がばぁッ?!」
それだけで終わらず今度は宙に打ち上げられ、破れた腹の中から内臓らしき肉塊を溢れさせると同時に、口から大量のドス黒い紫色の液体を噴く。が、それらの傷は一瞬にして何もなかったかのように消え失せ────刹那、エンディニグルは全身という全身を滅茶苦茶に、無茶苦茶に、徹底的に破壊された。
「ぐげえあごぎべぇっ??!!」
骨という骨は砕かれ、肉という肉は潰され、遠目から見ればもはや吐き気を催す、実にグロテスクな塊となったエンディニグルだったが、やはり次の瞬間な無傷で健在な彼がそこにいるのだった。
「まだ死なねえのか。案外、しぶといんだな」
半ば呆れたようにそう呟きながら、宙を飛んでいたラグナが着地する。彼の両拳は黒紫色に染まって汚れていたが、彼が軽く拳を振るうとそれもまるで嘘だったかのように消える。
先程までの威勢を失くし、信じられないという顔つきで立ち尽くす他ないでいるエンディニグルにラグナは向き合う。数秒を経て正気に戻ったのか、エンディニグルは慌ててラグナに叫び散らす。
「こ、この人間の分ざ──
ドパッ──が、その途中。エンディニグルの視界からラグナの姿が消え失せたと同時に、突然彼の頭部が爆発したように弾け飛び、四方に頭蓋の破片やら肉片やらを撒き散らせた。
──……い……で」
だがしかし、刹那にも満たない時間の後、やはりそこには無傷なままのエンディニグルが立っていた。違う点を挙げるのであれば、その表情が呆然としていたものになっていることだ。
「頭潰しても死なねえのかよ」
と、呆れを通り越し、もはや何処か感心すら感じられる呟きをエンディニグルの背後で漏らすラグナ。そんな彼の方にエンディニグルはゆっくりと、恐る恐る振り返り────そして。
「……く、ククク……ハァハハハハハハッ!良い!実に良いぞ!認めよう、我は認めるぞお前。故に……今こそ見せてやろう、我が全力というものをなァ!」
箍が外れたように、嬉々としてエンディニグルはそう言うと、徐に両腕を振り上げ、大の字になってその場に突っ立つ。瞬間──彼の身体の輪郭をなぞるように、あの無数の黒い腕が出現し、そして────一斉にエンディニグルの身体に纏わりつき彼の全身を握り潰した。
否応にも生理的嫌悪を呼び起こす、肉を潰す鼓膜にこびりつくような生々しい音と共に、大量の黒紫色の液体が流れ落ち、その場に広がっていく。
一体目の前で何が起きているのか、別に動揺するでもなくラグナが眺めていた、その時。
「後悔する間も、絶望する間すらも、もはや与えん」
今し方、ラグナの見ている目の前で。己が使役する腕に潰された筈のエンディニグルの声が響く。そこに在るのはエンディニグルの液体に塗れた、人体を象った無数の腕の集合体だけであり────が、突如としてその下に広がっていた黒紫色の液体溜りが、粘つき糸を引きながら腕の集合体を飲み込んだ。
さながら、それは粘土細工のようなものだった。幾度も表面を波立たせ、周囲に異様な臭気を撒き散らしながら────変化していく。
腕らしき部分は確かな腕となり、より太く、強靭に。足らしき部分は確かな足となり、より太く、強靭に。凹凸など全くなく滑らかな胴体も瞬く間に、堅牢と表するには足りない、筋肉という筋肉を搭載し覆われた肉体へと変化していく。
もはやそこに在ったのは、腕の集合体でもなければ『魔焉崩神』エンディニグルでもない。
ラグナの背丈を優に越す黒紫肌の、先程の青年の風貌など欠片程も微塵にも面影を残していない、頭部に山羊のものにも似た角を戴く巨人の──そう、様々な伝承に残され畏怖される悪魔の姿そのものであった。
「拝謁せよ人間。刮目しろ下等生物。この姿こそが、今の我こそが真なる我。滅びの『厄災』を超越せし災い────此れ即ち『極災』。微塵の慈悲として、聞かせてやろう」
まるで深淵から響く、恐ろしく低く濁った声音で、ラグナに告げる。
「我はエンディニグル。『魔焉崩神』エンディニグル──極災形態である。宣言しよう、もはやお前に勝ち目は……なァァァいッッッ!!!」
とうとう抑えられなくなったとでも言いたげに、叫んだエンディニグルの足元から黒紫色の光が迸り、それは瞬く間に円となって、一呼吸の間も置かず広がる。ラグナの身体を突き抜け、大地を駆け抜け、ここら一帯の岩山を通り越し、荒野全体に広がっていく。
それを満足げに見届けたエンディニグルが、己の勝利を確信して疑わない声で、荒野を揺らすかの如く咆哮する。
「神域、解放ッッッッ!!!!」
瞬間────膨大という言葉では到底片付けられない、
あまりに禍々しい魔力が荒野全てを満たした。空が、大地が黒紫色に悍ましく変色し、侵される。空間すらも歪み、気がつけば──今この場を覆い尽くす程の、エンディニグルが喚び出していた黒い腕が蔓延り、そしてそれら全てが自由に、無秩序に這い回っていた。
およそ常人には理解できない、この世とは思えない、まさに異界と化した荒野。それを創り出したエンディニグルが突っ立つラグナに得意げに語る。
「止めの駄目押しというものだ。フハ、フハハハハッ!我が神域に足を踏み入れた者は、如何なる存在はありとあらゆる終焉を与えられる。本来であればその命に対して終焉を迎えさせてやっているところだが……そんなことさせん。我は許可させん。させてやるものか……やるものかァァァァァアアアアア!!!!」
動かないでいるラグナの眼前にまでエンディニグルは迫り、そして一切躊躇することなく、一切加減することなく彼に向かって巨拳を振るった。
バガンッッッ──極災形態のエンディニグルの一撃を、防御することなく無防備にも受けたラグナの身体が冗談のように吹き飛ぶ。それだけに留まらず余波で彼の周囲の地面一帯すらも総じて捲り上げられて、彼と共に吹き飛ぶ最中粉とすら化さずに大気中で一瞬にして消滅してしまう。
「ハッッッハッハッハァ!!どうだ?何もできまい!?当然だ、思考することすら強制的に終焉らせているのだからなァアッ!!」
叫びながらエンディニグルが地面を蹴りつける。それだけで彼が立っていた周囲全てが陥没し、底の見えない程の深い大穴を穿つ。そして刹那よりも短い間に宙を滑って飛んでいるラグナの頭上に先回りし、エンディニグルは両巨拳を握り合わせ、それを金槌のようにラグナの腹部に向かって思い切り振り下ろす。
エンディニグルの握り合わせられた両巨拳がラグナの腹部を打ったその瞬間、途方もなく尋常ではない衝撃が彼の身体を貫通し、その下にある地面を穿ち、荒野全体に波及する。直撃を受けてしまった地面は一瞬にして爆ぜて、割れて、砕けて──もうそこに広がっていたのは、やはり底の見えぬ巨大な深淵。
荒野全体に波及した衝撃は超振動を起こし、大地を文字通り大いに揺さぶった。それによって起きる被害は凄まじいを通り越して圧巻で、そこら中に亀裂が走り無遠慮かつ奔放に割れ目を作り上げていく。数々の岩山は下から揺らされ、為す術もなく大崩壊を起こしてしまう。
そんな被害────否、災害が凄まじい勢いで巻き起こり、広がっていく最中。ラグナの身体が空を切りながら落下する。が、
「逃がさんッ!決して、逃がさんぞォオオオッ!」
エンディニグルがそう叫ぶと同時にラグナを囲うように、彼の周りの何もない空間からエンディニグルの黒い腕が滲み出るように現れ、ラグナの手足を引っ掴み、そして上へ放り投げる。
ラグナは一瞬にしてエンディニグルの頭上にまで投げられ、対するエンディニグルは凶悪に口元を歪め、ずらりと並びびっしりと生え揃った牙を見え隠れさせながら、硬く握り締めた巨拳を振り上げた。
「死ね!死ね死ね死ね死ね死ねェエエエいッッッ!!!【魔焉崩拳】ンンンンッ!!!」
狂ったように叫び続けながら、刹那エンディニグルはラグナとの距離を詰め切り、そして振り上げた拳を彼に向かって振り下ろす。それも一撃だけでなく二撃、三撃──両の巨拳を使い、一撃で大抵の存在を跡形もなくこの世界から消滅させる程の破壊力を秘める技を、一切出し惜しまない怒涛の連撃で叩き込む。
エンディニグルの【魔焉崩拳】がラグナの身体を打つ度、彼の身体を衝撃が貫通し、その背後にある大空を打ち抜く。雲が千切れ、儚く霧散していった。
先程の状況とは全く真逆に、一方的に攻撃を加えるエンディニグル────だがそうする最中、この神にはずっと疑問が纏わり離れないでいた。
──何故だ。何故極災形態となった我の、我の【魔焉崩拳】をその身に喰らってなお、何故原型を留めていられる……?
そう、確かにエンディニグルはラグナに攻撃を加えていた。己の拳を、彼の身体に打ち込んでいた。……だがしかし、それだけだった。
やがて、エンディニグルの表情に焦りが浮かぶ。圧倒しているのはこちらのはずなのに、今有利に状況を進めているのはこちらのはずなのに────そんな焦りが彼の頭の中を一周した、その時だった。
「ッ!?」
エンディニグルは見た。見てしまった。その一瞬。刹那にも満たないその時。
ラグナが、笑っているのを。
荒々しく獰猛ながらも、まるで無邪気な子供のような笑みだった。面白い玩具を見つけたような、何処か狂気を帯びた歓喜の笑顔。それを目の当たりにしたエンディニグルの背筋に、凄まじい悪寒が一気に駆け抜ける。
それを感じたと同時に、エンディニグルが止めと言わんばかりに拳を大きく振りかぶる。すると先程と同じように何もない空間からあの無数の黒い腕が現れ、それら全てが振りかぶられたエンディニグルの拳に、腕全体に絡み纏わりつく。
エンディニグルの腕は影の如き漆黒に染まり、瞬間元の大きさから倍以上に膨張し巨大化する。その大きさはもはやラグナの背丈を大幅に越しており、冗談抜きにそのまま拳を開けば、彼を丸ごと握り潰せる程である。
だがエンディニグルはそうしようとはしなかった。今己が、極災形態となった己が放てる最大最高最強の一撃を放つ為に、彼は漆黒の拳を何処までも硬く握り締めなければならなかったのだ。
極災形態となったエンディニグルは、魔法を一切使用することができない。その代わり内に秘める魔力は爆発的に増大し、それに比例して身体能力も底上げされる。それこそ拳の一振りで、容易く面白いように地形を変えれる程に。
そして神域を解放させている今────その身体能力も際限なく高められている。おまけにラグナの意思を掌握することで、回避も防御も反撃も、一切合切を封じている。そこでさらにエンディニグルはこうするのだ。
爆発的に増大した魔力を用い、その用途を残さず全て己の右腕、右拳に集中。それにより腕力膂力全てを桁違い、埒外なまでに、徹底的に高め極めた。
そう、今こそ絶対にラグナを斃す為に。己の内で喧しく鳴り響き続ける警鐘に従って、眼前の存在を完全に滅ぼす為に。
そして、遂に──────エンディニグルはその完成された究極の一撃を、ラグナに向かって振り下ろした。
「【魔焉崩拳・壊】ッッッッッ!!!!!」
ドパンッ──まるで水を大量に含ませた風船を思い切り割ったような、巨大な破裂音。ふとエンディニグルは見やる。振り下ろした右拳が、右腕ごと吹き飛んでいた。
「……がッ、ぎぃいぃぃいッ?!」
一体何が起きたのか、一切理解できなかった。理解できぬまま、エンディニグルはただただ痛みに喘ぐ他できない。そして次の瞬間何事もなかったように右腕と右拳が元通りになると同時に気づく。自分の目の前に、誰もいないことに。
刹那──────感じたのは熱だった。
「…………な、に……?」
エンディニグルは落下する。思考が定まらない最中、彼は咄嗟に手足を動かし、もがこうとした。だが、できなかった。
当前だ。何故なら今、エンディニグルの手足は────なかったのだから。達磨となった彼は為す術もなく落下を続け、数秒も経たないで己が蹂躙し尽くし、悲惨極まる有り様の地面に激しく叩きつけられる。
それと同時にこの荒野全体を包んでいた禍々しい魔力────エンディニグルの神域が硝子のように割れて、儚く砕け散る。無尽蔵に湧き出し這いずり回っていた黒い腕も、急激に薄れ最後は塵のように消え失せて、気がつけば荒野は元の──とは決して言えないが、それでも異界の様相からは戻った。
──何が、起きた?何が起こっている?何故我の傷が逆行しない……?わからない……理解、できない……。
微かな身動き一つすら取れず、何もできず、答えの出ない疑問をエンディニグルは抱き続ける。やがてその意識が朦朧するとほぼ同時に、彼の視界も徐々に暗く、不鮮明となり始める。
「【絶火】。……チッ、こんなんで終わっちまったのかよ」
不意に背後から聞こえてきた、酷く退屈でつまらなそうな声。一体己の身に何が起きたのか最後まで理解できず、その身体を崩壊させながら──────
「弱かったな、お前」
──────その失望の一言を最後に聞いて、自分の身に一体何が起こったのか、こちらを見下すこの男が一体何をしたのか。それを延々と考えながら、『魔焉崩神』エンディニグルはその場から残滓すら残さず消滅した。
「にしてもやっぱ上手くできねえわ、手加減。結構弱めの技を選んだつもりだったんだけどなあ……」
そんなエンディニグルの最期を見届けることなく、苦い表情でそう呟きながら、頭を掻くラグナ。しかしすぐに顔を上げて、オールティアの方角に視線を向けた。
「まあ、もういいや。んじゃさっさと帰るか」
そう言った、瞬間だった。
────見つけた────
不意に、そんな誰のものともわからない声が、ラグナの頭の中で澄んで響いて聞こえた。
「あ?」
反射的に声を上げるラグナであったが、直後彼の身体が揺れる。
「なっ……ぐ……ぅ、ぁ」
何とか抗おうとしたラグナだったが、その抵抗も虚しく彼はその場に崩れ落ちるように倒れてしまう。数秒後、ラグナの口から聞こえ始めたのは────静かな寝息だった。
──────ここまでが先輩から聞かされた話である。
突如として現れ、終焉の魔神を討った赤髪の男。そう、この人こそが、この世界に三人しかいないと言われる存在、《SS》冒険者────ラグナ=アルティ=ブレイズである。
そして僕ことクラハ=ウインドアの『先輩』……なのであった。
こうして厄災の予言にあった一つ目の滅びは、《SS》冒険者のラグナ先輩によって回避され、この世界にまた一時の平穏が訪れた。
ちなみに何故あの時先輩が現れたのかというと────「パフェ食おうとしたら急に店が揺れて、パフェが倒れた。だから打ちのめした」……らしい。
「……ってことも、あったなあ」
日常と変わらない空を見上げながら、誰に言うでもなく僕はポツリと呟く。
微風が吹く。小鳥が囀る。ああ、今日も良い天気だ。
「…………」
『魔焉崩神』エンディニグル。かの魔神は、強かった。本当に強かった────のだろう。一月が過ぎて、もはや漠然としか振り返られないが、話を聞いた限りでは決して人間なんかが敵う相手ではなかった。……はずだ。うん。
だが、やはりそれでも────規格外で、埒外で、桁違いなあの人には届き得なかった。
あの人────現時点でこの世界に三人しかいないと言われる《SS》冒険者の一人、ラグナ=アルティ=ブレイズ。僕の先輩であり、僕が駆け出しの冒険者である時からずっとお世話になった。
……そう、そんな先輩だったんだ。
「えっと……大丈夫ですか?先輩」
言いながら、茂みの向こうを覗き見る──そこには、想像通りの光景が広がっている。
「……助けてぇ、くらはぁ」
…………ありのまま。ありのまま僕が見た光景を説明しよう。
「もう、無理だぁ……動けねえ……」
雑魚中の雑魚で知られる魔物スライムに。それも大量の群れに、先輩は全身に纏わりつかれ、その髪も服も何もかも、とろとろのドロドロにされてしまっていた。
……赤い長髪の女の子になった、先輩が。
一体どうしてこんなことになってしまったのかと、そう問われれば。僕はこう答えざるを得ない。
そう、あれは今から約一ヶ月。それと少し前の事だ────────