静かに、目立たずに。
貴族子女が通う王立マルフェス学園。その正門をくぐる。誰よりも早く登校しておくことで人目に晒される時間を最小限に抑える。
「でも、印象は大事。目立たず、かといって無愛想でもなく、よ」
登校前、何度も鏡の前で練習した微笑みを顔に貼り付ける。口角はほんの少し、目元は柔らかく──しかし笑いすぎては軽薄に見えてしまう。絶妙な加減を見極めたその顔は、自分でも不気味なほど他人行儀だった。
制服は規定通り。深緑のスカートに白のブラウス、薄手のケープを重ねた装いは、華やかすぎず、かといって貧相にも見えないちょうどいい塩梅。
首元には指定のリボン。その色は階級ごとに異なるが、私のは赤味のある茶色──子爵家という身分を示すものだ。
髪も奇をてらわず、淡い栗色を編み込んで一つにまとめた。派手な髪飾りは付けず、控えめなピンで留めているだけ。貴族令嬢として最低限の礼儀を保ちつつも、記憶には残らない存在──それが、理想。
──今日という日が何事もなく静かに終わればそれでいいの。
子爵家は貴族の序列で言えば中の下。上すぎず、目立たずに学園生活を送るには、まさに“適任”の身分である。
教室に入るとまだ生徒の姿はなく、爵位に基づいて決められている教室の中ほど、廊下側の壁際で周囲の視線も届き難い私の席に座り気配を消す。
この席は静かにやり過ごせるいい席だ。
「貴方はここまでで良いわ。殿下にわたくしは無事に教室へ着いたとお伝えして。あら、ごきげんよう、リアーナ。いつも早いのね。⋯⋯ふぅん⋯⋯今日も弁えた着こなしね。大いによろしいわ」
耳に届いた声は、澄んでいてよく通る。しかし、その響きにはどこか人を見下ろすような調子が含まれていた。
──どうして、いつもラリッサはこの時間にはまだ来ないはずじゃない。
思わず心の中で叫んだ。目を上げれば、そこに立っていたのは、一際目立つ華やかな令嬢。
輝くような金色の巻き髪をふわりと揺らし、深紅のリボンと宝石の髪飾りが朝日に照らされてきらきらと光っている。
ラリッサ・グレイ公爵令嬢──ゲームで“悪役令嬢”とされていた人物だ。
その存在感は、もはや暴力に近い。周囲の空気ごと支配するような堂々たる立ち姿に、自然と視線が吸い寄せられる。
制服も、同じはずなのにどこか仕立てが違って見えるのは気のせいだろうか。繊細なレース、上質な布地、さりげなく刺繍された家紋。すべてが彼女の身分の高さを物語っていた。
──なぜこっちに来るの!?
動揺を悟られないように、私は立ち上がり、会釈をして丁寧に挨拶を返した。
「ごきげんよう、ラリッサ・グレイ公爵令嬢。お声かけいただき恐悦に存じます」
「あらまあっ、リアーナ。ここではわたくしと貴女は学友ですのよ。そんな畏まらないでよろしくてよ」
にこりと微笑むその口元は、柔らかいようでいて鋭い。美しい薔薇に棘があるように、彼女の一挙手一投足は周囲に警戒心と憧憬を同時に抱かせる。
彼女の視線が、私の足元から頭のてっぺんまでを舐めるように走る。
緊張のあまり手に汗が滲みそうになる中、ラリッサは満足げに頷いた。
「リアーナ。わたくし貴女とお話したくて今日はわざわざ早く来たのよ。貴女、毎日早くいらしてるから。⋯⋯ふふ、やっぱり思った通り。地味にしているけれど弁えた着こなし、振る舞い⋯⋯悪くないわね。気に入ったわ」
──気に入られた!? なんで!?
恐怖にも似た動揺が胸を走る中、ラリッサは満足げに笑い、取り巻きたちと共に前方の席へと移動していった。
私は心臓の鼓動を落ち着けるのに必死だった。
──まずい。これは本当にまずい。
波風立てず、誰の記憶にも残らずにやり過ごす。それが“正解ルート”のはずだった。
なのに、物語の中心人物に関わってしまったら──私の静かな学園生活は、もう望めないのでは?
私は焦燥に飲み込まれたまま、午前の講義は上の空だった。
──────────────────
午前の授業が終わると同時に、私は人波を避けるように席を立った。食堂などもってのほか。華やかな令嬢たちの中に混ざるなど、危険極まりない。
──静かで、人目のない場所⋯⋯そうだ、裏庭なら。
学園の裏庭はあまり人が来ない隠れた場所だ。そこなら落ち着いて昼食もとれるし、少しだけ草むしりでもすれば気が紛れるかもしれない。
持参したサンドイッチとスープの入ったかごを抱えて、私は裏庭へと足を向けた。
ところが──そこにも先客がいた。
「誰だっ」
凛とした、けれどどこか疲れたような声。振り返った青年の姿に、私は思わず息を呑んだ。
──まさか、エルンスト!?
銀髪を一つにまとめた長身の青年。冷ややかな美貌を持ち、ただ立っているだけで空気が張り詰めるような存在感。
ゲームでは、王太子アルフレッドの側近として登場し、ラリッサに対しても辛辣な態度を取る隠れ人気キャラ──エルンスト・ハイベルグその人だった。
「⋯⋯失礼いたしました。こちらの場所、使っていらしたのですね」
私は一礼し、その場を去ろうとしたけれど、意外な言葉が私を引き止める。
「⋯⋯待て」
「はい⋯⋯えっ」
「君は、メイフィルド子爵令嬢だな。今朝、ラリッサ嬢と話していただろう」
──なんで、知ってるの!? あっ、ラリッサが「貴方はここまでで」と言っていた相手、殿下の代わりにラリッサの送迎していたのはエルンストだったのね。
「はい。少しだけ⋯⋯ご挨拶をいただいただけです」
「⋯⋯君は、あれに取り込まれるな。忠告しておこう」
その声は冷たかった。けれど、その奥にある微かな温度に、私は戸惑った。
もしかして、私を──心配してくれているのだろうか?
──いやいや、ありえない! これはただの“忠告”。そう、たぶん、善意ではなく義務感。
それ以上彼は何も言わず、静かに芝生に寝転んだ。疲れたような表情に、王子の側近という重責を垣間見た気がした。
私は彼の視界に入らない位置へと移動し、昼食を広げた。スープの温かさが胃に染みる。けれど、どうにも落ち着かない。
──草が、気になる。
垣根の裏側、芝生の端に雑草が伸び放題になっている。表からは見えないが、手入れが行き届いていないのは明らかだった。
──ああ、草を⋯⋯抜きたい⋯⋯。
うずうずと手が伸びそうになるが、エルンストの気配を感じて思いとどまる。彼に見られたら、間違いなく“変な令嬢”認定される。
私はお昼を早々に片付け、その場を後にした。
──────────────────
教室に戻ると、私の席には予想外の人物がいた。
ラリッサ・グレイ嬢が、優雅に腰を掛けてこちらに笑いかけていたのだ。
「どこにいらしていたの? リアーナ。明日から、わたくしと一緒にお昼をとりましょう。せっかくのお友達なのだから」
──友達って? 誰が? 私が!?
明らかに、私を取り巻きに加えるつもりだ。拒否できない空気が教室全体に広がっていた。
──静かに、地味に、誰にも関わらずに生きていきたいのに。
次々と中心人物に接点ができている。これは⋯⋯本当にまずい。
もはや、草を抜いている場合では──
いや、むしろ──
──草を抜いて気持ちを落ち着けないとやってられないわ!
私は胸中で叫びながら、笑顔を引きつらせたのだった。
「でも、印象は大事。目立たず、かといって無愛想でもなく、よ」
登校前、何度も鏡の前で練習した微笑みを顔に貼り付ける。口角はほんの少し、目元は柔らかく──しかし笑いすぎては軽薄に見えてしまう。絶妙な加減を見極めたその顔は、自分でも不気味なほど他人行儀だった。
制服は規定通り。深緑のスカートに白のブラウス、薄手のケープを重ねた装いは、華やかすぎず、かといって貧相にも見えないちょうどいい塩梅。
首元には指定のリボン。その色は階級ごとに異なるが、私のは赤味のある茶色──子爵家という身分を示すものだ。
髪も奇をてらわず、淡い栗色を編み込んで一つにまとめた。派手な髪飾りは付けず、控えめなピンで留めているだけ。貴族令嬢として最低限の礼儀を保ちつつも、記憶には残らない存在──それが、理想。
──今日という日が何事もなく静かに終わればそれでいいの。
子爵家は貴族の序列で言えば中の下。上すぎず、目立たずに学園生活を送るには、まさに“適任”の身分である。
教室に入るとまだ生徒の姿はなく、爵位に基づいて決められている教室の中ほど、廊下側の壁際で周囲の視線も届き難い私の席に座り気配を消す。
この席は静かにやり過ごせるいい席だ。
「貴方はここまでで良いわ。殿下にわたくしは無事に教室へ着いたとお伝えして。あら、ごきげんよう、リアーナ。いつも早いのね。⋯⋯ふぅん⋯⋯今日も弁えた着こなしね。大いによろしいわ」
耳に届いた声は、澄んでいてよく通る。しかし、その響きにはどこか人を見下ろすような調子が含まれていた。
──どうして、いつもラリッサはこの時間にはまだ来ないはずじゃない。
思わず心の中で叫んだ。目を上げれば、そこに立っていたのは、一際目立つ華やかな令嬢。
輝くような金色の巻き髪をふわりと揺らし、深紅のリボンと宝石の髪飾りが朝日に照らされてきらきらと光っている。
ラリッサ・グレイ公爵令嬢──ゲームで“悪役令嬢”とされていた人物だ。
その存在感は、もはや暴力に近い。周囲の空気ごと支配するような堂々たる立ち姿に、自然と視線が吸い寄せられる。
制服も、同じはずなのにどこか仕立てが違って見えるのは気のせいだろうか。繊細なレース、上質な布地、さりげなく刺繍された家紋。すべてが彼女の身分の高さを物語っていた。
──なぜこっちに来るの!?
動揺を悟られないように、私は立ち上がり、会釈をして丁寧に挨拶を返した。
「ごきげんよう、ラリッサ・グレイ公爵令嬢。お声かけいただき恐悦に存じます」
「あらまあっ、リアーナ。ここではわたくしと貴女は学友ですのよ。そんな畏まらないでよろしくてよ」
にこりと微笑むその口元は、柔らかいようでいて鋭い。美しい薔薇に棘があるように、彼女の一挙手一投足は周囲に警戒心と憧憬を同時に抱かせる。
彼女の視線が、私の足元から頭のてっぺんまでを舐めるように走る。
緊張のあまり手に汗が滲みそうになる中、ラリッサは満足げに頷いた。
「リアーナ。わたくし貴女とお話したくて今日はわざわざ早く来たのよ。貴女、毎日早くいらしてるから。⋯⋯ふふ、やっぱり思った通り。地味にしているけれど弁えた着こなし、振る舞い⋯⋯悪くないわね。気に入ったわ」
──気に入られた!? なんで!?
恐怖にも似た動揺が胸を走る中、ラリッサは満足げに笑い、取り巻きたちと共に前方の席へと移動していった。
私は心臓の鼓動を落ち着けるのに必死だった。
──まずい。これは本当にまずい。
波風立てず、誰の記憶にも残らずにやり過ごす。それが“正解ルート”のはずだった。
なのに、物語の中心人物に関わってしまったら──私の静かな学園生活は、もう望めないのでは?
私は焦燥に飲み込まれたまま、午前の講義は上の空だった。
──────────────────
午前の授業が終わると同時に、私は人波を避けるように席を立った。食堂などもってのほか。華やかな令嬢たちの中に混ざるなど、危険極まりない。
──静かで、人目のない場所⋯⋯そうだ、裏庭なら。
学園の裏庭はあまり人が来ない隠れた場所だ。そこなら落ち着いて昼食もとれるし、少しだけ草むしりでもすれば気が紛れるかもしれない。
持参したサンドイッチとスープの入ったかごを抱えて、私は裏庭へと足を向けた。
ところが──そこにも先客がいた。
「誰だっ」
凛とした、けれどどこか疲れたような声。振り返った青年の姿に、私は思わず息を呑んだ。
──まさか、エルンスト!?
銀髪を一つにまとめた長身の青年。冷ややかな美貌を持ち、ただ立っているだけで空気が張り詰めるような存在感。
ゲームでは、王太子アルフレッドの側近として登場し、ラリッサに対しても辛辣な態度を取る隠れ人気キャラ──エルンスト・ハイベルグその人だった。
「⋯⋯失礼いたしました。こちらの場所、使っていらしたのですね」
私は一礼し、その場を去ろうとしたけれど、意外な言葉が私を引き止める。
「⋯⋯待て」
「はい⋯⋯えっ」
「君は、メイフィルド子爵令嬢だな。今朝、ラリッサ嬢と話していただろう」
──なんで、知ってるの!? あっ、ラリッサが「貴方はここまでで」と言っていた相手、殿下の代わりにラリッサの送迎していたのはエルンストだったのね。
「はい。少しだけ⋯⋯ご挨拶をいただいただけです」
「⋯⋯君は、あれに取り込まれるな。忠告しておこう」
その声は冷たかった。けれど、その奥にある微かな温度に、私は戸惑った。
もしかして、私を──心配してくれているのだろうか?
──いやいや、ありえない! これはただの“忠告”。そう、たぶん、善意ではなく義務感。
それ以上彼は何も言わず、静かに芝生に寝転んだ。疲れたような表情に、王子の側近という重責を垣間見た気がした。
私は彼の視界に入らない位置へと移動し、昼食を広げた。スープの温かさが胃に染みる。けれど、どうにも落ち着かない。
──草が、気になる。
垣根の裏側、芝生の端に雑草が伸び放題になっている。表からは見えないが、手入れが行き届いていないのは明らかだった。
──ああ、草を⋯⋯抜きたい⋯⋯。
うずうずと手が伸びそうになるが、エルンストの気配を感じて思いとどまる。彼に見られたら、間違いなく“変な令嬢”認定される。
私はお昼を早々に片付け、その場を後にした。
──────────────────
教室に戻ると、私の席には予想外の人物がいた。
ラリッサ・グレイ嬢が、優雅に腰を掛けてこちらに笑いかけていたのだ。
「どこにいらしていたの? リアーナ。明日から、わたくしと一緒にお昼をとりましょう。せっかくのお友達なのだから」
──友達って? 誰が? 私が!?
明らかに、私を取り巻きに加えるつもりだ。拒否できない空気が教室全体に広がっていた。
──静かに、地味に、誰にも関わらずに生きていきたいのに。
次々と中心人物に接点ができている。これは⋯⋯本当にまずい。
もはや、草を抜いている場合では──
いや、むしろ──
──草を抜いて気持ちを落ち着けないとやってられないわ!
私は胸中で叫びながら、笑顔を引きつらせたのだった。